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第7.5話 【幕間】 ヴェロニカの予告

 学園に入ってから、ユリナとサリナは——先生の用事をたびたび任されるようになった。


 二人とも成績がいい。きっと、そのせいなのだろう。


 ただ、その間、ミアは一人になる。


 正確には、ナナ・ルミエが少し離れた場所から様子を見てくれていた。

 けれど、距離はあった。


 その日も、教室を出る前に、ユリナはミアの頭を軽く撫でた。


「すぐ戻りますわよ、ミア」


「……わかりました、ですの」


 ミアの静かな瞳が、ユリナを見送った。少し、寂しそうに。


 あとから思えば。


 ユリナはその日、もっとずっと急いで戻るべきだった。


---


 ユリナとサリナが教室を出ていって、すぐのこと。


 ミアの机の前に、影が立った。赤茶色の長い髪に、金色の双眸。ヴェロニカ・グリムワルド。


「ねぇ、ちょっと、お話いいかしら?」


 作ったように甘い声が降ってきた。


 ミアはノートから目も上げずに、ぽつりと答えた。


「……いや、ですの」


「あらあら。嫌われちゃったわ。残念……なんて」


 ヴェロニカがにっこりと微笑んだ。微笑んだまま、どすのきいた声で続けた。


「わたくしも、あなたのこと大ーっ嫌いですけどね!」


「……帰れ、ですの」


「あらやだ。せっかく忠告をして差し上げようと思いましたのに」


「……いらない、ですの」


 ヴェロニカはますます嬉しそうに目を細めた。


「あなたのお姉さま——死ぬわよ」


 ミアの肩が、ぴくりと動いた。


「……お姉さまは、死なないのです」


「あら、ごめんなさい。言い方を間違えたわ」


 ヴェロニカはミアの机に両手をつき、顔を近づけた。


「あなたが、殺すわ」


 意味は半分も分からない。

 けれど、お姉さま、という言葉だけが、胸の奥に引っかかった。


「あぁ、あなたのお姉さまの泣き叫ぶ声が——聞こえるわ」


 ヴェロニカが、楽しげに身を震わせた。ひどく満足そうに目を細めながら。


「あなたのお姉さまが痛いと言っても、苦しいと泣いても、きっとあなたはやめないわ」


 ……無視することにした。


「……ふふっ。でも、大丈夫」


 ヴェロニカが、ぱん、と手を合わせた。


「ちゃーんと、わたくしがあなたのお姉さまを守って差し上げますから」


 声を落とし、


「たくさんの騎士で守って、あ・げ・る。——あなたを地下牢にぶちこんでねぇ!」


 歪んだ笑顔でミアを睨むヴェロニカ。


 だが、その視界はすぐに遮られた。


---


「——何をしているの!」


 よく通る、低い声。


 ユリナとサリナが戻ってきていた。


 ユリナは、ヴェロニカを突き退けるように、ミアとヴェロニカの間に割って入る。


 そして次の瞬間——ミアを、ぎゅっと胸元に腕で抱き込んだ。


「ミア——っ!」


 両腕に力が入る。


 漢として、妹を絶対にこいつの視線から隠す。隠さねばならぬ。銀色のしっぽが、ぶわっと膨らんだ。


「チッ」


 ヴェロニカが舌打ちをした。それからすぐに、表情を繕った。


「あら、お早いお付きで。先生のご用事はお済みで?」


「——何をしていると、言っていますの」


 ユリナはミアをしっかりと腕の中に抱きかかえたまま、ヴェロニカを睨んだ。


「ちょっと楽しいおしゃべりをしていただけですわ。大好きなお姉さまがいなくて、暇そうでしたから」


「……っ」


「睨まないでくださいまし。わたくし、ミア様に『ユリナティーネ様を守って差し上げる』と申し上げていただけですわ」


「そんなの、いらない」


「まっ。あなたなら、そうおっしゃるでしょうね」


 ヴェロニカは薄く笑った。


「でも、残念。叶わなくてよ」


 そして——その視線が、ふ、とユリナの胸元へ流れた。


 ……あら?


 ヴェロニカの表情が、止まった。目を瞬かせる。ユリナの顔を見て、もう一度、胸元を見る。


「——それ、死んじゃいますわよ?」


「え?」


 ヴェロニカが、ちょい、とユリナの胸元を指差した。


 ユリナが視線を下げると——


 腕の中で、ミアが、ぴく、ぴくと痙攣していた。


 両手はユリナの背中に、軽く添えられたまま。


 ——本気で押せば、岩でも砕けるはずのミアの力が、お姉さまだから、と無意識のうちにセーブされていた。


 ミアは抜け出せない。


 大好きなお姉さまの腕を押しのけるなんて——できるはずもなかった。


「ミ、ミア——っ!?」


 ユリナが慌てて、ミアを引きはがした。


「ぷはーーっ」


 ミアが、長く、長く息を吐いた。


「し、死ぬかと、思った、のです……」


「だ、大丈夫、いったい何が——っ!」


 ヴェロニカに向き直ろうとして、ユリナは——気づいた。


 ……あ。


 いったい何が起こったのか。


 ミアを窒息させかけたのは——自分の抱きしめ方だった。


 ユリナの顔が、ぼっと赤く染まった。


 ヴェロニカは呆れた目で、それを見ている。


「——興がそがれましたわ」


 ヴェロニカはひらりと手を振った。


「ごきげんよう。せいぜい、お大事になさいませ」


 それだけ言って、ヴェロニカは教室を出ていった。


---


「ミア、ミア、本当にごめんなさい……っ」


「はぁ、はぁ……」


 ミアはユリナの肩で、ゆっくりと息を整える。


「……一瞬、川の向こうで、手を振る、おばあさまが、見えた、のです」


「……おばあさまは、ご健勝よ」


 ユリナは思わず、真顔で否定した。


「……お姉さまの胸の中で死ねるなら本望、ですの」


「……そんな本望、ドブに捨てておしまいなさい」


 ユリナは続けて、真顔で諭した。


 ……それから、ちらりと自分の胸元を見下ろす。


 ユリナは知らなかった。自分が姫でもあこがれるほどのプロポーションに育っていたことを。


 ユリナは知らなかった。そんな胸元に顔を抑えつけられたら呼吸ができなくなることを。


 漢として、そんな事故、想定できるはずもなかった。


 今度は——胸元を避け、肩に顔が逃げるように、ユリナはミアをそっと抱き直した。


 ミアがユリナの肩に頭を預けた。


「……お姉さま」


「うん」


「……あの人、なんなの、ですの」


「……」


 ユリナは答えられなかった。


 ヴェロニカ・グリムワルド。

 入学式で私に絡んできた時から——いや、それよりもっと前から。あの娘は、何かを知っているような口ぶりだった。


 そして、今日。


 駆け戻ってきた時、ミアの顔には、表情こそ普段通りでも——ほんのわずかに、強張りが、残っていた。


 普段、何にも動じないあの子が、だ。ヴェロニカは、ミアに、何を吹き込んだのか。


 問いただしても、ミアは多くを語らないだろう。

 「……なんでもない、ですの」と、それで済ませてしまう子だ。


 けれど、はっきりしていることがひとつある。あの娘は、ミアに、無視できない何かを置いていった。


 気のせいで済ませる類のもの、ではない。


 (女神様)


 その時、ふと頭の隅で、何かが、ぴり、と鳴った。


 ——『その子は、わたしの敬虔な信徒なのだけれど。つらい目に遭うのよ』


 生まれた日に聞いた言葉。あの時、ハーレムと力に塗りつぶされて、後で考えればいいと流した、女神ティアの言葉。


 (……関係、あるのか)


 わからないけれど、私はミアの髪をそっと撫でた。


「大丈夫よ、ミア」


「お姉さま……」


「あの娘が何を言ったかは、存じませんが——気にすることは、ありませんわ」


「……」


「お姉ちゃんが、ずっと、ミアの味方ですから。何があっても——絶対に」


 ミアが、ふわりと目を細めた。


「……お姉さまの、お約束?」


「ええ。お姉ちゃんの、約束ですわ」


 漢として、もう何度目かわからない、決意の更新。


 ——女神に何と言われようと、運命に何と言われようと。俺自身が、どれだけつらい目に遭おうと。


 絶対に、だ。


---


 ユリナは知らなかった。その様子を、教室の扉の陰からこっそり見ていたナナ・ルミエが、緑の猫耳をぷるぷる震わせていたことを——


「お貴族さま……こわっ……」


 この日からナナが、少しだけユリナたちの近くにいるようになったことを。


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