5. 密告と逃亡者
ボギーの食事は程なくして終わった。
その一部始終を楽しむかのように眺めていたのはヘルムカだ。その様子は普通の愛犬を愛でているのと変わりがない。
反対に村人たちは魔犬ヘルハウンドの恐ろしさを目に焼きつけることになり、すっかり声を失ってしまっていた。しばらくは悪夢となって、この光景を忘れられないだろう。
「さて、そろそろ怪しい男について思い出して来たのではないかな? それとも、このボギーに一軒一軒回らせて捜させようか?」
ヘルムカは恐怖にすくむ村人たちを蛇のような執念深い目で睥睨しながら脅しをかけた。
完全に委縮した村人たちは互いの顔を見合わせた。
身の毛もよだつボギーの獰猛さを存分に見せつけ、逆らい難い恐怖心を刻み込むのがヘルムカの手口であったに違いない。反抗すれば餌食となった山羊と同じ末路を辿るだろう。
一番、緊張の面持ちで固唾を呑んでいたのはルンだった。
ヘルムカたちの追っている人物がルンとウィルが助けた男である可能性は高い。罪人であるとは知らず、単なる人助けのつもりだったが、下手に隠し立てをしてはルンたちにも累が及ぶだろう。
だが、母マーサは娘を思い留まらせようと、背中を掴んで引っ張った手を離そうとしなかった。黙っていろ、という意思表示なのは確かだ。けれど、大怪我を負っているとはいえ、なぜ悪人かも知れない男を庇わなくてはならないのか。
ルンは自分の心臓の鼓動が周りの者たちに聞こえてしまうのではないかと思うほど緊張しながら、村人たちの沈黙をひたすら祈った。
しかし──
「わっ、私……み、見ました!」
一人の少女が手を挙げた。ルンもよく知っている宿屋の娘だ。歳はルンよりも三つ上の十七歳。確か、もうすぐ結婚するというような話を聞いたことがある。
その声にルンの身体はビクッと反応した。彼女が何を見たのか聞くのが恐ろしくて、そちらに顔を向けられない。
そんな怯える娘の肩に、母のマーサは後ろから手を置いて落ち着くよう促す。
「見ただと? 何をだ?」
ヘルムカは馬上から鋭い視線を宿屋の娘に向けた。するとヘルハウンドのボギーもそれにならう。
黒い魔犬の動きに娘は一瞬すくんだような様子を見せたが、手を挙げてしまった以上、もう後戻りは出来ないと思ったらしく、意を決して口を開いた。
「み、見ました! 怪しい……お、男の人を! この村では見かけたことのない人でした!」
「ほお、何処で?」
「そ、それは……ルンが荷車に乗せていて……マントのせいで腕が隠れて、どうなっていたかまでは分からなかったけど、私、ひと目でゾクッとしたんです……何だか……とても怖い感じがしました」
娘が言っているのはウィルのことに違いなかった。ヘルムカたちが追っている片腕の男ではない。
だが、そのときの荷台には、あの隻腕の男が乗っていたのも確かだ。ルンは冷や汗を掻きそうになった。
村人たちの視線が一斉にルンへと集まる。
そんな村人たちの反応を見ただけで、ヘルムカは易々とルンを特定できた。
「お前か、ルンというのは?」
今にもヘルハウンドをけしかけられそうで、顔面蒼白になったルンは唇を震わせた。怖くて言葉が出て来ない。
すっかり怯えた娘を庇うように、マーサが後ろから震える身体を抱き締めた。
「彼女が見たのは、アンタたちが捜している罪人じゃなく、ただの旅人だよ! 大雨で難儀していたのを見かねて、娘が荷車に乗せて来てやっただけさ! 妙な言いがかりはよしてもらいたいね!」
村人たちから向けられた疑惑の目にも怯むことなく、マーサは威勢良く言い放った。普段から言いたいことをズバズバ言うマーサの性格は、村人の誰もが知るところだ。彼女にまくし立てられると、口で敵う者はいない。
だが、顔馴染みの村人たちは説得できても、一度、怪しんだヘルムカまで納得させるのは無理だった。冷徹な視線が疑惑の母娘に向けて突き刺さる。
「その旅人とやらが捜している男であるか否か、それはこちらで確認する。というわけで、女、お前の家まで案内してもらおうか?」
凄味を利かすヘルムカに、さしものマーサも声を途切れさせた。相手は武装した騎士なのだ。人殺しさえ厭わない。
家の中に踏み込まれたら、匿っている男は簡単に見つかってしまうだろう。そうなればマーサ一家は万事休すだ。
ルンは泣きたくなった。こんなとき兄がいてくれれば、どんなに心強かったか。
目を瞑ると、二年前に家を出て行った懐かしい兄の姿が浮かぶ。
そのときだった。
「――ッ!」
ヒヒーン、という馬のいななきが緊張を破り、兵士たちの間からどよめきが起こった。皆の注目がそちらへと逸れる。
「何事か!?」
騒ぎの原因に気づいて、ルンはビックリした。包帯姿の男が手綱を握り、跨られた軍馬が興奮したように後ろ脚で立ち上がっているのが見えたからだ。
近くにいた兵士たちは突然のことに慌てふためいていた。包帯の男と棹立つ馬から距離を取ろうと右往左往して見苦しい。
「う、嘘……!」
間違いない。それはルンとマーサが手当てしたはずの男だった。その証拠に魔犬ヘルハウンドに噛み砕かれたという左腕がなく、右手だけで手綱を引いている。
いつの間にルンの家から抜け出し、軍馬を奪ったのか。いや、それよりもあの大怪我で、ここまで動けていること自体が驚きであった。
隻腕の男は周囲の兵士たちを遠ざけることに成功すると、馬首を巡らせ、テコムの村の出口へ向かって逃走を始めた。一瞬の出来事に兵士たちの対応が遅れる。
「や、ヤツです!」
「何をやっておるか! そんなことは分かっている! 早く追え! 絶対に逃がすな!」
ヘルムカは混乱する部下たちに唾を飛ばしながら命令を下した。
さすがは猛者と呼ばれたダクダバッド方面軍の兵たちである。すぐに隊列を組み直すと、逃げた男の追跡に移った。
「ボギー、お前も行け!」
忠実なヘルハウンドにもヘルムカから指示が下された。
ボギーは巨体であるにもかかわらず、まるで弾けるようにして疾走を始めると、軍馬にさえ勝りそうなスピードで逃亡者を追いかけて行く。その姿は猟犬そのものだ。きっと追いつかれたら、只では済まないだろう。
地響きのような音を立てながら去って行く軍隊を、村人たちは口を閉じるのも忘れて呆然と見送った。
それを見て一番ホッとしたのはルンであったに違いない。あの男が村から出て行ってくれたおかげで、ルンたち母娘が罪に問われることは避けられたのだから。
だが、安心するのはまだ早かった。
「娘。悪いが、少しばかり協力してもらおうか?」
一人、追跡に加わらなかったヘルムカは、邪悪な笑みを浮かべながらルンの方へと近づいて来た。




