おじいちゃん、お風呂出ようね
夜の商店街は静まり返っていた。シャッターの閉まった店舗が並ぶ中、「松の湯」の煙突だけが、夜空に向かって黒い影を伸ばしている。街灯に照らされた「閉業まで三ヶ月」の貼り紙が、昼間よりもどこか寂しげに見えた。
俺たちは三枝神社で九衛門から界喰を受け取り、みつおばあさんから預かった合鍵で、営業時間外の銭湯に忍び込んだ。
「静かなもんだな」
蓮司が小声で言った。脱衣所は暗く、壁掛けの扇風機だけが首を振りながら低い音を立てている。
俺は頷き、男湯の奥にある「家族風呂」の引き戸へ視線を向けた。
昼間見た時よりも、界傷の気配が濃くなっている。磨りガラスの向こう側は真っ暗だが、隙間からは白い湯気が漏れ出していた。そして、かすかに「ざあ、ざあ」という湯の音が聞こえる。
営業していないはずの銭湯で、湯が沸いている。
「こより」
「はい」
巫女装束に着替えているこよりが懐から人払いの札を取り出し、脱衣所の柱に貼り付けた。これで、外から誰かが入ってくることはない。
蓮司が六角棒を構え、引き戸の取っ手に手をかける。
「開けるぞ」
蓮司が引き戸を引いた瞬間、むわっとした熱気と、異常なほど濃い湯気が溢れ出してきた。
「……なんだ、これ」
俺は思わず腕で顔を覆った。中は昼間より明らかに広く変容していた。天井は高く、視界は真っ白に染まっている。湯気というより、白い霧の中に放り込まれたようだ。
湯船は深く、底が見えない。俺は目を凝らした。
湯船の底から、黒いひびが「内側」に向かって伸びている。深さがないのではなく、湯船の中そのものが異界への入り口になっているのだ。
「桐島義雄さんは、あの湯船の中にいます」
こよりが静かに言った。
その直後、湯船の中から「ぽこっ」と水泡が弾ける音がした。
『ここは、いいところだよ』
声は湯気の中から聞こえた。性別も年齢も判然としない、穏やかな声だ。
『終わらなくていい。ここにいれば、何も終わらない。松の湯は、ずっと続く』
ざばっ、と湯が波打つ音がした。
湯船の中から、白い腕が伸びてきた。一本ではない。十本、二十本と、無数の腕が湯の中から這い出し、俺たちに向かって伸びてくる。
「蓮司!」
「任せろ!」
蓮司が前衛に飛び出し、六角棒で迫り来る腕を次々と叩き落とす。しかし、叩き落としても叩き落としても、湯の中から新しい腕が無限に湧き出してくる。
「空劫!」
俺は姿を消して背後に回ろうとした。しかし、視界の端で自分の腕が白く浮き上がっているのが見えた。
「くそっ、湯気の中じゃ使えないのか!」
湯気が輪郭に張り付き、完全に姿を消すことができない。これでは的になるだけだ。
俺は舌打ちし、迫り来る腕を避けようと大きく後ずさりした。
ドン、と背中が柔らかいものにぶつかった。
「……っ」
湯気で濡れた和服の感触と、温かい体温。振り返らなくても誰にぶつかったかわかる。
「……どこを触っているんですか」
こよりの静かで、しかし明確な怒気を孕んだ声が耳元で響いた。
「不可抗力だろ! 湯気で見えないんだよ!」
「見えないなら、触らないでください」
「だから見えないからぶつかったんだって!」
「戦闘中だぞ、三上」
前衛で腕を叩き落としながら、蓮司が真顔で突っ込んできた。
「濡れ衣だ!」
俺が叫び返した瞬間、こよりが「韋天!」と鋭く唱えた。
こよりの身体が弾かれたように前に飛び出し、巫女の神楽を思わせる流麗な蹴りが、数本の腕をまとめて粉砕する。
「三上さん、核を探してください!」
こよりが叫ぶ。俺は慌てて界喰を構え、湯気の中で目を凝らした。
界傷は湯船の底から伸びているが、核の気配はそこにはない。
視線を巡らせる。家族風呂の空間から少し外れた場所——脱衣所の番台の方向に、微かな黒い光が見えた。
「核は番台だ! あの『営業中』の木札だ!」
俺が叫ぶと、蓮司が「昼間に確認したやつか」と応じた。
「創業時から替えていない札だ。六十年分の『閉まらない』という理屈が染み込んでいるんだろう」
「でも、番台に行ったら……」
俺は湯船を見た。無数の腕の奥深く、義雄おじいさんの姿がぼんやりと見えた。湯船の底に引きずり込まれそうになっている。
「私と蓮司が義雄さんを引き上げます。三上さんは番台へ!」
こよりが指示を出す。俺は短く頷き、家族風呂を飛び出して脱衣所へ走った。
番台の前に立つ。
昼間はただの古い木札だった「営業中」の札が、今はどす黒く滲んでいた。「永遠に営業中」という呪いのような理屈が、そこから立ち上っている。
俺は界喰を振り上げた。
しかし、手が止まった。
(これを斬れば……)
木札ごと斬り裂けば、六十年分の「営業の記憶」まで消えてしまうかもしれない。義雄おじいさんが守ってきたもの、みつおばあさんが守ってきたもの、常連客たちが愛してきたもの。それら全てを「なかったこと」にしてしまう。
それは、違う。
「売るのと捨てるのは違う。閉めることと、忘れることも……違う」
俺は界喰の刃を木札にそっと当てた。
喰わせるのは、木札そのものではない。「永遠に閉まらない」という、幽禍が作り出した理屈だけだ。
「阿伽」
『……ある』
阿伽の短い声が、理屈の輪郭を教えてくれた。
家族風呂の方から、蓮司の「引き上げるぞ!」という声と、こよりの気合いの入った声が聞こえた。
「喰え」
俺は界喰を振り抜いた。
音はなかった。ただ、木札に纏わりついていた黒い滲みだけが、刃に吸い込まれるように消え去った。
木札は残った。「営業中」という文字も残った。ただ、そこにあった「永遠」という呪縛だけが消え去った。
家族風呂の引き戸の向こうで、湯気が急速に薄れていくのが見えた。
幽禍が完全に姿を現した。無数の白い腕が集まる中心に不気味な顔。誰がデザインしたらこうなるんだよ。
こよりと蓮司は湯舟から引き揚げた義雄さんを脱衣所に寝かせると浴場に再度突入。不気味な幽禍と戦闘開始。
こよりは浴場のタイルを蹴ると壁を走って横から幽禍に突撃。蓮司は正面から六角棒を振り上げて向かう。
幽禍は無数の腕を伸ばし、それぞれを迎撃。だがこよりの剛腕は五本の腕を一撃で吹き飛ばし、蓮司の六角棒は三本の腕を叩き折る。それでも残った腕を振り回し、こよりの顔面を容赦なく殴り、蓮司を床に叩きつけた。
こよりは鼻血を吹きながら立ち上がり、蓮司も咳き込みながら立ち上がると再び急襲を再開。先ほどよりも深く敵の懐に入り込んだこよりは大きく息を吸い込むと幽禍の顔面にお返しとばかり全力の拳を叩きこむ。幽禍は四本の腕でガードするが、ガードもろとも吹き飛ばし、幽禍の顔面に拳を深く突き刺した。
蓮司も六角棒で腕をへし折りながら接近し、真正面に堂々と構える。
湯気が晴れたため、俺は空劫で姿を消し、阿伽で幽禍の上に滞空する。
幽禍の腕は続々と湯舟から追加され、こよりと蓮司が始末した腕は湯舟に消えていく。
「キリがありません!」
こよりが悲鳴のように蓮司に言う。巫女装束は全身ずぶ濡れで肌に張り付いている。
「三上が狙っているはずだ。僕らで隙を作るんだ!」
蓮司は六角棒を振り回し、幽禍を挑発する。その挑発に乗ったかのように無数の腕が蓮司に伸び、蓮司の両手両足を拘束。大の字になった蓮司の腹に腕が拳を作り、激しく打ち抜いた。
蓮司は口から血反吐を吐く。おそらく折れた骨が肺に刺さった。
見ればこよりも両手両足を拘束されている。こよりは振りほどこうと超筋力を発揮するも腕がゴムのようにしなるため振りほどけない。幽禍はこよりをそのまま床に何度も叩きつけると全身の骨が砕ける音がした。人間から聞こえてよい音ではない。
(今だ!!)
幽禍が二人を拘束することで頭部がはっきりと見えた。俺は空劫を使ったまま降下。
界喰を振り上げ、幽禍の頭部を両断。ドス黒い血飛沫をまき散らして湯舟に沈む。
俺は空劫を解除し、二人に駆け寄る。
「こより! 蓮司! 生きているか!?」
こよりはうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない。血だまりが床に広がっていく。俺は肝が急速に冷える。蓮司は血を吹きながら起き上がると『無畏』が傷を癒していく。最低限のところまで治療すると、今度はこよりに向かう。
「こより、生きてるか?ピクリとも動かないんだ」
「ギリギリだが大丈夫だ。相当やられているな」
『無畏』の白い光がこよりを包む。全身の砕けた骨や神経が修復されていくと、こよりは咳き込んだ。俺はほっと胸をなでおろす。
「こより!」
「・・・三上さん、遅いですよ・・・」
「そうだぞ三上。二人とも三途の川を渡りかけた」
「すまない。幽禍の頭を斬る隙がなかった。あそこで俺まで捕まったら終わりだからな」
こよりはまだ回復の途中だが懐から吸引札を出す。
「吸引!」
札は湯舟に沈んだ白い残骸を掃除機のように吸い込み、最後に札の中心に「封」の文字が浮かんだ。
「討伐確認」
こよりを回復した蓮司は脱衣所に寝かせていた義雄おじいさんにタオルをかけ、介抱している。どうやら目を覚ましたようだ。
「……終わっちまうのか」
義雄おじいさんが、天井を見上げながらぽつりと言った。
「六十年、ここで風呂を沸かしてきた。終わっちまうのが、嫌でな」
俺は義雄おじいさんのそばにしゃがみ込んだ。
「閉めることと、忘れることは違いますよ」
義雄おじいさんが、ゆっくりと俺を見た。
「六十年分の湯は、なくなりません。閉まっても、なくなりはしない」
義雄おじいさんは少しの間、俺の顔を見ていた。そして、目を細めた。
「……そうだな」
*
翌朝、俺は神社に界喰を返しに行った。
九衛門は「上出来じゃ」と一言だけ言い、こよりは「今回は説教の追加はありません」と静かに言った。
帰り道、商店街を歩いていると、松の湯の前を通った。
煙突からは、今日も薄い煙が上がっている。
入り口の「閉業まで三ヶ月」の貼り紙の隣に、新しい貼り紙が増えていた。
『最後の一ヶ月は、毎日営業します。六十年間ありがとうございました。——桐島義雄・みつ』
俺はその貼り紙を少しの間見ていた。
「……行くか」
こよりが「はい」と応え、蓮司が手帳を閉じた。
俺たちは、夕暮れの商店街を歩き出した。




