表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/33

第6話 百合の姫様がいらっしゃる!

 ソーマ家のメイド、リサには信念があった。


 エリオラ様を崇拝すること。エリオラ様の娘たちに、誠心誠意お仕えすること。そして、エリオラ様に、娘たちの成長を余さず報告すること。


 リサは今日も、元気に手紙を書いていた。


『エリオラ様。本日も、ユリナティーネ様の剣の舞は、たいへん気高く――』


 そこまで書いて、リサはうっとりと目を細めた。


 剣の舞事件から、三年。ユリナお嬢様とミアお嬢様は、十歳になられた。姉妹の誓約を交わされたお二人は、ますます仲睦まじい。


 そしてユリナお嬢様は、今日もミアお嬢様のために木剣を振っておられる。姫でありながら、愛する妹のために剣を取る。


 なんと尊い。なんと美しい。なんと、百合の姫様。


 リサは胸元で手を組んだ。


 この尊さを、どう書けばエリオラ様に正しく伝えられるだろう。


 あぁ、便箋が足りない……「サリナー、サリナー、便箋買に行きましょう、サリナ―……」


---


 剣の舞事件から三年が経った。


 あれ以来、屋敷ぐるみで「百合の姫様の御修行」と呼ばれるようになった私の素振りは、すっかり朝の風景になっていた。


 私、ユリナティーネ・ソーマ、十歳。


 七歳の春に物置で見つけた木の棒は、いつの間にか稽古用の木剣に変わっていた。


 リサが「お嬢様にふさわしい一本を」と用意してくれたものだ。


 名目は、剣の舞。実態は、ただの素振り。


 この三年間、私は何度も訂正しようとした。


 何度も、これは剣の舞ではなく、ミアを守るための鍛錬ですわ、と説明しようとした。


 だが、リサには届かなかった。


 リサの中では、私とミアは「姉妹の誓約で結ばれた百合の姫様」であり、私の素振りは「ミアに捧げる神聖な舞」らしい。


 正しくは、姉妹の誓約。百合の契約ではない。


 姉妹の誓約は実の姉妹が、家族として一生寄り添うと女神に誓う制度だ。


 一方で、百合の契約は、他家の姫同士が一生寄り添うと宣言するもの。


 その線引きは、大事である。大事なのだが。


 リサの中では、すべてが「尊い」の一言で溶けてなくなっているらしかった。


「……ふっ」


 木剣を振る。


 前世の記憶に、剣道の心得などなく、格好いい型もない。


 ただ、振る。ただ、続ける。ただ、ミアを守れる自分になるために。


「……ふっ」


 十歳の身体には、まだ力が足りない。


 それでも、三年振り続けた分だけ、腕も、足も、息の使い方も、少しずつ変わっていた。


 離れの稽古場の入口では、リサが今日も茶色の猫耳をぴょこぴょこさせながら、エプロンの裾を握りしめて見守っている。


 たぶん、あの顔は、今日の手紙に書く文章を考えている顔だ。


 もう、諦めている。


 名目が何であれ、強くなることは悪いことではない。ミアを守るためにも、鍛えておくに越したことはない。


 屋敷中が「剣の舞」と呼ぼうと、リサが「百合の姫様の御修行」と呼ぼうと、私が木剣を振り続ける限り、私は少しずつ強くなる。


 それでいい。


 漢として、そこだけは揺るがない。


---


 その月の終わり、ソーマ家に思わぬ来客があった。


 名を、ロウェナ・グランドマーシャ。


 アッティーネ様の旧友にして、暗影厄災を八度くぐり抜けた英雄騎士。


 白髪交じりの髪を後ろで一本に束ね、右目に古い傷を持つ、年配の女騎士だった。


 灰色の猫耳の左先端は、古い切り傷で少し欠けている。


 灰色のしっぽは、戦士特有の鋭さを帯びていて、無駄に揺れない。


 ただ立っているだけで、空気が少し重くなる人だった。


「ほう。これが、アッティーネの娘か」


 玄関で対面した瞬間、ロウェナ様は私をまじまじと見た。


 私は礼を取った。


「ユリナティーネ・ソーマですわ。お目にかかれて光栄です」


「噂は聞いている。剣の舞をやっておるとな」


「……はい、まあ」


 否定しきれない。


 正確には素振りだが、屋敷ではもうそういうことになっている。


 横から、リサが目を輝かせて一歩前へ出た。


「はい、ロウェナ様! ユリナお嬢様は、ミアお嬢様への深き御心を、剣の舞としてお示しになっておられまして――」


「リサ」


 アッティーネ様が静かに止めた。


「客人に、余計な情報を渡すな」


「余計ではございません! ユリナお嬢様の尊き御修行でございます!」


 ロウェナ様が、面白そうに笑った。


「いいだろう。見せてみろ、ユリナティーネ嬢」


「……はい」


 断る理由はなかった。いや、少しある。


 相手は本物の英雄騎士だ。その前で、私の素人素振りを見せる。正直、かなり恥ずかしい。


 だが、ここで逃げたら、漢が廃る。


---


 離れの稽古場に案内し、私はいつもの木剣を手に取った。


 ロウェナ様が、少し離れた場所に立つ。アッティーネ様は腕を組んで見ていた。リサは、祈るように手を組んでいる。私は息を吸った。


「……ふっ」


 木剣を振る。いつもの素振り。


 けれど、本物の騎士の目があるだけで、手のひらが汗ばんだ。


「……ふっ」


 ロウェナ様の目は、静かだった。表情はほとんど変わらない。何を考えているのか分からない。


 五分ほど振ったところで、ロウェナ様が口を開いた。


「リサ殿」


「は、はい」


「これは、姫の演舞ではない」


 リサの耳が、ぴたりと止まった。


「……はい?」


「これは、ただの素振りだ」


 リサのしっぽが、ぶわっと膨らんだ。


「た、ただの……?」


「型は無い。構えも素人。剣筋も粗い」


 私は少しだけ肩を落とした。分かっていた。分かっていたけれど、本物に言われると痛い。


 ロウェナ様は、そこで言葉を切った。


「ただし」


 その目が、私を射抜いた。


「軸がぶれていない。意志が乗っている。誰かを守るために振る剣だ」


 息が止まった。


 ロウェナ様の灰色のしっぽが、ぴくりと一度だけ動く。


「守るための剣だ。そこだけは、本物だ」


 胸の奥が、熱くなった。


 剣の舞でもなく、演舞でもなく、ただの素振り。


 それでも。


 守るための剣、そう言われた。


「素質は、ある」


 ロウェナ様は、短く告げた。


 それは、リサの賛美とは違った。メイドたちの拍手とも違った。


 初めて、本物の騎士から投げかけられた評価だった。


「ロウェナ様」


「うん?」


「わたくしは、騎士になりたいのです」


 言葉は、自然に出た。


 ロウェナ様は、しばらく私を見ていた。


「アッティーネに似ているな、目が」


「……お父さまに?」


「いや。母御だ。エリオラ殿の剣だ」


 私は瞬いた。お母さま。エリオラ様の剣。エリオラ様は姫のはずだ。


 でも、ロウェナ様の言い方は、まるでエリオラ様の剣を振る姿を知っているようだった。


「面白い」


 ロウェナ様が、にっと笑った。


「では、退役の老人の暇つぶしとして、お前の稽古を見てやろう。週に一度、屋敷に通う」


「よろしいのですか?」


「アッティーネが許せばな」


 アッティーネ様は、肩をすくめた。


「ロウェナが本気になった以上、止めるのは無理だろう」


「では、決まりだな」


 ロウェナ様が、私の肩を軽く叩いた。


 軽く触れただけのはずなのに、肩がずしりと重くなった気がした。


 これが、本物の騎士の手。


 私は、深く頭を下げた。


「よろしくお願いいたしますわ、ロウェナ様」


 リサが背後で、複雑な顔をしていた。


「あの、アッティーネ様。今日のことは、エリオラ様にどうご報告すれば……」


「姫の演舞のお師匠様が見つかった、とでも書いておけ」


 アッティーネ様の答えは静かだった。


 ロウェナ様が、笑いを噛み殺した。


「アッティーネ。それは、ずるいぞ」


「お前も乗れ」


「ふん」


 二人の英雄騎士が、互いに軽く笑った。


 リサは、ぱあっと顔を輝かせた。


「演舞のお師匠様……! なんと素晴らしい響きでございましょう!」


 訂正は、もう、誰もしなかった。私もしなかった。強くなれるなら、今はそれでいい。


---


 その光景を、稽古場の入口の陰から、若いメイドがこっそり覗いていた。


 茶色の髪をセミロングにまとめた、平民出身の少女。


 メイド見習いのハナである。


 貴族の制度にも、ソーマ家の誤解文化にも、まだあまり慣れていない。


「お嬢様の素振り、姫の演舞……? 騎士の稽古……? 同じもの、ですの……?」


 茶色の猫耳が、困惑で力なく垂れた。


「お姫様の世界、難しすぎますの……」


 漢として、ハナの素朴な困惑が、唯一の救いに見えた。


 (うん、ハナ。その感覚は正しい)


 (たぶん、この屋敷の方がおかしい)


 目でそう伝えた。


 ハナは、ぱちぱちと瞬きをして、そっとぺこりとお辞儀をした。


 そして、台所へ戻っていった。


 たぶん何も伝わっていない。


---


 その日から、私の稽古は本格的なものになった。


 名目は、相変わらず「百合の姫様の御修行」。


 リサの手紙では、「姫の演舞は日に日に美しさを増しております」と書かれているらしい。


 だが、実態は違う。


 毎週、ロウェナ様が屋敷に来た。


 型を教え、足の運びを教え、間合いを教え、視線の使い方を教える。


 木剣を握る手の力まで、細かく直される。


 そして、稽古の合間に、ロウェナ様はよく言った。


「強くなりたい理由を、忘れるな」


 その言葉は、短い。けれど、重かった。私は、そのたびに頷いた。ミアを守る。その一点だけは、何があっても揺るがない。


「もう一度」


「はい」


「足が遅い」


「はい」


「目線を落とすな。守りたい相手は、足元にはいない」


「……はい」


 きつい。かなり、きつい。けれど、嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が静かに燃えていた。


 強くなれる。


 そう思えるだけで、木剣の重さが少しだけ頼もしく感じられた。


---


 なお、ロウェナ様の稽古には、いつも、ひとりの観察者がいた。


「うわー、ロウェナさん厳しい! お姉ちゃん、もう汗だくだよ!」


 稽古場の天井の梁に座って、足をぱたぱた揺らしながら、ベル・ロウが実況している。


 手のひらサイズの妖精である。蝶のような四枚羽根。銀髪のボブ。淡い金色の瞳。


 女神ティア様から派遣された観察役。基本的に、私とミア以外には見えない。ロウェナ様にも、リサにも見えない。


「お姉ちゃん、足が乱れてるよ! あ、ロウェナさんも今それ言った! すごい、ベルとロウェナさん、見るとこ同じ!」


「ベル、うるさいですわ。集中させなさい」


 小さく、独り言のように答えた。


 ロウェナ様が、不思議そうに私を見る。


「ユリナティーネ嬢。誰と話している」


「あ、いえ。独り言です」


「ふむ」


 ロウェナ様は、深くは追及しなかった。


 その代わり、稽古が少しだけ厳しくなった。


「集中の乱れだ。立て直せ」


「は、はい」


 梁の上のベルが慌てて、両手で口を塞いだ。


「ベルのせい!? ごめんね!」


 ……あなたのせいですわ。


 心の中だけで答えた。


 ベルはしょんぼりして、しばらく黙った。しばらく黙って。また、ぱたぱたと足を揺らし始めた。


 まあ、そういう子だと、気にしないことにした。


---


 稽古が終わると、リサがお茶を持って入ってきた。


 ベルが、また飛び立つ。


「リサさーん! お疲れさま! お茶ありがとう――あ、聞こえてないんだった!」


 ベルは何度試しても、人間に声が届かないことを、いまだに毎回確認しなおしていた。


 律儀である。律儀すぎる。


「ユリナティーネ様、本日もお美しい舞でいらっしゃいました」


 リサは、相変わらずだった。


 ロウェナ様に「ただの素振り」と断言されても、アッティーネ様に「演舞のお師匠様」と逃がされても、リサの信念は揺らがない。


 ベルが、リサの周りをぴょんぴょん飛びながら、必死に訂正を試みる。


「リサさん! 舞じゃない! 騎士の鍛錬! ロウェナさんもただの素振りって言った! ねえ聞いて――」


 届かなかった。届かないのだから、もうやめなさい。視線でそう伝えた。


 ベルは、しゅんとして私の肩に降りてきた。


「お姉ちゃん、ベル、いつになったら、リサさんに認知してもらえるかな……」


「諦めなさい」


「えっ」


「これは、もう無理ですわ」


「……えーっ」


 ベルが抗議の声を上げた。


 けれど、ロウェナ様も、アッティーネ様も、私も、もう訂正を諦めている。


 妖精ひとりの努力で覆せる段階ではなかった。


---


 稽古で、身体がしっかり疲れた夜のことだった。


 ミアが、いつものようにハムハムをしていた。


 私の首筋に小さな歯を当てて、少しずつ魔力を吸っている。


 十歳になっても、ミアのハムハムは続いている。


 むしろ、少しずつ必要な量が増えている気がした。


 それでも、ミアが落ち着いて眠れるなら、それでいい。


 私は、ベッドに横になったまま、ミアの背中をそっと撫でていた。


 窓のカーテンを少し開けたまま眠ったせいだろうか。


 月光がベッドの上に、銀色の帯のように差し込んでいた。


 その帯が、ミアの髪にかかった、その瞬間。


 ぞくり、とした。


 月光に染まったミアの髪が、いつもよりも深く、黒く、艶やかに輝いた。


 まるで、夜空そのものを髪に閉じ込めたような。その黒の中に、星が宿っているような。


 息を止めた。


 ミアは目を閉じたまま、ハムハムを続けている。


 月光に照らされた、私の妹。黒く、深く、艶やかな髪。


 閉じた瞼の下で、赤い瞳が夢を見ている気がした。


 ……可憐だ。漢として、私は本気でそう思った。


 守りたい。この子の眠りを。この子の夜を。この子が、何も怖がらずに朝を迎えられる時間を。


 梁の上で寝ていたはずのベルが、薄目を開けた。


 ふわっ、とこちらを見る。


「お姉ちゃん……ベルにも、見えるよ……ミアちゃんの、月の色……」


 ベルの声は、半分寝言だった。


 私は瞬いた。月の色。それは、どういう意味だろう。


 月光のおかげで、ミアの黒髪がいつもより艶めいて見える、ということだろうか。


 ベルは、それ以上何も言わなかった。すぐに、寝息に戻った。


 私は、ミアの髪のひと房を、そっと指で整えた。艶やかな黒の感触が、指に残る。


 ミア。


 お姉ちゃんが、いちばん近くで見ていますわ。心の中で、そう囁いた。


 その日、ロウェナ様の言葉が、何度も胸の中で響いていた。


 強くなりたい理由を、忘れるな。


 忘れない。忘れるはずがない。


 月光が、静かに二人を包んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ