第十一話『帝王の尻子玉』
昼の喧騒が過ぎ去ったあとの河川敷には、妙な静けさが広がっていた。
だがそれは、ただの静寂ではなかった。人間の目が離れた場所で、夜の住人たちが蠢き出す、野性のざわめきだった。
僕は、茂みの奥、倒木とコンクリ片の隙間を利用して作った仮の巣に身を潜めていた。
風の通り道になっているらしく、貯水池の淀んだ空気とは違い、ここには生の匂いがあった。湿った草の香り、動物たちの足音、遠くで吠える犬の声。それら全てが、僕の皮膚に染み込み、皿に響くようだった。
貯水池では得られなかったものが、ここにはあった。
──食料。
この河川敷には、都市のゴミを漁って肥え太ったネズミが無数にいた。街中を這いまわる汚れた毛並みの塊は、夜になると茂みの間からぞろぞろと出てきて、僕の前を何の警戒もなく横切っていく。時折、イタチやテンのような肉食動物も現れるが、彼らは僕を見てすぐに逃げた。僕の姿に、ただならぬ“何か”を感じ取ったのだろう。
最初の夜、僕は耐えきれぬ空腹に駆られ、茂みの中を這うネズミに飛びかかった。
ぬかるんだ土の上で転げまわり、泥と血にまみれながら爪を突き立て、喉元を裂いた。その瞬間、断末魔の悲鳴が夜の川風に乗って流れていった。
口の中に広がる鉄の味。腹の底に落ちていく熱。
ああ、これが生きるということか、とどこか冷静に思った。
その夜から、僕はここで生きていくことを決めた。
ここなら、生き延びられる。飢えることも、狭い視線に晒されることもない。
だがその代わりに──僕は、確かに人間の感覚を捨てつつあった。
水に濡れた毛皮、土のにおい、血のぬめり、皿に落ちる夜露の冷たさ。
それらが、もう“嫌悪”ではなく“馴染み”になっている。
ただ生きること。
以前の僕なら、それを“敗北”と感じていただろう。
けれど今は違う。
僕は生きて、記憶し続けなければならない。
忘れてはならないのだ。
──誰に、何を、されたのかを。
流れる川の音が、過去を洗い流そうと囁く。
だが、心の底にはまだ熱がある。復讐という名の熱が。
この河川敷は、僕にとっての“第二の胎内”だ。
人として生まれ、人として死んだ僕が、怪物として再び息を吹き返した場所。
夜風が、皿の上を静かになぞっていった。
今日もまた、生き延びる。
そして、忘れない。
■
夜はすでに深く、空には薄雲がたなびき、冷たい月明かりが河川敷をかすかに照らしていた。風は湿り気を含み、時折、地面の草をざわめかせていた。
僕の腹は、限界まで空っぽだった。
貯水池を離れてからというもの、満足のいく食事は少なかった。ネズミ、カエル、腐った魚──どれも腹は膨れるが、満たされる感覚はない。
深夜、我慢できずに僕は河川敷の堤防を這い上がった。泥の斜面は急で、足の爪の間に冷たい土が食い込み、膝は濡れた草に擦れて赤くなった。堤防の上、遊歩道には誰の姿もなかったが、風の向こうに“気配”があった。
――グルル……。
茂みの奥から、唸り声が聞こえた。
目を凝らすと、そこにいた。黒く痩せた野犬。牙を剥き、肩を低くして威嚇してくる。一頭、二頭、三頭……闇の中から影が増えるたび、僕の皮膚は粟立った。
逃げ場はない。背後は急な斜面。目の前には飢えた牙。けれど、不思議と怖くなかった。
むしろ……興奮していた。
血の匂い、肉の熱、喉を裂く快感。貯水池では味わえなかった“狩り”が、今目の前にあった。
一頭が吠え、跳びかかってきた。僕は瞬時に姿勢を低くし、横へ転がった。爪を立てて地面を蹴ると、反動で跳ね返り、右手を振り上げた。
ガリッ──ッ。
爪が犬の腹を裂いた。皮膚の下の脂肪と肉が引き裂かれ、赤黒い血が吹き出す。
犬は地面に叩きつけられ、痙攣したのち、動かなくなった。
「……ひとつ。」
唇の端が勝手に歪んだ。笑ったのか、それとも本能が形を歪めただけか。
残る二頭が、低く唸りながら間合いを詰めてきた。
僕は皿に意識を集中させた。
脳の奥でズキンと鈍い痛みが走る。それが刺激になり、視界が鋭くなる。音が澄んで、匂いが濃くなる。世界が、狩るための景色に変わる。
次の一頭が突進してきた。僕は迎え撃ち、咄嗟に相手の首に食らいついた。犬の鳴き声が悲鳴に変わり、血が喉に流れ込んだ。
「ごめん……でも、おまえ、うまそう……」
喉を噛みちぎると、温かい液体が口の中に広がった。
最後の一頭が、動きを止めた。
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……逃げる? それも、あり。でも……見たよね。」
犬と目が合った。
その瞬間、僕は飛びかかった。
首を捻じり、背骨の音を聞いた。犬は抵抗もせず、ぐったりと力を失った。
しばらく、僕はそのまま屍の上に座っていた。胸が上下し、口の端から血が滴る。風が吹くたび、皿が冷たく震えた。
「……これで、てっぺん。」
その夜、僕は野犬三頭を喰らった。
肉は固く、筋ばっていたが、生きるための味がした。
河川敷の闇は、静かだった。
もうここには、僕を脅かすものはいない。
僕は、この地の頂点に立った。
夜の風が、頭の皿を撫でて通り過ぎた。
■
夜の帳が明ける頃、河川敷の空は墨色から鈍い灰色に変わりつつあった。朝露に濡れた草木がわずかに揺れ、遠くでカラスが一声鳴いた。
僕は葦の茂みの奥に身を潜めていた。泥にまみれた腹がじわじわと冷えていく。昨夜、野犬の骨を川に沈めて戻ったばかりだった。空腹は満たされていたが、心は不安定だった。
夜は僕の世界だった。影の中では誰も僕に逆らえない。犬も、獣も、虫すら僕を避けて通る。だが、太陽が昇ればすべてが変わる。
人間の世界が始まるのだ。
舗装された遊歩道を、重い足取りの靴音が響いた。朝の冷たい風にのって、微かにラジオの音が届く。スピーカーから洩れる電子音とアナウンサーの抑揚が、湿った空気を震わせていた。
「……都内○○区、先日発見された男性の遺体は、心霊系動画配信者として活動していた人物と確認され……」
僕の目が瞬いた。草の合間から、声の主を探す。小太りの中年男性が、青いジャージ姿で歩いていた。肩から下げたポータブルラジオが、ニュースを淡々と読み上げている。
「……これを受け、同区で殺害された美容外科医・黒沢明彦との関連が疑われ、貯水池の水を抜き一斉捜索が行われ……」
僕の心臓が、一瞬止まった。
貯水池が――干された?
あの夜、動画配信者を沈めた、あの水面。その底に沈んだ証拠。それらすべてが、人間の手によって露わにされたのか。
だが、そこに僕はいなかった。
「……毛髪や足跡など動物のものと思われる痕跡も……」
報道の続きがラジオから漏れる中、男は何の疑念も抱かぬまま歩き去っていった。
僕は草むらの奥で、小さく息をついた。泥の匂いとともに、ほんのわずかに安心が混じった呼吸。
――助かった。
あのまま池に居たら、確実に捕まっていた。夜の王でも、昼の正義には勝てなかったかもしれない。
ここで良かった。この河川敷は広く、逃げ場がある。獲物もいる。影も深い。
しかし、安心のなかに、また別の感情が芽を出す。
忘れかけていたもの。
僕が、なぜ河童になったのか。
なぜ人間を捨てたのか。
――あいつらが、僕を壊した。
黒沢だけではない。真の標的は、まだ地上でぬくぬくと眠っている。
市川。担任。教室で僕を公開処刑にした偽善者。
柿崎俊。
三輪瑛士。
渡瀬駿介。
長谷川琴音。
僕の顔を嗤い、心を踏みにじった者たち。
皿の上に風が吹いた。朝焼けの空が、やがて昼の光へと変わろうとしていた。
僕は、泥の中でゆっくりと姿勢を低くした。
夜が来れば、また僕の時間が始まる。
それまで、もう少しだけ息を潜めていよう。
夜の河川敷は湿っていた。
地面はぬかるみ、葦の茂みの間からネズミの小さな足音が聞こえていた。風が吹くたび、皿の水面が静かに揺れる。
僕は草陰に身を潜め、月を見上げながら舌で唇を舐めた。
この数日、満ち足りていた。獲物を仕留め、血と肉で腹を満たし、もう誰にも脅かされることはない――はずだった。
だけど、満腹は長く続かない。
それは胃袋の話じゃない。
心だ。復讐心だ。
何より、僕を“河童”に変えたあいつら。あの教室で、あの瞬間に、僕の人間性をズタズタに引き裂いた者たち。
あの地獄の始まりに火をつけた張本人――担任、市川。
「……あの野郎」
口の端が勝手に吊り上がった。にやけた顔を押さえる気にもなれない。
そうだ。あいつからだ。
偽善の塊みたいな声で笑い、クラスの人気者ヅラして、僕の苦しみに知らん顔してたあの人間。
いや、笑ってた。僕を、教室の真ん中に立たせて、みんなの前で“変人”として晒し者にしたあの瞬間、市川の目は楽しんでた。
――殺す順番は、まずお前からだ。
爪がぎゅっと地面の草を掴んだ。
そのとき、不意に脳裏に一つの記憶が蘇る。
あれは、まだ人間だったころ。
黒沢のクリニックに行く前の夜、僕はネットで“河童”という存在について調べていた。
ふざけた都市伝説ばかりの中に、一文があった。
《河童の好物は尻子玉》
――しりこだま。
「……あはっ」
喉の奥で笑いが漏れた。
しりこだま。尻の奥にある魂。抜かれると死ぬという、昔話めいたオカルト。
その言葉を思い出した瞬間、僕の内側に蠢く“何か”が、ドクンと脈打った。
「見つけてやるよ、市川……お前の尻子玉。どこにあるか、ちゃんと……探して、抜いて、引きずり出してやる……っ」
皿が震えた。
僕の肩が笑いで震えた。
夜の風が、僕の背中をなでて通り過ぎていく。
今はまだ遠い教室の灯りが、次の舞台を照らしている気がした。
この血の熱を、冷やさせてたまるか。
僕は、人間をやめた。
次は――あいつの番だ。
■
雲の切れ間から、鈍く赤い月が顔を覗かせていた。濁った光が校舎の屋根を撫で、まるで死者の吐息のように夜気を染める。灯り一つないその建物は、巨大な骸骨のように沈黙の中に佇んでいた。
僕はフェンスの陰に身を伏せていた。湿った皮膚に夜露がまとわりつき、頭上の皿には冷たい水がじっとりと溜まっている。もう僕は制服を着たただの生徒ではない。人でも獣でもない、闇の中の“なにか”だった。
校門には頑丈そうな錠前がかけられていたが、それは僕にとって意味を持たない。低く身を屈めて植え込みの隙間をすり抜け、金網の継ぎ目に爪を立て、音もなくひらりと飛び越えた。人間だった頃には感じたことのない軽さとしなやかさ。
コンクリートの地面が足裏に触れた瞬間、背筋を冷たい記憶が這い上がる。この学校。ここは、僕の記憶の棺だった。笑われ、罵られ、無視され、叩かれた日々。今も耳に残る、あの教室のざわめき。
まず向かうは職員室だ。目的は市川の机。下見としての侵入。だがその行為一つ一つが、復讐の炎に油を注いでいくのを感じる。
裏口のドアノブをそっと揺らす。古びた校舎の錠は簡単に音を立てて軋み、開いた。中から漂うのは埃と古紙の匂い。まるで、過去の亡霊たちがそこに息づいているかのようだ。
僕は静かに廊下を進んだ。薄暗い蛍光灯の下、生徒たちが作った色あせた掲示物が壁に残っていた。そこに僕の名前や写真はない。当たり前だ。僕は最初から“いないもの”として扱われていたのだから。
職員室の扉を開ける。重い音。誰もいないはずなのに、微かに背筋をなぞるような視線の感覚があった。
市川の机は、入口から三つ目の列の端にあった。そこには彼の整頓された私物、文房具、そして飾られた写真立て。クラス集合写真の中、作り笑いを浮かべる市川と、その周囲で笑う生徒たち。だが、そこにも僕の姿はない。
机の引き出しを開ける。ペンケース、書類、予定表。指先で触れるたび、市川という人間の呼吸が聞こえてくる気がした。
「ふふ……お前の、尻子玉……」
言葉にするだけで、にやにやと口元が緩んだ。ああ、そうだ。僕は昔、ネットで“河童”について調べていたっけ。あのとき読んだ記事に、“河童の好物は尻子玉”と書かれていた。
その言葉が、今では奇妙に現実味を帯びて胸の奥に響いてくる。
――市川の、尻子玉。探して、抜いてやろう。
どんな顔をするのだろう。悲鳴を上げるか、それとも泣くのか? そんな妄想に心が躍る。心臓がドクンドクンと強く鳴った。
そのとき、廊下の奥で何かが軋んだ。
風か、それとも――誰か?
僕は即座に物陰へ身を滑り込ませた。息を殺し、耳を澄ませる。
……音は止んだ。
でも、全身の毛穴が泡立っている。
恐怖じゃない。これは、狩りを前にした捕食者の興奮だ。
僕はゆっくりと扉を閉じた。
静かに、静かに。
その背後で、また軋む音がひとつだけ聞こえた。
だけど、もう迷いはない。
僕は夜の闇に溶け込むように、校舎を後にした。
市川。お前の夜は、すでに始まってるんだよ。




