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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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10/18

未下校者(前半)

 その夜は寝付けなかった。


 この一年、幽禍をちょくちょく倒したり逃げたりしてきたが、最近は心に来る依頼が多い。

 俺は今の感情を上手く言葉にできなかった。


 思い切って布団から出ると二階の自室の窓を開け、ベランダに出る。外の空気は少し冷たかった。


阿伽(あか)・・・」


 俺がそう呟くと、身体が浮く。飛ぶ。俺はふわり、と屋根の上に上がる。

 屋根の上から見る東京の夜景は美しい。窓から見る景色とはまた違う。


「行こう」


 俺はさらに上昇。夜の空は深く、(くら)く、まるで海の底のようだ。

 五十メートル、百メートル。百五十メートル。


 足の裏が縮むような高さだった。落ちれば確実に死ぬはずだ。だが、不思議と死ぬ気がしなかった。慣れた、というのとは少し違う。

 

 五分ほど上空にいると、次第に東京の夜景を楽しむ余裕も出てくる。遠く大門のほうに赤く見えるのは東京タワーか。

 下を見ると民家の屋根が連なる。自分の家の屋根がどれだったかわからない。普段見ることなんてないしな。


 この高度なら空を飛んでいてもおそらく誰に見られることもない。それほどに夜の空は海のように深かった。


 俺は速度を上げて飛ぶ。遥か遠くのビル。やがてビルの屋上に、俺はゆっくりと着地する。


「はは、すげぇ。こんなところまで来ちゃったよ」


 俺は空劫(くうごう)の能力を発現し、姿を消す。そうしてビルの屋上から身を投げた。

 落ちながら、ビルの窓明かりが視界を流れていく。そこには、まだ働いている人影や、バーで笑い合う客たちの輪郭が、ほんの一瞬だけ浮かんでは消えた。

 

 俺は両手を広げると、再び阿伽(あか)の能力を起動。高度二十メートルあたりで水平飛行に移行、家の方向に向かう。この高さだと姿を消していないと見つかる可能性がありそうだ。


 ほんの数分でベランダに戻る。完全に人間離れした自分に興奮し、眠れるか心配だったが、布団に戻ると驚くほど速く眠りに落ちた。


 翌朝、目が覚めた瞬間から、身体が妙に軽かった。


 寝不足のはずだった。昨夜、俺は夜中にベランダから抜け出し、阿伽で東京の空を飛び、空劫(くうごう)で姿を消したままビルの谷間を滑って帰ってきた。普通なら興奮で眠れないか、反動で全身が鉛みたいになっているかのどちらかだと思う。


 だが、実際には違った。


 目覚ましが鳴る前に目が開き、天井を見上げたまま、昨夜の夜景を思い出していた。屋根の連なり。遠くに赤く灯っていた東京タワー。自分の家がわからなくなるほど高い空。窓明かりの列が、水底の街みたいに流れていく光景。


 そして、落ちても死ぬ気がしなかった自分。


「……それが一番まずい気がするな」


 布団の中で呟く。


 怖くなかったわけじゃない。百五十メートルの高さまで上がった時、足の裏が縮むような感覚はあった。もし阿伽が途切れたら、もし集中が切れたら、もし風に流されたら。考えればいくらでも怖がる材料はあった。


 それでも、俺は飛んだ。


 しかも帰ってきた後、子供みたいにすぐ寝た。


 恐怖が消えたわけではない。たぶん、境目がずれている。自分にできることと、できないこと。人間が踏み込んでいい場所と、踏み込んではいけない場所。その線が、昨夜の夜空で一本、勝手に引き直されたような気がした。


 制服に着替えながらスマホを見る。


 こよりからの通知はない。


 当然だ。知られていない。知られているはずがない。


 俺はそう自分に言い聞かせた。空劫で姿を消していたし、低高度では人目も避けた。家に戻る時も、ベランダに降りてから能力を解いた。少なくとも、近所の誰かに見られたとは思えない。


 だから問題はない。


 問題はないはずなのに、なぜか制服の襟を直す手が少しだけぎこちなくなった。


「……別に悪いことはしてない。たぶん」


 最後に余計な一言がついたせいで、説得力は自分でも半分以下だった。


 家を出ると、朝の空は昨日の夜とはまるで違っていた。薄い青色で、どこまでも軽い。昨夜はあれほど深く、暗く、海の底みたいだったのに、朝になると同じ空がただの通学路の背景になる。


 そういう何でもない変化に少し救われながら、俺は学校へ向かった。


 そして校門を見た瞬間、救われた気分は半分ほど消えた。


「……また学校か」


 自分の口から出た声が、想像以上に疲れていた。


 学校へ行くのは当然だ。俺は高校生で、今日は平日で、出席日数という逃れがたい概念がある。だから学校へ向かうこと自体はおかしくない。


 おかしくないのだが、最近の俺にとって学校は、授業を受ける場所というより、怪異が順番待ちしている場所になりつつある。


「学校って、もっとこう、眠いとか、宿題だるいとか、小テスト滅びろとか、そういう理由で嫌になる場所じゃなかったか」


「ずいぶん朝から詩的な不登校願望ですね」


 背後から声がして振り返ると、こよりが立っていた。白いブラウスに紺のスカート。学校指定の鞄を片手に持ち、いつものように背筋が伸びている。巫女装束ではないこよりは、こうして見ると普通の女子高生に見える。普通というには、少しだけ姿勢が良すぎて、少しだけ目が鋭いが。


「不登校願望じゃない。怪異登校過多への抗議だ」

「何ですか、その言葉」

「俺の高校生活の現状を端的に表した新語」

「流行らないと思います」

「流行らなくていい。流行ったら終わりだろ、そんな高校生活」


 こよりは小さく息を吐いた。呆れたようでもあり、少しだけ笑っているようでもあった。


「それで、よく眠れましたか」


 何でもない質問だった。


 なのに、俺は一拍だけ返事が遅れた。


「まあ、そこそこ」

「そうですか。顔色は悪くありませんね」

「健康優良怪異被害者だからな」

「その肩書きも流行らないと思います」

「流行ったら終わりだろ、そんな肩書き」


 こよりは校門の方へ歩き出した。俺も隣に並ぶ。


 彼女は何も知らない。


 少なくとも、昨夜の飛行については何も言わない。俺は内心で胸を撫で下ろした。こよりに知られたら、確実に説教される。しかも、ただ怒鳴られるのではない。静かに、淡々と、こちらが反論できない順番で危険性を並べられる。あれは効く。普通に怒鳴られるより心にくる。


 だから黙っておく。


 これは隠し事ではない。報告の時期を慎重に検討しているだけだ。


 自分でもかなり苦しい言い訳だと思った。


 その直後だった。


 校舎の方から、チャイムが鳴った。


 まだ始業には早い。予鈴ですらない時間だ。


 チャイムは一度きりで止まらなかった。二度、三度。間隔が少しおかしい。普通のチャイムなら決まった旋律として流れるはずなのに、今聞こえている音は、誰かが古いベルを一音ずつ押しているように不揃いだった。


 こよりの表情が変わる。


 校内放送が入った。


『本日の未下校者は、一名です』


 朝の校門前に、不自然なほど平坦な声が落ちた。


 未下校者。


 朝なのに。


『屋上に、まだ一人います』


 空気が冷えた。


 俺は反射的に校舎を見上げる。朝日を受けた窓が白く光り、屋上のフェンスが細い影になっていた。そこに誰かがいるようには見えない。だが、見えないことが、むしろ気味悪かった。


 こよりが俺の袖を掴む。


「今は動かないでください」

「でも、今の放送」

「一般生徒がいます。ここで封使(ふうし)を使えば違反です」

「わかってる」


 わかっているが、身体は勝手に動きそうになっていた。


 屋上なんて、今ならすぐに行ける。


 そう思った瞬間、昨夜の空気が肺の奥に戻ってきた。空劫で姿を消し、阿伽で上がれば、階段を使う必要もない。人目を避けて外から接近できる。


 だが、こよりの手が袖を掴んでいる。その強さが、俺を現実に引き戻した。


「……くそ。朝から学校怪異かよ。せめて一時間目が終わってからにしてくれ」

「時間指定に応じる怪異なら苦労しません」

「いや、でもあるだろ。怪異側にもマナーが」

「ありません」

「即答するなよ」


 そんなやり取りをしている間に、放送は途切れた。周囲の生徒たちは首を傾げているだけだった。何か変だとは思っている。しかし、それ以上の不安には届いていない。すぐに友人との会話へ戻る者もいる。


 校門脇の植え込み近くに、蓮司の姿があった。彼はすでに手帳を開いていた。眼鏡の奥の目が、放送室のある校舎を見ている。


「聞いたか」

「ああ。内容は記録した。『本日の未下校者は、一名です』『屋上に、まだ一人います』。昨夜、神社に置かれていた紙片と同一文面だ」

「朝に未下校者って、言葉として破綻してないか」

「破綻している。だからこそ怪異性が高い」

「嫌な説得力だな」


 蓮司は手帳に何かを書き足す。


「興味深いのは、周囲の反応が薄いことだ。異常を異常として保持できていない。聞こえてはいるが、記憶に残りにくい可能性がある」


 俺たちはいったん普通に教室へ向かった。


 普通に、というのが重要だった。生徒の前で慌てるわけにはいかない。封使も使えない。屋上へ走ることもできない。今の俺たちにできるのは、何食わぬ顔で学校生活に紛れ込むことだけだった。


 それが、ひどくもどかしい。


 教室に入ると、いつものざわめきがあった。朝練の話をしている奴。小テストの存在を今思い出して絶望している奴。机に突っ伏して寝ている奴。


 いつもの教室だ。


 だが、俺はすぐに違和感に気づいた。


 後ろの列に、机が一つ多い。


 いや、多い気がした。


 数える。前から一、二、三、四。横に一、二、三、四、五、六。


 合っている。


 合っているはずなのに、後ろの窓際に一つ、使われていない机があるように見える。誰も座っていない。鞄もない。椅子は机の下にきっちり収まっている。だが、そこだけ空気が薄い。まるで、誰かが座っていることを教室全体が忘れているようだった。


「三上さん?」


 こよりが小声で呼ぶ。


「……あれ、見えるか」


 俺は視線だけで後ろの机を示す。


 こよりは一瞬だけそちらを見て、すぐに目を逸らした。


「見えます。ですが、今は触れないでください」

「触れたら?」

「おそらく、こちらが数えられます」


 嫌な言い方だった。


 数えられる。出席を取られる。未下校者にされる。


 朝の放送が、頭の奥で繰り返された。


 担任が教室に入り、ホームルームが始まる。


 いつも通りの点呼だった。名前を呼ばれた生徒が返事をする。何人かは気の抜けた声で、何人かは返事すら面倒くさそうに手を上げる。


 俺の名前も呼ばれた。


「三上」

「はい」


 その瞬間、背後からも声がした。


「はい」


 教室が一瞬、静かになる。


 いや、静かになったのは俺たち三人だけだったのかもしれない。他の奴らは少し顔を上げたが、すぐに元の空気へ戻った。担任も出席簿から顔を上げず、次の名前を呼ぶ。


 俺は背中に冷たいものを感じながら、後ろを振り返らなかった。


 振り返ったら、何かが決まってしまう気がした。


 午前中は、ずっとそんな調子だった。


 一時間目の終わりに、廊下の掲示板に貼られた集合写真の端で、誰かの顔だけが白く抜けているのを見た。二時間目の途中、窓の外から屋上のフェンスが軋む音がした。三時間目、数学教師が黒板に書いた数式の下に、いつの間にか『一名』という文字が紛れ込んでいた。


 どれも、気づくのは俺たちだけだった。


 学校全体が、異常を日常として飲み込んでいた。


 昼休み、俺たちは屋上へ続く西階段の前に集まった。


 そこは普段からほとんど使われていない。廊下の端で、近くに特別教室もない。昼休みでも生徒の足音は遠く、窓の外から運動部の声だけがぼんやり届いていた。


 当然、屋上へ続く扉には鍵がかかっている。


 だが問題はそこではなかった。


 階段の踊り場に、見慣れない札が貼られていた。


『関係者以外立入禁止』


 学校の備品にしては古すぎる札だった。紙は黄ばんでいて、文字は墨で書かれている。現代の学校にある注意書きではない。


 こよりが近づこうとして、足を止める。


「触らない方がいいです。これは人払いではなく、人選りです。近づく者を選別しています」


「選別って、どういう基準で」


 蓮司が眼鏡を押し上げる。


「未下校者として指定できるかどうか、かもしれない。朝の放送、点呼、空席、屋上。全部が『数える』ことに関係している」

「つまり、近づいたら俺たちが数に入れられる?」

「可能性はある」

「学校で出席扱いされるのは歓迎だけど、怪異の出席簿に載るのは嫌すぎる」


 俺は階段の上を見る。昼間の校舎なのに、そこだけ妙に暗かった。屋上へ続く扉までは数十段しかないはずだ。だが、見上げると階段の奥が長く伸びているように見える。


 外からなら行ける。


 そう思ってしまった。


 阿伽で外壁を上がり、空劫で姿を消せば、一般人に見られず屋上へ到達できる。むしろ、階段という怪異の通路を通らずに済む分、安全かもしれない。


 ただ、昼休みの校庭には生徒がいる。窓際にも人がいる。いくら空劫で姿を消せるとはいえ、霊圧の揺らぎや風の不自然さまで完全に隠せるとは限らない。


「飛行は放課後以降だな。できれば日没後、結界を張ってから。空劫で姿を消してから飛ぶ」


 俺が言うと、こよりがゆっくりこちらを見た。


「……三上さん」

「何だよ」

「今、ずいぶん具体的に言いましたね」

「状況判断だ」

「阿伽と空劫を併用して外壁側から接近する案を、なぜそんなに自然に出せるのですか」

「発想力」

「発想力」


 こよりが同じ言葉を繰り返した。声の温度が一段下がる。


 蓮司が手帳から目を上げた。


「実証済みのような口ぶりではあったな」

「蓮司、お前は今だけ鈍感になれ」

「事実確認は重要だ」

「友情も重要だろ」


 こよりは一歩近づいた。


「三上さん。昨夜、何かしましたか」


 西階段の周囲には人影がない。廊下の角にも、階段の下にも、誰もいない。こよりが先ほど軽く人払いを置いたせいで、近づこうとする気配もなかった。


 つまり、人目がない。


 俺はその事実を確認してから、できるだけ真剣な顔で言った。


「こより」

「はい」

「まず大事なのは、俺が無事にここにいるという事実だと思う」

「やはり何かしましたね」

「空劫」


 次の瞬間、俺の輪郭が世界から薄れた。


「三上さん!」


 こよりの声が廊下に響くより早く、俺は階段脇の死角へ滑り込み、そのまま踊り場の影を抜けた。全力疾走ではない。全力疾走ではないが、かなり迅速な戦略的撤退だった。


「逃げたな」


 蓮司の冷静な声が後ろから聞こえる。


「逃げてない。後退だ」

「聞こえています」


 こよりの声が怖かった。


 俺は空劫を保ったまま、三段ほど離れた位置で息を潜める。姿を消していても、良心までは消えない。というより、消えてくれない。


 こよりは深く息を吐いた。


「説教は後です。今は札を優先します」

「後に回るのか……」

「逃げても消えません」

「空劫なのに?」

「説教は消えません」


 俺は観念して姿を戻した。


 その時、階段の上から音がした。


 こつん。


 誰かが、一段降りたような音。


 こつん。


 もう一段。


 だが、階段の上には誰も見えない。


 空気が一気に冷える。さっきまでの情けない逃走劇が、薄い紙みたいに剥がれ落ちた。


 こよりが袖の内側から札を一枚抜く。蓮司はスマホを取り出し、録音を始めた。俺は息を殺し、階段の暗がりを見る。


 こつん。


 音は近づいている。


 そして、階段の途中に、足だけが見えた。


 黒い革靴だった。学校指定のものではない。古い型の、ひどく丁寧に磨かれた革靴。足首から上は薄く霞んでいる。存在しているのに、記憶の中から消されかけているような輪郭だった。


 こよりが低く言う。


「下がってください」


 俺は反射的に一歩下がる。


 足は踊り場の札の前で止まった。


 そして、俺たちの方へ向いた。


 顔は見えない。身体もほとんど見えない。ただ、そこに誰かがいるという圧だけがある。


 廊下の向こうから、生徒たちの笑い声が近づいてきた。


 まずい。


 このままだと、一般生徒が来る。


 こよりが札を構える。だが、ここで派手な術は使えない。俺も阿伽を呼びかけかけて、奥歯を噛んだ。


 使えない。


 見られる。


 力があるのに、使えない。


 次の瞬間、足だけの影が、こちらへ一歩踏み出した。


 放送が入った。


『本日の未下校者は――』


 ノイズ混じりの声が、校舎中に響く。


 こよりが札を投げた。札は空中で細い結界となり、廊下の角を塞ぐ。近づいてきた生徒たちは、不自然に足を止めた。忘れ物を思い出したように、笑いながら引き返していく。


 ほんの数秒だけの隙。


 こよりが叫ぶ。


「三上さん、空劫!」


「――空劫!」


 俺の輪郭が世界から薄れる。


 同時に、阿伽を呼ぶ。


「阿伽!」


 身体が浮いた。


 廊下の床を蹴らず、階段の手すりを越える。姿を消したまま、俺は足だけの影の横をすり抜け、踊り場の札へ手を伸ばした。


 触れた瞬間、札の文字が滲む。


『関係者以外立入禁止』


 その下に、別の文字が浮かんだ。


『未下校者以外、屋上へ戻れません』


 戻る。


 行く、ではなく、戻る。


 俺は背筋が冷えるのを感じた。


 屋上は目的地ではない。


 あの怪異にとって、屋上は帰るべき場所なのだ。


 その瞬間、足だけの影が消えた。


 放送も途切れる。


 こよりの人払いの札が、ぱきん、と音を立てて裂けた。


 俺は慌てて空劫を保ったまま床に降り、階段脇の死角へ移動してから姿を戻した。


 蓮司は録音画面を確認しながら、顔を強張らせていた。


「録れている。最後の放送に、名前が混じっていた」

「名前?」

「ああ。ただ、ノイズがひどい。解析が必要だ」


 俺は札のあった場所を見る。


 黄ばんだ紙はもう消えていた。だが、指先にはまだ冷たい感触が残っている。


 未下校者以外、屋上へ戻れません。


 昼休みの廊下に、何も知らない生徒たちの声が戻ってくる。


 学校はまた、何食わぬ顔で日常に戻ろうとしていた。


 俺はそれが、心底うんざりだった。


 怖いからではない。


 この場所が、何度も何度も、当たり前の顔をして異常を隠すことに腹が立った。


「今夜だな」


 俺が言うと、こよりと蓮司が同時にこちらを見た。


「屋上に行く。階段じゃなく、外から。空劫で消えて、阿伽で飛ぶ」

「危険です」


 こよりが即座に言う。


「知ってる」

「単独では行かせません」

「それも知ってる」


 俺は階段の上を睨んだ。


「でも、あそこにまだ一人いるなら、いつまでも学校に置きっぱなしにはできないだろ」


 蓮司が手帳を閉じる。


「放課後までに、放送室と過去の出席簿を調べる。屋上の『一人』が誰なのか、名前の手がかりを探す」


 こよりは少しの間だけ黙っていた。


 やがて、静かに頷く。


「では、今夜。日没後に結界を張ります。三上さんは空劫と阿伽を併用し、外壁側から屋上へ接近してください。ただし、私の合図なしに屋上へ降りないこと」


「了解」

「それと、もう一つ」

「まだあるのか」

界喰(かいばみ)が必要です」


 俺はそこで首を傾げた。


界喰(かいばみ)?」

「さきほどの札は、ただの結界ではありません。選別し、数え、通行の条件を書き換えていました。次に同じものが現れた場合、力任せに破るより、界喰に噛ませた方が安全です」

「でも俺、界喰(かいばみ)は返したばかりなのに」

「ですから、夜の集合時に三枝神社へ寄って借りてきてください。お祖父さまには私から話を通しておきます。集合は神社、その後に学校へ移動します」

「つまり、俺が界喰(かいばみ)を借りる係」

「はい。阿伽と空劫で接近し、界喰で道を開く。役割としては自然です」

「さらっと危険担当を固定された気がする」

「自分から屋上へ行くと言ったのは三上さんです」

「言ったけどさ」


 蓮司が淡々と補足する。


「記録係としては妥当だと思う。三上が接近し、こよりが結界を張り、僕が放送と名前を追う。役割は明確だ」

「お前、たまに味方の顔した合理性で殴ってくるよな」

「事実だ」


 こよりはそこで、またこちらを見た。


「そして、昨夜の件です」

「空劫」


 俺は二度目の戦略的撤退を選択した。


 人目はない。周囲にはこよりと蓮司しかいない。だから、封使(ふうし)使用規定的には問題ない。たぶん。いや、説教回避目的で使うのは別の意味でかなり問題がある気もするが、そこは今考えない。


 姿を消した俺は、階段の影を抜けて廊下の反対側へ走った。


「三上さん!」

「夜に神社で会おう!」

「説教は保留です! 消えても保留です!」

「保留なら実質セーフ!」

「違います!」


 背後で、蓮司が珍しく小さく笑った気配がした。


 俺は空劫を解かないまま、しばらく廊下の死角で息を整える。


 やっていることは最低に格好悪い。


 だが、格好悪さと生存戦略は両立する。少なくとも、こよりの淡々とした説教を昼休みいっぱい受け続けるよりは、今はまだ走れる方がいい。


 それでも、屋上のことを思うと、笑いきれなかった。


 また学校だ。


 また屋上だ。


 また、見えない誰かを探す羽目になっている。


 けれど今度は、ただ巻き込まれているだけではない。


 昨夜の空で知った。俺はもう、見上げるだけの人間ではない。届く手段を持っている。姿を消し、空を渡り、誰にも見られず、誰も行けない場所へ行ける。


 だからこそ、間違えてはいけない。


 届く力を、何のために使うのか。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 今度は、普通のチャイムだった。


 だが俺には、その音の奥で、まだ別の声が聞こえた気がした。


 屋上に、まだ一人います。


 俺は拳を握り、教室へ戻った。


 夜まで、あと六時間。


 その前に、三枝神社で界喰を借りる。


 そして今度こそ、屋上へ行く。


 学校がただの学校に戻るには、まだ少しだけ時間がかかりそうだった。



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