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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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9/19

飛翔訓練

学校恋愛怪異の翌日、俺の肩はまだ少し痛かった。


正確には、痛いというより、身体の中で何かが一度外れて、無理やり元の場所へ押し戻された記憶が残っている感じだ。蓮司の無畏で処置は済んでいる。骨も筋もつながっている。腹の傷も、昨日の夜に白い指で貫かれたとは思えない程度には塞がっている。


ただし、身体が治ったからといって、身体のほうが納得してくれるわけではない。


「だから俺は言ったんだよ」


三枝神社の石段を上りながら、俺は背中の黒い包みに向かって愚痴をこぼした。


「夜の学校なんか行くもんじゃないって。暗室なんか入るもんじゃないって。写真部の部室で写真に襲われる人生とか、普通の高校生の履修範囲に入ってねぇだろ」


「普通の高校生は、借りた神刀の返却期限を破りません」


隣を歩くこよりが、涼しい声で言った。


学校帰りの制服姿である。肩には薄い鞄。長いツインテールはいつも通り整っていて、昨日の夜に写真の刃で腕や首筋を裂かれた人間には見えない。


「破ってねぇよ。今回はちゃんと翌日に返しに来てるだろ」

「返却期限は昨夜の戦闘終了後、速やかに、です」

「そのルール初耳なんだけど」

「今、教えました」

「後出しで人を罪人にするな」


俺が言うと、後ろから三橋蓮司が静かに首を振った。


「三上。契約とは、明文化されていない部分にこそ品性が出る」

「お前まで神社側につくな。お前は中立の眼鏡枠だろ」

「眼鏡はかけていない」

「そこじゃねぇよ」


蓮司は本気で分かっていない顔をしていた。こいつは怪異相手には鋭いのに、日常会話ではときどき恐ろしく鈍い。


石段の上、鳥居の向こうには夕暮れの三枝神社があった。橙色の光が拝殿の屋根をなぞり、境内の砂利を薄く染めている。昼間の学校のざわめきが遠ざかり、代わりに、風で揺れる榊の葉音だけが耳に残った。


俺は背中の界喰(かいばみ)を少しだけ持ち直す。


重い。


物理的な重さもある。だが、それ以上に、背負っている間だけ背骨の内側に黒い水が流れているような気配がある。昨日、暗室で灰色の縫い目を喰った時から、その気配は少しだけ濃くなっていた。


好きな人が二人いる。


その軽い一文から始まった怪異は、結局、七瀬という少女の存在を消しかけていた。俺たちは何とか、彼女の名前を呼び戻した。けれど、名字はまだ戻っていない。記憶も、すべて元通りになったわけではない。


界喰(かいばみ)は、喰う。


敵を喰う。理屈を喰う。間違えれば、守りたいものまで喰う。


「……やっぱ危ないよな、これ」

「今さらですか」


こよりが横目で俺を見た。


「いえ、今さらでも理解できたなら上出来です」

「褒め方が九割馬鹿にしてる」

「一割は褒めています」

「一割で人間関係を維持しようとするな」


境内に入ると、社務所の縁側に三枝九衛門(きゅうえもん)が座っていた。白髪の宮司は茶を啜りながら、最初から俺たちが来ることを知っていたような顔をしている。


「来たか」

「来ました」


俺はできるだけ礼儀正しく頭を下げた。こういう時は、最初に低姿勢で入るに限る。


界喰(かいばみ)、返却に参りました」

「殊勝な口ぶりじゃな」

「中身も殊勝です」

「中身が殊勝な者は、己でそう言わん」


九衛門は湯呑みを置き、俺の背中の黒い包みを見た。


その目が、わずかに細くなる。


「よく戻した」


からかいも小言もない声だった。


俺は少しだけ拍子抜けする。


「怒らないんですか」

「怒る理由はある。だが、まず戻したことは認めねばならん」


九衛門は立ち上がり、俺の前まで来た。


「お主、今回は何を喰わせた」

「……写真の縫い目と、留め具みたいな核です。七瀬って子そのものじゃなくて、七瀬を最初からいなかったことにしようとしてた理屈のほう」

「そうか」


九衛門は頷いた。


「ならば上出来じゃ」


またそれか、と思った。


褒められているはずなのに、背筋がぞわぞわする。三枝家の褒め言葉は信用ならない。褒めた直後に、罰則とか修行とか追加任務が飛んでくる。


九衛門は俺の警戒を見透かしたように笑った。


「顔に出ておる」

「出してます」

「隠せ」

「隠すほど器用じゃないんで」


こよりが小さく息を吐いた。


「三上さん、早く返却してください。界喰を持ったまま祖父と漫才を始めないでください」

「漫才じゃねぇ。命懸けの交渉だ」

「返すだけでしょう」

「返すだけで終わった試しがないだろ、この神社」


その時、黒い包みの内側で、界喰が一度だけ脈打った。


布越しに、どくん、と生き物の心臓のような感触が伝わる。


俺は反射的に手を離しかけた。


九衛門の手が、俺の手首を押さえる。


「離すな。祭壇に置くまでは、お主が持て」

「今、これ、鳴りましたよね」

「鳴ったな」

「何でそんな平然としてるんですか」

「鳴るものは鳴る」

「その理屈で納得できるの、神社関係者だけだぞ」


九衛門は答えず、拝殿の奥へ進んだ。俺たちはその後に続く。夕暮れの光が板間で途切れ、祭壇の前だけが薄暗い。


俺は界喰を祭壇へ置いた。


黒い布の中で、もう一度だけ刀が脈打つ。


その瞬間、足元にいた何かの気配が、すっと遠ざかった。


阿伽だ。


声はない。ただ、いつも足首の辺りに絡んでいる薄い風のような気配が、祭壇の影へ退く。空劫の気配もまた、俺の背中から一歩離れた場所へ沈んだ。


急に、背中が軽くなった。


そして、軽すぎて不安になった。


「……嫌な感じだな」

界喰(かいばみ)が手元にないことが、か?」


九衛門が聞いた。


俺は少し考えた。


「違います。いや、違わないけど。重いし、怖いし、持っていたくはないんですけど、ないとないで、見えてるものに手が届かない気がする」


言ってから、自分で嫌になった。


まるで、界喰(かいばみ)に頼っているみたいだった。


こよりは何も言わなかった。蓮司もだ。ただ九衛門だけが、少しだけ口元を緩めた。


「なら、手が届くようにせねばならん」


嫌な予感がした。


非常に嫌な予感がした。


「何をですか」

「お主の足をじゃ」

「足?」

阿伽(あか)を使え」


九衛門は祭壇の影を見た。


「界喰を持っておらぬ時でも、お主には封使(ふうし)がある。阿伽は空を渡る封使(ふうし)。お主が扱えれば、見えたものへ届く手段は一つ増える」

「いや、阿伽(あか)は飛べるんでしょうけど、俺は飛べないですよ」



「飛べる」


短い声がした。


俺の足元からだった。


阿伽(あか)の声は、いつも短い。必要なことだけを言う。しかも、その必要性を説明しない。


「今、飛べるって言った?」

「是」

「説明は?」

「否」

「お前さ、たまには人間の不安に寄り添う努力をしない?」


返事はなかった。


封使(ふうし)はだいたいこうだ。こっちが何を聞いても、自分たちのことは語らない。使い方だけ雑に渡してくる。説明書を失くした家電より不親切である。


「というわけで、境内で訓練です」


こよりが当然のように言った。


「何が、というわけで、だ。界喰(かいばみ)返したら帰る流れだったろ」

「帰る前に飛びます」

「帰宅前の寄り道みたいに言うな」

「三上さんは、昨日の戦闘で決着の場面に阿伽(あか)を使いませんでした」

「使う余裕がなかったんだよ。腹に腕刺さってたし、肩外れてたし」

「だから、余裕がない時でも使えるようにします」


正論だった。


正論は嫌いだ。


特に、痛い目に遭った直後の正論は本当に嫌いだ。


そこで九衛門さんが言う。


「その前に、忘れてはならぬことがある。こより」


それを聞いて、こよりは慌てて懐から吸印札を取り出し、九衛門に渡す。写真の幽禍を封じた札。

九衛門が祝詞を唱えると、札が黒く変色。俺たちの封使が黒い腕を伸ばし、たちまち喰い荒らした。


「これを忘れると契約違反になるからの」

「吸印できなかった場合とかはどうなるんです?」

「そういう場合は仕方ないが、わざと対価を与えない、というのは許されないと心得よ」


 対価を払わなかったらどうなるのか、俺は聞けなかった。聞きたくもない。


蓮司が腕を組んだ。


「さて、対価も支払い終えた。三上。飛翔は有用だ。高所からの観察、立体的な回避、界傷(かいしょう)への接近。君の役割と相性がいい」

「分かってるよ。分かってるけど、人間は本来、地面と仲良くする生き物なんだよ」

「君はよく地面に叩きつけられている。仲は悪くないはずだ」

「そういう仲良しは別れたほうがいい」


九衛門が柏手を一つ打った。


「始めよ」


俺の意見は、またしても採用されなかった。


境内の端、社務所の裏手には小さな稽古場がある。普段はこよりや蓮司が祓いの型を確認する場所らしい。人目はない。鳥居の外からも見えない。封使の能力を使っても、一般人に見られる心配は少ない。


ただし、安全とは限らない。


「まずは一尺」


こよりが言った。


「一尺って、三十センチくらいか」

「はい。足裏を地面から離し、姿勢を保ってください」

「それ、できたらもう飛んでない?」

「飛んでください」

「話が早すぎる」


俺は溜息をつき、足元を見る。


阿伽(あか)


影が薄く揺れた。

その瞬間、足首に冷たい風が巻いた。


地面が遠ざかる。


一尺。


たぶん、本当にそれくらいだった。


「お」


浮いている。


俺の足が、地面から離れている。


思ったよりも簡単だった。身体がふわりと軽く、靴底の下に見えない水面があるような感覚。阿伽の気配が足の裏から脛、膝、腰へと流れて、俺の身体を下から支えている。


「できてるぞ」

「油断しないでください」


こよりが言った直後、身体が横へ滑った。


「うおっ」


足元の見えない水面が傾く。俺は慌てて腕を振った。身体は戻らない。むしろ勢いがつく。


「三上、右へ流れている」

「見りゃ分かる!」

「戻れますか」

「戻れたら叫んでねぇ!」


俺の身体は稽古場の端へ流れ、竹垣へ突っ込んだ。


衝撃。


竹がしなる音。


俺の額に、竹の葉が降ってきた。


こよりが静かに言った。


「一尺で墜落する人、初めて見ました」

「浮いてたから墜落だろうけど、言葉の圧が強い」

「記録しておく」


蓮司が真面目に手帳を開いた。


「記録するな」

「初回飛翔、一尺。横流れ。竹垣へ接触」

「俺の黒歴史を公文書にするな」


そこから訓練は続いた。


一尺。三尺。人の背丈ほど。社務所の屋根より少し下。


高さが増すにつれ、俺の悲鳴も増えた。阿伽は支えてくれる。だが、支えるだけだ。どう曲がるか、どう止まるか、どこを見るかは俺が決めなければならない。


これが難しい。


地面に立っている時、人間は無意識に足裏で世界を測っている。重心、傾き、踏み込み、止まり方。だが、空中ではその全部が怪しくなる。足が地面に触れていないだけで、身体の中の基準がひっくり返る。


「三上さん、視線が低いです」


こよりが下から言う。


「怖いから下見てんだよ」

「落ちる場所を見るから落ちます。行く場所を見てください」

「人生にも応用できそうな説教やめろ」

「できますよ」

「できるのかよ」


俺は歯を食いしばり、正面を見る。

社務所の屋根。その向こうの欅。さらに奥の鳥居。

阿伽の風が、背中へ回った。


俺は息を吸い、空中で一歩を踏み出すように身体を傾けた。

次の瞬間、風が押した。

俺の身体が境内を滑る。

地面が流れる。

夕暮れの空気が頬を叩く。

怖い。

だが、同時に、少しだけ気持ちがよかった。

見えた場所へ、届く。


昨日の暗室で、半拍でもこの感覚を使えていれば、もっと早く留め具へ届けたかもしれない。古物店の蔵でも、白石の舞台でも、見えたものへ手を伸ばす方法は増えたかもしれない。


「……なるほどな」


俺は小さく呟いた。


「これは、逃げるのにも便利だ」

「そこで逃走を第一用途にしないでください」


下からこよりの声が飛んだ。


気を取られたのが悪かった。


俺はバランスを崩し、回転しながら落下。景色が回転し、上下もわからなくなる。

衝撃とともに停止。

なんだか柔らかい地面だな。


俺はこよりの豊かな胸に顔を埋めていた。


俺は慌てて離れる。


「待て。これは事故だ。阿伽が悪い」


こよりは起き上がると尻の砂を払う。俺をぎろり、とにらんだ。こえぇ。


「そうですね・・・事故です」


こよりは俺をブン殴りたいだろうが、自分が言い出した飛行訓練でもあるのだからできないのだろう。拳はしっかり作っている。うっかり殴られたら胴に風穴が空く。


その時、境内に誰かが上がってきた。


小柄な少女。


雨宮日和(あまみやひより)だった。


日和はあの時とは見違えるほど表情が明るい。古物店の事件の時よりも、肩の力が抜けているように見えた。


「あの、これ。母からです」


日和は風呂敷包みをこよりへ差し出した。


「この前のお礼にって。大したものじゃないんですけど、古物店に残っていた小さな香炉で……売るものじゃなくて、神社に置いてもらえたらって」


こよりは風呂敷を受け取り、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。お母様にも、よろしくお伝えください」

「はい」


日和は少し迷ってから、俺のほうを見た。


「あと、三上さんにも」

「俺?」

「この前、ありがとうございました。おじいちゃんの帳面、壊さないでくれて」


そう言われると、どう返せばいいか分からなくなる。


俺は頭を掻いた。


「俺だけじゃない。こよりが殴って、三橋が開いて、俺が斬っただけだ」

「それでも、です」


日和は小さく笑った。


「見えてるものを、ちゃんと見てくれたから」


その言葉は、思ったよりも深く刺さった。


見えるだけ。


古物店で貼られた札の文字を、俺はまだ覚えている。あの時は足が止まった。けれど、日和はその「見えるだけ」を責める言葉ではなく、感謝の言葉として言った。


俺は少しだけ視線を逸らした。


「……そういうの、面と向かって言うな。照れるだろ」

「三上さんでも照れるんですね」

「俺を何だと思ってんだ」

「よく文句を言う人」

「正確すぎて反論しづらい」


こよりが、静かに風呂敷包みを抱え直した。


「日和さん、今日は一人で来たのですか」

「はい。明るいうちなら大丈夫かなって。母も、神社にはちゃんとお礼を言っておいでって」

「では、帰りは鳥居まで送ります」


古物店の奥で、未鑑定の札に覆われていた少女はもういない。もちろん、全部が元通りになったわけではないだろう。店の整理は続く。残すものと手放すものを選ぶ作業は、きっと楽ではない。


それでも、日和はここへ来て、礼を言って、笑った。


それだけで、あの事件が完全な失敗ではなかったと思える。


「三上さん」


こよりが言った。


「何だよ」

「日和さんを鳥居まで送ったら、訓練再開です」

「この流れで?」

「この流れで」

「人助けして、礼を言われて、綺麗に終わる場面じゃないのか」


 日和の背中が石段の下へ消え、商店街の明かりに紛れて見えなくなった。こよりは鳥居の方へ一枚札を飛ばし、境内の外に人影がないことを確かめてから、ようやくこちらを振り返った。


「では、訓練再開です」


 蓮司が手帳を閉じながら言った。


「次は、突発的な障害物を想定した制動訓練が必要だ」

「障害物って、こよりのこと?」

「人間を障害物とは呼ばない。保護対象だ」

「その正論で殴る感じ、今日も絶好調だな」



俺は黙った。


こよりがこちらを見た。


「三上さん」

「何だよ」

「今、少し調子に乗りましたね」

「乗ってない」

「顔に出ています」

「出てない」

「では次、五間先の榊まで飛んで、枝に触れて戻ってください」

「急に距離を伸ばすな」

「格好いいところを見せたいのでしょう」

「誰もそんなこと言ってない」


夕暮れは、もう夜に変わりかけている。


境内の灯籠に火が入り、砂利の白さだけが浮かび上がった。祭壇の奥では界喰が眠っている。黒い刀は俺の背中にはない。手元にもない。


けれど、足元には阿伽がいる。


「阿伽」

「御意」

「今度は、突っ込む前に止まれよ」

「否」

「否じゃねぇって」


風が足首に巻く。


俺の身体が、ゆっくりと地面を離れた。


今度は下を見ない。


榊の枝を見る。


行く場所を見る。


見えるだけなら、見えた場所へ届けばいい。


古物店で、そう思った。暗室で、そうできなかった。だから今、練習する。


嫌々だ。


ものすごく嫌々だ。


だが、嫌だと言いながらでも、やらなければならないことはある。


「三上さん、姿勢が崩れています」

「うるせぇ!それどころじゃねぇ!」

「右肩を下げすぎです」

「昨日外れた肩に注文が多い!」

「蓮司さん」

「治っている。問題ない」

「問題ないらしいです」

「医療担当が敵に回った!」


俺は叫びながら、夕暮れの境内を飛んだ。


いや、飛んだというより、滑った。よろけた。半分落ちた。それでも、さっきよりは少しだけ真っ直ぐ進めた。


榊の枝が近づく。


指先が触れる。


葉が揺れた。


その瞬間、身体がぐらりと傾いた。


「戻れ、阿伽!」

「是」


風が背中を押す。


俺は半回転しながら戻り、稽古場の中央へ着地した。


着地、というより墜落に近い。膝をつき、片手を砂利につき、ぜえぜえと息を吐く。


だが、竹垣には突っ込んでいない。


誰にも突っ込んでいない。


それだけで大進歩だ。


こよりが静かに頷いた。


「悪くありません」

「お前の悪くありません、たぶん最高評価だよな」

「調子に乗らないでください」

「乗る前に落ちてるから大丈夫だ」


蓮司が手帳に何かを書き込む。


「二回目。五間飛翔。榊に接触。帰還成功。着地不安定」

「最後いらないだろ」

「事実だ」

「蓮司よ。お前が高校に入って二人目の彼女とデートをした後にその日の絵日記を見せて振られたのを覚えているか?」

「事実を報告したまでだ」


九衛門が社務所の縁側からこちらを見ていた。


いつの間に戻っていたのか、湯呑みを片手に、楽しそうに目を細めている。


「少しは形になったのう」

「これで形になってる判定なんですか」

「最初は皆、落ちる」

「落ちる前提なんだ」

「飛ぶとは、落ち方を選ぶことでもある」


妙に格好いいことを言われた。


反論しようとして、やめる。


たぶん、そうなのだろう。


見えるだけでは届かない。


けれど、届こうとすれば落ちる。


落ちるのが怖いから飛ばないのか。落ちる場所を選ぶために飛ぶのか。


俺はまだ、そのあたりをうまく決められない。


ただ、日和が笑っていたことを思い出した。


七瀬の名前が掲示板に戻っていたことを思い出した。


古物店の帳面が、まだ壊れずに残っていることを思い出した。


見えたものに手を伸ばして、全部うまくいくわけではない。


それでも、伸ばさなければ届かない。


「……もう一回だけな」


俺が言うと、こよりが少しだけ目を丸くした。


「珍しいですね。自分から訓練を続けるなんて」

「勘違いするな。これは、次に空中で誰かに突っ込まないための保険だ」

「はい」


こよりは素直に頷いた。


「そういうことにしておきます」


その言い方が腹立たしかったので、俺は何か言い返そうとした。


その時、賽銭箱のほうで、からん、と小さな音が鳴った。


全員が振り向く。


境内に参拝客はいない。


鳥居の外にも、人影はない。


それなのに、賽銭箱の上に、一枚の紙片が置かれていた。


紙の端は、濡れた写真のように波打っている。


こよりが近づき、札越しにそれをつまみ上げた。


「……またですか」

「帰っていいか」

「まだ何も読んでいません」

「読んだら帰れなくなるだろ」


蓮司が真面目に頷いた。


「経験則としては正しい」

「正しいなら止めろ」


こよりは紙片を開いた。


そこには、細い文字でこう書かれていた。


『屋上に、まだ一人います』


風が止まった。


夕暮れの境内が、ほんの少しだけ暗くなる。


俺は祭壇のほうを見た。


界喰(かいばみ)は返したばかりだ。


阿伽(あか)の飛翔は、まだ五間で着地不安定。


そして、明らかに次の面倒事が始まっている。


俺は心底嫌そうに顔をしかめた。


「……明日も学校行きたくねぇ」


こよりは紙片を畳み、静かに言った。


「行きます」

「知ってたよ」


足元で、阿伽の気配が薄く揺れた。


返事はない。


ただ、次は落とさない、とでも言うように、風だけが俺の足首に絡んでいた。

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