第2話 後編【幕間】グリムワルド家の夜
その後、第62次暗影厄災による騎士たちの死傷者が、初めて5%を下回ったという知らせは、王都を歓喜で揺らした。
エリオラ・ソーマとカトリーナ・ディーテが拓いた野戦病院は、泥と悲鳴の中で多くの騎士の命を救った。生きて妻のもとへ帰る騎士の姿に、姫たちは涙を流した。
新聞は二人を、救護の天使と書いた。
王都の舞踏会では、ソーマ家とディーテ家の名が何度も囁かれた。姫たちは扇の陰で涙ぐみ、騎士たちは「あの二人がいなければ」と声を震わせた。
だが、王都の片隅にあるグリムワルド伯爵家の屋敷だけは、その知らせに沸かなかった。
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グリムワルド伯爵家の廊下には、古い肖像画が並んでいた。
黒い喪章をつけた騎士。若くして死んだ伯母。先代伯爵に付き従い、二度と戻らなかった女騎士。四十年前の満月の夜に失われた者たちだ。
四十年前の、ソーマ家の満月の夜。グリムワルド家は、その対策に協力した。理由は忠義だけではなかった。
ソーマ家の奥に隠されたものを探れば、あの家に眠る異常な力を手に入れられる。そう考えた者たちがいた。グリムワルド家は騎士を出し、記録者を出し、護衛を出し、満月の夜を見届けようとした。
結果、その夜に起きた何かを抑えきれず、家中の騎士の半数が戻らなかった。
それから四十年。
屋敷はまだ、どこか沈んでいた。
喪服のまま暮らす祖母は、肖像画の前を通るたび、誰にも聞こえない声で名を呼んだ。食堂の燭台には、蝋燭が一本だけ灯っていた。華やかな伯爵家であるはずの屋敷に、笑い声はほとんどなかった。
八歳のヴェロニカ・グリムワルドは、赤茶色の髪と同じ色の猫耳をぺたんと垂らし、客間の扉の隙間から中を覗いていた。
さっきの夕食で、父に叱られたばかりだった。スープの匙を落とした。ただ、それだけだった。
「お前など、どうせろくな加護も持っていなさそうだ。なぜ生まれた」
父はそう言った。成人の儀もまだなのに、父はもう決めつけているみたいだった。
母は扇を開いたまま、こちらを見なかった。
「グリムワルドの娘でしょう。泣くなら部屋へお戻りなさい」
ヴェロニカは泣かなかった。泣けば、もっと嫌われると思った。
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「またソーマ家か」
客間で、杯が床に砕けた。父は酒の匂いをまとっていた。頬は赤く、目だけが濁っている。
「死傷者5%? 天使? 笑わせるな。四十年前、あの家の満月の夜に、うちは騎士を半分失ったのだぞ」
母は扇を握りしめていた。骨が折れそうなほど強く。
「それでも、王都はソーマ家を讃えるのですわね」
「ソーマ家が命を救ったと、皆が泣いて感謝している。グリムワルドの名など、誰も思い出さん」
「死んだ者は、何も言えませんもの」
母の声は冷たかった。父は低く笑った。
「祖父たちは愚かだったのかもしれんな」
「違いますわ」
母が、扇の向こうから父を見た。
「ソーマ家が隠してきたものを探れば、あの力に届く。そう信じるだけの理由があったのでしょう。あの家の奥にあるものを、こちらも手に入れられるなら、グリムワルドは王都で再び立ち上がれた——はずでした」
「結果はこの有様だ」
父は空の杯を握りしめた。
「騎士を失い、記録者を失い、領地の守りを失い、家は傾いた。なのにソーマ家は、また天使扱いだ」
「天使ですって」
母の扇が、ぱきりと嫌な音を立てた。
「天使なら、なぜ四十年前、うちの騎士たちを救わなかったのかしら。あれは悪魔よ」
ヴェロニカは、扉の陰で息を殺した。父と母が怖かった。けれど、目を離せなかった。
それから、母の声が低くなった。
「ソーマ家の双子の妹。あれにも、例の兆しがあるのでしょう」
「ああ。グリムワルドの情報網にも掛かっている」
父は懐から、小さな鍵を取り出した。黒ずんだ銀の鍵だった。
「古い書庫を開ける。四十年前の満月の記録を、もう一度洗い直す。グリムワルドが代々、ソーマ家の秘密を追ってきた意味が、ようやく分かった」
「なら、早いうちに手を打つべきですわ」
「教会へ流すには、まだ証拠が足りん」
「証拠など、あとから整えればよいのです」
母の声は静かだった。静かだからこそ、怖かった。ヴェロニカは、意味を全部は分からなかった。
けれど、分かったことがひとつだけあった。
ソーマ家の双子の妹がいるから、父は怒る。ソーマ家の双子の妹がいるから、母は怖い顔をする。あの子がいるから、この家は暗い。
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廊下へ戻ろうとした時、背後から声がした。
「お嬢様」
グリムワルド家の諜報を任されているメイドだった。
いつからそこにいたのか、ヴェロニカには分からなかった。灰色の猫耳を伏せ、白い手袋を重ねて、影のように立っている。
「今のお話、聞いてしまわれましたか」
ヴェロニカは首を横に振ろうとして、できなかった。メイドは責めなかった。
ただ、膝をつき、八歳のヴェロニカと目の高さを合わせた。
「お父様とお母様は、とても苦しんでおられます」
「……うん」
「苦しみには、原因がございます」
「ソーマ家の、双子の妹?」
「お嬢様は、お優しいのですね」
メイドが微笑んだ。
その響きに、ほんの少しだけ王都のものではない硬さが混じっていた。けれど八歳のヴェロニカには、それが何か分からなかった。
「災いの芽は、小さいうちに摘むものです。大人には、大人のしがらみがございます。ですが、子供にしか届かない場所もございます」
「わたくしに、できるの?」
「できますとも。お嬢様は、グリムワルドの娘でいらっしゃいます」
その言葉は、夕食の母の言葉と同じだった。
けれど、少しだけ甘く聞こえた。
「その子がいなくなれば……」
ヴェロニカは、小さく呟いた。
「お父様も、お母様も、優しくなる?」
メイドは答えなかった。
答えないまま、深く頭を下げた。
ヴェロニカには、それが肯定に見えた。
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自室に戻ると、月明かりが窓から差し込んでいた。ヴェロニカは、引き出しの奥から扇を取り出した。
母から贈られた、一番上等な扇だった。赤茶色の絹に、金の糸でグリムワルド家の紋章が刺繍されている。
まだ手には大きすぎた。
けれど、ヴェロニカは両手でそれを開いた。
扇の向こうに、母の横顔を思い出した、床に砕けた杯を思い出した、廊下に並ぶ肖像を思い出した。
そして、まだ見たこともない、ソーマ家の双子の妹を思い浮かべた。
「その子が消えれば」
声は震えていた。
「お父様も、お母様も、わたくしを見てくださる」
ヴェロニカは、扇を胸に押し当てた。
「わたくしが、消してあげますわ」
ぱちん、と扇を閉じる音がした。ヴェロニカは、優しい両親を知らなかった。だから、戻る、とは思わなかった。
ミアティーネ・ソーマが消えれば、父も母も、きっと優しい両親になる。グリムワルド家も明るくなる。
幼い心は、その間違った答えを、宝石のように大切に抱え込んだ。
その夜、八歳のヴェロニカ・グリムワルドは、生まれて初めて、誰かが消えればいいと願った。
それは祈りに似た形を、扇の中に閉じ込めて。




