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第10話 前編 学園一の成績(体育だけは除く)

 学園に入学して、もう二年が経とうとしていた。十五歳の春。


 前期試験の結果が張り出された朝、私は掲示板の前で固まっていた。

 銀の猫耳が困惑でぴくぴく動き、しっぽが一周だけ、迷うように揺れた。


 筆記成績は一位。体育だけは、まあ、別枠として。


 問題はそこではない。


 一覧の最後に、一科目だけ「要再試験」の印がついていた。


 保健。


 正確には、保健の筆記試験の一部問題が壊滅的に間違っていたらしい。


---


 この世界の子供は、十二歳ごろに「女神の子を授かる天啓」を受ける。


 夢の中で女神ティア様の声を聞き、子を授かる作法を本能で知る。

 女神の使いのコウノトリが夢に出てきて、正しい知識を教えてくれるのだと、この世界ではそう語られる。


 だからこの世界では、女神は信じるものではなく、一生に一度、女神から教えを乞うことができるのだ。

 教会が王権と並ぶほど重く扱われるのも、そのためだった。


 問題は、私がその夢を覚えていないことだった。


 保健の試験では、「この世界でなぜ子供が産まれるか」を説明する問題が出た。


 私は前世の知識で答えたが、見事に全問不正解だった。


---


 保健の答案用紙が返ってきた直後、廊下でナナ・ルミエが、私を見るなり駆け寄ってきた。


「ユ、ユリナ様……あの、保健の、再試験、本当ですか……?」


「事実ですわ」


「でも、保健って、その、夢の中のお話ですよね……? 女神様のお声を、お聞きになって、夢でお分かりに……」


「いいえ、ナナ。わたくしは、その、女神様のお声を、覚えておりませんの」


「……ええっ!?」


 ナナが緑の猫耳を、ぴんっ、と立てた。


「で、でも、皆さん、十二歳ごろに、夢の中で、女神様の声と、コウノトリを……?」


「私は、見ていないんですの。事情がありまして」


「事情、ですか……?」


「複雑な事情、ですわ」


 ナナの緑のしっぽが、わかったようなわからないような形で、ぱたん、ぱたん、と迷うように左右に揺れた。


「平民の家でも、お母様から教わるのは、夢を見たら、そっとお祝いする、ということくらいで……夢を、見ていない方の、お話は、わたくしも、初めてで……」


「ですわよね」


「あ、あの、ユリナ様、お辛いんじゃないですか……? 夢の記憶が、ない、ということは、その、お子の、授かり方、ご存じない、ということ……ですよね……?」


 ナナのまっすぐな問いに、私は息を呑んだ。


 漢として、平民の素直さは、ときどき貴族の社交儀礼より、ずっと痛いところを突いてくる。


「……ええ。そういうことになりますわね」


「よ、よろしければ、ノート、お貸ししましょうか……?」


「結構ですわ。再試験までに、自分で何とかします」


「は、はい……っ」


 ナナは申し訳なさそうに耳を垂らし、私の背中を小さく、ぽんぽんと撫でた。


 漢として、少女に慰められてしまった。


 ……それも悪くないかも……。


---


「ユリナ様」


 サリナが廊下で声をかけてきた。


「試験の結果、拝見いたしましたわ。一位、おめでとうございますわ」


「……ありがとう」


「ただ、保健はですわ……」


「うん」


「……何をお書きになったんですの?」


「それを聞きます?」


「聞きますわ」


 サリナは真剣な目をしていた。


 私は小声で、答案に書いた内容を、教科書に出せる程度まで薄めて説明した。


 サリナが少しずつ顔色を変えていった。


「……」


「その反応は傷つきますわ……」


「いいえ、ユリナ様の頭の中のことはよく分かりましたわ」


「分かった?」


「以前からなんとなく、ユリナ様は……おかしな……いえ、特別な方だと思っておりましたので」


「特別……」


 サリナは少し間を置いて言った。


「実はユリナ様、以前から周囲に『赤ちゃんの作り方』を聞いて回っているということで、おませさんだと思われておりましたわ」


「えっ」


 初耳だ! 恥ずかしい!


「でも実際には、コウノトリの夢を見たことがなくて、純粋に知らないだけだったのですわね」


「……そういうことになりますわ」


「わたくしは最初からそうだと思っておりましたわ」


「サリナ、察しのいい子ですわね」


「ありがとうございます」


 サリナは微笑んだ。


 ——その時、私の手の甲に、剣の稽古でできた、小さな擦り傷があった。


 ロウェナ様の稽古は、八歳の頃から続いている。今では学園の合間にも続けていて、稽古のたびに小さな傷ができるのは日常だった。普通なら1日で治る程度の傷。


 サリナが、その傷に気づいた。


「お手当てしますわ」


 そう言って、私の手を両手でそっと包んだ。


 ほんの一瞬。


 温かい光が、サリナの指の間から漏れた——気がした。


「……?」


 私が目を瞬かせた次の瞬間、傷はすでに塞がっていた。


「……サリナ」


「はい」


「いま、何かしました? もう、姫の加護が?」


「いいえ、ぎゅっと握っただけですわ」


 サリナは、おっとりと微笑んだ。


 ……姫の加護は、普通、訓練を受けないと使えない。だから加護学園があるのだ。まぁ、例外という私もいるが……


 でも、傷は確かに消えていた。私は、それ以上聞かなかった。サリナが、何かを隠したい時の顔をしていたから。


 漢として、人の隠している事情に踏み込むのは礼儀ではない。


 ……でも、心の片隅にひとつ、書き留めた。


 サリナの、温かい手の感触を。


---


 問題は、なぜ私はコウノトリの夢を見ていないのか、ということだった。


 この世界では、天啓を授かった時に夢の中で知識を得る。つまり天啓を受けていない子供は知らない。


 ベル曰く、私が転生した時——生まれた時から、どうやら私はすでに「天啓を授かった状態」だったらしい。

 けれど、肝心の女神の声も、コウノトリの夢も、前世の記憶に塗りつぶされて、ひとつも残っていなかった。

 どうも魔力をやり取りするらしいが、よくわからない。教科書にわざわざ細かく載っていないのだ。


 それが、私がこの世界の「正しい知識」を持っていない理由だ。


 (……ということは、俺はこの世界のルール上、誰かを愛した時に……)


 そこまで考えて、私は急いでその思考を打ち切った。


 ……いや、待て。


 (魔力を、やり取りする……?)


 (……それって、ミアが毎晩やってるハムハムも、そういう魔力やりちりに近い——)


 (……いや、考えるな。考えるな考えるな)


 漢として、姉として、今はそういう話をする時ではない。


 絶対にない。


---


「ユリナ」


 アリアンドラが廊下の掲示板の前で立っていた。私の成績と、要再試験の印を見ている。


「一位ですわね」


「うん」


「保健は再試験なの?」


「……そう」


 アリアンドラが少し表情を変えた。勝ち誇るかと思ったが、そういう顔ではなかった。


「……笑わないの?」


「笑わないわ」


「なんで?」


 アリアンドラは少し黙った。


「あなたが知らないことで笑うのは、違う気がして」


 私は少し意外だった。前なら、勝ち誇るところだと思っていた。


「アリアンドラ」


「なにかしら」


「なんか、真っ当ですわね」


「……当たり前でしてよ。あなた。わたくしをなんだと思っているの?」


 アリアンドラは少し顔をそらした。でも、耳が少し赤かった。


「どうせ再試験で満点お取りになるんでしょ。あなたは」


「取れるかな……この世界の知識を今から入れ直すのは、ちょっと」


「わたくしが教えてあげましょうか」


 言ってから、アリアンドラが少し固まった。


 自分でも驚いたような顔をしていた。


「……言い方が悪かったわ。別に教えてあげたいわけじゃなくて、あなたが間違ったままだと勝負の相手として面白くないから」


「助かりますわ。ありがとう」


「お礼などご不要でしてよ」


 アリアンドラが隣に座った。


 私は横顔を見ながら思った。


 (……この子、結局、悪い子じゃないな)


---


 ミアに結果を話したら、ミアが静かに言った。


「お姉さまは、全部知っている、ですの」


「……全部?」


「この世界のこと。全部じゃないかもしれないけど、大事なことは、ですの」


「そうかな」


「……うん」


 ミアはゆっくり言った。ミアにとって、お姉ちゃんが世界の中心なのだ。


「お姉さまがこの世界でわからないことは、ミアが教える、ですの」


「ありがとう」


 もう、アリアンドラにお互い真っ赤になりながら、コウノトリが伝える子の成し方を教わったことは言わなかった。恥ずかしいし……


「……ミアも、お姉さまに教えてほしいことがある」


「なに?」


「大きくなったら、言う、ですの」


 ミアは前を向いて歩き続けた。


 私はその横顔を見ながら、少しだけ不思議な気持ちになった。


 大きくなったら。その言葉が、なぜか胸に残った。


 ミアが16歳になる日は、もうすぐそこまで来ていた。


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