9. 涙の帰郷
ウィルは無口になったルンを連れ、テコムの村へと戻った。
「る、ルン!」
娘の無事な姿を目にしたマーサはルンを抱き締め、二人の弟妹たちもそれに覆い被さるようにして泣いた。そんな親子の光景に、ルンの安否を気にかけていた村人たちはホッと胸を撫で下ろす。
家に戻ったルンは、自分の寝室ではなく母の寝室へ向かった。ひとつしかないベッドの上には左腕を失った男が休んでいる。
結局、ウィルが身代わりを演じたときも、この男は動くことも出来ず、ここで横になったままだった。ルンはベッドの脇まで椅子を運ぶと、そこに座って男の寝顔を眺める。
人相が分からなくなるほど顔全体を覆うように伸びた髭。深く刻まれた顔の皺。包帯の合間から覗く日焼けした肌は傷だらけだ。長年、戦場を駆け回りながら、必死に生き延びてきたのだろう。
そんな男を見ているうちに、ルンは自然と涙が込み上げて来た。泣くまいと我慢して顔を背ける。
すると視線の先にはひと振りの剣が立てかけてあった。この男を助けたとき、ウィルがついでに拾ったものだ。
剣の柄の部分に小さく文字が彫られていることにルンは気づいた。ほとんど擦り減ってしまっているせいで見逃していたらしい。
ルンは顔を近づけて読んでみた。彫ってあった文字は “ハドラー”――目の前にいる男の名であり、ヘルムカの部下から去り際に聞いた名であった。
「………」
母に知らせよう、と椅子から立ち上がりかけたとき、不意に男が身じろぎした。ルンは心臓が止まりそうになる。
意識を失っていたはずの男の顔がルンの方を向いた。睫毛が小刻みに震え、ゆっくりと瞼が開かれる。
ルンは見つめた。男の持つ碧い瞳を。
男には、ちゃんとルンのことが見えているか不安だったが、口許を微かに動かしたのを見ると、どうやら意識を取り戻したらしい。
「……うっ……」
男の唇が言葉らしきものを発した。でも、よく聞き取れない。ルンは自分の耳を男の顔に近づけた。
「……んっ……」
今度もやはり聞こえなかった。それでも唇の動きで、何となくルンには分かった気がする。多分、間違いないだろう、という確信があった。
ルンはうなずいた。涙で視界が滲む。頬を冷たいものが伝った。
男は右腕をルンの方へと伸ばそうとした。しかし、傷が痛むせいで表情が歪み、満足に動かせない。
ルンはその手をこちらから握るようにして取った。そして、男に向かってうなずく。何度も繰り返すように。
「うん……分かってる……私……ちゃんと分かってるよ」
涙は止められなかったが、ルンは懸命に笑顔を作ろうと努めた。
すると男の目の端からも涙が零れた。口許には笑みが浮かんでいる。泣き笑いのような表情だった。
それを見て感極まったルンは、男の胸に自分の顔を埋めると、むせび泣いた。
朝が訪れた。
あの騒動から三日が経過している。その翌日には、ウィルが隣村のモンタルンへ行くと言って、すでにテコムから旅立っていた。
別れ際、心細そうな顔をウィルに向け、早すぎる出発をルンは惜しんだ。
そのとき、美しい吟遊詩人の青年はこれまでになかったくらいの優しい表情を作り、
「もうすぐ兄が帰って来るのだろう? そうなれば寂しくないはずだ」
と言って、ルンを励ましてくれた。
母のマーサは「死んだかもしれない」なんて不吉なことを言っていたが、ルンは兄の帰りを信じて疑わない。自分や弟たちに対して、いつも優しい兄。そうやってウィルに元気づけられると、間もなく兄が戻るのでは、という気になる。
この三日間、そんなことばかり想像しながら過ごしていたルンは目を覚ました。昨夜も自分の部屋で寝ず、付きっ切りで男の看病をしながら、知らぬ間に眠ってしまったらしい。その右手は武骨で大きな男の手を握ったままだった。
しかし──
ルンは眠気覚ましに冷水でも浴びせられたように、一気に目が覚めた。握り締めていた男の手が冷たくなっていたからだ。
驚いたルンは慌てて立ち上がった。
「ねえ! ねえ!」
横たわったまま動かない男の身体を揺り動かしてみたが、反応は何も返って来なかった。胸の動きは上下しておらず、呼吸音もしていない。心臓の鼓動も確かめてみたが、やはり心音は聞こえなかった。
ショックを受けたルンはベッドから離れると、フラフラッとした足取りで寝室の外に出た。
仕事場からは、いつものように早起きした母マーサの働いている音が聞こえてきた。ドスン、と身体にまで響いて来るようなパン生地を叩きつける音。それがしつこいくらい何度も繰り返される。
いつもと変わらぬ朝の風景。パン工房に足を踏み入れると、ルンはこちらへ背を向けている母に声をかけた。
「……母さん」
「おはよう、ルン。もう顔は洗ったの?」
「……あの人……死んじゃった……」
普段とは違う音がした。パン生地を叩きつけるのではなく、どうやら落としてしまったらしい。
しばらくの間、母の動きがピタリと止まった。それでもルンの方に振り向かず、手は作業台の上に置いたままだ。
もう一度、ルンは言った。
「母さん、あの人、死んじゃったわ……」
「そうかい……」
まるで思い出したように、マーサは再びパン生地に触れた。何事もなかったみたいに作業へ戻る。やっている仕事はいつもと変わらないはずなのに、ルンには母が狼狽えているように感じられた。
「まあ、あの酷い傷だったんだ……出血も多かったし、三日も生きていられたのが奇跡なくらいだよ……お前も毎晩ご苦労だったね。これで今夜からはゆっくり寝られるよ。あたしも自分のベッドをあいつに占領されちまって困っていたんだ」
サバサバしたように言う母に、ルンは次第に怒りと涙が込み上げてきた。我慢しきれず、鼻をすすり、しゃくり上げる。
「どうして……どうして、そんなことを言うの、母さん! あの人は……父さんなのよ! 父さんが死んじゃったんだよ! 何で、そんな冷たいことを言えるの!?」
娘の言葉に驚いて、初めてマーサは後ろを振り返った。顔には、これまで娘には一度も見せたことのない動揺が浮かんでいる。
「ルン、お前……」
「あの人の剣に父さんの名前が彫ってあったわ! 母さんには黙っていたけど……ハドラーって! あれは父さんよ! 父さんが家を出て行ったのは私が二つのときだけど、微かに憶えているもの!」
「………」
「それにここへ運んで来た日の夜……私が戻って来てから、僅かに意識を取り戻した父さんが私の顔を見て名前を呼んでくれたのよ! 『ルン』って……目に涙を溜めながら、申し訳なさそうな顔して……」
「………」
「母さんは最初から分かってたんでしょ!? あの人が父さんだって! だから私が軍隊の人に教えようとしたとき、黙っているよう止めたんでしょ!? 父さんを庇うために……」
「……だったら、どうだって言うんだい?」
「少しは悲しんだらどうなの!? 父さん、やっと私たちの下へ帰って来てくれたのに! 死にそうな身体になりながらも、何が何でも家に帰ろうと……」
あとは言葉にならなかった。ルンは顔を覆って泣いてしまう。
マーサは作業台の方へ向き直った。何事もなかったみたいに、またパン生地作りに専念し始める。手を動かしていないと落ち着かないのかもしれない。
「帰って来た、だって……? 十年以上もあたしとお前たちを置いて、勝手に戦争へ行っちまった男じゃないか……あのとき、エイミーはお腹の中にいることさえ分からなくて……あたしがそれから、どんだけ苦労して、お前たちを育てたか……」
まるで、腹に溜め込んだ怒りを洗いざらい吐き出そうとするかのように、作業台からはドスン、ドスンという音が重く響いた。普段よりも速いテンポで。
「で、でも……最後にはこうやって帰って来てくれたじゃない?」
「ふん……どの面下げて、今頃のこのこ帰って来る気になったんだか……あのバカ息子も同じ血筋だね。家族を残して、戦いへ行くだなんて……」
マーサの怒りの矛先は、夫のハドラーから家を出て行ったきり音沙汰のない長男に向けられた。彼女からすれば、どちらも自分の心配などこれっぽっちも知らず、ここを飛び出して行った薄情者同士だ。
「あいつは父さんそっくりだよ……傭兵になって、ひと儲けだなんて……あいつも父さんと同じく、野垂れ死ぬのがオチさ。まったく……どうして男ってのは、あんなどうしようもない生き物なのかねえ!」
マーサはパン生地を揉むようにしながら感情を吐露した。まるでパン生地に気持ちをぶつけるかのように。その上に自然と零れた一滴の雫に気づかぬまま、マーサは延々とパン生地を捏ね続けた。
「お兄ちゃんは帰ってくるもん……私、約束したもん!」
しゃくり上げながら、ルンは母に盾突いた。
そんな風に思われている父や兄が不憫で仕方ない。二人とも家族を捨てたわけではないはずなのに。
マーサは苛々した口調でルンに言い含める。
「いいかい、ルン! 父さんのこと、クリオとエイミーには言うんじゃないよ!」
「えっ……何で……?」
「あの子たちは、もうとっくに父さんが死んだと思っているんだ! 変なことを蒸し返して、悲しませるようなことをするんじゃないよ!」
「そんな……」
「分かったらさっさと顔を洗って、ジムリに餌でもやっておいで! それが終わったら店開きの準備だよ! 朝ご飯の支度だってしなきゃならないんだから!」
突き放すように言う母の言葉を聞いて、居た堪れなくなったルンは仕事場から外へ飛び出した。
無我夢中で走りながら、悲しくて悲しくて、止め処なく涙が溢れてくる。今は肉親としての情が薄い母の顔など見たくもなかった。
ルンの悲しみに満ちた気持ちなど何処吹く風、今日の朝空は目に沁みるくらい、よく晴れ渡っていた。
ここは父さんと私たちの家だ。それに出て行くとき、二人とも約束してくれた。
――必ず帰って来る、と。
――それまで母さんを頼むぞ、と。
だから、父のハドラーは瀕死の重傷を負いながらも故郷であるテコムに帰って来たのだ。
きっと死ぬなら家族の元で、と思ったのだろう。父は一時も母や子供たちのことを忘れなかったに違いない。でなければ、十年以上も経って成長した愛娘に向かって名前を呼べるはずがなかった。
「父さん……」
息を切らし、走り疲れたルンは外に立ち尽くすと、そっと呟き、顔を覆って泣いた。
「おーい!」
遠くから誰かの呼ぶ声を耳にしたのは、そのときだった。何だか聞き覚えのある男の人の声で、不意に懐かしさが甦る。
気づくとルンが立っていたのは村の外れだった。いつの間にか、こんなところまで来てしまったらしい。
声がした方に首を巡らせ、視界が滲んでしまった目を擦る。涙を拭うと、こちらへ誰かが歩いて来るのが分かった。
それは二人の男女だった。男性の方はかなり大柄で、背中には長大な 大剣 を背負っている。ルンに向かって大袈裟とも思える動きで手を振っていた。
女性の方は美人だが、初めて見る気がする。特徴的なのは、左腕に何か機械のように見えるものを装備している点だろう。女性が身に着けるものとしては、強い違和感があった。
「おーい!」
もう一度、男の呼ぶ声がした。ようやく目のピントが合って、手を振っている人物が誰なのかハッキリする。
そして──
見る間にルンの表情が明るくなった。今まで沈んでいた気持ちが嘘みたいに晴れた途端、こちらへ近づいて来る男に合わせ、ルンも大きく手を振り返す。
「キーツ兄ちゃん!」
自然とルンの笑顔が弾けた。もう一歩も走れないくらい疲れ切っていたはずなのに、ジッとしていられず、足の方が勝手に動いてしまう。
やっぱり兄も帰って来てくれたのだ。生まれ故郷であり、何よりも大切な家族が待つテコムへ。
「ルン!」
二年ぶりの再会となる妹のルンに、こちらも破顔する兄のキーツ。
目一杯に両腕を横に広げて待ち構える懐かしい兄の胸へ、ルンは遠慮なく飛び込んで行った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この西禄屋斗、心より御礼申し上げます。
なお、この作品は
RED文庫(http://red2468.g2.xrea.com/)にて
掲載した作品に加筆・訂正したものです。
内容に大きな変更などはありません。




