第十二話『黒沢の置き土産』
古びた職員室の蛍光灯が、時折チカチカと瞬いた。
無人の空間に、僕の呼吸音だけがこだましていた。机の上に開かれたスケジュール帳。その中に、市川の癖のある筆跡で書かれた予定が目に飛び込んでくる。
――“文化祭準備のため用務員室に宿泊”――
それは、明後日、土曜日。
他の誰にも邪魔されることのない、夜。
「……これだ」
思わず口をついて出た声は、僕自身のものなのに少し震えていた。僕の指先も、ぷるぷるとわずかに痙攣している。
予定の横には、赤いラインマーカーで線が引かれていた。丁寧で几帳面な市川らしい強調だったが、今はその赤が血のように思えた。
心の奥からじわじわと湧き上がる高揚感に、僕は目を細めた。
「誰もいない、閉ざされた夜。お前と俺だけの夜だ……市川」
小さく笑ったつもりが、喉の奥から洩れた声は思いのほか大きく、ぎしりと古い床板を震わせた。
僕はその場で、くるりと回った。
机の前で、ぐるりと一回転。
「ふふ、ふふふふ……」
踊っていた。
湿った足音が、床にぬめりを残して広がっていく。床に落ちた皿のしずくがじっとりと染み、僕の影が狂ったように踊っていた。
これが僕の時間だ。僕の舞台。
教室で指をさされ、存在を無視され、馬鹿にされていた僕が、今この場所で笑いながら踊っている。
「抜くんだ……尻子玉……どこにあるか、ちゃんと探してやらなきゃな……」
笑いが止まらなかった。
机の引き出しをそっと閉じ、スケジュール帳を元に戻す。そして、その上に立てかけられていた集合写真を、指の腹でなぞった。
市川の笑顔。
その隣の生徒たち。
だが、そこに僕の姿はやはりない。
「次は……お前だよ、市川」
静かに、囁いた。
その瞬間、皿の水が震えた。
ふつふつと湧き上がる熱。
僕は、確信した。
これは、祝福だ。
復讐の神が、僕を認めてくれた証。
そして、祭りの夜ではない。
それは、断罪の夜。
復讐の口火が、ついに――あがる。
■
静まり返った河川敷の夜。虫の声も止んだ湿った闇の中、風が草むらをそっと撫で、堤防の土を掠めていく。
その風が、僕の頭に鋭く突き刺さる。まるで脳の奥を針で突き回すような痛みだった。
「……いっ、た……ッ!」
思わずしゃがみ込み、両手で頭を抱える。頭蓋の裏側でなにかが爆ぜたように感じた。ズキズキとした鈍い痛みが、血管を伝って全身に広がっていく。
ただの偏頭痛じゃない。もっと深くて、根っこから腐り始めているような感覚。
僕はふらつきながら堤防沿いの遊歩道へと歩き、水面が見える場所にしゃがみ込んだ。月がまばらに照らす水面が、静かに揺れていた。
そこに映った、自分の顔。
いや、もう“かつての僕”じゃない。肌は緑黒く変色し、目の下にはどす黒いクマが刻まれ、口元は裂けたように乾いていた。
そして、頭の上。
「……皿が……」
皿の縁――そこが、薄く、ただれていた。皮膚と皿の接合部が赤黒く腫れ、ぷくりと膿が滲んでいる。さらに、その腐食した部分からは淡く異臭を放つ体液が垂れ落ちていた。
指先でそっと触れると、ぬるりとした感触のあとに、皿がぐらり、と音もなく揺れた。
「……あ……」
背筋に冷たいものが走った。
皿が……外れかけている。僕の“命”が。
皿がなくなったら、僕はどうなる? 崩れてしまうのか? 意識が闇に溶けて消えるのか?
「……でも……」
僕はしゃがんだまま、両手で膝を抱え、必死に皿を手で押さえた。
「まだ、やることがある……まだ……」
脳裏に浮かんだのは、市川の顔だった。あの偽善者の担任が教室のど真ん中で僕を笑いものにし、他の生徒たちに“標的”を与えたあの日の光景。
「……市川……てめぇだけは……」
皿の痛みに呻きながら、僕はゆっくりと立ち上がった。皿がずれるたびに、頭蓋の奥で脈打つような音が鳴った。
だが、それがむしろ鼓動のように僕を奮い立たせた。
「……抜いてやる……尻子玉……」
そうだ、尻子玉さえ食えば……。
河童になる前、ネットで読んだ断片的な記憶がよみがえる。
『河童は尻子玉を好んで抜き取る』
あれはただの迷信かもしれない。だが、なぜだか確信めいて思えた。
尻子玉を食えば、きっとこの皿の腐りも止まる。元のように、強く、安定したものになる。
いや、そうでなければ困る。僕はまだ終われない。復讐を、終わらせていない。
皿の上に少量の水を注ぐ。ぬめりと腐臭が混ざるその液体の中に、僕の“命”が漂っている。
限界は近い。
皿が崩れ落ちる前に、復讐を終わらせなくてはならない。
だから、僕は笑った。ぐらつく皿を押さえながら、ゆっくりと狂ったように笑った。
「もうすぐだ……市川……もうすぐ……」
夜の闇が、僕の声を吸い込みながら、冷たく流れていった。
■
河川敷はひどく静かだった。星はほとんど見えず、曇天の空の下、湿った風がゆっくりと背をなぞっていく。
風の向きが変わったとき、僕は嗅いだ。
腐臭。泥水に浸した雑巾を数日放置したような、鼻の奥を焼くような臭い。
「……っ、くさ……っ」
だがすぐに気づいた。これは、風が運んできたんじゃない。
僕の、体から出ている。
震える手で首筋を撫で、襟元から覗いた胸元に鼻を寄せる。明らかに異常な臭気が、肌の奥から滲んでいた。指先に触れる皮膚は、どこか柔らかく、ぬめりを帯びている。
指で押すと、皮膚の下からぐちゅり、と音がした。
「……やっぱり……腐ってきてる」
皿だ。頭の上にある、あの忌まわしい“皿”。
あれが接している頭皮が、痛くて痛くてたまらない。
こめかみから後頭部にかけて、ズキズキと脈打つような痛みが続いている。まるで脳そのものが反乱を起こしているような、そんな痛み。
小川のほとりにしゃがみ込み、恐る恐るこの前見た時より酷くなっていない事を祈りつつ……水面をのぞき込む。
ぼやけた月光のなか、自分の顔が映る。いや、分かっているけど、もはやそれは人間ではなかった。肌は緑に近く、目の白目部分は黄ばみ、唇は裂けていた。
そして頭頂部。
「……うそ……」
この前見た時より明らかに酷くなっていた。
皿と頭皮の境目が、赤黒くただれている。薄くなった皮膚が割れ、そこから黄色い膿がじくじくと滲み出ている。触れると、相変わらずぐらりと皿が揺れた。そのとき、腐った隙間から何かがぬらりと動いた。
「……な、なんだ……っ」
じっと見つめると、そこには蠢く白い小さな物体――虫の幼虫だった。柔らかい皮膚の下に潜り込み、肉を食い破っているのか、皿の周囲が小さく痙攣していた。
「……あの、黒沢の野郎……っ」
怒りが沸点を超えた。
やっつけ仕事で僕の身体を弄び、こんな不完全な皿をくっつけやがって。僕の命を弄びやがって……。
「……ぜってぇ、許さねぇ……」
と思っても奴はもういない。
だが今は、殺してしまった奴の事などどうでもいい。
次は市川だ。
明日、土曜日の深夜。
文化祭準備で学校に泊まり込む市川を、僕は襲う。
それまで、この身体が保ってくれれば。
僕は信じていた。
尻子玉を抜けば、きっと傷も治る。
皿の腐りも止まる。痛みも消える。蛆もいなくなる。
あれを喰えば、また“完全な河童”に戻れる。
「尻子玉……市川の……ッ」
涎が垂れた。頭痛と吐き気が交互に襲う中、それでも想像する。
あの偽善者のうめき声。引きつる顔。冷たくなる体。
そして、抜き取る。奥から引きずり出すようにして、尻子玉を。
「うふふふ、ふふふ……ッ」
腐臭の中で、僕は笑った。
風が止み、世界が静止するなか、僕の心臓だけが高鳴っていた。
土曜日の夜、街は文化祭前夜の静けさに包まれていた。
学校の正門は閉ざされていたが、裏門はわずかに開いていた。用務員の古びた軽バンが停められているが、人影は見えない。教室や職員室の明かりはすでに消え、校内はまるで眠っているかのように静まり返っていた。
――ただ一人を除いて。
僕はフェンスをよじ登り、無音でその敷地に侵入した。
全身に夜露がまとわりつき、腐りかけた皮膚がじくじくと痛む。皿はすでにぐらつき、まるで落ちかけた蓋のように傾いている。耳元をぬるりと膿が流れ、そこから這い出してきた白く小さな虫が、首元を這った。
「……市川、どこ……だ……」
僕の喉から漏れた声は、もはや人間のそれではなかった。
体育館の裏をすり抜け、暗がりに身を潜めながら校舎の壁沿いを這うように進んだ。ドアの隙間から覗くと、渡り廊下の奥、用務員室にかすかに灯る明かりが見えた。
いた。
僕はゆっくりと近づいた。足音を殺し、影と一体化するように。
のぞき窓から見えたのは、市川の背中だった。椅子にもたれ、スマホを見ながら缶コーヒーを片手にしている。その無防備な姿。その無知さ。その存在そのものが、僕の胸の奥をかきむしるように苛立たせた。
ドアノブに手をかける。震える指で、ゆっくりと、音を立てないように回す。
そして、ドアを静かに押し開いた。
「……誰かいるのか?」
市川が振り向いた。
僕の姿を見た途端、その顔に浮かんだのは戸惑いだった。
眉間に皺を寄せ、視線を凝らす。
「……なんだ……君は……生徒か……?」
僕は、一歩前に足を踏み出した。
足元の泥がぬかるみ、ぬちゃりと音を立てる。皿から垂れた膿が床にしみを作った。
「せん……せい……ぼ、ぼくのこと……お、おぼえ……て……」
言葉が喉の奥で絡まる。
かつてのようには、もう話せない。
頭がぎりぎりと締めつけられるように痛んだ。
皿の接着面が激しく疼き、腐敗が進んだ傷口からは、さっきよりも大きな幼虫が這い出してくる。にゅるりと生温かい感触が首を這い、思わず震えた。
「……あ……あ、あ……う、うまく……しゃべ、れ……な……い……」
市川の顔が強張った。
目が大きく見開かれ、恐怖と理解がせめぎ合っている。
「……君……誰だ……?」
僕はゆっくりと、ひとつ息を吐いた。
自分が人間だったことを、彼に思い出させようとした。
だけど、名前すら、口からうまく出てこなかった。
「……き……お……あ……」
焼けつくような頭痛が、思考を妨げる。
脳が熱を持ち、皿の内側で何かが蠢いている気がした。
市川が椅子を蹴って立ち上がった。
その動作ひとつで、僕の中の怒りがまた暴れ出す。
だけど、まだ――今は、まだ、始まりにすぎない。
この夜が、すべての始まりになる。
その確信だけが、僕の腐りかけた心を支えていた。




