未下校者(前半)
その夜は寝付けなかった。
この一年、幽禍をちょくちょく倒したり逃げたりしてきたが、最近は心に来る依頼が多い。
俺は今の感情を上手く言葉にできなかった。
思い切って布団から出ると二階の自室の窓を開け、ベランダに出る。外の空気は少し冷たかった。
「阿伽・・・」
俺がそう呟くと、身体が浮く。飛ぶ。俺はふわり、と屋根の上に上がる。
屋根の上から見る東京の夜景は美しい。窓から見る景色とはまた違う。
「行こう」
俺はさらに上昇。夜の空は深く、昏く、まるで海の底のようだ。
五十メートル、百メートル。百五十メートル。
足の裏が縮むような高さだった。落ちれば確実に死ぬはずだ。だが、不思議と死ぬ気がしなかった。慣れた、というのとは少し違う。
五分ほど上空にいると、次第に東京の夜景を楽しむ余裕も出てくる。遠く大門のほうに赤く見えるのは東京タワーか。
下を見ると民家の屋根が連なる。自分の家の屋根がどれだったかわからない。普段見ることなんてないしな。
この高度なら空を飛んでいてもおそらく誰に見られることもない。それほどに夜の空は海のように深かった。
俺は速度を上げて飛ぶ。遥か遠くのビル。やがてビルの屋上に、俺はゆっくりと着地する。
「はは、すげぇ。こんなところまで来ちゃったよ」
俺は空劫の能力を発現し、姿を消す。そうしてビルの屋上から身を投げた。
落ちながら、ビルの窓明かりが視界を流れていく。そこには、まだ働いている人影や、バーで笑い合う客たちの輪郭が、ほんの一瞬だけ浮かんでは消えた。
俺は両手を広げると、再び阿伽の能力を起動。高度二十メートルあたりで水平飛行に移行、家の方向に向かう。この高さだと姿を消していないと見つかる可能性がありそうだ。
ほんの数分でベランダに戻る。完全に人間離れした自分に興奮し、眠れるか心配だったが、布団に戻ると驚くほど速く眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めた瞬間から、身体が妙に軽かった。
寝不足のはずだった。昨夜、俺は夜中にベランダから抜け出し、阿伽で東京の空を飛び、空劫で姿を消したままビルの谷間を滑って帰ってきた。普通なら興奮で眠れないか、反動で全身が鉛みたいになっているかのどちらかだと思う。
だが、実際には違った。
目覚ましが鳴る前に目が開き、天井を見上げたまま、昨夜の夜景を思い出していた。屋根の連なり。遠くに赤く灯っていた東京タワー。自分の家がわからなくなるほど高い空。窓明かりの列が、水底の街みたいに流れていく光景。
そして、落ちても死ぬ気がしなかった自分。
「……それが一番まずい気がするな」
布団の中で呟く。
怖くなかったわけじゃない。百五十メートルの高さまで上がった時、足の裏が縮むような感覚はあった。もし阿伽が途切れたら、もし集中が切れたら、もし風に流されたら。考えればいくらでも怖がる材料はあった。
それでも、俺は飛んだ。
しかも帰ってきた後、子供みたいにすぐ寝た。
恐怖が消えたわけではない。たぶん、境目がずれている。自分にできることと、できないこと。人間が踏み込んでいい場所と、踏み込んではいけない場所。その線が、昨夜の夜空で一本、勝手に引き直されたような気がした。
制服に着替えながらスマホを見る。
こよりからの通知はない。
当然だ。知られていない。知られているはずがない。
俺はそう自分に言い聞かせた。空劫で姿を消していたし、低高度では人目も避けた。家に戻る時も、ベランダに降りてから能力を解いた。少なくとも、近所の誰かに見られたとは思えない。
だから問題はない。
問題はないはずなのに、なぜか制服の襟を直す手が少しだけぎこちなくなった。
「……別に悪いことはしてない。たぶん」
最後に余計な一言がついたせいで、説得力は自分でも半分以下だった。
家を出ると、朝の空は昨日の夜とはまるで違っていた。薄い青色で、どこまでも軽い。昨夜はあれほど深く、暗く、海の底みたいだったのに、朝になると同じ空がただの通学路の背景になる。
そういう何でもない変化に少し救われながら、俺は学校へ向かった。
そして校門を見た瞬間、救われた気分は半分ほど消えた。
「……また学校か」
自分の口から出た声が、想像以上に疲れていた。
学校へ行くのは当然だ。俺は高校生で、今日は平日で、出席日数という逃れがたい概念がある。だから学校へ向かうこと自体はおかしくない。
おかしくないのだが、最近の俺にとって学校は、授業を受ける場所というより、怪異が順番待ちしている場所になりつつある。
「学校って、もっとこう、眠いとか、宿題だるいとか、小テスト滅びろとか、そういう理由で嫌になる場所じゃなかったか」
「ずいぶん朝から詩的な不登校願望ですね」
背後から声がして振り返ると、こよりが立っていた。白いブラウスに紺のスカート。学校指定の鞄を片手に持ち、いつものように背筋が伸びている。巫女装束ではないこよりは、こうして見ると普通の女子高生に見える。普通というには、少しだけ姿勢が良すぎて、少しだけ目が鋭いが。
「不登校願望じゃない。怪異登校過多への抗議だ」
「何ですか、その言葉」
「俺の高校生活の現状を端的に表した新語」
「流行らないと思います」
「流行らなくていい。流行ったら終わりだろ、そんな高校生活」
こよりは小さく息を吐いた。呆れたようでもあり、少しだけ笑っているようでもあった。
「それで、よく眠れましたか」
何でもない質問だった。
なのに、俺は一拍だけ返事が遅れた。
「まあ、そこそこ」
「そうですか。顔色は悪くありませんね」
「健康優良怪異被害者だからな」
「その肩書きも流行らないと思います」
「流行ったら終わりだろ、そんな肩書き」
こよりは校門の方へ歩き出した。俺も隣に並ぶ。
彼女は何も知らない。
少なくとも、昨夜の飛行については何も言わない。俺は内心で胸を撫で下ろした。こよりに知られたら、確実に説教される。しかも、ただ怒鳴られるのではない。静かに、淡々と、こちらが反論できない順番で危険性を並べられる。あれは効く。普通に怒鳴られるより心にくる。
だから黙っておく。
これは隠し事ではない。報告の時期を慎重に検討しているだけだ。
自分でもかなり苦しい言い訳だと思った。
その直後だった。
校舎の方から、チャイムが鳴った。
まだ始業には早い。予鈴ですらない時間だ。
チャイムは一度きりで止まらなかった。二度、三度。間隔が少しおかしい。普通のチャイムなら決まった旋律として流れるはずなのに、今聞こえている音は、誰かが古いベルを一音ずつ押しているように不揃いだった。
こよりの表情が変わる。
校内放送が入った。
『本日の未下校者は、一名です』
朝の校門前に、不自然なほど平坦な声が落ちた。
未下校者。
朝なのに。
『屋上に、まだ一人います』
空気が冷えた。
俺は反射的に校舎を見上げる。朝日を受けた窓が白く光り、屋上のフェンスが細い影になっていた。そこに誰かがいるようには見えない。だが、見えないことが、むしろ気味悪かった。
こよりが俺の袖を掴む。
「今は動かないでください」
「でも、今の放送」
「一般生徒がいます。ここで封使を使えば違反です」
「わかってる」
わかっているが、身体は勝手に動きそうになっていた。
屋上なんて、今ならすぐに行ける。
そう思った瞬間、昨夜の空気が肺の奥に戻ってきた。空劫で姿を消し、阿伽で上がれば、階段を使う必要もない。人目を避けて外から接近できる。
だが、こよりの手が袖を掴んでいる。その強さが、俺を現実に引き戻した。
「……くそ。朝から学校怪異かよ。せめて一時間目が終わってからにしてくれ」
「時間指定に応じる怪異なら苦労しません」
「いや、でもあるだろ。怪異側にもマナーが」
「ありません」
「即答するなよ」
そんなやり取りをしている間に、放送は途切れた。周囲の生徒たちは首を傾げているだけだった。何か変だとは思っている。しかし、それ以上の不安には届いていない。すぐに友人との会話へ戻る者もいる。
校門脇の植え込み近くに、蓮司の姿があった。彼はすでに手帳を開いていた。眼鏡の奥の目が、放送室のある校舎を見ている。
「聞いたか」
「ああ。内容は記録した。『本日の未下校者は、一名です』『屋上に、まだ一人います』。昨夜、神社に置かれていた紙片と同一文面だ」
「朝に未下校者って、言葉として破綻してないか」
「破綻している。だからこそ怪異性が高い」
「嫌な説得力だな」
蓮司は手帳に何かを書き足す。
「興味深いのは、周囲の反応が薄いことだ。異常を異常として保持できていない。聞こえてはいるが、記憶に残りにくい可能性がある」
俺たちはいったん普通に教室へ向かった。
普通に、というのが重要だった。生徒の前で慌てるわけにはいかない。封使も使えない。屋上へ走ることもできない。今の俺たちにできるのは、何食わぬ顔で学校生活に紛れ込むことだけだった。
それが、ひどくもどかしい。
教室に入ると、いつものざわめきがあった。朝練の話をしている奴。小テストの存在を今思い出して絶望している奴。机に突っ伏して寝ている奴。
いつもの教室だ。
だが、俺はすぐに違和感に気づいた。
後ろの列に、机が一つ多い。
いや、多い気がした。
数える。前から一、二、三、四。横に一、二、三、四、五、六。
合っている。
合っているはずなのに、後ろの窓際に一つ、使われていない机があるように見える。誰も座っていない。鞄もない。椅子は机の下にきっちり収まっている。だが、そこだけ空気が薄い。まるで、誰かが座っていることを教室全体が忘れているようだった。
「三上さん?」
こよりが小声で呼ぶ。
「……あれ、見えるか」
俺は視線だけで後ろの机を示す。
こよりは一瞬だけそちらを見て、すぐに目を逸らした。
「見えます。ですが、今は触れないでください」
「触れたら?」
「おそらく、こちらが数えられます」
嫌な言い方だった。
数えられる。出席を取られる。未下校者にされる。
朝の放送が、頭の奥で繰り返された。
担任が教室に入り、ホームルームが始まる。
いつも通りの点呼だった。名前を呼ばれた生徒が返事をする。何人かは気の抜けた声で、何人かは返事すら面倒くさそうに手を上げる。
俺の名前も呼ばれた。
「三上」
「はい」
その瞬間、背後からも声がした。
「はい」
教室が一瞬、静かになる。
いや、静かになったのは俺たち三人だけだったのかもしれない。他の奴らは少し顔を上げたが、すぐに元の空気へ戻った。担任も出席簿から顔を上げず、次の名前を呼ぶ。
俺は背中に冷たいものを感じながら、後ろを振り返らなかった。
振り返ったら、何かが決まってしまう気がした。
午前中は、ずっとそんな調子だった。
一時間目の終わりに、廊下の掲示板に貼られた集合写真の端で、誰かの顔だけが白く抜けているのを見た。二時間目の途中、窓の外から屋上のフェンスが軋む音がした。三時間目、数学教師が黒板に書いた数式の下に、いつの間にか『一名』という文字が紛れ込んでいた。
どれも、気づくのは俺たちだけだった。
学校全体が、異常を日常として飲み込んでいた。
昼休み、俺たちは屋上へ続く西階段の前に集まった。
そこは普段からほとんど使われていない。廊下の端で、近くに特別教室もない。昼休みでも生徒の足音は遠く、窓の外から運動部の声だけがぼんやり届いていた。
当然、屋上へ続く扉には鍵がかかっている。
だが問題はそこではなかった。
階段の踊り場に、見慣れない札が貼られていた。
『関係者以外立入禁止』
学校の備品にしては古すぎる札だった。紙は黄ばんでいて、文字は墨で書かれている。現代の学校にある注意書きではない。
こよりが近づこうとして、足を止める。
「触らない方がいいです。これは人払いではなく、人選りです。近づく者を選別しています」
「選別って、どういう基準で」
蓮司が眼鏡を押し上げる。
「未下校者として指定できるかどうか、かもしれない。朝の放送、点呼、空席、屋上。全部が『数える』ことに関係している」
「つまり、近づいたら俺たちが数に入れられる?」
「可能性はある」
「学校で出席扱いされるのは歓迎だけど、怪異の出席簿に載るのは嫌すぎる」
俺は階段の上を見る。昼間の校舎なのに、そこだけ妙に暗かった。屋上へ続く扉までは数十段しかないはずだ。だが、見上げると階段の奥が長く伸びているように見える。
外からなら行ける。
そう思ってしまった。
阿伽で外壁を上がり、空劫で姿を消せば、一般人に見られず屋上へ到達できる。むしろ、階段という怪異の通路を通らずに済む分、安全かもしれない。
ただ、昼休みの校庭には生徒がいる。窓際にも人がいる。いくら空劫で姿を消せるとはいえ、霊圧の揺らぎや風の不自然さまで完全に隠せるとは限らない。
「飛行は放課後以降だな。できれば日没後、結界を張ってから。空劫で姿を消してから飛ぶ」
俺が言うと、こよりがゆっくりこちらを見た。
「……三上さん」
「何だよ」
「今、ずいぶん具体的に言いましたね」
「状況判断だ」
「阿伽と空劫を併用して外壁側から接近する案を、なぜそんなに自然に出せるのですか」
「発想力」
「発想力」
こよりが同じ言葉を繰り返した。声の温度が一段下がる。
蓮司が手帳から目を上げた。
「実証済みのような口ぶりではあったな」
「蓮司、お前は今だけ鈍感になれ」
「事実確認は重要だ」
「友情も重要だろ」
こよりは一歩近づいた。
「三上さん。昨夜、何かしましたか」
西階段の周囲には人影がない。廊下の角にも、階段の下にも、誰もいない。こよりが先ほど軽く人払いを置いたせいで、近づこうとする気配もなかった。
つまり、人目がない。
俺はその事実を確認してから、できるだけ真剣な顔で言った。
「こより」
「はい」
「まず大事なのは、俺が無事にここにいるという事実だと思う」
「やはり何かしましたね」
「空劫」
次の瞬間、俺の輪郭が世界から薄れた。
「三上さん!」
こよりの声が廊下に響くより早く、俺は階段脇の死角へ滑り込み、そのまま踊り場の影を抜けた。全力疾走ではない。全力疾走ではないが、かなり迅速な戦略的撤退だった。
「逃げたな」
蓮司の冷静な声が後ろから聞こえる。
「逃げてない。後退だ」
「聞こえています」
こよりの声が怖かった。
俺は空劫を保ったまま、三段ほど離れた位置で息を潜める。姿を消していても、良心までは消えない。というより、消えてくれない。
こよりは深く息を吐いた。
「説教は後です。今は札を優先します」
「後に回るのか……」
「逃げても消えません」
「空劫なのに?」
「説教は消えません」
俺は観念して姿を戻した。
その時、階段の上から音がした。
こつん。
誰かが、一段降りたような音。
こつん。
もう一段。
だが、階段の上には誰も見えない。
空気が一気に冷える。さっきまでの情けない逃走劇が、薄い紙みたいに剥がれ落ちた。
こよりが袖の内側から札を一枚抜く。蓮司はスマホを取り出し、録音を始めた。俺は息を殺し、階段の暗がりを見る。
こつん。
音は近づいている。
そして、階段の途中に、足だけが見えた。
黒い革靴だった。学校指定のものではない。古い型の、ひどく丁寧に磨かれた革靴。足首から上は薄く霞んでいる。存在しているのに、記憶の中から消されかけているような輪郭だった。
こよりが低く言う。
「下がってください」
俺は反射的に一歩下がる。
足は踊り場の札の前で止まった。
そして、俺たちの方へ向いた。
顔は見えない。身体もほとんど見えない。ただ、そこに誰かがいるという圧だけがある。
廊下の向こうから、生徒たちの笑い声が近づいてきた。
まずい。
このままだと、一般生徒が来る。
こよりが札を構える。だが、ここで派手な術は使えない。俺も阿伽を呼びかけかけて、奥歯を噛んだ。
使えない。
見られる。
力があるのに、使えない。
次の瞬間、足だけの影が、こちらへ一歩踏み出した。
放送が入った。
『本日の未下校者は――』
ノイズ混じりの声が、校舎中に響く。
こよりが札を投げた。札は空中で細い結界となり、廊下の角を塞ぐ。近づいてきた生徒たちは、不自然に足を止めた。忘れ物を思い出したように、笑いながら引き返していく。
ほんの数秒だけの隙。
こよりが叫ぶ。
「三上さん、空劫!」
「――空劫!」
俺の輪郭が世界から薄れる。
同時に、阿伽を呼ぶ。
「阿伽!」
身体が浮いた。
廊下の床を蹴らず、階段の手すりを越える。姿を消したまま、俺は足だけの影の横をすり抜け、踊り場の札へ手を伸ばした。
触れた瞬間、札の文字が滲む。
『関係者以外立入禁止』
その下に、別の文字が浮かんだ。
『未下校者以外、屋上へ戻れません』
戻る。
行く、ではなく、戻る。
俺は背筋が冷えるのを感じた。
屋上は目的地ではない。
あの怪異にとって、屋上は帰るべき場所なのだ。
その瞬間、足だけの影が消えた。
放送も途切れる。
こよりの人払いの札が、ぱきん、と音を立てて裂けた。
俺は慌てて空劫を保ったまま床に降り、階段脇の死角へ移動してから姿を戻した。
蓮司は録音画面を確認しながら、顔を強張らせていた。
「録れている。最後の放送に、名前が混じっていた」
「名前?」
「ああ。ただ、ノイズがひどい。解析が必要だ」
俺は札のあった場所を見る。
黄ばんだ紙はもう消えていた。だが、指先にはまだ冷たい感触が残っている。
未下校者以外、屋上へ戻れません。
昼休みの廊下に、何も知らない生徒たちの声が戻ってくる。
学校はまた、何食わぬ顔で日常に戻ろうとしていた。
俺はそれが、心底うんざりだった。
怖いからではない。
この場所が、何度も何度も、当たり前の顔をして異常を隠すことに腹が立った。
「今夜だな」
俺が言うと、こよりと蓮司が同時にこちらを見た。
「屋上に行く。階段じゃなく、外から。空劫で消えて、阿伽で飛ぶ」
「危険です」
こよりが即座に言う。
「知ってる」
「単独では行かせません」
「それも知ってる」
俺は階段の上を睨んだ。
「でも、あそこにまだ一人いるなら、いつまでも学校に置きっぱなしにはできないだろ」
蓮司が手帳を閉じる。
「放課後までに、放送室と過去の出席簿を調べる。屋上の『一人』が誰なのか、名前の手がかりを探す」
こよりは少しの間だけ黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「では、今夜。日没後に結界を張ります。三上さんは空劫と阿伽を併用し、外壁側から屋上へ接近してください。ただし、私の合図なしに屋上へ降りないこと」
「了解」
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
「界喰が必要です」
俺はそこで首を傾げた。
「界喰?」
「さきほどの札は、ただの結界ではありません。選別し、数え、通行の条件を書き換えていました。次に同じものが現れた場合、力任せに破るより、界喰に噛ませた方が安全です」
「でも俺、界喰は返したばかりなのに」
「ですから、夜の集合時に三枝神社へ寄って借りてきてください。お祖父さまには私から話を通しておきます。集合は神社、その後に学校へ移動します」
「つまり、俺が界喰を借りる係」
「はい。阿伽と空劫で接近し、界喰で道を開く。役割としては自然です」
「さらっと危険担当を固定された気がする」
「自分から屋上へ行くと言ったのは三上さんです」
「言ったけどさ」
蓮司が淡々と補足する。
「記録係としては妥当だと思う。三上が接近し、こよりが結界を張り、僕が放送と名前を追う。役割は明確だ」
「お前、たまに味方の顔した合理性で殴ってくるよな」
「事実だ」
こよりはそこで、またこちらを見た。
「そして、昨夜の件です」
「空劫」
俺は二度目の戦略的撤退を選択した。
人目はない。周囲にはこよりと蓮司しかいない。だから、封使使用規定的には問題ない。たぶん。いや、説教回避目的で使うのは別の意味でかなり問題がある気もするが、そこは今考えない。
姿を消した俺は、階段の影を抜けて廊下の反対側へ走った。
「三上さん!」
「夜に神社で会おう!」
「説教は保留です! 消えても保留です!」
「保留なら実質セーフ!」
「違います!」
背後で、蓮司が珍しく小さく笑った気配がした。
俺は空劫を解かないまま、しばらく廊下の死角で息を整える。
やっていることは最低に格好悪い。
だが、格好悪さと生存戦略は両立する。少なくとも、こよりの淡々とした説教を昼休みいっぱい受け続けるよりは、今はまだ走れる方がいい。
それでも、屋上のことを思うと、笑いきれなかった。
また学校だ。
また屋上だ。
また、見えない誰かを探す羽目になっている。
けれど今度は、ただ巻き込まれているだけではない。
昨夜の空で知った。俺はもう、見上げるだけの人間ではない。届く手段を持っている。姿を消し、空を渡り、誰にも見られず、誰も行けない場所へ行ける。
だからこそ、間違えてはいけない。
届く力を、何のために使うのか。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
今度は、普通のチャイムだった。
だが俺には、その音の奥で、まだ別の声が聞こえた気がした。
屋上に、まだ一人います。
俺は拳を握り、教室へ戻った。
夜まで、あと六時間。
その前に、三枝神社で界喰を借りる。
そして今度こそ、屋上へ行く。
学校がただの学校に戻るには、まだ少しだけ時間がかかりそうだった。




