瞬きを止めるな
二十二時三十分。多摩川の河川敷。
十月の夜は冷える。ウインドブレーカーのジッパーを首まで上げて、カメラバッグのストラップを握り直した。
河川敷の遊歩道は街灯がまばらにしか設置されていなくて、足元が暗い。対岸の住宅地の明かりが川面に反射して、ちらちらと揺れている。風が川の上を渡ってくる。草の匂いと、かすかな泥の匂い。
瀬戸の手配で、周辺に捜査員が配置されている。何人いるのか、どこに潜んでいるのかは教えてもらえなかった。俺が知っていると、視界リンクを通じて犯人にバレる可能性があるからだ。
「あなたは何も知らないまま、一人で来たように見えなければいけません」
瀬戸にそう言われた。演技しろということだ。怖がりながらも犯人に会いに来た、無謀な一般人。それが俺の役割だ。
演技も何も、本当に怖い。足が震えている。
河川敷の土手を下りて、水際に近い草むらの中を歩いた。犯人が指定した場所は「河川敷」としか言っていない。具体的なポイントはない。つまり、犯人は俺がここに来ることを確認してから現れるつもりだ。
視界リンクで俺の世界を覗いて、河川敷の景色が見えたら出てくる。
それなら、俺はわかりやすい場所にいなければならない。
土手の下にベンチがあった。木製の古いやつ。そこに座った。カメラバッグを膝の上に置く。カメラはすぐに取り出せるように、バッグのジッパーを半分開けておいた。
スマホを見る。二十二時四十五分。あと十五分。
川の流れる音が聞こえる。遠くで車のエンジン音がする。犬が一声吠えた。
静かだ。怖いほどに。
二十二時五十分。
瞬きをした。何も見えない。犯人側の映像は来ない。
二十二時五十五分。
また瞬きをした。今度は来た。
犯人の視界。
暗い。夜だ。足元に草が見える。河川敷だ。
犯人もここにいる。
視界が動いている。犯人が歩いている。ゆっくりと。慎重に。足音を殺すように。
そして視界の先に、何かが見えた。
ベンチ。そこに座っている人影。
俺だ。
犯人の視界の中に、ベンチに座っている俺の姿が映っている。距離は——三十メートルくらいか。暗くて正確にはわからないが、そう遠くはない。
映像が途切れた。
来ている。
犯人がすぐ近くにいる。三十メートル。ベンチの前方、川沿いの方向から近づいてきている。
カメラバッグの中に手を入れた。カメラのグリップを掴む。電源は入れてある。フラッシュの充電ランプが緑色に点灯している。準備完了。
だが、今カメラを取り出したら視界リンクを通じて犯人に見られる可能性がある。ぎりぎりまで待たなければ。
瞬きをしないようにした。目を見開いたまま、前方の闇を凝視する。乾いた目がまばたきしたくてたまらない。だが耐える。犯人に俺の視界を見せてはいけない。
三十秒が過ぎた。
闇の中に、かすかな足音が聞こえた。
草を踏む音。規則的な、ゆっくりとした歩調。
近づいてくる。
二十メートル。十五メートル。
暗すぎて見えない。次の街灯までまだ距離がある。犯人のシルエットすら判別できない。
十メートル。
足音が止まった。
闇の中で、犯人が立ち止まっている。
沈黙。
川の水音だけが聞こえる。
そのとき、声がした。
「やっぱり来たんだな」
男の声。低い。落ち着いている。怒りも興奮もない、平坦な声。
俺は声を絞り出した。
「……お前が、あの映像の」
「映像。そう呼ぶか。俺の方は『覗き窓』って呼んでる。ときどき、知らない男の日常が目の中に飛び込んでくるんだ。カメラを構えてる男の視界が」
犯人が一歩近づいた。九メートル。
「最初は何のことかわからなかった。だが、お前が俺の近くに来たときに理解した。あの覗き窓の向こう側にいる男が、俺を探してる」
「お前が人を殺してるからだ」
「殺してる? 違う。俺は作っている。美しいものを」
声のトーンが変わった。わずかに熱がこもった。
「お前にはわかるはずだ。カメラマンだろう。一瞬を切り取って残す。俺がやっているのも同じだ。命が消える瞬間。それが一番美しい。その一瞬を永遠にする」
狂っている。完全に。
だが今は相手をする時間だ。犯人を引きつけなければならない。もう少し近くに。街灯の光が届く範囲まで。
「花は何だ。死体のそばに置く花は」
「装飾だ。作品の仕上げ。お前だって写真に構図をつけるだろう。光を当てて、影を調整して、一番きれいに見える形を作る。俺にとっての花がそれだ」
犯人がまた一歩近づいた。八メートル。
もう少し。あと二、三メートル。街灯の端に犯人が入れば、フラッシュと合わせて顔を撮れる。
「お前は三番目の作品になるはずだった」
「はずだった?」
「最初はそのつもりだった。だがやめた。お前は特別だ。俺の覗き窓の向こう側にいる。俺を見ている唯一の人間だ。観客を殺すのは、芸術家としては正しくない」
「なら、なぜここに来た」
「会いたかった。覗き窓越しじゃなく、直接」
犯人が三歩進んだ。六メートル。
かすかに輪郭が見えてきた。長身。黒い服。フードを深くかぶっている。顔は影に隠れている。
あと少し。
「お前は俺を止めようとしている。警察に情報を渡している。俺にはわかる」
「当たり前だ。お前は人を殺してる」
「止められるか?」
「やってみる」
犯人が笑った。声だけの笑い。低く、短い。
「面白い。本当に面白い。お前みたいな奴は初めてだ」
犯人がもう一歩踏み出した。五メートル。
今だ。
俺は一気にカメラバッグからカメラを引き抜いた。ファインダーを覗く暇はない。腰だめでレンズを犯人に向ける。右手の人差し指がシャッターボタンに触れる。
左手でフラッシュの角度を調整する。正面。直射。最大出力。
シャッターを切った。
閃光。
夜の河川敷が一瞬、白い光に包まれた。ストロボの閃光が五メートル先の犯人を照らし出す。
見えた。
フードの下の顔。
三十代半ばくらいの男。彫りの深い顔。目が大きい。瞳が光を反射して白く光っている。口元は真一文字に結ばれていた。驚いていた。まさか撮られるとは思っていなかった顔だ。
シャッターを連続で切った。カシャカシャカシャ。フラッシュが連続で発光する。三枚、四枚、五枚。
犯人が腕で顔を隠した。だが遅い。最初の一枚で正面からの顔写真を撮った。
「くそっ——」
犯人が身を翻した。走り出す。暗闇の中に飛び込むように。
同時に、周囲から複数の足音が聞こえた。
「警察だ! 動くな!」
瀬戸の声だ。
暗闇の中からライトが次々に点灯した。強力な懐中電灯の光が河川敷を照らす。捜査員が走る足音。犯人を追いかけている。
俺はベンチに座ったまま動けなかった。膝が完全に笑っていた。カメラを握りしめた手が白くなっている。
遠くで怒号が聞こえた。
「止まれ!」
「確保! 確保しろ!」
がさがさという草を踏む音。何人かの人間が重なり合うような音。
そして、静寂。
しばらくして、瀬戸が走ってきた。息を切らしている。非番のはずなのに、防弾ベストを着ていた。
「神谷さん、大丈夫ですか」
「ああ。撮れた。顔、撮れた」
「本当ですか」
俺はカメラのモニターを見せた。液晶画面に、フラッシュで照らし出された男の顔がくっきりと映っている。
瀬戸が画面を覗き込んだ。目が大きく見開かれた。
「……これは」
「知ってる人間か?」
瀬戸は何も言わなかった。ただ口元を引き締めて、首を小さく横に振った。
「確保できたのか?」
「取り押さえました。抵抗しましたが、複数の捜査員で制圧しました」
終わった。
のか?
本当に終わったのか。
俺はベンチの背もたれに体を預けた。空を見上げた。星が見える。東京にしてはめずらしく、いくつかの星が瞬いていた。
カメラを膝の上に置いた。重い。ずっと重かった。でもこの重みがあったから、ここまで来れた。
瀬戸がどこかに電話をしている。捜査員のやりとりが遠くから聞こえる。パトカーのサイレンが近づいてくる。赤いランプの光が、河川敷の草を照らしている。
俺はそのすべてを、ぼんやりと眺めていた。
瞬きをした。
何も見えなかった。
犯人の視界は来なかった。
ただの暗闇。ただの瞬き。
初めてそれが、嬉しかった。




