第十三話『皿の呪いと真夜中の処刑』
市川の怯える姿を見ていると、頭の中であの日が思い出された。
■
午前の登校時間。校門をくぐり、昇降口で靴を履き替えるそのときから、胸の奥がざわざわしていた。
教室のドアを引いた瞬間――空気が凍った。
柿崎たちの目が、鋭くこちらを刺す。まるで教室そのものが敵意を持っているかのようだった。
「おい、また来たよ。あの顔で」
「ねえ、今日も化け物ショー?」
乾いた笑いが、静まり返った教室に響いた。
僕はスクールバッグの紐を握りしめる手に力が入ったが、言葉が出てこなかった。喉が、心が、凍っていた。
自分の席に目をやると、机の上には干からびたカーネーションと花瓶……赤いマジックで机に大きく『河童』と書かれていた。
指先が震える。目が霞む。何か言わなきゃ、怒らなきゃ、でも――できなかった。
笑い声の波が僕を包み、皮膚の内側まで冷たくなっていくようだった。
我慢の限界だった。
僕はスクールバッグを取り落とすようにして、教室を飛び出した。
誰にも見られたくなかった。歪んだ表情も、こぼれ落ちそうな涙も。
顔を手で隠しながら廊下を駆け抜ける。
走るたびに胸が軋む。喉が熱い。だけど、涙は止まらない。
「おっと……大丈夫か?」
目の前に、白いワイシャツの袖が差し出された。
顔を上げると、そこにいたのは市川先生だった。普段は軽いノリでテンション高く、僕のことも冗談交じりにしか接してこなかった人。
でも今は、驚くほどまっすぐな目で僕を見ていた。
「……ここじゃ目立つ。音楽室、空いてるから。な? 話、聞こうか」
その声が、やけに優しかった。
僕はうなずいた。声にする余裕なんて、なかった。
音楽室に入ると、ひんやりとした空気が肌をなでた。
朝の陽がまだ弱く、カーテンの隙間から差し込む光が床に細く伸びている。
楽器も譜面台も沈黙していて、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
僕は椅子に座るなり、顔を伏せて、声を殺して泣いた。
嗚咽が止まらなかった。呼吸が乱れて、何度も言葉にならない音が漏れた。
「どうした? 誰かに何か言われたのか?」
市川先生の声は、思ったよりも静かで、やわらかくて、無理に踏み込まない距離だった。
「……何も、されてません……」
言った瞬間、嘘だと自分でもわかった。先生も、気づいていただろう。
「そうか。でも、何かあった顔だな」
市川先生は、ゆっくりピアノ椅子に腰を下ろし、しばらく無言のまま僕を見つめた。
やがて、小さく息をついて口を開いた。
「オレもさ、中学のとき、イジメられてたんだよね」
その一言に、僕は顔を上げた。
「……ほんとに?」
「信じがたいよな。でも本当。机の中にカビたパン入れられたり、ジャージのズボン切られたり……色々あったさ」
先生の目が、どこか遠くを見ていた。
「でもさ、一番つらかったのは、大人が見て見ぬふりしてたことだった。『気のせいだ』『仲がいいから冗談だ』ってさ」
その言葉が、胸に刺さった。
自分のことを見透かされているようで、でも、なぜか逃げたくはなかった。
「だから教師になったんだよ。あの頃の自分みたいな子を、放っておきたくなくて」
先生は一度、真っ直ぐ僕の目を見た。
「だから……もう大丈夫。クラスの連中には、俺からちゃんと言う」
「えっ……」
「お前を傷つけるようなことは、絶対に許さない。そう言ってやるよ。俺に任せろ」
その言葉は、あまりにも唐突で、あたたかくて――胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……でも、僕、戻るの怖いです」
かすれる声でようやくそう言った僕に、市川先生は、静かにうなずいた。
「怖いのは当たり前だ。でも、一緒に戻ろう。お前ひとりじゃない。俺が、そばにいる」
その言葉に、なぜか涙がまたあふれてきた。
泣くのはもう嫌だったのに、でも、止まらなかった。
先生は何も言わずに、僕の肩に手を置いた。
「行こうか、な?」
僕は、小さくうなずいた。
(……なのに)
後に待ち受けていた裏切りと、“公開処刑”の記憶が、
この日のやりとりを、より一層滑稽に、そして痛ましく染め上げていくのだった。
扉が開かれると同時に、教室の空気がまた一段と冷えた。
僕は市川先生の背を追い、ぎこちなく足を踏み入れる。
視線。刺すような、それが四方から降り注いでいた。
僕の存在そのものを嘲笑うように、息を潜めた笑い声が教室の壁にしみ込んでいた。
「おはようございまーす」
市川先生は、いつもの調子で朗らかに手を振る。
だが返る言葉はなかった。
静まり返った空間に、挨拶は空しく吸い込まれていった。
沈黙のなか、彼の目が黒板を捉え、ピクリと動きを止めた。
そこには、チョークで描かれた落書き――醜悪に歪んだ河童の絵。
丸い頭に皿、裂けた口元、異様に誇張された下半身。
《カッパくん ずる休みから復帰!》
赤い文字が黒板に踊っていた。
視線が集まり、くすくすと押し殺した笑いが広がっていく。
僕はその場に立ち尽くし、視線を床へと落とした。
机へ向かおうとした瞬間、吐き気のような感覚が喉元を締め上げた。
僕の机の上――そこに、置かれていた。
干からびたカーネーション。
以前、誰かが投げつけてきたそれと、まったく同じ。
花弁はしおれ、茶色く変色し、腐敗したような甘い臭いが鼻を突いた。
笑い声が鼓膜の奥でにじみ、心の奥をえぐるように響いた。
これが……僕を教室から追い出した、あの“儀式”。
また、繰り返された。
「ん……?」
市川先生が僕の表情の変化に気づいたのだろう。
机の上に目をやり、その眉間にうっすらと皺が寄った。
無言のまま、彼は机に近づき、そっと引き出しに手をかける。
開いた引き出しの中には、破れたノート、鋭く突き立てられた画鋲、鉛筆で走り書きされた“ばけもの”の文字。
彼はすべてを見た。
そして、ひとつ深い溜息を吐く。
だが、それだけだった。
引き出しを静かに閉じると、まるで何もなかったように背を伸ばし、教卓へと戻っていった。
「えー……今日は予定変更で、一限目をホームルームにするぞー」
その声は、あくまで明るく、軽い。
教室がざわつく。ざわざわと、水面に投げた小石のように波紋が広がる。
「ちょっと、大事な話をしたくてな。最近、クラスの雰囲気があんまり良くない気がするんだよ」
生徒の何人かが目を逸らしながら、曖昧に笑った。
「まあ、朝からちょっとしたトラブルもあったし……な」
教卓に両手をつきながら、市川先生は僕のほうへ顔を向ける。
「水島。前に出てこい」
心臓が、どくんと跳ねた。
血の気が引くのがわかる。膝が震える。
それでも僕は、言われるがままに席を立ち、足を引きずるようにして前へと出た。
みんなの視線が突き刺さる。冷たい床を歩くたび、心が削れていく。
前に出た僕を見て、市川先生は突然、手を叩いた。
「さぁ、久しぶりに登校してきた水島に拍手しよう! 皆も!」
誰かが息を呑む音がした。
そして、ぱら、ぱら、と不規則な拍手が教室のあちこちから上がる。
乾いた音が、天井に跳ね返り、やがて鈍く濁った波となって広がった。
その拍手に、温度はなかった。
機械的で、空虚で、ただその場を取り繕うための音。
「よしよし。な、水島も戻ってきたことだし、今日から仲良くしろよー? な?」
市川先生は笑顔のまま、僕の肩を軽く叩いた。
その手が重くて、痛かった。
「こいつが、いまクラスで浮いてるのは事実だ。見て見ぬふりをしてきたのはオレたち全員だし……なあ?」
誰かが、小さくうなずく。
誰かが、笑う。
「でもな、お前にも悪いところがあるんじゃないか? 何かあっても何も言わず、ただ黙って……それじゃ伝わらないよ。な?」
……え?
頭の中で何かが軋む。
耳鳴りがした。
目の前の風景が、ぐらりと揺れた気がした。
「これを機に、もっと周囲とコミュニケーションを取っていこう。な? オレも手助けするから」
誰一人、言葉を発しなかった。
沈黙が重く教室を包んだ。
でも、僕の心にはもう、何も残っていなかった。
誰かを信じるという行為が、いかに愚かで、無力で、裏切りに満ちているかを――僕は、ようやく理解した。
その瞬間、僕はもう、人間じゃなくていいと思った。
■
ホームルームが終わり、チャイムが鳴った。
けれど教室は動かなかった。
誰も席を立たず、ただ冷たい空気だけが漂っていた。
窓の外では晴れているはずなのに、なぜか薄暗く見えた。
市川先生は、教卓の荷物をまとめると、僕にだけ視線を投げた。
その目はどこか気まずさを帯びていて、笑顔にもなれず、ただ一言だけ残した。
「……あとは頼んだぞ」
頼んだ、とは誰に?
僕に? それともクラスに? 答えはくれなかった。
そしてその背中は、すぐに扉の向こうへと消えていった。
扉が閉まった瞬間、教室の温度が一気に下がったような錯覚があった。
冷たい沈黙のなかで、誰かが椅子を引く音がした。
僕の視界の端に、ゆっくりとした影が映る。
柿崎俊。
目つきは笑っていたが、その瞳は獲物を見る捕食者のようだった。
彼の足音は、わざと響かせるように僕の席へと向かってくる。
バンッ!
次の瞬間、僕の机が蹴り飛ばされた。
教室全体が、その音で一瞬止まったかのように静まった。
ノートが宙を舞い、シャーペンの芯が床に転がっていく。
まるでスローモーションのように、それらが散らばっていく様子を、僕は呆然と見つめていた。
「おい、水島」
柿崎の声が耳に食い込んできた。
湿った唾の匂いが近くで漂う。
「ちくりやがって。調子に乗んなよ」
口角は笑っているのに、声は冷たい刃のようだった。
教室の隅から、くすくすと笑いが漏れる。
誰も止めない。誰も目を逸らそうとしない。
僕は、そのすべてを黙って受け止めるしかなかった。
「先生に泣きついたって無駄なんだよ。なぁ? お前が弱ぇのが悪いんだろ」
ぐいっと顔を近づけられた。
息が詰まる。視界がにじむ。
けれど涙だけは、絶対に見せたくなかった。
「つまんねぇんだよ、お前」
吐き捨てるように言いながら、今度は椅子が蹴られた。
ガタンと音を立てて横倒しになる椅子。
僕はその前に立ち尽くしたまま、拳を握った。
けれど力は入らなかった。
足が震え、心臓の鼓動が耳の奥で響いていた。
もう、限界だった。
教室にいることが、ただの地獄だった。
僕は何も拾わず、何も言わず、走り出した。
鞄も、筆記用具も、何もかも教室に置いたまま。
廊下に出たとき、誰かが小さく笑った気がした。
階段を駆け下り、転びそうになりながら昇降口を抜け、
靴のままグラウンドを突っ切って、外へ飛び出した。
青空の下、涙が頬を伝っていた。
誰も追ってこなかった。
■
家の玄関を開けた瞬間、胸に詰まっていた何かが崩れた。
足がもつれ、その場に崩れ落ちる。
泥まみれの靴が廊下に痕を残すのも気にせず、
僕はただ、必死に息をしていた。
静かな家の中。
誰もいないことに、ほっとした。
部屋に駆け込み、布団にもぐる。
暗闇に包まれたその空間だけが、僕の逃げ場所だった。
涙が枕を濡らす。
声も出せないまま、身体が震えていた。
市川先生は、あの机を見た。
カーネーションも見た。
机の中にあった“ばけもの”の文字、画鋲、壊れたノートも。
柿崎がやったことに、気づいていたはずだった。
それでも、あのホームルームで僕を晒し者にした。
拍手を煽り、笑顔で「仲良くしろよ」と言った。
そのあとの暴力も、きっと知っていた。
でも、何もしなかった。
僕は、また裏切られたんだ。
翌日、僕は学校へ行かなかった。
そして、その次の日も。
市川先生からの連絡は、なかった。
学校からも、誰からも。
まるで最初から、僕なんていなかったかのように、日常は僕を置き去りにした。
信じてみたかった。
でも、あれは全部、間違いだった。
「……もう、誰も信じない」
布団の中で、何度も何度も繰り返した。
柿崎の顔が浮かぶ。
市川の笑顔が浮かぶ。
あの拍手の音が、耳の奥で腐ったように響き続ける。
その日から、僕の中の何かが、確実に変わっていった。
感情は、どこかへ溶けていった。
熱も、痛みも、次第に遠ざかっていった。
そして、静かに思った。
――もう、人間じゃなくていい。
そう思ったのは、確かにあの日からだった。
■
僕を河童にさせた原因の一つ、それが市川だ。
偽善者で、ことなかれ主義、何もしないまま、教師の仮面をかぶった悪魔。
彼は僕を“守る”と公言しながら、最終的には“晒し者”にして背を向けた。
その瞬間から、僕の中で何かが変わった。
人間としての感情を持つことはできなくなった。
市川の顔を見たとき、僕は確信した。
彼は僕にとって敵であり、これから僕の全てを壊していく存在だと。
そして、今──その時が来た。
市川を仕留める時が。
これまでのすべての怨念を、今、解き放つ時が。
「おい……近づくな……!」
市川が後ずさり、壁にぶつかった。
その手が棚の上を探る。何か武器になりそうなものを探しているのだろう。
でも──遅い。
僕は一歩ずつ、市川ににじり寄る。
腐敗した足が床に泥の跡を残し、皿から流れた膿が床に広がっていく。
目の焦点が合わない。痛みで視界が揺れる。それでも、見えていた。
市川の顔。
かつて僕を“守る”と言いながら、最後には“晒し者”にした裏切り者の顔。
「ま、待て……水……島……水島か……!?」
その名を聞いて、僕の中で何かが爆ぜた。
ぐちゃりと胸の奥で泡立つような感情。
恨み。怒り。絶望。
「やっと、わかっ……たか……」
僕の声は、もはや声ではなかった。
空気を引き裂くような濁音。
喉が崩れ、舌が膨れ、まともに発音できない。
「お、おまえは……あのとき……っ」
市川の声が震えていた。
僕の指が、彼の胸ぐらに届く。
掴む。
「……い、いじめを止めるべきだった……そう思ってた……ずっと……でも、でも……っ」
彼は叫ぶ。
必死に弁明しようとする。
だが、僕の耳には届かない。
僕の中で、そんな言葉はもう価値を持たない。
「遅いんだよ……全部……」
僕は、しゃがんだ。
市川の身体を、無理やり倒す。
床に仰向けに転がった彼の背中から、鈍い音が響く。
皿が疼く。
頭の奥で、何かが蠢いている。
膿が目からこぼれ、涙のように頬を伝った。
「いたい……いたい……っ……から……ッ」
僕は、市川の腰に手をかけた。




