第6話 百合の姫様がいらっしゃる!
ソーマ家のメイド、リサには信念があった。
エリオラ様を崇拝すること。エリオラ様の娘たちに、誠心誠意お仕えすること。そして、エリオラ様に、娘たちの成長を余さず報告すること。
リサは今日も、元気に手紙を書いていた。
『エリオラ様。本日も、ユリナティーネ様の剣の舞は、たいへん気高く――』
そこまで書いて、リサはうっとりと目を細めた。
剣の舞事件から、三年。ユリナお嬢様とミアお嬢様は、十歳になられた。姉妹の誓約を交わされたお二人は、ますます仲睦まじい。
そしてユリナお嬢様は、今日もミアお嬢様のために木剣を振っておられる。姫でありながら、愛する妹のために剣を取る。
なんと尊い。なんと美しい。なんと、百合の姫様。
リサは胸元で手を組んだ。
この尊さを、どう書けばエリオラ様に正しく伝えられるだろう。
あぁ、便箋が足りない……「サリナー、サリナー、便箋買に行きましょう、サリナ―……」
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剣の舞事件から三年が経った。
あれ以来、屋敷ぐるみで「百合の姫様の御修行」と呼ばれるようになった私の素振りは、すっかり朝の風景になっていた。
私、ユリナティーネ・ソーマ、十歳。
七歳の春に物置で見つけた木の棒は、いつの間にか稽古用の木剣に変わっていた。
リサが「お嬢様にふさわしい一本を」と用意してくれたものだ。
名目は、剣の舞。実態は、ただの素振り。
この三年間、私は何度も訂正しようとした。
何度も、これは剣の舞ではなく、ミアを守るための鍛錬ですわ、と説明しようとした。
だが、リサには届かなかった。
リサの中では、私とミアは「姉妹の誓約で結ばれた百合の姫様」であり、私の素振りは「ミアに捧げる神聖な舞」らしい。
正しくは、姉妹の誓約。百合の契約ではない。
姉妹の誓約は実の姉妹が、家族として一生寄り添うと女神に誓う制度だ。
一方で、百合の契約は、他家の姫同士が一生寄り添うと宣言するもの。
その線引きは、大事である。大事なのだが。
リサの中では、すべてが「尊い」の一言で溶けてなくなっているらしかった。
「……ふっ」
木剣を振る。
前世の記憶に、剣道の心得などなく、格好いい型もない。
ただ、振る。ただ、続ける。ただ、ミアを守れる自分になるために。
「……ふっ」
十歳の身体には、まだ力が足りない。
それでも、三年振り続けた分だけ、腕も、足も、息の使い方も、少しずつ変わっていた。
離れの稽古場の入口では、リサが今日も茶色の猫耳をぴょこぴょこさせながら、エプロンの裾を握りしめて見守っている。
たぶん、あの顔は、今日の手紙に書く文章を考えている顔だ。
もう、諦めている。
名目が何であれ、強くなることは悪いことではない。ミアを守るためにも、鍛えておくに越したことはない。
屋敷中が「剣の舞」と呼ぼうと、リサが「百合の姫様の御修行」と呼ぼうと、私が木剣を振り続ける限り、私は少しずつ強くなる。
それでいい。
漢として、そこだけは揺るがない。
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その月の終わり、ソーマ家に思わぬ来客があった。
名を、ロウェナ・グランドマーシャ。
アッティーネ様の旧友にして、暗影厄災を八度くぐり抜けた英雄騎士。
白髪交じりの髪を後ろで一本に束ね、右目に古い傷を持つ、年配の女騎士だった。
灰色の猫耳の左先端は、古い切り傷で少し欠けている。
灰色のしっぽは、戦士特有の鋭さを帯びていて、無駄に揺れない。
ただ立っているだけで、空気が少し重くなる人だった。
「ほう。これが、アッティーネの娘か」
玄関で対面した瞬間、ロウェナ様は私をまじまじと見た。
私は礼を取った。
「ユリナティーネ・ソーマですわ。お目にかかれて光栄です」
「噂は聞いている。剣の舞をやっておるとな」
「……はい、まあ」
否定しきれない。
正確には素振りだが、屋敷ではもうそういうことになっている。
横から、リサが目を輝かせて一歩前へ出た。
「はい、ロウェナ様! ユリナお嬢様は、ミアお嬢様への深き御心を、剣の舞としてお示しになっておられまして――」
「リサ」
アッティーネ様が静かに止めた。
「客人に、余計な情報を渡すな」
「余計ではございません! ユリナお嬢様の尊き御修行でございます!」
ロウェナ様が、面白そうに笑った。
「いいだろう。見せてみろ、ユリナティーネ嬢」
「……はい」
断る理由はなかった。いや、少しある。
相手は本物の英雄騎士だ。その前で、私の素人素振りを見せる。正直、かなり恥ずかしい。
だが、ここで逃げたら、漢が廃る。
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離れの稽古場に案内し、私はいつもの木剣を手に取った。
ロウェナ様が、少し離れた場所に立つ。アッティーネ様は腕を組んで見ていた。リサは、祈るように手を組んでいる。私は息を吸った。
「……ふっ」
木剣を振る。いつもの素振り。
けれど、本物の騎士の目があるだけで、手のひらが汗ばんだ。
「……ふっ」
ロウェナ様の目は、静かだった。表情はほとんど変わらない。何を考えているのか分からない。
五分ほど振ったところで、ロウェナ様が口を開いた。
「リサ殿」
「は、はい」
「これは、姫の演舞ではない」
リサの耳が、ぴたりと止まった。
「……はい?」
「これは、ただの素振りだ」
リサのしっぽが、ぶわっと膨らんだ。
「た、ただの……?」
「型は無い。構えも素人。剣筋も粗い」
私は少しだけ肩を落とした。分かっていた。分かっていたけれど、本物に言われると痛い。
ロウェナ様は、そこで言葉を切った。
「ただし」
その目が、私を射抜いた。
「軸がぶれていない。意志が乗っている。誰かを守るために振る剣だ」
息が止まった。
ロウェナ様の灰色のしっぽが、ぴくりと一度だけ動く。
「守るための剣だ。そこだけは、本物だ」
胸の奥が、熱くなった。
剣の舞でもなく、演舞でもなく、ただの素振り。
それでも。
守るための剣、そう言われた。
「素質は、ある」
ロウェナ様は、短く告げた。
それは、リサの賛美とは違った。メイドたちの拍手とも違った。
初めて、本物の騎士から投げかけられた評価だった。
「ロウェナ様」
「うん?」
「わたくしは、騎士になりたいのです」
言葉は、自然に出た。
ロウェナ様は、しばらく私を見ていた。
「アッティーネに似ているな、目が」
「……お父さまに?」
「いや。母御だ。エリオラ殿の剣だ」
私は瞬いた。お母さま。エリオラ様の剣。エリオラ様は姫のはずだ。
でも、ロウェナ様の言い方は、まるでエリオラ様の剣を振る姿を知っているようだった。
「面白い」
ロウェナ様が、にっと笑った。
「では、退役の老人の暇つぶしとして、お前の稽古を見てやろう。週に一度、屋敷に通う」
「よろしいのですか?」
「アッティーネが許せばな」
アッティーネ様は、肩をすくめた。
「ロウェナが本気になった以上、止めるのは無理だろう」
「では、決まりだな」
ロウェナ様が、私の肩を軽く叩いた。
軽く触れただけのはずなのに、肩がずしりと重くなった気がした。
これが、本物の騎士の手。
私は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたしますわ、ロウェナ様」
リサが背後で、複雑な顔をしていた。
「あの、アッティーネ様。今日のことは、エリオラ様にどうご報告すれば……」
「姫の演舞のお師匠様が見つかった、とでも書いておけ」
アッティーネ様の答えは静かだった。
ロウェナ様が、笑いを噛み殺した。
「アッティーネ。それは、ずるいぞ」
「お前も乗れ」
「ふん」
二人の英雄騎士が、互いに軽く笑った。
リサは、ぱあっと顔を輝かせた。
「演舞のお師匠様……! なんと素晴らしい響きでございましょう!」
訂正は、もう、誰もしなかった。私もしなかった。強くなれるなら、今はそれでいい。
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その光景を、稽古場の入口の陰から、若いメイドがこっそり覗いていた。
茶色の髪をセミロングにまとめた、平民出身の少女。
メイド見習いのハナである。
貴族の制度にも、ソーマ家の誤解文化にも、まだあまり慣れていない。
「お嬢様の素振り、姫の演舞……? 騎士の稽古……? 同じもの、ですの……?」
茶色の猫耳が、困惑で力なく垂れた。
「お姫様の世界、難しすぎますの……」
漢として、ハナの素朴な困惑が、唯一の救いに見えた。
(うん、ハナ。その感覚は正しい)
(たぶん、この屋敷の方がおかしい)
目でそう伝えた。
ハナは、ぱちぱちと瞬きをして、そっとぺこりとお辞儀をした。
そして、台所へ戻っていった。
たぶん何も伝わっていない。
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その日から、私の稽古は本格的なものになった。
名目は、相変わらず「百合の姫様の御修行」。
リサの手紙では、「姫の演舞は日に日に美しさを増しております」と書かれているらしい。
だが、実態は違う。
毎週、ロウェナ様が屋敷に来た。
型を教え、足の運びを教え、間合いを教え、視線の使い方を教える。
木剣を握る手の力まで、細かく直される。
そして、稽古の合間に、ロウェナ様はよく言った。
「強くなりたい理由を、忘れるな」
その言葉は、短い。けれど、重かった。私は、そのたびに頷いた。ミアを守る。その一点だけは、何があっても揺るがない。
「もう一度」
「はい」
「足が遅い」
「はい」
「目線を落とすな。守りたい相手は、足元にはいない」
「……はい」
きつい。かなり、きつい。けれど、嫌ではなかった。むしろ、胸の奥が静かに燃えていた。
強くなれる。
そう思えるだけで、木剣の重さが少しだけ頼もしく感じられた。
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なお、ロウェナ様の稽古には、いつも、ひとりの観察者がいた。
「うわー、ロウェナさん厳しい! お姉ちゃん、もう汗だくだよ!」
稽古場の天井の梁に座って、足をぱたぱた揺らしながら、ベル・ロウが実況している。
手のひらサイズの妖精である。蝶のような四枚羽根。銀髪のボブ。淡い金色の瞳。
女神ティア様から派遣された観察役。基本的に、私とミア以外には見えない。ロウェナ様にも、リサにも見えない。
「お姉ちゃん、足が乱れてるよ! あ、ロウェナさんも今それ言った! すごい、ベルとロウェナさん、見るとこ同じ!」
「ベル、うるさいですわ。集中させなさい」
小さく、独り言のように答えた。
ロウェナ様が、不思議そうに私を見る。
「ユリナティーネ嬢。誰と話している」
「あ、いえ。独り言です」
「ふむ」
ロウェナ様は、深くは追及しなかった。
その代わり、稽古が少しだけ厳しくなった。
「集中の乱れだ。立て直せ」
「は、はい」
梁の上のベルが慌てて、両手で口を塞いだ。
「ベルのせい!? ごめんね!」
……あなたのせいですわ。
心の中だけで答えた。
ベルはしょんぼりして、しばらく黙った。しばらく黙って。また、ぱたぱたと足を揺らし始めた。
まあ、そういう子だと、気にしないことにした。
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稽古が終わると、リサがお茶を持って入ってきた。
ベルが、また飛び立つ。
「リサさーん! お疲れさま! お茶ありがとう――あ、聞こえてないんだった!」
ベルは何度試しても、人間に声が届かないことを、いまだに毎回確認しなおしていた。
律儀である。律儀すぎる。
「ユリナティーネ様、本日もお美しい舞でいらっしゃいました」
リサは、相変わらずだった。
ロウェナ様に「ただの素振り」と断言されても、アッティーネ様に「演舞のお師匠様」と逃がされても、リサの信念は揺らがない。
ベルが、リサの周りをぴょんぴょん飛びながら、必死に訂正を試みる。
「リサさん! 舞じゃない! 騎士の鍛錬! ロウェナさんもただの素振りって言った! ねえ聞いて――」
届かなかった。届かないのだから、もうやめなさい。視線でそう伝えた。
ベルは、しゅんとして私の肩に降りてきた。
「お姉ちゃん、ベル、いつになったら、リサさんに認知してもらえるかな……」
「諦めなさい」
「えっ」
「これは、もう無理ですわ」
「……えーっ」
ベルが抗議の声を上げた。
けれど、ロウェナ様も、アッティーネ様も、私も、もう訂正を諦めている。
妖精ひとりの努力で覆せる段階ではなかった。
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稽古で、身体がしっかり疲れた夜のことだった。
ミアが、いつものようにハムハムをしていた。
私の首筋に小さな歯を当てて、少しずつ魔力を吸っている。
十歳になっても、ミアのハムハムは続いている。
むしろ、少しずつ必要な量が増えている気がした。
それでも、ミアが落ち着いて眠れるなら、それでいい。
私は、ベッドに横になったまま、ミアの背中をそっと撫でていた。
窓のカーテンを少し開けたまま眠ったせいだろうか。
月光がベッドの上に、銀色の帯のように差し込んでいた。
その帯が、ミアの髪にかかった、その瞬間。
ぞくり、とした。
月光に染まったミアの髪が、いつもよりも深く、黒く、艶やかに輝いた。
まるで、夜空そのものを髪に閉じ込めたような。その黒の中に、星が宿っているような。
息を止めた。
ミアは目を閉じたまま、ハムハムを続けている。
月光に照らされた、私の妹。黒く、深く、艶やかな髪。
閉じた瞼の下で、赤い瞳が夢を見ている気がした。
……可憐だ。漢として、私は本気でそう思った。
守りたい。この子の眠りを。この子の夜を。この子が、何も怖がらずに朝を迎えられる時間を。
梁の上で寝ていたはずのベルが、薄目を開けた。
ふわっ、とこちらを見る。
「お姉ちゃん……ベルにも、見えるよ……ミアちゃんの、月の色……」
ベルの声は、半分寝言だった。
私は瞬いた。月の色。それは、どういう意味だろう。
月光のおかげで、ミアの黒髪がいつもより艶めいて見える、ということだろうか。
ベルは、それ以上何も言わなかった。すぐに、寝息に戻った。
私は、ミアの髪のひと房を、そっと指で整えた。艶やかな黒の感触が、指に残る。
ミア。
お姉ちゃんが、いちばん近くで見ていますわ。心の中で、そう囁いた。
その日、ロウェナ様の言葉が、何度も胸の中で響いていた。
強くなりたい理由を、忘れるな。
忘れない。忘れるはずがない。
月光が、静かに二人を包んでいた。




