未下校者(後半)
三枝神社の境内は、夜になると昼間よりもずっと古く見える。
社務所の格子戸の向こうに細い明かりがあり、拝殿の屋根は黒い山のように沈んでいた。縁起でもないことを考え、俺は自分の不幸体質を思い出す。嫌な予感はだいたい当たる。
「遅い」
拝殿の影から、三枝九衛門が現れた。白髪を束ね、背筋は曲がらず、目だけが妙に若い。こよりの祖父で、この神社の宮司であり、封使に名を与えて縛ることのできる人間だ。
「集合時刻の三分前ですけど」
「借り物を取りに来る者は、借りる前から急いでおる顔をするもんじゃ」
「どの場面で使う教訓なんですか、それ」
九衛門は答えず、拝殿の奥へ顎をしゃくった。こよりと蓮司はすでに来ていた。こよりは白衣に緋袴、上から薄手の上衣を羽織っている。蓮司は六角棒を肩にかけ、学校設備の古い図面を広げていた。
「何で図面を?」
「必要になる」
「真面目バカの予習範囲、広すぎだろ」
「必要範囲だ」
会話のようで少しも逃げ場がない。
九衛門が奥から長い包みを持って戻ってきた。黒布で幾重にも巻かれた、刀とも槍ともつかない細長いものだ。布の上からでも、普通の鉄ではないとわかる。
「『界喰』じゃ」
九衛門はそれを俺の前に置いた。
包みは床に触れた瞬間、かすかに震えた。眠る刃が、夢の中で歯ぎしりをしたようだった。
「前にも言うたな。これは相手を斬る刀ではない。境を喰う。名を喰う。理屈を喰う。何を喰わせるか間違えれば、お主の帰り道でも名でも持っていかれる」
「借りる直前に怖いこと言わないでください」
「直前に言わねば忘れるじゃろ」
「俺への信頼が低い」
「高ければ貸さん」
否定しづらい言い方だった。
こよりが刀を見つめながら言う。
「私に扱えるなら良かったんですが」
「どういう理屈かは知らんが儂か三上殿にしかこの刀を持つことができぬ。仕方あるまい」
「そうだ。九衛門さんに来てもらうというのは」
俺が名案とばかりに言うが九衛門は首を振る。
「かつてはこいつで戦った時期もあったが、儂はもう歳を取りすぎた。戦場には出られん」
「そうですよ三上さん。我々でどうにかするのです」
蓮司も頷く。
「日頃『界喰』を管理いただけるだけで十分です」
九衛門が黒布の包みを俺の背に括りつけた。重い。物理的な重さ以上に、背中の皮膚がそこだけ冷たくなる。まるで、自分の輪郭の一部を別のものに預けたみたいだった。
「終わったらすぐ返せ。寄り道は許さん」
「わかってます」
そうして俺たちは学校に向かう。夜の学校はつい先日も来たばかりだ。
幽禍もそろそろ空気を読んで欲しいものだ。
背中の界喰が重い。
三人で学校に向かう中ずっと、黒布の内側で刃が小さく脈打っていた。何かを食わせろと催促されている気がして、俺はすぐ考えるのをやめた。
学校が見えた。校舎は巨大な箱のように沈み、窓もグラウンドも暗い。こよりの人払いが効き、周囲にも人影はなかった。
ただ、屋上だけが明るかった。
俺は阿伽の能力を発現し、校門を軽く越える。こよりは普通にジャンプし校門を飛び越え、蓮司は普通によじ登って越える。
「なんだか僕だけ機動力がないな」
「それはしょうがないですよ。蓮司さんには蓮司さんの役割があります」
「そうだぞ。お前には救急箱という大事な役目がある」
そんな軽口を叩きながらグラウンドに侵入。下から屋上を見上げる。
「なんか光ってね?」
「光ってますね」
「足音も聞こえるような」
蓮司がそういうので耳を澄ますと、確かに音がきこえる。
一つではない。二つ、三つ、十、二十。足音がたくさん聞こえてくる。
こつん。
こつん。
こつん。
音が重なり、学校中の廊下を歩く足音みたいに響いていた。
「よし、じゃあ早速見に行きますか」
俺がそういって一歩前に出る。
「私も行きます」
こよりも前に出る。
「え」
「え、じゃないですよ。普通にジャンプします」
「あ、そう」(屋上は五階の上なんですけど)
蓮司をちらと見ると登れるところを探しているようだ。
「あの外壁沿いの雨樋から上ることにするよ。校舎の中には入れないだろうし」
「オーケー、じゃあ行くか」
俺は阿伽と空劫の能力を発現し、校舎の屋上を目指す。
こよりはぐっと腰を落とし韋天の能力を発現。身体能力を二十倍に強化。
だん、と地を蹴ると空中の俺を追い抜いて校舎五階の屋根を越え、屋上のフェンスの上に着地。
俺も少し遅れてこよりの隣に着地し、空劫を解く。
蓮司はまだ下のほうだ。
屋上には異様な光景が広がっている。
照明などないはずなのに、フェンスの内側に薄い白い光が満ちている。中央には古い教室机があり、天板の出席簿が風もないのにぱらぱらとめくれていた。
そして、その周囲を、足だけの影が歩いていた。
それを見て、フェンスの上でこよりが俺に言う。
「三上さん、まだ降りないでください。屋上全体が出席簿化しています」
「出席簿化って何だよ」
「踏み込んだ者を名前として取り込む結界です。外周の札を探してください。界喰で境界だけを喰わせましょう」
俺は屋上の外周を回り込んだ。フェンスの外側、壁面の少し下に、黄ばんだ札が貼りついている。昼に見たものと同じだ。
『未下校者以外、屋上へ戻れません』
文字が夜の中で濡れたように光っていた。
俺は背中の包みをほどいた。黒布の内から細い刃が現れる。刀身は黒い。そこだけ夜が深くなったような黒で、刃の縁がかすかに揺れていた。
「変なところまで喰うなよ」
界喰は答えない。ただ、柄の冷たさが強くなった。
俺は札の端へ刃を当てた。
斬る、という感触ではなかった。
かぷり、と理屈が欠けた。紙ではなく、「屋上へ戻れません」という決まりの一部が刃の縁に吸い込まれる。墨の文字が震え、見えない線がぷつりと切れた。
次の瞬間、屋上の足たちが一斉にこちらを向いた。顔はない。それでも、見られたとわかった。
「やばいな。俺、今たぶん出席取られた」
屋上の出席簿が開いた。 白い紙面に墨が浮かぶ。
『三上――』
「よりによって俺かよ!」
「三上さん、下がって!」
こよりの声と同時に、足だけの影が跳んだ。歩くためだけの足が、ありえない速度でフェンスを蹴り、空中の俺へ殺到する。名前を途中まで書かれた俺を、結界そのものが追っている。
俺は阿伽で上昇した。黒い革靴が眼下を掠める。風圧で頬が切れた。
「血が出た! まだ始まって五秒だぞ!」
界喰で喰った札は一枚だけだった。だが、札は屋上の四隅、フェンスの支柱、排水口、扉の上に浮かび上がっていく。喰われた分を補うように、同じ文言が増殖した。
未下校者以外、屋上へ戻れません。
戻れません。
戻れません。
世界が、帰れなかった誰かの言葉で埋まっていく。
屋上の中央に白い輪郭が現れた。古い型の制服を着た少年だ。顔はぼやけているが、肩を落とした立ち姿だけははっきりしていた。
「白峰透!」
俺が叫ぶと、少年は顔を上げた。同時に、足影がさらに増えた。屋上の床から、生えるように革靴が現れる。十、二十、三十。足音が雨みたいに重なり、フェンスが震えた。
こよりが屋上扉を蹴るようにして飛び込んできた。扉の前に貼った札が紅く燃え、鍵だけを断ち切る。白衣が夜の光に翻った。
「三上さん、机へ!」
「降りていいのか!」
「私が止めます!」
言うが早いか、こよりは足影の群れへ突っ込んだ。
速い。
巫女装束の袖が広がり、札が白い鳥のように散る。こよりはその間を縫うように走り、拳を握る。
影に向かって右拳を突き出すと足影が爆ぜ、墨を撒いたように消える。だが消えた端から別の足が生える。黒い靴底がこよりの頬を掠め、血が飛ぶ。
それでも、こよりは止まらない。
豊かな体躯を低く沈め、滑るように踏み込む。白衣が夜の屋上で軌跡になり、緋袴が血と見分けのつかない赤を引いた。神前で舞う巫女の動きが、そのまま戦闘に変わったようだった。
「急いでください!」
こよりの左腕に足影が絡んだ。革靴の先が肉を裂き、白衣に赤が広がる。こよりは右手の札を自分の腕に叩きつけた。
「祓え!」
札が爆ぜ、足影が消える。その代わり、こよりの腕から血が落ちた。
「こより!」
「見ない! 進む!」
怒鳴られた。正しい。ここで止まれば、こよりが血を流している意味がなくなる。
俺は阿伽で机へ向かった。出席簿に名前を途中まで書かれたせいで、足影は俺を追う。フェンスすれすれを滑り、何度も蹴りを避ける。
避けた先に、排水管があった。
「うわっ」
肩をぶつけた。空中で体勢が崩れる。さらに悪いことに、界喰で断った札の切れ端が風に舞い、俺の顔に貼りついた。
「何でこうなる!」
「不幸体質だからだ」
蓮司の冷静な声が飛ぶ。ようやく屋上に追いついたようだ。
「分析するな、助けろ!」
「助けている。三上、貼りついた札を捨てるな。それは境界の切れ端だ。机に触れる時の鍵になる」
俺は顔の札を剥がし、握りしめた。不幸も、たまには役に立つ。認めたくはないが。
机まであと数メートル。その時、屋上の放送スピーカーが鳴った。
『本日の未下校者は、三上――』
「勝手に俺を未下校にするな!」
「三上さん、返事をしないで!」
遅かった。
言葉を返した瞬間、出席簿の文字が濃くなった。俺の苗字の下に、名前が書かれようとしている。まずい。名前を完全に書かれたら、俺もこの屋上の一人になる。
足影が一斉に跳んだ。こよりが割り込み、両手の札で群れを受け止めた。衝撃で屋上の床が鳴り、札の結界が割れ、肩、脇腹、太腿に赤い線が走った。
血が飛ぶ。
白衣が赤く染まる。
それでも、こよりは倒れなかった。
「三上さんを、数えるな」
低い声だった。怒っていた。俺にではない。たぶん、帰れなかった一人を数字で処理したこの学校の仕組みそのものに怒っていた。
「人を、出席簿の空欄みたいに扱うな」
こよりが踏み込んだ。次の瞬間、彼女の周囲に貼られていた札が一斉に光る。
高速だった。
俺の目には、白と赤の線が交差したようにしか見えない。こよりは足影の群れを駆け、跳び、沈み、回り、斬り、貼り、祓う。拳と蹴りが黒い足首を断ち、札が床に結界の線を描いた。
血を流しながら、こよりは舞っていた。巫女としての祓いと、戦士としての速度が一つの形になっている。白衣にも血が散る。視線は逸れない。
「今です!」
俺は机へ飛び込んだ。
出席簿へ界喰を振り下ろそうとして、刃が止まった。
止めたのは俺だ。いや、俺の手の中で、界喰の重みが急に変わった。出席簿そのものに刃を入れれば、紙だけではなく、そこに結びついた名前まで喰う。俺の名前も、白峰透の名前も、まとめて欠ける。
「そういうことかよ……!」
「どうした」
「蓮司! 名前がいる。こいつ、出席簿ごと喰わせたら全部持っていく!」
「白峰透。白い峰の白峰、透過の透。生年月日は旧出席簿上で五月十六日。二年三組。出席番号二十一番」
「細かいな!」
「名前を戻すなら細部がいる」
「真面目バカ最高!」
「褒め言葉として受け取る」
俺は出席簿に手を伸ばした。ページが勝手にめくれ、白い紙面に俺の名前が浮かびかける。
三上――。
俺は札の切れ端を叩きつけた。境界の残骸が鍵となり、ページの端が一瞬だけ固まる。
そこへ界喰の刃を滑り込ませた。斬ったのは紙ではない。俺の名前へ伸びていた誤記の道筋だ。墨の線が黒い欠片になって吸い込まれ、出席簿が暴れ、机が震える。ページを押さえた指先から血が滲んだ。
「白峰透! 二年三組、出席番号二十一番!」
屋上の中央に立つ少年が、こちらを見た。顔の輪郭が少しだけはっきりする。
「お前は、未下校者じゃない。もう帰っていい。誰かの代わりに数え直される必要も、俺の名前で上書きされる筋合いもない」
出席簿が暴れ、俺の指から血が落ちた。まずい。血は名前より強い。俺がここにいる証拠になる。
案の定、ページの上に赤い文字が浮かぶ。
『三上、在校』
「ふざけんな!」
足元の床が抜けた。いや、実際に抜けたわけではない。屋上の床が一瞬だけ教室の床に変わり、俺の机がそこに置かれる。周囲には誰もいない。黒板には『未下校者一名』と書かれている。
閉じ込められる。
俺はそう理解した。
不幸体質にもほどがある。救いに来た側が次の未下校者として登録されかけている。だが、その不幸でわかったことがあった。
怪異は、空白を埋めたいのではない。
誰でもいいから、一名を置きたいのだ。
だったら、空白を零にすればいい。
俺は床を蹴った。阿伽で浮く。空劫は使わない。ここにいる自分をはっきり示す。
「蓮司! 未下校者を零名にするには、どう書けばいい!」
「校内放送なら定型文が必要だ。本日の未下校者は、零名です。全員下校を確認しました。以上」
「形式にうるさいな!」
「形式が呪いを作った。形式で返す」
真面目バカ。だが、今はその真面目さが頼もしい。
俺は出席簿のページを掴み、血で濡れた指を走らせた。字は汚い。だが、蓮司の声に合わせて一字ずつ書く。
本日の未下校者は、零名です。
全員下校を確認しました。
以上。
最後の一画を書いた瞬間、出席簿が黒く膨れ上がった。足影が狂ったように跳ねる。それと同時にこよりの結界が完成。
ついに幽禍が姿を現す!
「こより!」
「来ますよ!」
屋上のスピーカーが火花を散らしていた。出席簿に書いただけでは足りない。学校全体に告げなければならない。記録の歪みを、記録の形式で終わらせる。
現れた幽禍は鳥の頭をした二メートルほどの巨人だった。『不如帰』そんな言葉が頭をよぎる。
-帰るに如かず- 帰るのが一番よい、そんな意味だったか。
幽禍はこよりに向かって突進。鳥の頭をしているだけあってとんでもない速度だ。
こよりも速度では負けていない。お互いが超高速の拳と蹴りの連打。
幽禍の拳はこよりのあばらをへし折り、蹴りは膝を砕いたが、こよりも負けじとやり返す。
こよりの右拳は幽禍の脳天を割り、膝蹴りは内臓を破壊する。
蓮司は周囲を飛び回る足影を六角棒で次から次へと叩き落としながら放送端子を操作する。
俺は阿伽と空劫で空中から戦いを見守る。一瞬の期を見誤らないこと。
蓮司は放送回線の端子をいじっていた。足影に切られながら、無畏で傷を修復させる。指は震えているが、手順だけは正確だった。
「蓮司、できるのか!」
「非常放送の回線に入れる。校内設備の図面は昼に確認した」
「何で確認してるんだよ!」
「必要になる可能性があった」
「真面目バカ最高、二回目!」
「受け取る」
蓮司がケーブルをつなぐ。スピーカーがざらついた。
『――本日の、未下校者は』
怪異の声が割り込む。
こよりが血に濡れた手で札を床へ叩き込んだ。
「三枝の名において、境を定める。帰る者を帰し、留める者を留めず、数える者に数えさせるな」
結界が強化。足影が止まった。だが、一つだけ、結界を突き破る足があった。幽禍本体。黒い足がこよりの腹を蹴る。鈍い音。こよりの体が折れ、血を吐いた。
「こより!」
俺はその隙を見逃さない。空中から急降下し、幽禍の脳天から股下まで一気に斬り裂くとドス黒い血をブチ撒けながら両断。
「やった!」
こよりは口から血を吹きながら袖から『吸印札』を取り出す。
「吸印!」
血の混じった声で、こよりが発声すると、ドス黒い塊はすべて札に吸い込まれる。
「吸印完了。と、討伐確認」
そう言ってこよりは膝から沈む。
俺はスピーカーへ向かって叫んだ。
「白峰透! 二年三組、出席番号二十一番! 本日の未下校者は、零名です! 全員下校を確認しました! 以上!」
放送が、学校中に流れた。
一瞬、すべての足音が止まった。
屋上の中央に立つ少年が、出席簿を見た。そこに自分の名前があり、その下に零名の文字がある。彼は長い時間、ただそれを見つめていた。
やがて、顔を上げる。ぼやけていた顔が、少しだけ少年らしい輪郭を取り戻した。泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「……帰っていいんだよ」
俺は言った。
「もう、誰もお前を数え間違えない」
少年の足元に、白い階段が現れた。家へ向かう夕暮れの道のようにも見えた。少年は一歩踏み出し、振り返らずに歩き始める。
黒い革靴の足影が、一つずつ消えていった。
こつん。
こつん。
音が遠ざかる。
最後に、屋上のスピーカーが小さく鳴った。
『本日の未下校者は、零名です』
今度の声は、ノイズ混じりではなかった。
夜の学校に、静寂が戻った。
出席簿が灰になり、机が崩れ、壊れたフェンスだけが現実として残る。屋上はただの屋上に戻った。
俺は膝から崩れ落ちた。
「終わった……よな」
「終わった」
蓮司が答える。彼も床に座り込んでいた。灰色の髪に血が混じっている。
「白峰透の記録は残る。少なくとも、なかったことにはならない」
「なら、よかった」
俺はこよりの方へ這うように向かった。こよりはフェンスの近くに座り込んでいた。顔色が悪い。白衣も緋袴も血で濡れている。見ているだけで胃が冷える量だった。
「こより、動けるか」
「……動けます」
「嘘つけ」
「動けます。説教が残っていますから」
「その執念で生きてるのか?」
こよりはかすかに笑った。蓮司がこよりの隣で膝をつき、無畏を発動。こよりの身体が回復されていく。こよりの顔色は次第によくなり、屋上に大の字になって倒れた。
「今回もキツかったですね・・・」
「あぁ・・・お疲れ」
こよりは戦闘中は痛いだのキツいだの、一切弱音を吐かない。こういった言葉を聞いたのは初めてかもしれない。
蓮司の処置が終わる頃には、俺も自分の怪我に気づき始めた。頬、指、肩、脇腹。どれも致命傷ではないが、地味に痛い。
「三上、君も手当てが必要だ」
「頼む」
「出血量の多いこよりが先だった。次は君だ」
「真面目に怪我の順番管理するな」
「重要だ」
蓮司に手当てされながら、俺は夜空を見上げた。
今夜の空は、自由に飛ぶための場所ではなかった。誰かを帰すために通った道だった。
こよりがこちらを見る。
「三上さん」
「何だ」
「界喰を抜いたまま倒れ込まないでください。危険です」
「そこから?」
「そこからです。次に、怪我を隠して動こうとした件。次に、返事をして名前を取られかけた件」
「不可抗力だろ」
「不可抗力の頻度が高すぎます」
身体の修復が終わったこよりがゆっくり立ち上がった。
「あと、戦闘終了直後に界喰を鞘へ戻さず、黒布も結び直していません。お祖父さまに見つかったら、私も怒られます」
「それはすぐ直す」
「それから、説教を避けるために空劫を使用しようとした場合は、さらに一項目追加します」
「まだ使ってない」
「まだ、ですね」
昼間にも似たようなことを言われた気がする。
こよりの声が低くなる。
「逃げませんよね」
「逃げるわけないだろ」
俺は真面目な顔で言った。そして、界喰を黒布ごと背中に括り直しながら、小声で呟く。
「空劫」
輪郭が薄れた。
こよりの手が空を切る。蓮司が顔を上げる。俺は阿伽でわずかに浮き、壊れたフェンスとは反対側の屋上扉へ滑った。人目はない。封使の能力を一般人に見られる心配もない。条件は完璧だった。
ただし、不幸体質だけは完璧ではなかった。
背中の界喰の黒布が、蓮司の鞄の金具に引っかかった。
「うぐっ」
首が持っていかれる。姿は消えているのに、荷物に引き留められているという、かなり間抜けな状態だった。蓮司が無言で金具を外す。
「三上」
「友情を感じる」
「今のうちに行け。こよりは二歩で追いつけない」
「友情を感じる!」
「ただし、神社で界喰を返却すること。記録上、借用品の返却は最優先だ」
「最後まで真面目かよ!」
俺は今度こそ屋上扉へ滑り込み、階段へ逃げた。背後でこよりの声が響く。
「三上さん!」
「神社で返す! 説教は後日で!」
「後日ではなく今夜です!」
その声に、少しだけ安心した。出血多量で今にも倒れそうなのに、こよりはまだ怒れる。それは生きている証拠だった。
俺は階段を駆け下りた。空劫で姿を消したまま、阿伽で足を軽くする。夜の学校は、さっきまでの怪異が嘘みたいに静かだった。
未下校者は零名。
帰れなかった一人は、ようやく帰った。
その事実だけは、胸の奥を温かくした。だが、俺の背中には九衛門から借りた界喰があり、こよりの説教は利子ごと迫っている。
不幸体質は、今日も健在だった。
それでも悪くはない。
真面目すぎる巫女がいて、真面目すぎる記録係がいて、俺の不運まで作戦に組み込まれる。ひどいチームだ。だが、誰か一人を帰すため血まみれになり、名前を数え直せる。そういう連中となら、次も飛ぶのだろう。
三枝神社へ戻ると、九衛門は拝殿の前で待っていた。
「逃げ足だけは速いの」
「返却に来ただけです」
「説教から逃げたついでじゃろう」
「返却が主目的です」
「ものは言いようじゃな」
俺は界喰を黒布ごと差し出した。九衛門は包みを受け取り、刃を少しだけ確かめる。黒い刀身は、何も言わない。ただ、喰ったものの名残のように、刃の縁で墨色の光が一度だけ揺れた。
「余計なものは喰わせなんだようじゃ」
「たぶん」
「たぶんで返すな」
「生きて返したので許してください」
九衛門は鼻で笑った。
「生きて戻ったなら、まずは上等じゃ。こよりも蓮司も戻る。なら今夜は勝ちじゃ」
その言い方に、俺は少しだけ黙った。
学校の方角から風が吹いた。屋上の足音はもう聞こえない。代わりに、神社の木々が鳴っている。
「三上殿」
「何ですか」
「逃げた説教は、追いつくぞ」
「今、いい話で終わる流れでしたよね」
「終わらせるな。続くのが縁じゃ」
鳥居の向こうに、こよりと蓮司の姿が見えた。
俺は反射的に一歩下がる。
九衛門が黒布の包みを肩に担ぎ、笑った。
「ほれ、帰ってきたぞ。今度は空劫なしで聞け」
「九衛門さんまで敵か」
「貸した刀を返した者に、次は礼儀を教えるだけじゃ」
こよりが鳥居をくぐる。
「三上さん」
「はい」
「返事だけは素直ですね」
「俺はいつも素直だよ」
蓮司も呆れたように言う。
「観念するんだね」
「いやだ」
こよりが少し笑った。
俺たちは社務所へ向かった。
階段を上がる足音は三人分。今度の足音は、ちゃんと帰るための音だった。
学校は、ようやくただの学校に戻ろうとしていた。




