6. 華麗なる囮
かなりの降水量をもたらした雨雲は急速にテコムの上空から去ったらしく、今では煌々とした月が夜の追跡劇を照らし出していた。
右腕一本ながら見事な手綱捌きを見せる男。まるで風のように駆け抜ける。まさに人馬一体と言えた。
それに対し、追いかける騎士たちは満足なスピードを上げることが出来ない。何しろ細い沢沿いの道だ。月明かりはあれど、夜の暗さのせいで見通しが不十分なこともあり、一歩間違えれば斜面から河原へ転がり落ちてしまう危険をはらむ。
双方の距離が確実に広がり始め、まんまと男が逃げおおせてしまうのではないかと思われた刹那、追跡する馬群の後方から、急速に大きな黒い影が肉迫してきた。
ヘルムカが飼い慣らしているヘルハウンドのボギーだ。
間隔の短い独特の荒い息遣いと力強く土を蹴る爪の音が背後から聞こえ、追う立場であったはずの騎士たちに緊張が走る。
ボギーは目の前の馬群が邪魔だと判断したらしく、右手に切り立つ崖の斜面に進路を変え、斜めの態勢で味方の騎士団を一気に追い越した。その眼に捉えているのは手負いの獲物。一度は不覚にも取り逃がした標的だ。
逃亡する男は馬を走らせながら背後の追手を振り返った。異質な黒い塊が差を詰めてこようとするのを目撃し、魔犬ヘルハウンドの襲撃を警戒する。このままだと追いつかれてしまうだろう。男はより姿勢を低くし、馬の腹を蹴った。
彼が騎乗している馬はさらに走る速度を上げたが、追いすがるボギーの四肢の回転数は、それすらも凌駕した。恐るべきは魔犬ヘルハウンドの脚力であろう。捕捉すべき獲物は、もう目前だった。
「グワッ!」
ひときわ大きな唸り声と共にボギーは逃走する男めがけて跳躍した。その気配を背中で察知する男。一瞬だけ男が上体を捻った方が早かった。
馬上から落ちるようにして、男はボギーの攻撃を回避した。ぬかるんだ地面にダイビングし、そのままの勢いで身体を三回転させる。
その頭上をボギーの黒い巨体が飛び越えて行った。山羊をも一撃で仕留めた鋭く凶悪な牙が空馬の首を捉える。
疾走中であったがために勢い余った二頭は、もつれ合うようにして道から外れ、沢下へと転落した。
馬から飛び降りた男は巧みに受け身を取っており、すぐさま泥の中から起き上がった。幸いにも新たに負傷した様子はない。
だが、一難去って、また一難。遅れていたヘルムカの部下たちが馬から飛び降りた男に追いつく。
先頭の騎士は男の退路を断つように先回りし、馬上で剣を抜いた。後続はそれに連動して馬を操り、逃亡者に包囲網を敷く。
隻腕の男は右腕に剣を持ちながら活路を見い出そうと、忙しく目を動かした。だが生憎、細い一本道で取り囲まれては逃げ場などあろうはずがない。
その間に下馬した四人の騎士が仲間の後ろから縫うようにして現れ、さらに包囲の輪を狭めた。
「観念しろ。もう逃げられないぞ。無駄な抵抗はよすんだ」
馬上にいる一人が降服するよう促した。追手の騎士たちは四十名以上。蟻が這い出す隙間もない。確かに抵抗は愚かだと言えよう。
それでも男は諦めという言葉を知らぬようだった。
一瞬、剣を持つ腕がだらりと下ろされるが、騎士たちがその動きに気を取られ、どうやら投降するつもりのようだと決めつけた刹那、男はやおら包囲の右端へと走った。
不意を衝かれた騎士は一瞬だけ対処が遅れた。辛うじて剣を構えたものの、一撃で跳ね飛ばされてしまう。片腕しかない手負いの男相手に。
「逃がすな!」
怒号のような声がこだました。逃亡を図ろうとする男へ、ヘルムカの部下たちが次々と殺到する。
男は斬りかかって来た若い騎士の攻撃を剣で受け止めた。片腕一本で押し返す。それも束の間、すぐに左から別の者が襲いかかった。腕を失い、がら空きになった左──即ち、男の攻撃の死角へ。
あわやと思われた瞬間、その場にいた者たちは有り得ぬ光景を目撃した。ボギーに噛み砕かれたはずの左腕が包帯を突き破って現れたのだ。
「な、何ぃ!?」
「ディロ!」
男の口から発せられたのは短い呪文。
それが 白魔術 の攻撃呪文であると何人の者たちが気づいたであろうか。
鮮烈な光が一瞬、夜の闇を照らした。光の精霊 だ。同時に男の左側から仕掛けた騎士が後方へと吹き飛ばされ、さらにその後ろにいた仲間たちをも巻き添えにする。
「こいつ……」
想定していなかった反撃に、男を包囲していた騎士たちの動きが鈍った。剣と剣なら数的有利を作れるが、相手が魔法の使い手となれば話は違ってくる。
「どうやら、ここまでか」
男が口から漏らした呟き。それは見た目とは違う別人のものだった。
騎士たちが驚嘆の眼差しで見守る中、あろうことか、男は武器であるはずの剣を自ら捨てた。そして、上半身を覆っていた包帯をするりと解く。
どのような技によるものか、包帯は自ら解き放たれたかのように舞い、騎士たちの目を眩ませる。
「タンドレイ」
今度は 黒魔術 の呪文だった。
まるで幻でも見せられているようだ、と誰もが思ったはずだ。白い包帯が夜空へ吸い込まれるように消えると、そこに逃亡者の姿はなく、見たことのない別人と入れ替わっていた。
包囲網の中心にいた男――それは黒いマントをなびかせた異邦の旅人。背筋をぞくりとさせる氷のような美貌。女性のように線の細い身体つき。
吟遊詩人ウィル。
その深き双眸に射抜かれたとき、騎士たちは半歩、無意識のうちに退いた。
それを責められる者はいないだろう。ウィルがまとっているのは美しさばかりではない。
死への予兆――彼は黒衣を纏う魔人であった。
魔人なればこそ、魔法で隻腕の男の身代わりとなり、囮として追跡者たちを一手に引きつけたのである。
もし、あのまま逃亡者の捜索が始まっていれば、匿っていたルンたち母娘は罪を咎められていたに違いない。元々、沢沿いに倒れていた男を助けようとしていたのはウィルだ。ルンは、それを手助けしたに過ぎない。
ウィルは先程、降伏を促してきた馬上の男に首を巡らせた。その視線に歴戦を潜り抜けてきたはずの騎士は鼻白む。
美しき吟遊詩人は静かに尋ねた。
「お前たちが追っている男とやらは何者で、どのような罪を犯したと言うのだ?」
向けられた黒い瞳から顔を背けることは出来なかった。自分の意志通りにならぬ口を懸命に動かす。
「も、元々は我々の部隊にいた者だ……ヘルムカ将軍を補佐し、ガリとの戦闘でも目覚ましい武勲を上げた……ところが、その戦争も終わり、彼は騎士団から抜ける決意をしたのだ」
「退役か」
「ああ。年齢的なものだろうと、そう思っていた。だが、ある日、彼が重要な国家機密を持ってダクダバッドへの亡命を企てているという情報が入ったのだ」
「亡命……」
「いくらブリトン王国の友好国だろうと、そのようなことが許されるわけがない。それに今のダクダバッドは政情不安で、今後も我が国との関係が保たれるかは不透明だ」
「旅の途中で耳にしたことがある。どうやら本当だったようだな」
「噂では内乱の発端となったコールギン将軍は戦火を好み、さらなる領土拡大を目論んでいるとの噂もある。我が国へ矛先が向けられる可能性もなくはない。そんな国へ、こちらの重要機密を渡せるわけがなかろう!」
そう話す騎士は不快さを隠そうともしなかった。どうやら人並み以上の愛国心を持ち合わせているようだ。本気でこの国の将来を考え、信念を持って行動していることが窺える。
しかし、ウィルはひとつの疑問を抱かずにいられなかった。
「ダクダバッドへの亡命と言っていたが、こことは反対側の国境ではないか?」
「そ、それは……」
「なぜ、わざわざ遠回りになるような逃走経路を選択する? ついでに訊くが、何を証拠に機密を盗み出したと言えるのか? その情報、本当に間違いないものなのだろうな?」
ウィルの問いに対し、馬上の騎士は即座に答えられなかった。そういう命令を受けただけで、言われてみれば不自然な点があると今更ながら気づいたのだろう。
他の騎士たちも互いの顔を見合わせた。信じていたものへの疑念。心の中に起きた小さなさざ波は、次第に大きな不安と深い疑念となって膨らむ。
だが、それを打ち消すように騎士の一人が声を上げた。
「ヘルムカ将軍がそう仰っておるのだ! 閣下のお言葉に間違いはないはず!」
「将軍が?」
ウィルは小さく呟いた。或る可能性が頭の中に浮かぶ。




