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第17話 羽化、覚醒

 満月の夜が来た。


 夕方から、ミアの様子が変わっていった。


 食事の途中で、ミアが手を止めた。じっと自分の手を見て、それから、私を見た。


「お姉さま。そろそろかもしれない、ですの」


「わかりました。部屋に行きましょう」


---


 アリアンドラが廊下にいた。


 何も言わなかった。ただ、頷いた。


 私も頷き返した。


「扉の外で待ちますわ」


「うん。ありがとう」


 サリナも少し離れたところに立っていた。記録帳を胸に抱え、静かに、でも確実に、そこにいた。


---


 変化は、扉を閉める直前に始まった。


 私の目には、ミアはいつものミアだった。


 黒い髪、深い赤の瞳、猫耳も、しっぽもない、見慣れた輪郭。ただ、今夜は、その色が濃かった。黒は、月光を吸い込むほど深く、赤は、瞳の奥で小さな灯のように揺れていた。


 その横で、アリアンドラが息を呑んだ。


「……ミアティーネ様の、髪が……真っ黒に……それに、猫耳と、しっぽが……」


 私は、そこでようやく固まった。


 ……猫耳?


 ……しっぽ?


 私の目には、最初からなかったものだ。


 でも、アリアンドラの声は震えていた。


 彼女には、確かに見えていたのだろう。月光に照らされた銀色の猫耳としっぽが、霧のようにほどけて消えていくところを。


 ……みんなにとって、ミアの髪は黒ではなかったのか? みんなにとって、ミアには猫耳としっぽがあったのか?


 思考が、遅れて巻き戻る。


 リサが「ミア様にも銀色の小さなしっぽが、衣装にとても映えますわ」と言っていた。


 エリオラ様が、私とミアを並べて「銀のしっぽが二本並ぶと、本当によく似た姉妹ね」と笑っていた。


 成人の儀のとき、司教が「銀髪の双子を二人見るのは初めてだ」と、確かに口にしていた。


 銀のしっぽが、二本。銀髪の、双子。


 ……私だけだったのか。


 黒い髪と、赤い瞳と、猫耳もしっぽもないミアを、ずっと見ていたのは。


 十歳のあの月光の夜、ベルが寝言で「ミアちゃんの月の色」と言った時、ベルにも同じ色が見えているのだと思った。


 今になって思うと、あれはベルが、何かを女神ティアに口止めされていたのかもしれない。


 ……そうか。私だけが、ずっとこうしてミアを見ていたのか。


 不思議に、誇らしかった。


 でも今、ミアが世界の前で、私が見ていた色を纏う。私だけが知っていた一日が、終わる。


 それは、美しかった。


 ただし、見惚れている時間はなかった。


---


 部屋の扉を閉め、ミアと二人きりになった。月光が窓から入ってきて、白い光が床に伸びている。


 ミアが、その光の中に立っていた。


「お姉さま」


「こちらにおりますわ」


「……もし、ミアがお姉さまを傷つけたら」


「治りますわ」


「……うん」


 ミアが目を閉じた。


 その瞬間、空気が変わった。


---


 ミアの動きが変わり、ゆっくりだった身体が、突然、消えた。次の瞬間、目の前にミアの顔があった。その顔は、ミアの顔だった。でも、目の中に、もうミアはいなかった。ただ、本能だけが、こちらを見ていた。その目が、私の首を捉え、ミアの口が開いて、牙のような歯が見えた。


 まっすぐ、私の首筋に飛び込んでくる。


---


 訓練の通りに、私は左腕を上げた。


 首を守る。最優先で守るべきは、首だ。


 アリアンドラに、何度も叩き込まれたことだった。


 けれど、その通りに身体が動いたのは、この六ヶ月だけのおかげではない。


 ロウェナ様は、剣だけを教える人ではなかった。剣を落とされた時、懐に入られた時、腕を取られた時、手足と体幹で急所を守り、相手の力を流す体術まで、何度も叩き込まれていた。


 ――剣がなくても、身体は残る。首と腹だけは、最後まで渡すな。


 ロウェナ様の低い声が、耳の奥で蘇る。


 そこへ、六ヶ月間そばで訓練を見続けた、アリアンドラの声が重なる。


「過去の先祖返り犠牲者の記録を分析した結果、本能の動きは決まっておりますわ。本能のまま、首筋から魔力を求めます。腕を盾にして、首を守りなさい」


 その通りに、左腕を首の前へ出した。


 牙が、左腕に触れた。


 次の瞬間、腕の感覚がほどけた。血は出なかった。肉が裂けたのではない。左腕が、白い魔力へ変わって、ミアに吸い込まれていった。


 痛みというより、骨の奥から魔力を引き抜かれるような喪失感だった。


 それでも、意識は手放さない。


 訓練の通り、私は姫の加護を巡らせた。


 失った腕の付け根から、白い光が噴き出した。それは血ではなく、私の魔力。


 その魔力が、空中で形を取り始める。数秒で、左腕が戻ってきた。魔力の残光が、新しい腕の表面で、白く揺らいでいた。


 自分の身体ながら、これは異常だなと思った。


---


 ミアの口は、もう、白い光を飲み込んでいた。


 肉ではない。魔力だ。


 先祖返りの本能は、私の身体そのものではなく、私の身体に宿る魔力を求めている。


 だから腕は、ミアの口の中で白い光に変わって消えていった。


 これは命を繋ぐ儀式だ。


 先祖返りの本能が、ミアに「魔力を取り込め」と命じている。


 (取り込め、ミア。これは、あなたのための魔力ですわ)


 心の中で、そう言った。


 ミアが、私の腕に変じた魔力を、すべて取り込んだ。


 そして、また首を狙ってきた。


---


 時間の感覚が、薄れていった。


 ミアが何度、襲ってきたのか、私は数えるのを諦めていた。


 白い魔力が、何度も私の身体から流れ出ては、再構築された。


 血は一滴もない。あるのは、白く揺らぐ魔力の残光だけだった。


 ミアが、それを本能のまま取り込んでいく。


 部屋の床が、白く光っていた。私から流れ出た魔力が、床に散って、わずかに発光していた。


 漢として、これがミアの命を繋ぐ儀式ならば、と思った。


 必要なだけ、取り込め。わたくしの魔力は、あなたのためにある。


---


 しかし、限界はあった。痛みが、累積していた。


 訓練で慣れたとはいえ、これは別物だった。何度噴き出しても痛みは新鮮で、何度治しても疲労は積み重なった。


 意識が、もうろうとしてきた。


 (駄目だ。気を抜くな。気を失ったら、治せない)


 歯を食いしばった。


 でも、ほんの一瞬、意識が、飛んだ。


 その隙に、ミアの牙が両腕を同時に持っていった。白い魔力が、両肩から勢いよく噴き上がった。


 私の意識が、戻った。


 (やられた)


 両手が、ない。


 今度のミアは、もう腕を見ていなかった。ただ、私を見ていた。その目が、まっすぐに首を捉えていた。


---


 ミアが、跳んだ。


 私の首に向かって、まっすぐに。両手がなく、守れない。


 訓練で、腕で守るパターンを叩き込まれた。腕がなければ、首は無防備だった。


 (終わった)


 心の中で、そう思った。


 ミアの牙が、私の首に届くまで、あと一秒もない。


 最後に、何を考えたか。


 (ミア。お姉ちゃん、死んじゃうけど、ミアだけは、生き続けて)


 (お願いよ)


 目を閉じた。首が吹き飛ばされる、その瞬間を覚悟した。


---


 ……。


 ……ハム、ハム。


 ……?


 …………ハム、ハム。


 ……死んで、ない?


 目を開けた。


 ミアが、私の首筋に顔を埋めていた。牙は開いていなかった。ただ、いつものように、軽く、そっと噛んでいた。


 ハムハム。


 毎晩、十六年間、繰り返してきた魔力補給。狂化の奥の奥で、ミアの身体は、それを覚えていた。


 牙が首に届くより先に、身体がいつもの場所を見つけて、いつものハムハムを始めていた。


 これほど嬉しい裏切りはなかった。


「……ミア」


 私は、再生したばかりの手で、ミアの黒い髪を撫でた。


 深い、黒い髪だった。


「必要なだけ、取り込みなさい」


 笑いながら、囁いた。


「あなたのための、お姉ちゃんですわ」


 ミアは、ハムハムを続けた。魔力が、首筋から、ゆっくりとミアに流れ込んでいく。優しい吸い方だった。


 いつものミアだった。


---


 ハムハムが、しばらく続いた。月が、傾いていた。ミアの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。


 もう、終わったのかもしれない。


 そう思った瞬間、ミアの手が動いた。私の首に、もっと深く、頭を寄せてくる。


「……ミア?」


 ミアは、何も言わなかった。首を噛む力は、もう荒くなかった。けれど、流れていく魔力は、いつもより深い。


 身体の表面ではなく、奥にある魔力の芯から、細い糸を引かれるような感覚があった。


 痛みはない。ただ、眠かった。


 訓練で疲れて、腕を何度も再生して、覚悟まで決めて、その後の安心と疲労で。


 眠い。


「……ミア、必要なだけ、持っていって……」


 私は限界だった。


 首筋にしがみつく小さな存在を、腕の中に抱えたまま、眠りに落ちた。


---


 翌朝。


 扉が、そっと開いた。


 アリアンドラとサリナが入ってきた。


 ふたりとも、夜通し扉の外で待っていたらしかった。


 ベッドの上で、私とミアは手をつないで眠っていた。


 ミアの髪は、朝の光の中でも黒いままだった。


 サリナが何も言わずに近づき、少しずれていた私の服の胸元を整えた。


「……着実に、生き延びていらっしゃいますわ」


 サリナが、小さくつぶやいた。


 その声は、誰にも届かないくらい静かだった。


 アリアンドラが、耳まで赤くして目を逸らした。


「……何も見ておりませんわ」


「ええ。記録にも残しませんわ」


 サリナが、おっとりと頷いた。


 その朝、サリナの記録帳には、何も書かれなかった。書く必要がなかった。


 だって、何も見ていないのだから。


---


 ベッドの上で、私とミアは、ゆっくりと息を続けていた。


 黒い髪が、銀色の髪に紛れて、二人の境界が分からないくらい混じっていた。


 窓の外で、満月の夜が終わっていた。


 ミアが、私が、生きていた。


 それだけで、その夜は、十分だった。


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