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第6.5話 後編 お茶会という名の勝負

 十二歳の春。


 私は、リサに連れられて、ディーテ公爵家のお茶会に出席することになった。


 母エリオラ様は不在だった。いつものことである。国境警備、荒野観測隊、資材調達、書類仕事。

 愛は重いのに、物理的にはだいたい屋敷にいない。


 そのため、今日の付き添いもリサだった。


「ユリナお嬢様。背筋でございます」


 馬車の中で、リサが私の襟元を整えながら言った。


「お茶会とは、ただお茶を飲む場ではございません。お相手への敬意を示し、家同士の縁を結び、言葉にしない気持ちを読み取る場でございます」


「はい、リサ」


「茶器の角度、視線の高さ、沈黙の置き方。すべてが言葉でございます」


「はい」


「ですが、ユリナお嬢様なら大丈夫でございます。王都の宮廷茶会にお出ししても、恥ずかしくないよう、お育てしておりますもの」


 ……今、さらっと、とんでもないことを言わなかっただろうか。


 王都の宮廷茶会。

 つまり、王室級。


 私は、ただの嬢向けマナーだと思っていたのだが。


「リサ。もしかして、わたくしが教わっている礼儀作法は、少し厳しめなのですか?」


「いいえ。少しではございません」


「そこは否定してほしかったですわ」


「ユリナお嬢様はいずれ、ミアお嬢様と共にソーマ家を背負われるお方。どこの茶会に出ても、誰にも軽んじられてはなりません」


 リサは真剣な顔で言った。


「ですから、王室に通じる作法を基準にしております」


「……なるほど」


 どうりで、七歳のころからカップの持ち方だけで何度もやり直しになったわけだ。


 前世三十五歳の会社員だった私にとって、お茶会とは、取引先との打ち合わせに近い。

 笑顔、相槌、相手の話したいことを拾う、余計なことを言わず、でも黙りすぎない。


 つまり、営業である。


 ……違う。たぶん、違う。でも、心構えとしては、だいたい同じだ。


 なお、隣に座るミアは、私の袖をつかんだまま、静かに外を見ていた。


「ミアも、緊張していますの?」


「……お菓子」


「目的が明確ですわね」


「……お茶」


「楽しみですわね」


「……うん」


 ミアはこくりと頷いた。


 今日もミアは、迷いがない。


---


 ディーテ公爵家の庭園は、さすが名門というべき美しさだった。白い石畳、手入れされた薔薇の垣根、噴水の音、そして銀のティースタンドに並ぶ焼き菓子。

 そして、その中央に、金色の髪をきっちり結い上げた少女が立っていた。


 アリアンドラ・ディーテ。


 九歳の姉妹の誓約式の日に、少しだけ会ったことがある。

 あの時は、頬を赤くして、視線を合わせた瞬間に固まっていた、小さな女の子だった。


 けれど、三年経った今の彼女は違った。


 背筋は真っ直ぐ、ドレスの裾は完璧に整えられ、金色のしっぽは身体の後ろできちんと揃えられている。

 表情も、落ち着いていた。いかにも、ディーテ公爵家の令嬢、という立ち姿だった。


 ただし、こちらを見た瞬間、耳だけが、ぴん、と立った。


 ……うん。たぶん、嬉しいのだと思う。


「ごきげんよう、ユリナティーネ様」


 アリアンドラが、完璧な角度で礼をした。


「ごきげんよう、アリアンドラ様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 私も、リサに叩き込まれた通りに礼を返す。その少し後ろで、リサが静かに控えていた。


 ソーマ家のメイドとして。

 ユリナ付きのメイドとして。

 そして、私に礼法を叩き込んだ人として。


 庭園の奥にいたカトリーナ夫人の視線が、まず私に向いた。

 次に、リサへ向いた。


 ほんの一瞬。


 カトリーナ夫人の目が、細くなった。


 値踏みではない。

 警戒でもない。

 たぶん、確認だ。


 ああ、やはりこのメイドが仕込んだのか、と。そういう目だった。


 ……リサ、礼儀作法界で何者なのです?


 前世の会社でいうなら、取引先の重役が、こちらの上司の名前を見ただけで姿勢を正すような空気だった。


 こわい。このお茶会、ただのお茶会ではない。


「ユリナティーネ様」


 アリアンドラが、静かに言った。


「本日は、わたくしと、お茶の作法で勝負していただきますわ」


「……勝負?」


「ええ。わたくし、母に言われておりますの。ユリナティーネ様に勝ちなさい、と」


 金色のしっぽが、ほんの少しだけ揺れた。


「ですから、本日こそ、わたくしが勝ちます」


 ……本日こそ?


 私は首をかしげた。まだ、まともに勝負した覚えがない。


 だが、アリアンドラの瞳は真剣だった。緊張と、期待と、少しの嬉しさが、きれいに混ざった目だった。


 なるほど。


 この子は、勝ちたいのだ。母に認められたいのだ。そして、たぶん、私とちゃんと向き合いたいのだ。


「わかりましたわ」


 私は微笑んだ。


「では、よいお茶会にいたしましょう」


「勝負ですわ」


「ええ。よい勝負にいたしましょう」


 横を見ると、ミアはすでに焼き菓子の皿を見ていた。

 勝負には一切興味がなさそうだった。


---


 最初の勝負は、着席だった。椅子に座り、背筋を伸ばす。手の位置、視線、ドレスの裾を乱さない所作。


 アリアンドラは完璧だった。十二歳とは思えない完成度である。


 私も、リサに何度も叩き込まれている。座る時に音を立てず、動きは小さく、でも萎縮せず、相手に不安を与えない。


 前世の私なら、商談でパイプ椅子に座るだけだった。異世界の令嬢、要求仕様が高すぎる。


「……お上手ですのね」


 アリアンドラが小さく言った。


「リサが教えてくれましたの」


「メイドの方が?」


「ええ。とても厳しく、優しく」


「……そう」


 アリアンドラの目が、少し揺れた。


 同じ頃、ミアは椅子に座っていた。座っていた、というより、そこに存在していた。


 静かに焼き菓子を手に取り、もぐもぐ食べている。紅茶を、ごくごく飲んでいる。

 音は立てない。姿勢も崩れない。ただ、あまりにも自然に、お菓子とお茶を吸収している。


 空気のようだった。


 もぐもぐ。

 ごくごく。

 もぐもぐ。


 その間、勝負の気配はミアの周囲だけ消えていた。


 ……ミア、強い。


「お菓子は、こちらのレモンの焼き菓子がおすすめですわ」


 アリアンドラが言った。


「では、いただきます」


 銀のトングを取り、皿へ移し、大きすぎない一口に分ける。


 アリアンドラが、じっと見ている。


 おそらく、作法を見ている。私は慎重に、でも慎重すぎないように動いた。


 前世の会食で学んだことがある。マナーは、相手を緊張させるためにあるのではない。相手に余計な心配をさせず、会話を楽しむためにある。


 だから、私は焼き菓子を口に運んだあと、少しだけ目を細めた。


「おいしい」


「……っ」


「レモンの香りが、紅茶とよく合いますわね。最初は薔薇の香りがして、あとからレモンが残る感じがします」


「そ、そうですの。そうなるように、料理人と相談して……」


 アリアンドラが言いかけて、はっとした。そして、咳払いをした。


「い、いえ。勝負中ですから、余計なお話はいたしませんわ」


「そうですか。残念です」


「残念?」


「ええ。わたくし、アリアンドラ様がこのお茶をどう選んだのか、もっと聞きたかったですもの」


「……」


 アリアンドラが黙った。耳が赤く、しっぽが椅子の後ろで忙しなく揺れ始めている。


 これは、かなり分かりやすい。


「少しだけなら、話してさしあげてもよろしいですわ」


「ありがとうございます」


「勝負の参考として、ですわ」


「はい。勝負の参考として」


 そうして、アリアンドラは話し始めた。


 庭の薔薇のこと。茶葉の香りのこと。甘い菓子と酸味のある菓子の違い。

 母カトリーナに何度もやり直しを命じられたこと。お客様の年齢や好みに合わせて、お茶の濃さを変えること。


 最初は勝負の説明だった。

 けれど、途中から、ただ楽しそうだった。


 私は相槌を打つ。


「それは大変でしたわね」

「でも、覚えたら面白そうです」

「相手のことを考えて用意するのは、素敵なことですわ」


 アリアンドラの言葉が、少しずつ増えていく。


 勝負のはずだった。でも気がつくと、私たちは普通にお茶を楽しんでいた。


 そしてミアは、いつの間にか、私の隣へ移動していた。


「ミア?」


「……眠い」


 そう言って、ミアは私の膝に、ぽすん、と頭をのせた。

 あまりにも自然だった。まるで、最初からそこに頭を置く予定だったみたいに。


 もぐもぐしていたミアが。ごくごくしていたミアが。空気のように、お茶会の勝負を通り抜けて。

 私の膝で寝た。


 ……なんというか。


 守らねばならない。世界がどうであれ、この寝顔だけは守らねばならない。

 私は、そっとミアの髪に指を通した。


 アリアンドラが、それを見ていた。その目が、少しだけ丸くなる。


「……ミアティーネ様は、いつも、そうなのですか?」


「ええ。眠くなると、だいたいこうですわ」


「……そう」


 アリアンドラは、なぜか少し羨ましそうだった。


---


 庭園の奥で、カトリーナは静かにその様子を見ていた。


 娘の背筋は、崩れていない。

 カップの持ち方も、美しい。

 言葉遣いも、乱れていない。


 けれど。


 勝負には、なっていなかった。アリアンドラは、楽しそうだった。

 あの子が、あんな顔をするのを、カトリーナは久しぶりに見た気がした。


 勝ちなさい、と命じた。ディーテ家の令嬢として、ソーマ家のあの子に並び、いずれ超えなさい、と。


 ユリナティーネ・ソーマ。あの子は不思議だった。

 小さいときのエリオラは、あんな感じだったのかしらと想いを馳せそうになるが、今は作法の話だ。


 作法だけなら、アリアンドラの方が正確かもしれない。茶器の扱い、所作の精密さ、家格にふさわしい振る舞い。

 それらは、ディーテ家で鍛えた娘が劣るはずがない。


 しかし、ユリナティーネの作法には、隙がない。


 過剰ではなく、硬くもなく、相手を圧しない。それでいて、どこに出しても恥ずかしくない。

 王都の宮廷茶会に出しても、問題なく通る。


 カトリーナは、視線だけをリサへ向けた。


 ソーマ家のメイド。ユリナティーネ付きとして控えている女。


 ただのメイドではない。


 礼の角度、歩幅、主の後ろに立つ位置、視線の落とし方。どれをとっても、宮廷礼法を知っている者のそれだった。


 なるほど。ユリナティーネの礼儀は、あのメイドの手によるものか。カトリーナは、扇の陰で静かに息を吐いた。


 リサ。

 あなた、まだそんなところにいたのですね。


 声には出さない。けれど、カトリーナは理解していた。


 礼儀作法という世界に限れば、リサは間違いなく上位の人間だ。少なくとも、娘に教えをつける相手として、侮ってよい存在ではない。


 そしてユリナティーネには、さらに別のものがあった。


 相手を見ている。

 相手が何を話したいのかを、先に拾っている。

 褒める場所を間違えない。

 踏み込みすぎず、離れすぎない。


 十二歳の子供の気遣いではない。


 カトリーナは、膝で眠るミアティーネの頭を自然に撫でながら、アリアンドラの話を聞いているユリナティーネを見た。


 あれは、ただの令嬢教育だけでは届かない。


 アリアンドラは、嬉しそうに笑っている。

 ユリナティーネも、自然に笑っている。

 ミアティーネは、寝ている。


 勝負に来たはずの娘が、相手に心を開いている。


 それは、母としては喜ばしい光景だった。同時に、ディーテ家の母としては、少し苦い光景でもあった。


 このままでは、アリアンドラは届かない。


 あの子の隣に立ちたいなら。

 あの子と肩を並べたいなら。


 もっと磨かなければならない。カトリーナは、静かに紅茶を口に運んだ。


 ……スパルタの量を、少し増やしましょう。


 すべては、あの子の幸せのために。


---


 お茶会が終わる頃、アリアンドラは、どこか誇らしげな顔をしていた。


「本日は、わたくしの勝ちですわね」


「そうなのですか?」


「ええ。だって、わたくしのお茶を、ユリナティーネ様はおいしいと仰いましたもの」


「それは、確かに。とてもおいしかったですわ」


「では、わたくしの勝ちです」


 理屈はよく分からない。けれど、アリアンドラが嬉しそうなので、私は頷いた。


「はい。アリアンドラ様の勝ちですわ」


「……また」


 アリアンドラが、小さく言った。


「また、勝負してさしあげてもよろしくてよ」


「ええ。ぜひ」


 そう答えると、アリアンドラはすぐに顔をそむけた。


 耳が赤く、しっぽが今日一番、正直に揺れていた。


 素直な方だ。


 ……などと言ったら、きっと怒られる。

 私は、リサ仕込みの礼儀と、三十五歳の会社員仕込みの危機察知能力で、黙って微笑むにとどめた。


 膝の上では、ミアがまだ眠っていた。


「……お姉さま……ハムハム……」


 寝言だった。お菓子を食べた上にハムハムしたら、魔力がパンクしてしまいますわ。


 まったく。


 私は、勝負に勝ったのか負けたのか分からないまま、静かにミアの髪を撫でた。


---


 その夜、ディーテ公爵家の一室で、カトリーナは娘を褒めた。


「よくやりました、アリアンドラ。今日のお茶会、あなたの勝ちです」


「本当ですか、お母様」


「ええ。あなたは、ユリナティーネ嬢を楽しませました。お茶会において、それは何より大切なことです」


 アリアンドラの顔が、ぱっと明るくなった。その顔を見て、カトリーナの胸が少し痛んだ。

 もっと甘やかしてやりたい。もっと、この笑顔を守ってやりたい。


 けれど。


 あの子は、ユリナティーネ・ソーマの隣を望むだろう。

 今日、確信した。


 ならば、半端な教育では足りない。


「明日から、教育を一段上げます」


「……え」


「会話の主導権、相手の感情の読み取り、褒め言葉の返し方、沈黙の扱い。今日、あなたに足りないものが分かりました」


「お、お母様?」


「大丈夫です。あなたならできます」


 カトリーナは微笑んだ。娘の幸せのために。娘が、あの眩しい少女の隣で、胸を張って立てるように。


「アリアンドラ。あなたは、もっと美しくなれます。もっと強くなれます。もっと、あの方と肩を並べられる令嬢になれます」


 アリアンドラは、少しだけ怯えた顔をした。けれど、その奥に、確かな光もあった。


「……はい、お母様」


 カトリーナは満足げに頷いた。

 こうして、アリアンドラ・ディーテの淑女教育は、翌日からさらに厳しくなった。


 なお、その原因が、ただ楽しくお茶を飲み、妹の寝顔を守っていただけのユリナティーネにあることを、ユリナ本人はまったく知らなかった。


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