第15話 前編 地獄の訓練、はじまり
成人の儀から二日後の朝。
アリアンドラが持ってきた訓練表の一行目には、こう書かれていた。
『痛覚下での意識維持訓練』
その下に、補足があった。
『初日は指から』
……これ、普通に死ぬやつでは?
漢として、私は紙を二度見した。
---
その夜。
屋敷の廊下を歩いていると、エリオラ様の部屋から、灯りが漏れていた。
いつもなら、エリオラ様は仕事で不在だ。荒野観測隊、国境警備、資材調達、書類仕事。家にいる時間は、年に数日。
でも、今夜はいた。
私が廊下で立ち止まると、扉がそっと開いてエリオラ様が出てきて、私を見て少し驚いた顔をした。
「……ユリナ」
「お母様」
エリオラ様は、しばらく言葉を探していた。
カトリーナ夫人に「母親失格」と告げられてから、まだ一日しか経っていない。
目元に、隠しきれない疲れが見えた。
「……ミアは、寝た?」
「ええ。今夜は早めに」
「……そう」
エリオラ様が、視線を落とした。
私は、何を言えばいいか分からなかった。「お母様、気にしないでくださいませ」と言うのは違う。「お母様の言うことは正しかった」と言うのも違う。
私が何も言わないでいると、エリオラ様が、ぽつりと言った。
「ミアに、あとで会いに行ってもいい?」
「お会いに、ですか?」
「会う、というか……顔を、見たいだけ」
「……」
私は、頷いた。
「ええ、もちろん」
エリオラ様が、わずかに微笑んだが、微笑み方が、ぎこちなかった。
「ありがと」
その「ありがと」も、ぎこちなかった。
私は、その夜、なぜか少しだけ安心した。
エリオラ様は完璧な母ではない。でも、何かを変えようとしている母ではあるらしい。
後にエリオラ様の偉業を知り、母としてだけではなく、自ら運命を切り開いた愛の人へと認識が変わるのだが、このときは想像もできなかった。
ただ、今は、それで十分だった。
---
成人の儀が終わった後、私はひとつの現実と向き合うことになった。
十月の満月——あと六ヶ月後——にミアが羽化する。
羽化の際、ミアは本能に支配された状態になる。魔族の血と本能が表に出る瞬間だ。その時、ミアは魔力を求めて暴走する。4代目はその状態でメイドの手足を引きちぎった。
ミアが私に飛びかかってきて、手足を引きちぎったとして、私が気を失ったら、自分で自分自身を治療できない。
気を失わないためには、極限の痛みの中でも意識を保つ訓練が必要だ。
それが今の訓練の目的だった。
だからこの訓練は、私ひとりでは絶対にできなかった。
---
訓練の設計はアリアンドラが担当していた。
カトリーナ夫人の許可が下りた翌朝、つまり成人の儀から二日後の朝、アリアンドラが屋敷に来て、訓練のスケジュールと内容を書いた紙を持ってきた。
「……こんなで、よろしくて?」
「……完璧です。ありがとうございます」
「お礼などご不要でしてよ」
アリアンドラがいつものように言った。それから、少しだけ、声を落とした。
「ユリナ」
「なに」
「わたくしが傍におりますわ。だからその……大丈夫ですわ。理由などありませんけど……」
私は少し黙ってから、頷いた。
「……ありがとう」
「礼はご不要と申し上げましたわ」
---
そして、訓練表を渡された翌朝。
成人の儀から三日後。
訓練初日、私は「漢だから大丈夫だ」と言って臨んだ。
アリアンドラが、冷たく返した。
「あなた、『漢』を主語にするの、おやめになって? 訓練と関係ありませんわ」
「漢ですわ。漢は妹のためなら——」
「五秒、経ちましたわよ。早くいらっしゃい」
「……はい」
訓練で指を万力でつぶされ、五分後……
気絶した。
目を開けた時、アリアンドラが、私の上から見下ろしていた。無表情を保とうとしていたが、口元が、わずかに引きつっていた。金色のしっぽは、心配と苛立ちで、左右にせわしなく揺れていた。本人は無表情を装っているが、しっぽが何もかも台無しにしていた。
「……何か、言いたいことが?」
私は所在なさげに聞いた。
「『漢』は、なんと?」
「……訂正、しますわ」
「訓練開始五分で気絶する女の子を『漢』と呼ぶので?」
「馬鹿じゃないの、と、罵っていただいて結構ですわ」
「馬鹿じゃないの」
「ありがとうございます」
サリナが横で、記録帳を開いた。
「……気絶なさいましたわ。一回目ですわ」
ミアが遠くから見ていた。
漢として、こんなに早く気絶した自分を、しばらく許せなかった。
---
欠損修復担当はサリナだった。
成人の儀で公になった通り、サリナの「姫の加護」の強さは「満月」。「満月」の強さを持つ姫を「聖女」と呼ぶ。
普通の姫の加護とは、桁が違う治癒力を持っており、欠損部位を修復できる唯一のレベルだ。「三姉妹の天舞」を除いては。
私の指がつぶれて、気絶している間に、サリナの光がそれを修復する。聖女の力でもなければ治らない。
聖女サリナがいなければ、そもそもこの訓練は成り立ってはいなかった。
---
そして、訓練開始から一週間後。
私は訓練場で意識を失っていた。
目を覚ますと、サリナが私の顔を覗き込んでいた。
「……また気絶なさいましたわ」
「……わかってます」
「今回は三分二十秒でしたわ」
「記録しているのですか?」
「記録しておりますわ」
サリナは静かに言って、その手から、温かい光が出ていた。欠損した私の左腕が、みるみると元に戻っていく。
見慣れてきたとはいえ、自分の腕が再生する光景には毎回少し動揺する。
---
ある日、訓練場にお茶を運んできたハナが、入り口で固まっていた。
茶色の猫耳がしっかりと垂れていて、お盆の上の紅茶のカップがかたかたと震えていた。
「あ、あの、お嬢様……今、お腕が……」
「ハナ、見てしまったのね」
「は、はい……お茶をお持ちしてきましたら、お嬢様の、お腕が、なくなって、また、生えて……」
「漢としては、べ、別に大したことではないのですけれど」
「お、お貴族様の、ご鍛錬は、こんな感じ、なんでしょうか……? 平民の、ご鍛錬では、せいぜい、木刀の、素振りで……お腕は、生えてこないので……」
ハナはお盆を握り直しながら、目をまんまるに見開いていた。
漢として、私も、平民の感覚の方が本当はまっとうだと、心の中で思った。
「ハナ。これは、ソーマ家の、特殊な事情ですの」
「は、はい……」
「あなたが他のメイドに話しても、どうせ信じてもらえないから、心の中だけに、しまっておきなさい」
「は、はい……」
ハナはお盆の紅茶を、そっと机に置いた。
茶色の猫耳が、最後まで垂れたままだった。
台所への帰り道、ハナの呟きが、私の耳に届いた。
「お嬢様の世界、本当に、難しすぎます……」
漢として、その通りだ、とだけ心の中で頷いた。
少しして、さらに小さな声が聞こえた。
「このままディーテ家のお嬢様とサリナさんまで毎日いらしたら、いずれ女子会のご準備とか、必要になるんでしょうか……」
「女子会?」
思わず聞き返すと、ハナはびくっと肩を揺らした。
「い、いえっ。普通の女の子のお茶会ではない、とだけ、リサさんから聞いたことがありまして……。でも、ハナにはまだ、よく分かりません……」
よく分からないなら、私にも分からない。
とりあえず、今は腕を生やす方が先だった。
---
ある日、訓練の合間に、アリアンドラがぽつりと言った。
「あなた、気にしてる? サリナの治癒、ずっと使わせてしまっていることを」
「……まあ、少し」
「気にしないことね」
「気にしないこと?」
「サリナがあなたを助けたいから、力を出している。それだけよ。あの子に重荷を背負わせている、と思うのは、あの子に失礼だわ」
漢として、その言葉はすとんと胸に落ちた。
私はアリアンドラの言葉に頷いた。
サリナが駆け寄り、おっとりと微笑んだ。
「ユリナ様、次の修復、いきますわ」
「お願いしますわ」
その時の優しい光を、私は、ずっと覚えていた。
---
時間が、過ぎた。
二週間後、気絶回数は一日三回から一回に減った。一ヶ月後、ほとんど気絶しなくなった。
「今週はゼロ回でしたわ」
サリナが記録を読み上げた。
「……本当に?」
「本当ですわ」
アリアンドラが腕を組んだまま、少し目を細めた。
「……悪くないわ」
「訓練の計画のおかげですわ」
「……当然ですわ、わたくしが計画したんですもの」
アリアンドラは横を向いて、耳が少し赤かった。
ミアが遠くから訓練の様子を見ていて、その顔が、少しだけ明るくなっていた。




