松の湯からの依頼
「保留とは、なかったことにするという意味ではありません」
こよりは長机の向こう側に正座し、俺の前に一冊の帳面を置いた。表紙には何も書かれていないが、開かれたページには俺の罪状が箇条書きで記されていた。
『一、夜間無断飛行(阿伽の私的利用)』
『二、怪我の隠蔽(肩の脱臼および打撲)』
『三、界喰返却後の逃走未遂』
日付、状況、そして推定されるリスクが、几帳面な字で整然と並んでいる。
「それ、蓮司が書いたやつだろ」
「私が書きました」
こよりは表情を変えずに答えた。巫女装束ではなく、今日は高校の制服姿だ。そのせいか、普段の「神社の司令塔」というよりは「風紀委員長」のような威圧感がある。
「……字が蓮司に似てきたんじゃないか」
「話を逸らさないでください」
こよりの冷たい声に、俺は口をつぐんだ。隣で茶を啜っていた九衛門が「ほう、見事な目録じゃ」と呑気に感心している。蓮司も隣でうんうんと同意する。
「三上さん」こよりは俺の目をまっすぐに見据えた。「夜間飛行についてですが、百五十メートルまで上昇したというのは本当ですか」
「……ああ。阿伽がそう言ってたから、たぶん」
「落ちるかもしれないとは、考えませんでしたか」
「考えたよ。でも」俺は少し迷ってから、正直に言った。「落ちても死ぬ気がしなかったんだ。阿伽がいれば、どうにでもなるって」
こよりは珍しく、少しの間、沈黙した。彼女の目がわずかに伏せられ、それから再び俺を捉えた。
「それは、怖くなかったということではなく、落ちた先に何があるかを考えていなかったということです」
静かな声だった。怒りというよりは、祈りのような響きがあった。
「阿伽が風を失えば、あなたは落ちます。落ちれば死にます。死ぬ気がしなかったというのは、あなたが阿伽を信頼したからではなく、自分と地面の距離を忘れたからです」
俺は何も言い返せなかった。「見えるだけ」の自分から「届く」自分へと変わっていく中で、俺は確かに、その「届く力」に酔っていたのかもしれない。
「力が馴染んできた証拠じゃ」
九衛門が湯呑みを置き、口を開いた。
「だが、馴染んだ力は油断する。界喰を振るう手が軽くなれば、いずれ己の指を切り落とすぞ」
その言葉の重みに、俺は短く「わかりました」とだけ答えた。
こよりが帳面を閉じた。ぱたり、という音が社務所に響く。
「以上です」
俺は顔を上げた。「……それだけ?」
もっと長時間、ねちねちと詰められるかと思っていた。
「今回は、これだけです」こよりは立ち上がりながら言った。「ただし、利子は次の失敗に上乗せします」
「それが一番怖いんだよ」
俺がため息をついた時だった。
ことん、と。
社務所の外から、乾いた音が聞こえた。
賽銭箱だ。三人が顔を見合わせる。こよりが足早に外へ向かい、俺もその後を追った。
境内の真ん中に置かれた賽銭箱の隙間から、一枚の紙片がふわりと浮かび上がっていた。風もないのに、それは意思を持っているかのように宙を舞い、こよりの手の中に収まった。
「……またかよ」俺は頭を掻いた。「今度はなんだ。『命を狙われています』か、『好きな人が二人います』か」
こよりは紙片の表を見て、眉をひそめた。
「『おじいちゃんが出てこない』」
「は?」
こよりが紙片を裏返す。そこには、いつものように黒いインクで地図が描かれていた。
「銭湯の間取り図のようです。脱衣所と浴室の境界に、界傷の反応があります」
「銭湯……」
俺は紙片を覗き込んだ。地図の端に『松の湯』という文字が書かれている。商店街の外れにある、古い銭湯だ。
「依頼人は誰だ?」
「名前は書かれていません。ですが、この文面からすると、おじいさんが銭湯の中に入ったまま戻ってこない、ということでしょう」
こよりは紙片を制服のポケットにしまい、「明日、昼間のうちに、現地を確認しましょう」と言った。
*
翌日の放課後、俺たちは三人で「松の湯」の前に立っていた。
創業六十年というその銭湯は、昭和の匂いを色濃く残した木造建築だった。煙突からは薄い煙が上がっており、営業中であることを示している。しかし、建物のあちこちに傷みが見られ、入り口の脇には「三ヶ月後に閉業いたします」という貼り紙があった。
「閉業か」蓮司が手帳を開きながら言った。「再開発の対象エリアに入っているらしい」
「調査が早いな」俺は感心した。
「記録は基本だ」蓮司は真顔で答え、暖簾をくぐった。
中に入ると、番台には小柄な老婆が座っていた。桐島みつ、という名前らしい。俺たちが事情を聞こうとすると、最初は怪訝な顔をしたが、こよりが「お孫さんから依頼を受けました」と静かに言うと、老婆の顔に安堵と疲労が入り混じった色が浮かんだ。
「ゆずが……そうかい。あんたたち、本当に見つけてくれるのかい」
みつの話によると、夫の桐島義雄が三日前から「家族風呂」に入ったまま出てこないのだという。
「最初は長風呂だと思ってたんだよ。でも、一時間経っても二時間経っても出てこない。鍵は内側からかかってて、声も聞こえない。救急車を呼んでドアを壊してもらったんだけど……」
みつは声を震わせた。
「誰もいなかったんだよ。湯船にも、洗い場にも。でも、義雄の服は脱衣所に置いたままだった。主人は、風呂場から消えちまったんだ」
それ以来、家族風呂は「本日休止」の札を下げて封鎖しているという。
日本において毎年行方不明者は八万人もいる。ただ、ほとんどは1週間以内に発見されている。
内訳は老人の俳諧だったり子供の家出、死亡事故や自殺などである。
本当の意味での行方不明は年間二千人程度である。
今回のケースは、その二千人の中に含まれると考えていいだろう。
俺たちはみつの案内で、男湯の奥にある家族風呂の前に案内された。
磨りガラスの入った引き戸には、確かに「本日休止」の札が掛かっている。俺は目を凝らした。
「……あるな」
引き戸の隙間から、薄い黒いひびが視界の端に映った。間違いない、界傷だ。
「幽禍の気配は?」こよりが小声で聞く。
「わからない。ただ、ひびの奥が……見えない。深さがないというか、どこまでも続いているような気がする」
俺がそう言うと、蓮司が手帳に何かを書き込んだ。
「一度、入ってみるかい?」
「いいね。風呂は好きだぜ」
蓮司がナイスな提案をする。
こよりは若干渋った。
「何も用意を持ってきていないのですが」
「タオルとか備品はレンタルもあるみたいだぞ」
「おじいさんが行方不明になったのは家族風呂のほうですよね」
「家族風呂に三人で入るか?」
俺がそう言うとこよりは白い目をする。
「入るわけないでしょう」
「ですよね」
蓮司は苦笑いすると風呂の値段表を見ながら言う。
「まぁ普通の浴場に客として入浴してみようじゃないか。今日は三上君だって『界喰』を持っていないわけだし」
『界喰』は昨日返したばかりなので俺は丸腰だ。非戦闘員。風呂要員だ。
「うむうむ。風呂に入れば何か見えるかもしれないしな」
「仕方ないですね・・・」
こよりは肩を落とすと券売機で入浴券とタオルセット、化粧水を購入した。
俺と蓮司も入浴券とタオルセットを購入。受付で渡して中に入る。
「じゃあ一時間後くらいにロビーで」
俺はこよりに伝えて中に入る。
男湯の脱衣所は、使い込まれた木の床が鈍く光り、昭和の風情を色濃く残していた。常連客らしい老人が数人、服を脱いだり、扇風機の前で涼んだりしている。
「さて、と」
蓮司が制服のボタンを外し始めた。俺も学ランを脱ぐ。
「家族風呂がよかったのに」
「文句を言うな。これも調査の一環だ」
「あそこはこよりを説得して三人で入る流れだったろ」
「そんな流れあるわけないだろう」
「い~や、蓮司、君にならできたはずだ」
「その必死さを調査にも活かしてほしいものだ」
蓮司は真面目な顔で言いながら、見事な筋肉が浮き出た上半身を晒した。こいつ、服を着ていると細身に見えるが、脱ぐと完全にアスリートの体格だ。
「お前、いい体してんな」
「日々の鍛錬の賜物だ」
「蓮司よ。お前が高校に入って三人目の彼女の誕生日にプレゼントとして鉄アレイを贈ってフラれたことを覚えているか?」
「健全な身体に健全な魂は宿るものだ」
蓮司は誇らしげに胸を張り、タオルを肩にかけた。
こいつはイケメンで成績優秀なせいでモテるが変人だ。
デートに5分遅刻したことを指摘し、絵日記をつけ、鉄アレイを贈る。
しかし戦闘では前線で一歩も引かず闘い、俺たちを支える。
そんな生き方を見ていると、まんざらこいつは間違っていないようにも思えてきた。
むしろ、英雄然としているというか、他人に振り回されない生き様に、一種の憧れのようなものまで浮かんでくる。
「行くぞ、三上」
浴室の扉を開けると、むわっとした熱気と石鹸の匂いが押し寄せてきた。高い天井、壁に描かれた富士山のペンキ絵、そして中央に配置された大きな浴槽。
俺たちは体を洗い、湯船に浸かった。
「ふう……」
思わず声が漏れる。熱めの湯が、疲れた体に染み渡っていく。
「悪くないだろう」
蓮司が隣で目を閉じながら言った。
「まあな。でも、仕事中だってことを忘れるなよ」
俺は湯船に浸かりながら、浴室の奥にある「家族風呂」の引き戸に視線を向けた。磨りガラスの向こう側は暗く、何も見えない。しかし、界傷の気配は確かにそこにある。
「なあ、蓮司」
俺は小声で話しかけた。
「こよりのやつ、今頃女湯で何してると思う?」
「調査だろう」
蓮司は即答した。
「そりゃそうだけどさ」
俺は少し想像を膨らませた。
「あいつ、巫女装束の下に晒し巻いてるだろ。あれを解いて、湯船に浸かってる姿を想像してみろよ」
蓮司は目を開け、俺をじっと見た。
「三上。お前、煩悩に支配されているぞ」
「男なら普通だろ。あいつ、普段は隙がないからな。無防備な姿を想像するくらい、許されるはずだ」
俺がそう言うと、蓮司は真顔で頷いた。
「確かに、三枝さんの身体能力と均整の取れた体つきは、特筆に値する。しかし、それを性的な目で見るのは、仲間として不適切だ」
「真面目か」
俺は苦笑した。
「まあ、あいつのことだから、湯船の中でも姿勢を崩さず、目を光らせてるんだろうな」
その頃、女湯では。
こよりは湯船の端に静かに浸かりながら、周囲の様子を観察していた。長い黒髪は頭の上でまとめられ、白い肌にはうっすらと汗が浮かんでいる。
こよりは小さくため息をつき、家族風呂の方向へ視線を向けた。壁越しに、微かな界傷の気配を感じる。
こよりは目を閉じ、湯の温かさに身を委ねた。
「おい、三上。そろそろ上がるぞ」
蓮司が立ち上がった。
「ああ」
俺も湯船から出る。
脱衣所に戻り、服を着ながら、俺は家族風呂の扉をもう一度見た。
(あの中に、桐島義雄がいる……)
幽禍の気配はまだはっきりとはしない。だが、夜になれば、奴は姿を現すだろう。
ロビーに出ると、すでにこよりが待っていた。髪はまだ少し湿っており、頬がほんのりと赤い。制服姿だが、どこか普段とは違う艶っぽさがある。
「遅いですよ」こよりが少し咎めるように言った。
「悪かったな。蓮司が長風呂でさ」俺は適当に言い訳をした。
「調査は終わりましたか」
「ああ。家族風呂の扉の奥に、界傷の反応がある。夜になれば、もっとはっきりするはずだ」
「女湯側からも、壁越しに気配を感じました。やはり、夜間突入しかありませんね」
こよりは表情を引き締め、いつもの「司令塔」の顔に戻った。
「一度戻って、夜に界喰を借りましょう。今夜、松の湯に再突入します」
俺たちは銭湯を後にした。夕暮れの商店街を歩きながら、俺は自分の右手を握りしめた。
見なかったことにはできない。
「……行くか」
俺の呟きは、夕暮れの空気に溶けて消えた。




