第2話 中編 六歳の春、暗影厄災を知る
第62次暗影厄災が始まったのは、私が六歳になった春のことだった。
四月に入った頃から、ソーマ家の屋敷は少しずつ慌ただしくなった。荷馬車が出入りし、倉庫から布や薬草が運び出され、使用人たちの声が、いつもより低い。
エリオラ様やアッティーネ様が屋敷にいないのは、いつものことだった。
そこは気にしない。……気にしないことにしている。
案の定、お二人は戦の準備のため、まったく帰ってこなくなった。砦の方では、騎士たちが戦の準備をしているのだろう。
そう思っていた。遠い場所の話だと、私とミアには、まだ関係のない話だと。
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「暗影厄災、ですか?」
私がそう聞き返すと、メイドのナーシャが頷いた。ナーシャは、リサの部下のメイドだった。
リサほど勢いはないが、仕事が早く、説明が丁寧で、こちらを子供扱いしすぎない人だった。
「はい、ユリナティーネ様。およそ数年に一度、暗影の荒野から魔物があふれ出す災いでございます」
「魔物……」
「騎士様方が砦で食い止めます。ですが……毎回、多くの方が傷つきます」
ナーシャの声が、ほんの少し沈んだ。
「多く、とは?」
「前回までの記録では、前線に出た騎士様のうち、一割ほどが、死傷したと聞いております」
「死傷……」
「亡くなる方もおります。生きて戻られても、二度と前線へ復帰できない方もおります」
ナーシャの声が、少しだけ低くなった。
「サリナの父君も、以前の暗影厄災で片足を失われました。今は文官としてお勤めでございます」
「サリナの、お父さまが……」
「はい。命は助かりました。けれど、騎士として戦場に戻ることは、もうできません」
一割。10パーセント。
百人いたら、十人が、死ぬか、戦えなくなる。
千人いたら、百人が、戦場から消える。
1万人いたら……
実数にした瞬間、背中が冷たくなった。
「……そんなに」
「はい」
ナーシャは、目を伏せた。
「だから騎士様にとって、姫の加護が強い婚約者を見つけることは、命に関わることなのです」
「姫の加護……」
「姫の加護は、騎士様を癒し、防御の力を高めます。強い姫の加護を受けた騎士様は、生き残る可能性が上がります」
私は、自分の手を見た——小さな手、六歳の女の子の手。でも、その中には確かに力がある。
ミアに何度も手を握られ、骨が軋んでも、治ってきた。
私には、姫の加護があり、たぶん、かなり強い。なら、この力はミアを守れる、そう思った。
思った、のに。
「……卒業後は、みんな、行くのですか?」
「王立加護学園を卒業された後、騎士の加護を持つ方は、暗影厄災の備えに加わることになります」
「姫は?」
「姫は騎士様に姫の加護で『加護の鎧』を授け、防御力を高めるお役目がございます。騎士様が出陣中は家を守り、祈りを毎日捧げます」
「……家、祈り……」
「はい。前線ではありません。ですが、大切なお役目です」
祈り……
その言葉が、気に入らなかった。将来、ミアの無事を祈るだけなど、耐えられない……
私は騎士になりたい。
ミアを守る漢として、姫のまま守られる側になるつもりはない。
でも、もし私が騎士になったら、もしミアも騎士になったら、私たちは、いつか暗影厄災の戦場に行く。十パーセントが、死ぬか、戦えなくなる場所へ。
ミアも、私も。
「……お姉ちゃん?」
ミアが、私の袖を少し強く握った。私は慌てて笑おうとして、笑えなかった。
漢として、情けない。
六歳児の顔で、六歳児らしく怖がっている。
いや、待て。
中身は三十五歳でも、死傷者十パーセントは普通に怖い。
怖くて当然である。
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「姫でありながら、剣を学んだ方もおります」
ナーシャが、静かに言った。
「姫が、剣を?」
「はい。姫の加護を持ちながら、剣の道を究め、愛する騎士様とともに荒野観測隊へ向かった方が」
「そんな人が……」
「おります。とても強く、とても恐ろしく、とても愛の深い方だったと聞いております」
ナーシャの表情が、少しだけやわらいだ。
「その方は、騎士様の後ろに隠れるのではなく、騎士様の隣で、支え、癒し、時には剣を取ったそうです」
隣。その言葉が、胸に刺さった。ミアの隣。守るために、前に立つだけではない。隣に立つ。ミアが戦場へ行くなら、私はその隣にいなければならない。
姫の加護で守る。でも、剣も取る。姫だからといって、剣を諦める理由にはならない。漢として。いや、ユリナティーネ・ソーマとして。
「……ナーシャ」
「はい」
「その方は、今も生きているのですか?」
「ええ。ご健在でございます」
「会えますか? 教えを乞うことはできますか?」
ナーシャは、少し困ったように微笑んだ。
「いずれ、きっと」
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ナーシャが私たちの面倒を見るようになった理由は、八月になって分かった。
リサが、暗影厄災の野戦病院へ向かうことになったのだ。
「野戦病院……?」
私は聞き返した。リサは、いつものように背筋を伸ばしていた。
けれど、荷物はいつものメイド仕事の量ではなかった。薬草、包帯、着替え、厚手の外套。それは、戦場へ行く人の荷物だった。
「はい。前線の後方に設けられる救護所でございます」
「リサが、行くのですか?」
「はい。二か月ほど、屋敷を離れます」
リサは、当たり前のことのように言った。
「以前は、姫は騎士様を送り出した後、家を守り、祈りを捧げるだけでございました。ですが、エリオラ様とカトリーナ様が、その在り方を変えられたのです」
「お母さまと、カトリーナ様が?」
「はい。後方に救護所を設け、姫やメイドが負傷者を受け入れる体制を作られました。わたくしも、その一員として参ります」
エリオラ様を崇拝しているリサからすれば、当然なのかもしれない。当然なのだろう。
でも。
「いやーーーー!」
叫び声がした。
サリナだった。
私と同い年で、メイド服を着て、いつもリサの後をついて回っている女の子。おっとりしていて、静かで、リサの手伝いを当然のようにしていたサリナが。
泣いていた。
「……いや。お母さま、行かないで……いや」
「サリナ」
「いや……いやだよ。お母さま、行っちゃ、いや……」
サリナはリサの腰にしがみついた。薄茶色の猫耳がぺたんと伏せて、しっぽが震えている。
お母さん子だったのか——いや、当たり前だ。
六歳だぞ。
お母さんが、死ぬかもしれない場所へ行く——泣かないほうがおかしい。
リサは膝をつき、サリナを抱きしめた。
「必ず帰ってまいります」
「いや……」
「サリナ。ユリナお嬢様とミアお嬢様を、よろしくお願いいたしますね」
「……いや」
「あなたは、わたくしの娘です。できます」
サリナは、何度も首を横に振った。できるわけがない、六歳だ。
漢として、ここは俺が――……いや、私も六歳だった。
戦力外である、誠に遺憾である。
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リサが出発した日の屋敷は、暗かった。
ナーシャがリサの代わりに私たちの世話をしてくれた。仕事は完璧だったが、リサではなかった。
リサの代わりにメイドの仕事はできるけれど、サリナの母親の代わりはできない。
廊下の向こうで、メイドたちの声が聞こえた。
「野戦病院って、初めての本格運用でしょう?」
「リサさん、大丈夫かしら……」
「前線後方といっても、魔物が抜けてくることもあるって……」
「やめなさい。お嬢様方に聞こえるわ」
聞こえている。全部、聞こえている。リサが生きて帰れないかもしれない。その事実だけで、屋敷の空気が冷たくなった。
めったに家に帰らない実の母の代わりに、私たちを見てくれていたのはリサだった。そのリサを、暗影厄災が連れていこうとしている。
まだ遠い世界の話だったはずの戦が、初めて、私たちの大事なものに手を伸ばしてきた。
その夜から、私とミアとサリナは、三人で眠るようになった。
「……サリナ」
「……はい、ユリナ様」
「一緒に寝ますか?」
「……いい、ですか?」
「もちろんですわ」
サリナは、枕を持ってきてそろそろと布団に入ってきた。
ミアは私の反対側にいて、いつものように私にくっついている。
「……サリナ、泣いてる、ですの?」
ミアが小さく聞いた。
「……泣いて、ないです」
サリナは言った。声が震えていた。明らかに泣いていた。ミアが、じっとサリナを見た。それから、私から身体を離して、サリナの袖を少しだけつかんだ。
「……リサ、帰ってくる、ですの」
「……はい」
「……お姉ちゃんも、そう言ってる」
「わたくし、まだ何も言っていませんわよ?」
「……でも、言う、ですの」
ミアが、こちらを見た。赤い瞳が、暗い部屋の中で静かに揺れていた。私は息を吸った。
「……ええ。リサは帰ってきますわ」
「……ほんと、ですか?」
「本当です」
根拠はないが、言った。
サリナが眠れるように、ミアが不安にならないように、そして、自分が震えないように。
「リサは、強い人ですわ。エリオラ様のところへ行くのですもの。きっと、帰ってきます」
「……はい」
サリナは小さく頷いた。その夜、サリナは何度も目を覚ました。小さく泣くたびに、私はサリナを抱きしめた。
ミアも、私に身体をくっつけたまま、サリナの方へ手を伸ばしていた。
三人で、リサの帰りを待った。
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二か月後。
暗影厄災の魔物の氾濫が終わったと、早馬が屋敷に駆け込んできた。
「エリオラ様、ご健在!」
玄関先で、伝令の声が響いた。
「アッティーネ様、ご健在!」
屋敷中の空気が止まる。
「リサ様、ご健在!」
その瞬間、サリナが泣いた。今度は、声を我慢しなかった。
「お母さま……っ」
私は、その場に座り込みそうになった。
ミアが私の手を握っていた。少し痛い。でも、今日はそれでよかった。
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さらに一週間後。リサが帰ってきた。
いつものリサより、少し痩せていて、頬はこけ、目元には濃い疲れがあった。でも、背筋は伸びていた。
メイド服ではなく、旅装で、土と薬草の匂いがした。
「お母さま!」
サリナが駆け出した。リサは荷物を落とし、サリナを抱きしめた。
「ただいま、サリナ」
「お母さま……帰って、きた……ほんとに、帰ってきた……」
「はい。ただいま帰りました」
リサはサリナを抱いたまま、私とミアを見た。それから、そっと手を伸ばす。
「ユリナお嬢様。ミアお嬢様」
私とミアも、リサに抱きしめられた。リサの腕は、いつもより少し細く感じた。それでも、温かかった。
「ただいま帰りました、お嬢様」
喉の奥が、熱くなった。
「お帰りなさい、リサ」
ミアが、リサの服を小さくつかんだ。
「……おかえり、ですの」
リサの目元が、少しだけ濡れた。
「はい。帰ってまいりました」
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その後、第62次暗影厄災による騎士たちの死傷者は、初めて5%を下回ったという知らせが国中を沸かせた。
エリオラ様とカトリーナ様が作った野戦病院は、大きな成果を上げたのだという。多くの騎士が、生きて帰った。多くの姫が、血と泥の中で、愛する人を支えた。
リサも、その中にいた。
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その知らせに、国中が沸いた。
けれど、その知らせが届くまでのあいだ、別の屋敷で、別の子供が一人で夜を耐えていた。
ディーテ公爵家の子供部屋で、アリアンドラ・ディーテは、大きすぎる寝台の端に座っていた。
父のヘレナドラは、騎士として前線へ出ていた。
母のカトリーナも、野戦病院で救護活動に当たっていた。
家には、父も母もいない。母の部屋へ行こうとすると、侍女に止められる。
「奥様は、今は前線後方の野戦病院で救護に当たっておられます」
「こちらには、お戻りになれません」
何度聞いても、答えは同じだった。アリアンドラは「はい」とだけ言って、部屋へ戻るしかなかった。
廊下では、メイドたちの声が低く流れていた。
「エリオラ様なら、大丈夫でしょうけれど……」
「でも、カトリーナ様は、ただの姫でいらっしゃるのよ。魔物が砦を越えたら、ひとたまりもないわ」
「そもそも姫は家を守るべきでしょう。野戦病院など、前線に近すぎます」
「旦那様まで前線ですもの。ディーテ家は、このまま終わるのでは……」
「やめなさい。アリアンドラ様に聞こえるわ」
聞いてしまった。
父も母も、帰ってこないかもしれない。家が終わる、という言葉の意味は分からなかった。
でも、それがとても怖い言葉だということだけは分かった。
誰もアリアンドラに、その怖さの名前を教えてはくれなかった。怖いと言えば、ディーテ家の娘らしくない気がした。泣けば、母に叱られる気がした。
だからアリアンドラは、小さな手を、ぎゅっと握った。
部屋は広く、寝台も広かった。扉の向こうには大人が何人もいるのに、誰も入ってこなかった。
その夜、ソーマ家では、私とミアとサリナが三人で手を取り合って眠っていた。
けれど、アリアンドラはそのことを知らない。
誰かに「大丈夫」と言ってもらえる子と、言ってもらえない子がいる。
そんな違いがあることを幼いアリアンドラはまだ知らなかった。ただ一人で、朝が来るのを待った。
お母さまが死んだと告げられる夢を何度も見ながら。
やがて、死傷者が5%を下回ったという知らせが、ディーテ家にも届いた。
昨日まで声を潜めていた大人たちは、手のひらを返したように母を称えた。
「カトリーナ様は、やはり先を見ておられたのね」
「野戦病院が、これほどの成果を上げるなんて」
「ディーテ家は終わるどころか、歴史に名を残しますわ」
怖い声は、誇らしげな声に変わった。母の名は、屋敷の中で急に大きくなった。
アリアンドラにとってカトリーナは、もともと大きな人だった。
けれどその日から、母は屋敷中が頭を下げる、もっと遠くて、もっと立派な人になった。
そんな母が、いつか自分の名を呼び、手を取ってくれる。その小さな出来事が、どれほど嬉しいものになるのか。
この時のアリアンドラは、まだ知らなかった。
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私は、六歳で、まだ剣も持てず、まだ戦場の本当の怖さも知らない。それでも、分かったことがある。
この世界では、いつかミアも戦場へ行き、私も、そこへ行く。
姫の加護だけでは足りないかもしれないし、騎士の加護は手に入らないかもしれない。
ならば。
私は、両方を諦めない。ミアの隣に立つために、ミアを守るために。
戦場が、いつか私たちの前に来るのなら、その日までに、私は強くならなければならない。
翌年の春。
私は、物置で一本の木の棒を見つけることになる。




