8. 許されざる者の名は
目で追うのさえ難しいスピードで、ヘルハウンドのボギーは崖の斜面を駆け上がった。優雅な仕種で演奏を続けているウィルへとまっしぐら。
だが、獰猛なモンスターの突進にも気づいていないかのように、ウィルはその場から動こうとしなかった。
「グオォォォォォッ!」
今度こそボギーの牙がウィルを噛み砕こうとした刹那、誰もが自分の目撃した光景を幻かと疑った。
間違いなく崖の上に立っていたはずなのに、気がつくとウィルの姿がなかったせいだ。これまでと同じく、ボギーの攻撃を躱したわけではない。無意識に目を擦りたくなるほど、まるで蜃気楼のように消えてしまった。
獲物である吟遊詩人を見失ったのは、猟犬であるボギーも同様だった。苛立ちを募らせた唸りを発し、太い首を忙しなく動かしながら姿を捜す。
そのとき、どれだけの者たちが気づけたであろうか。ウィルが姿を消したのと同時に、彼の弾いていた旋律がふつりと途切れていたことに。
「うわぁ!」
突然、まったく警戒していなかった背後から悲鳴が聞こえ、ヘルムカは血相を変えて振り返った。その目が驚愕に見開かれる。
「ば、バカな……」
ルンを人質に取っていたはずの兵が馬上から落とされ、その代わりに跨っていたのは姿をくらませていた黒衣の吟遊詩人ウィルであった。
神出鬼没。たった今、崖の上にいたのではなかったか。
「ウィル……」
いつの間にか抱きすくめられるような格好になったルンは、陶然とした表情で後ろを振り仰ぎ、夢見心地の様子で名を呟いた。
ウィルは微笑みこそ見せなかったものの、優しげな目を囚われの身であったルンに投げかける。
「痛い目に遭わされなかったか?」
ルンは頬を赤らめながら、コクンとうなずいた。ウィルの顔が息もかかりそうなくらいの至近距離にある、と意識した途端、もう言葉にならない。
「ど、どうやって……!?」
ヘルムカは問わずにいられなかった。目の前にいる美しき青年が、あたかも自在に現れては消える幽霊か物の怪のように思える。
ウィルは背後からルンへ抱かせるように伝説の《銀の竪琴》を託すと、静かに言い放つ。
「お前たちはオレの曲を聴いた。“幻影” ――をな」
美しき吟遊詩人が奏でた曲を聴いた瞬間から、ヘルムカたちは幻を見せられていたのである。それこそ、《銀の竪琴》ならではの魔法効果を持つ演奏──“魔奏曲” であった。
「き、貴様……い、一体、何者だ?」
不可思議な能力を前にして、剣と剣との戦場で今の地位まで昇り詰めたヘルムカは、恐怖に顔を引きつらせながら口にした。急速に体温が下がったかのような悪寒さえを覚える。
ウィルは答えた。
「ただの吟遊詩人だ」
――とだけ。
「ガルルルルル、グァアアアアアッ!」
主であるヘルムカの戦意が挫けかけても、ボギーの燃えるような闘争本能は消えていなかった。身を躍らせるように斜面を駆け降り、ウィルへと再び牙を向ける。相手が誰であろうと、魔犬の眼に映るものはすべて屠るべき獲物なのだ。
「ここで待っていろ」
ウィルは、まるで恋人に愛でも囁くかのようにルンへ耳打ちし、大切な《銀の竪琴》を彼女に預けた。そして軽やかな身のこなしで、襲いかかるヘルハウンドへと跳躍する。
旅装束のマントが、まるで漆黒の翼であるかのように広がった。
だが、先程の 爆裂火球 の直撃でさえも持ち堪えた魔犬ヘルハウンドだ。ウィルに必勝の一手はあるのか。
まるで重力など関係ないかのように空中に長くいるウィルは、腰のベルトに吊してあった護身用と思しき 短剣 に手を伸ばす。獰猛な魔獣相手では明らかに貧弱な武器としか思えない。
だが──
「おおおおおっ――!?」
ウィルが 短剣 を抜いた刹那、眩い光が周囲に満ちた。それこそ 短剣 の刀身自体が放つ光であると、その場に居合わせた何人が気づいたであろうか。
伝説に謳われる《光の短剣》。
その光はボギーの眼を眩ませた。
対して《光の短剣》は魔犬の牙を正確無比に捉える。
夜の帳が下りた空に迸る鮮烈な閃光。
ウィルとボギーは空中で交錯した。その瞬間が一枚の絵画として切り取られたかのように克明に見える。そのとき本当に時が止まったのではないか、と誰もが錯覚したはずだ。
ボギーの凶器である牙と首輪のスパイクは、ウィルのマントを掠めたのみ。
一方、美しき吟遊詩人が手にした《光の短剣》は──
重々しい地響きに似た音が轟いた。ボギーの巨体が地面に横たわる。その口から首、それから腹部へかけて、ほぼ一直線に斬り裂かれていた。
ほんの一瞬でしかなかった死闘の幕切れに、誰もが声を失った。誰が魔犬ヘルハウンドを一撃で斃す吟遊詩人がいると信じられよう。
悠然と立ちすくむウィル。動かぬ骸となった魔獣を振り返る氷の美貌は、まさしく魔人のそれであった。
ヘルムカも、その部下たちも、そしてルンですら慄然としている中、魔犬を仕留めた《光の短剣》を鞘に収めたウィルは、何を思ってか、死したヘルハウンドに近づいた。手を伸ばし、首ごと斬り裂いたヘルハウンドの巨大な首輪を調べる。
どうやら首輪の断面は空洞になっているようだった。ウィルはボギーに一太刀を浴びせたときの手応えで気づいたのだろう。そして、違和感を持った。
首輪を傾けると、切断面からウィルの手へ、何かが滑り落ちてきた。見れば小さく折り畳まれた紙片のようだ。黒衣の吟遊詩人はそれを広げてみた。
「そ、それは――!」
ヘルムカは青くなってウィルを止めようとしたが、すでに手遅れだ。
サッと目を通したウィルは、首輪から発見された紙を彼の部下たちに見せた。細かな文字や図のようなものが記されている。
「実に巧妙な隠し場所だな。ヘルハウンドの首輪の中なら、誰も調べはしないというわけか。──お前たちがここまで足を運び、探していた証拠だ。セルモアの地下遺跡の見取り図と、その調査内容……決定的だな」
「き、貴様……なぜセルモアの遺跡のことまで知っている?」
それはカルルマン王子とその側近であるダバトス将軍、あとはごく僅かな者たちしか知らぬ極秘情報のはずだった。
「ひと月ほど前、そのセルモアに滞在していたからな。──カルルマン殿下によろしく伝えておいてくれ。オレの名を出せば、誰のことか思い出すはずだ」
そう言ってウィルは、ダクダバッド共和国に渡る寸前だった機密文書をヘルムカの部下の一人に預けた。
彼が言うように、一月ほど前、セルモアの地下で先史魔法王国時代の遺跡が発見された。数多ある遺跡とは違い、まだ誰にも踏み荒らされていないため、その学術的価値と保存された魔法の品々はブリトン王国に多大な利益をもたらすだろう。
もし他国がその存在を知れば、遺跡の秘密を狙って工作員を送り込んで来たり、場合によっては強大な力を手にしようと、戦を仕掛けて来る可能性も充分に考えられた。
まさか、その遺跡を巡って巻き起こった一連の事件に、この美麗の吟遊詩人が関わっていたことなど、ヘルムカが知る由もなかった。
ガックリとうなだれたヘルムカは部下たちによって拘束された。そのまま馬に繋がれ、王都パイロまで護送される。力と権威の象徴であったはずのヘルハウンドを失ったことで、最早、冷酷な将軍の面影は微塵もなかった。
最後に残った一人の部下が、一行を見送るウィルとルンに会釈した。無事に一件落着することが出来た、と感謝の言葉を述べる。
「あなたのおかげで真の裏切り者を捕まえることが出来ました。それに国家機密もダクダバッドへ渡らずに済みましたし。本当にありがとうございました。もし、ハドラー殿に会ったら、疑って申し訳なかったとお伝えください」
その名前を耳にした途端、ルンの顔がにわかに強張った。まさか、といった表情で。
「ハドラー……それが追っていた男の名か?」
ルンの様子に気づきながらも、ウィルは目の前の騎士に尋ねた。
かつてダクダバッド方面軍の騎士だった男はうなずく。
「はい。共に戦場を駆け抜け、互いの背中を預けた戦友を自分は一度でも疑ってしまい、誠に恥ずかしく思っております。とても顔向け出来ませんが、どうかこれからの余生を健やかにお過ごしいただければ、と願っております」
「そうか、分かった。会ったら伝えておこう」
「では」
騎士は二人にきちんと敬礼すると、仲間たちと共に王都への帰途に着いた。
こうして辺境の村を襲った嵐は去って行った。




