第10,7話 後編 ヴェロニカの牙
15歳の夏、学園が短い休暇に入る前のことだった。
ヴェロニカ・グリムワルドが、動いた。
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最初の異変は、学園の図書室で見つかった。古い書架の影に、紙が一枚、置かれていた。誰かに見せるための置き紙だったのだろう。それを最初に見つけたのは、学園で働くメイドの一人だった。
その紙には、こう書かれていた。
> ソーマ家の二女には、ある血の問題がある。
> 公に知られている姿は、すべてではない。
> 十六歳を迎える頃、その血が目を覚ませば、周囲に危害を及ぼすおそれがある。
> 詳細は、家伝の事象として、教会への確認を要する。
メイドは紙を学園長に届け、学園長は教会へ問い合わせた。
教会は、形式的な調査として、ソーマ家へ「ご本人の確認を希望」と通達してきた。
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翌日、学園の渡り廊下で、ナナ・ルミエが、いつもより困り顔で私に近づいてきた。
「ユリナ様、あ、あの……ミア様のことを書いた紙が、図書室で見つかった、って噂、聞いてしまったんですけど……」
「ええ、本当のことですわ」
「誰が書いたかも分からない紙、ですよね……? 平民の村なら、まず燃やします」
ナナの緑の猫耳が、混乱でぱたぱたと左右に揺れた。
「貴族社会では、燃やした時点で『隠した』ことになりますの」
「貴族の世界、難しすぎませんか……?」
ナナの素直な疑問は、私の中にすとんと落ちた。
平民から見れば、燃やせばいいだけの紙。貴族から見れば、家の存続を揺さぶる重みを持つ紙。
……漢として、ナナの感覚の方が、本当はまっとうなのだ。
「ナナ。あなたのその違和感、忘れずにいて」
「えっ。どうして、ですか?」
「貴族社会に染まりきった人間は、その違和感を、いつの間にか忘れてしまう。あなたが覚えていてくれる方が、私は、いい」
「は、はい……? よく、わかりませんけど、覚えておきます……」
ナナは緑の猫耳をぴょこぴょこさせながら、頷いた。
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……どこから漏れたのか——というより、私には、まだ何の話なのかがよく分からなかった。
応接間で、私はその通達書を何度か読み返した。
……ある血の問題? 公に知られている姿? 危害?
銀の猫耳が、わずかに傾いた。困惑のサインだった。
「アリアンドラ」
私は、横に立っていた彼女に聞いた。
「ええ」
「これ、ミアのことですの?」
「……次女ということは、そうなのでしょうね」
「この『血の問題』というの、何を指していますの?」
アリアンドラが目を見開き、私をまじまじと見て、それから視線を慎重に外した。
「……わたくしの口からは、申し上げにくいですわ」
「なぜ?」
「口にすれば、ディーテ家がソーマ家を侮辱したことになります。あの紙を書いた者と、同じ土俵に立つことになりますの」
そのとき察した。ソーマ家の誇りでもあり、タブーでもある、ソーマ家には魔族の血が混じっているという話だ。
……。
それでも、私はピンと来ていなかった。ミアの腕が骨を折るほど強いことも、毎晩ハムハムで補給しなければ魔力が足りないことも知っている。でも、それが何かの「血の問題」と、どう繋がるのか——私の中で、線が引けていなかった。
ミアに魔族の血が流れているという話であれば、私も、アッティーネ様も魔族の血が流れているからだ。なぜ、ミアだけ?
「では、アリアンドラ。質問を変えますわ。この紙、誰が書いたと思いますの?」
「グリムワルド家、でしょうね」
「根拠は?」
「教養レベルではなく、実例の調査を代々続けている家は、限られていますの。グリムワルド家は、そのひとつ」
アリアンドラの金色の猫耳が、わずかに後ろに寝ていた。怒りのサイン——彼女が向けているのは、私ではなく紙の方だった。
私は息を止めた。入学式で扇を広げて笑ったヴェロニカの顔が、頭の中に戻ってきた。
「ソーマ家も、いつ崩れるか、分かりませんわよ」
あの一言は、宣戦布告だった。半年寝かせて、今、動いた。
「……アリアンドラ。あなたが言いたくないなら、無理に聞きませんわ」
「……ありがとうございますわ」
「でも、ひとつだけ、教えてくださいまし」
「ええ」
「ミアは、何か、危険ですの?」
アリアンドラが、しばらく私を見ていた。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。ミアは、ミアですわ」
「……ええ。それなら、結構」
私は、紙をテーブルに置いた。
……ヴェロニカがミアを傷つけようとして、何かを仕掛けてきたことだけは、明白だった。
守るためなら、敵の言葉を理解できなくても戦える。
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ミアが、応接間に入ってきた。
「お姉さま」
「ミア」
「……何か、あった?」
「いいえ」
私は、即答した。
ミアに、知らせるわけにはいかなかった。
ミアの猫耳——いや、ミアには猫耳が無い。だから、感情を察知される心配はない。けれど、ミアは、私のしっぽが落ちているのを見ていた。
「お姉さま、しっぽ、元気ない」
「……気のせいですわ」
「うそ」
ミアが、私の隣に座って、私のしっぽを指でそっと撫でた。獣人族のしっぽは、家族でもむやみに触れない場所だ。
けれどミアの指が触れても、不思議と嫌ではなかった。しっぽが少しだけ上を向いた。
……ミアは知らない。でも、ミアは私の異変を、本能で察している。
「大丈夫」
私は、言った。
「お姉ちゃんが、なんとかしますわ」
「……うん」
ミアは、頷いた。
その目に、不思議と迷いがなかった。
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その夜、四人で集まった。
私、アリアンドラ、サリナ、リサ。
ミアは、サリナの判断で別室にいた。「ミアティーネ様には、まだ、お知らせするべきではないと存じますわ」とサリナは言った。記録帳を開かず、書かない判断をしていた。
「対応策を、整理いたしますわ」
アリアンドラが、口を切った。
「現状、教会は『調査の希望』レベル。強制力はありません。ですが、紙が一度世に出た以上、噂は止められません」
「グリムワルド家を訴えるのは」
私が聞いた。
「証拠不十分ですわ。あの家は、紙を直接置いた者を雇った可能性が高い。ヴェロニカ本人は、図書室に近づいてもいないでしょう」
「……」
リサが、静かに茶器を置いた。いつもの「百合の姫様」を語る熱はなく、落ち着いた茶色のしっぽだけが、風向きを読むようにゆっくり揺れていた。
「正面から潰すのではなく、先回りして取り込む手がございます」
「と、申しますと」
「教会の調査希望を、こちらから受けるのでございます。ただし条件をつけ、サリナを記録者として立て、教会の審問より先に記録を整えます」
「先に記録を?」
「はい。教会が来た時には、すでに管理下にある、と示せます。告発は、新事実ではなくなります」
リサは、そこで一度だけ微笑んだ。
「噂は消そうとすると燃えます。先に水路を作って、流してしまえばよろしいのでございます」
……。
その作戦の冷静さに、私は、しばらく黙った。リサはいつものリサなのに、その手順には、屋敷の中だけで身につくはずのない貴族社会の読みがあった。
でも、これはミアを守るための最善手だった。
「サリナ、お願いできるかしら」
私は、サリナに聞いた。
「もちろんですわ」
サリナは、おっとりと答えた。薄茶色の猫耳が、いつもよりわずかに立っていた。サリナにとっても、これは戦闘モードだった。
「着実に、ですわ。記録を、整えておきますの」
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翌週、グリムワルド家からの告発紙は、教会の正式調査で「既に確認済み」として処理された。
教会の審問官が来訪しなかったわけではない。しかし、サリナが既に詳細な記録を提出し、リサがソーマ家側の確認印とサーティー家の管理書類を揃えていたため、審問官は「ソーマ家とサーティー家の管理下に置かれている」と判定し、追加調査を後送りにした。
ヴェロニカの第一手は、空振りに終わった。
……一時的に、だが。
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その日の夜、私は屋敷の庭で、ヴェロニカの顔を思い出していた。
あの扇の影で薄く笑った顔。あの「いつか崩れる」という宣告。
ヴェロニカは、私を、ミアを、ソーマ家を、本気で滅ぼそうとしている。
半年寝かせて、紙一枚で動いた。次は、もっと大きな手で来るだろう。
……漢として、私はヴェロニカを、敵として認識した。
純粋な敵。アリアンドラのような「嫌い嫌いも好きのうち」型ではない、本物の敵対者。
梁の上で、ベル・ロウがふわっと降りてきた。
「お姉ちゃん、しっぽ、しっかり立ってるよ」
「……ええ」
「戦うんだね」
「ええ」
私の銀のしっぽは、月光の下でぴんと立っていた。
守るべきものがあれば、しっぽは、立つ。
獣人族の本能が、私に戦いを許可していた。
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学園長から、私宛てに短い手紙が届いた。
> 例の告発紙の件、見事な対応でした。
> ただし、ヴェロニカ・グリムワルド嬢の動きは、これで終わりではないでしょう。
> グリムワルド家は、十年以上前から「特殊な血の管理」を家訓にしています。
> 詳細は、機が熟した時に、お伝えします。
> ご注意ください。
> ——王立加護学園 学園長
私は、その手紙を暖炉に投げ込んだ。
燃やす行為そのものに、意味はない。
ただ、私は手紙の内容を、忘れないと自分に誓った。
……「ある血の問題」が何かは、まだ私にはよく分かっていない。
ヴェロニカが、その何かを使って、ミアを傷つけようとしている。それだけは、確かだ。
なぜミアが標的なのか、ミアが「特別な何か」だと言われる理由が何なのか。
……もしかしたら、私が知らないだけで、何かあるのかもしれない。ミアの腕の力、毎夜のハムハム、周りからの「ユリナの偽物」という陰口。それらが、もし繋がっているのだとしたら。
……いや。
今は、考えるのをやめる。アリアンドラも「ミアはミアだ」と言った。
私が、ミアを、守る。それだけが、確かだ。
次は、もっと大きな手で来る。その時、私は、もっと強くなっていなければならない。
翌朝から、ロウェナ様の稽古が、一段厳しくなった。
ミアには、その理由を伝えなかった。リサは何も聞かずに稽古場の予定を空け、サリナは記録帳に余計なことを書かなかった。
私の胸の中だけで、戦いの準備が始まっていた。
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なお、ヴェロニカ・グリムワルドは、その夏休み中、教会の聖騎士の訓練場に毎日通っていたらしい。
次の手を、準備していた。
成人の儀は、もう遠くない。
その日、誰が何を暴こうとしているのか。
この時の私は、まだ知らなかった。




