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第16話 満月前夜

 十月の満月は、明日であり、訓練は、今日で終わった。


 首を守る動き、左腕を差し出す角度、痛みに意識を奪われかけた時の呼吸、姫の加護で、身体を戻す順番。


 全部、六ヶ月かけて身体に叩き込んだ。


 最後の一本を受け流したあと、アリアンドラが木剣を下ろした。


「これ以上やることはありませんわ」


 静かな声だった。


 その静けさの中に、安堵と、悔しさと、祈りみたいなものが混じっているのを、私は感じた。


---


 訓練場に、夕方の光が差していた。


 サリナがいつも通り記録帳を閉じた。けれど今日は、すぐには帰らなかった。少し離れた場所に立って、私たちを静かに見守っていた。


 屋敷の塀の外には、千を超える騎士が配置されている。


 火は焚かれておらず、灯りも最小限で、遠くから見れば、夜の中に鎧の輪郭だけが沈んでいるようだった。


 彼女たちは、ソーマ家からの合図を待っている。


 もし作戦が失敗し、ミアが暴れ出した時、被害を屋敷の外へ出さないための最後の備えだった。


 その外側の指揮を執っているのは、グリムワルド家だという。


 政治的な配慮、というやつらしい。先祖返りの記録を持ち、ソーマ家に因縁を持つ家だからこそ、外周の監視を任されたのだと。


 ただし、ヴェロニカ嬢は参加を許されていない。


 統括しているのは、彼女の両親だった。


 夕方、伝令役の騎士がアリアンドラに報告しているのを、私は少しだけ聞いてしまった。


「外周本陣、異常なし。グリムワルド伯爵夫妻は、屋敷から三町ほど離れた丘にて待機。……ただ」


「ただ?」


 アリアンドラの声が低くなった。


「確認というより、処理のために待つ、という空気でございました」


 伝令の騎士は、言葉を選ぶように続けた。


「伯爵は、ヴェロニカ嬢の不参加について『子供の感情で乱される場ではない』と。伯爵夫人は『あの子には、まだ早い』とだけ」


 アリアンドラが、胸の前で腕を組み直した。指先が、わずかに袖を掴んでいる。


「……そう。下がってよろしいですわ」


 騎士が去ったあと、アリアンドラはしばらく塀の外を見ていた。


「失敗を待つ目、というものがありますの」


「アリアンドラ?」


「いえ。こちらの話ですわ」


 彼女はそう言って、私の方へ向き直った。


---


「……六ヶ月、お疲れさま」


「礼はいらない」


「アリアンドラのおかげで、気絶しなくなった」


「計画通りよ」


 アリアンドラが腕を組んだけれど、その視線は少し遠くにあった。


 しばらく黙っていて、それから、言った。


「……あなたが倒れるたびに、立ち上がるのを、六ヶ月間見てきましたわ」


「うん」


「嫌だった。見ていて、本当に、嫌だった」


 私は何も言わなかった。


「嫌だったけど、それしか方法がなかった。だから続けた」


「……うん」


 アリアンドラが、ようやく私を正面から見た。


「明日は、扉の外におりますわ」


「……危険ですわよ」


「知っていますわ。だから、扉の外ですの」


 アリアンドラは目をそらさなかった。


「出てこなくても、呼ばれなくても、待ちますわ。あなたが無事に戻ってくるまで」


「……ありがとう」


「礼はいらないって言ってますわ」


「でも言う」


 アリアンドラが少し目をそらしたが、口の端が少しだけ動いた。


「……バカね」


「漢だから」


「同じ意味じゃない」


---


 訓練場の片づけが終わる頃、ロウェナ様が来た。


 いつものように、音もなく近づいてきて、私の肩を軽く叩いた。


「ユリナティーネ嬢」


「ロウェナ様」


「お前の剣は、舞ではない」


 ロウェナ様は、私の手に残った木剣の跡を見た。


「本物の剣だ」


 胸の奥が、少し熱くなった。


 十歳の頃から、週に一度。木剣を握り、転び、叩かれ、受け流しを覚え、また転んだ。


 あの全部が、ここに繋がっている。


「強くなりたい理由を、忘れるな」


「はい」


「ミアを守ってこい」


 短い言葉だった——でも、それだけで十分だった。


 私は木剣を置き、深く頭を下げた。


---


 その横で、サリナが記録帳を胸に抱えて、静かに一礼した。


「治癒の準備は、整えておりますわ」


 足元には、清潔な布と水。止血用の包帯。姫の加護を使う順番を書いた小さな札。サリナはそれを、いつものおっとりした顔で確認していた。


「サリナ、怖くないの?」


「怖いですわ」


 即答だった。


「ですが、怖いことと、準備を怠ることは別ですもの」


 サリナは記録帳に指を添えた。


「明日は、記録することより、残さないことの方が多いかもしれません。それでも、治します。何度でも」


 その一言だけで、少し息がしやすくなった。


---


 訓練場を出る前、ナーシャが私を呼び止めた。


「ユリナティーネ様」


「はい」


 ナーシャは、封をされた小さな手紙を差し出した。


「アッティーネ様からです。荒野へ出立される前に、お預かりしておりました」


「お父さまから?」


「エリオラ様の一筆も添えられております」


 封を開くと、硬い字と、少し柔らかい字が並んでいた。


> 明日、何が起きても、お前たちは私たちの娘だ。

> ミアティーネも、ユリナティーネも、ソーマ家の娘だ。

> 帰ったら、話をしよう。


 最後の一行は、エリオラ様の字だった。


> あなたたちを愛していると、ちゃんと言わせて。


 私は、しばらく紙から目を離せなかった。


 都合のいい言葉だと思わなかったわけではない。


 でも。


 明日を前にして、その言葉を捨てることも、できなかった。


 私は手紙を畳み、胸元にしまった。


---


 夜。


 部屋に戻ると、ベル・ロウが枕元に座っていた。


「お姉ちゃん」


「ベル?」


 妖精は、いつもの調子より少しだけ静かだった。


「ティア様がね。明日は、観察だけって」


「観察だけ?」


「うん。それと、エリス様が力を使っちゃったから、祈られても願われても来れないから注意してねって」


「……そう」


 はなから、頼る気などなかった。


 女神に祈れば何とかなる。そんな都合のいいことを、明日のミアに持ち込むつもりはない。


 だいたい、女神自身では解決できないから、私を転生させたのだろう。


 ベルは、足をぷらぷらさせながら、少しだけ笑った。


「だから、お姉ちゃんは、お姉ちゃんのままでいて」


「……それ、いつも通りでいいってこと?」


「そう。いつも通り、すっごく変な漢でいて」


「変なは余計ですわ」


 ベルは笑って、その笑い声が、夜の部屋に小さく残った。


---


 ミアは、ベッドの端に座って、窓の外を見ていた。


 月が出ていたが、まだ満月ではない。


「ミア」


「……お姉さま」


 ミアが私を見上げて、その顔を見て、私は少し止まった。


 ミアの目が、赤かった。


---


 ミアが泣いていた。


 声はなかったけれど、涙の跡と、肩の小さな震えで分かった。


 窓から差す月光が、ミアの頬を白く照らしていた。指先は冷えていて、私の袖を掴む力だけが、妙にはっきりしていた。


 私の銀の猫耳が、ミアの悲しみに引っ張られるように、力なく垂れた。


 漢として、ミアが泣いているのを見るのは、私の記憶の中では初めてだった。


「……ミア」


「ごめんなさい」


「なんで謝るの?」


「明日、ミアが……お姉さまを、傷つけるかもしれない」


「大丈夫と何度も言ってますわ」


「……昨日も、怖いって言ったけど…」


「ええ」


「でも今日は、もっと怖い、ですの」


 ミアが私の袖を、きゅっと握った。


「ミアは、羽化より、お姉さまに嫌われるのが怖い。本当に、怖い……」


「嫌いになどなりませんわ」


「……本当に、ですの?」


「本当ですわ。だってあなたは、ミアですもの」


 ミアが、少し長い間、黙っていた。


「お姉さま」


「はい」


「明日……ミアが、ミアじゃなくなっても……」


 声が震えた。


「お姉さまだけは、ミアを、ミアって呼んで」


 私はミアの手を握った。


 手首の内側で、小さな鼓動が震えていた。私の首筋にも、同じように自分の鼓動が鳴っている。


「何が起きても、ミアはミアですわ」


「……ほんとう?」


「本当ですわ」


「傷つけても?」


「傷ついても治りますわ。六ヶ月、それを練習してきたのですから」


「……でも」


「漢は、妹のためなら何度でも立ち上がりますわ。それだけですわ!」


 ミアが俯いて、それから、ゆっくり言った。


「……お姉さまって、ほんとうに、漢なんだ」


「そうよ」


「……バカとも言う、ですの」


「漢とバカは同じじゃない」


「アリアンドラが同じって言ってた」


「もう、意味が分かってませんわ」


 ミアが少しだけ、口の端を動かして、泣きながら、でも少し笑った。


---


 しばらくして、ミアが言った。


「……ハムハム、していい、ですか?」


「当然ですわ!」


 私は首筋を差し出した。


 ミアが寄り添ってきた。


 かぷ、と。


 いつもの感触がした。


 そのまま、ミアが離れず、ハムハムしたまま、私にもたれていた。


 首筋越しに、ミアの呼吸が伝わる。細くて、まだ震えていて、それでも少しずつ落ち着いていく。


---


 気がついたら、ミアが眠っていて、私の肩に頭をのせて、静かに寝息を立てていた。


 起こすのも悪いと思った。私もそのまま、ミアと手を繋いで、ゆっくり横になった。


 窓の外に、月が見えた。


 私はミアの手を握ったまま、その月を見ていた。


 怖くはなく、全然、怖くなかった。


 漢として、最後の夜になるかもしれない——それでも、ミアの隣で眠る。


 守るべきものがあって、それだけで、十分だった。


 ミアが、少し手を握り返してきた。眠りながら。


 (……知ってるか、ミア)


 私は天井を見ながら、心の中で言った。


 (お姉ちゃんは今、世界で一番、漢だ)


 窓の外の月は、まだ少しだけ欠けていた——明日、それが満ちる。


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