空中散歩
銭湯からの帰り道、俺はこよりに一つお願いをした。
「なあこより。いつも使っている吸印札、あれ余ってるか?」
「ありますけど」
「俺にも使えるか? 何枚かくれ」
「広げて『吸印』と言うだけでいいので、三上さんにも使えますよ」
そう言ってこよりは懐から五枚吸印札を取り出し、俺に渡してくれた。
「戦闘中、こよりが動けないことがあるかもしれないだろ?それにいつも一緒に戦えるとは限らないわけだし。蓮司も持っておいたほうがいいだろ」
「そうですね。三橋さんも持っておいてください」
蓮司もこよりから吸印札を受け取ると鞄にしまう。
「三上の言うとおりだ。いつも三人で戦えるとは限らない。誰でも使えるなら持っておいたほうがいいね」
「この札は九衛門さんが作ってるのか?」
俺がそう言うとこよりは頷いた。
「えぇ、私も書いてますけど、ほとんどお祖父さまのものですね」
俺はもらった札をズボンのポケットにしまう。
「あ、もう俺んちそこだわ」
俺は、その日の夜は界喰を返さないことにした。
こよりは心配したが、明日の朝、三枝神社に立ち寄って返却してから学校に行くほうが通り道だから、と説き伏せてほぼ強引に持ち帰った。
俺はその晩、再び宙の海にいた。今度は界喰を持って。
俺は阿伽の飛行能力をほぼ完全に掌握していた。上昇速度、水平最高速度、降下速度、旋回能力。どれもスーパーマンとはいかないまでもかなりの機動力を発揮できる。
俺は先日同様、上空150メートル付近で滞空。
先日飛んだ時から気になっていたことがある。空にはちらほら幽禍がいるのだ。
幽禍は人の心の隙間を好むと思う。これまでも「舞台に立つ不安」や「大事なものが売られてしまう不安」「選ばなければならない不安」など、人の不安や葛藤というネガティブな心に引かれる性質があるのだ。それが何故だかはわからない。
しかし、そういう人の隙間をまだ見つけられていない幽禍はこうやって空を漂い探し続けているのだ。
ほどなく俺は東京の上空を彷徨う不気味な黒い影を発見する。黒い瘴気を揺らめかせ骸骨のような腕と顔が見えた。幽禍だ。
俺は発見される前に空劫で姿を消し、幽禍に向かって矢の速度で接近。界喰を抜き、すれ違いざまに切り捨てる。幽禍は悲鳴一つあげず、空中で崩壊。
「吸印!」
俺は吸印札を広げ文句を唱えると幽禍の残骸は札に吸い込まれていく。
俺はそんな具合で空の幽禍を数体、始末して家に帰った。
翌朝、俺はこよりと蓮司と三人で三枝神社の境内を歩いていた。
朝の空気は冷たく、砂利を踏む足音だけが静かに響く。俺の肩には、黒布で巻かれた界喰が背負われている。
拝殿の奥にある祭壇で、九衛門に界喰を差し出した。
「返却します」
九衛門は無言でそれを受け取り、祭壇の奥へ安置した。俺はそのまま、ポケットから五枚の吸印札を取り出し、九衛門の前に置いた。
「これも、処理済みです」
九衛門は札を一瞥し、ゆっくりと俺を見た。
背後で、こよりの足音がぴたりと止まる気配がした。
「……三上さん」
こよりの声は、朝の冷気よりも数度低かった。
「これ、昨晩使いましたね?」
「……まあ」
「昨晩、私はあなたに札を渡して別れました。つまり、あなたが一人で幽禍を狩ったということですか」
「狩ったっていうか、見つけたから処理しただけだ」
「一人で、界喰を使って?」
「そうだけど」
こよりが小さく息を吸い込む音がした。蓮司が手帳を開く音がそれに続く。
「すまない、僕もだ」
「!?」
蓮司はそういうと手帳に挟んであった吸印札を一枚九衛門に差し出した。こちらも使用済みのようだ。
「蓮司さん!あなたまで!」
「うちの近くで見つけてしまってね。人の心に憑りつく前に処理しなければならないと思ったんだ」
「蓮司よ、お前もようやく話がわかるやつになってきたじゃないか」
九衛門は表情を変えず吸印札を受け取り、こよりも懐から出した銭湯の幽禍の分、あわせて七枚を並べてから祝詞を発すると俺たちの影から黒い腕が伸び、たちまち吸印札を喰い荒らした。よし、これで対価はちゃんと支払ったぞ。
「説教は昼休みにします」
こよりはそれだけ言って、踵を返した。
俺は九衛門を見たが、九衛門は目を閉じていた。
*
昼休み。俺たちは旧講堂の裏手にあるベンチに集まっていた。
こよりは腕を組み、蓮司は手帳を開いてペンを構えている。
「まず、状況を説明してください」
こよりの静かな声に促され、俺は昨夜の出来事を話した。
空にはちらほらと幽禍が漂っていること。それらが人の心の隙間を探していること。そして、空劫で接近して界喰で斬り、吸印札で処理したこと。
「なるほど」と蓮司が手帳に書き込みながら言った。「空中にもそのような幽禍がいるのか。僕は路地裏で見つけたんだが」
「びっくりだろ? 幽禍は人に憑いたら力を増す気がするんだ。早めに処理したほうがいい」
「ですが・・・単独での行動は危険です。特に、一人で界喰を使うことは」
「なんでだよ。俺一人でもちゃんと処理できたぞ」
「処理できたかどうかではありません。界喰が何を喰うか、です」
こよりの言葉に、俺は少し言葉に詰まった。
「界喰は理屈や名前を喰う刀です。もしあなたが一人で使って、誤って『帰る道』や『自分の名前』を喰わせてしまったら、誰が止めるんですか」
「……阿伽と空劫がいる」
「封使ごと吸収される危険性については、お祖父さまから聞いていますよね?」
俺は黙り込んだ。確かに、その通りだ。
「いつも三人で戦えるとは限らない、というあなたの言葉は正しいです」こよりは少しだけ声のトーンを落とした。「ですが、だからこそ、連携できる時は連携すべきです。あなたの力は、一人で暴走させるためのものではありません」
俺は頭を掻いた。
「……わかった。次からは気をつける」
「次からは、ではありません。今度一人で無断使用したら、韋天で縛り上げます」
「わかったってば」
蓮司が「僕も反省しなければ」と言って手帳を閉じた。
*
放課後。俺たちは再び三枝神社の稽古場にいた。
九衛門の助言で、飛翔訓練の続きを行うためだ。正直もう不要だと思うけど。
俺は空中で回転したり急旋回や不規則な運動での回避行動をしてみせる。
「ほら。もうすっかり馴染んだぜ」
「見事な飛行じゃな」
九衛門も頷くと手をぱちぱちと叩いた。
こよりが「おめでとうございます」と言い、蓮司が手帳に「訓練完了」と書き込んだ。
俺は「ほぼ、ってなんだよ……」と思いながらも、悪くない気分だった。
「自由に空を飛べるのっていいですね。私も飛んでみたいです」
「慣れるまでは怖かったけどな。今なら雲の上で昼寝だってできそうだ」
俺が本気ですると思ったのか、こよりは少し厳しい顔つきで俺を睨んだ。おお怖ぇ。
*
訓練が一段落したところで、拝殿の方から微かな音がした。
賽銭箱から、一枚の紙片がふわりと浮かび上がってきたのだ。
「……また来た」
俺は紙片を手に取った。
そこには、一行だけ書かれていた。
『先生が消えました』
三人で顔を見合わせる。
蓮司が「消えた、というのは物理的に消えたのか、行方不明になったのか」と呟いた。
こよりが「裏を」と短く言う。
俺が紙片を裏返すと、黒い線が走り、見覚えのない建物の見取り図が現れた。
隅の方に、小さく「第三自習室」と書かれている。
「……どこだ、これ」
「塾、ですね」
こよりが静かに言った。
蓮司が手帳を開く。「学校の外か。封使の使用制限は……」
「人払いの結界を先に張れば使用可能です」こよりが答える。「ただし、結界展開の三十秒間は無防備になります」
「つまり、結界を張る隙をどう作るかが課題だ」
「……それ、けっこう難しくないか」
俺が言うと、こよりは「そういうことです」とだけ答えた。
九衛門が縁側から「塾か」と呟いた。
「知ってたんですか」
「知らん。ただ、塾というのは妙なところじゃ」
「妙、というのは」
「みんなが同じ方向を向いて、同じものを目指す場所じゃ。そういう場所には、歪みが生まれやすい」
俺は少しの間、その言葉を考えた。
「……行きたくない」
「行くんじゃろ」
「……行きます」
九衛門が茶をすすった。
こよりが「では、明日の放課後に現地調査を」と言い、蓮司が「塾の名前と住所は地図から特定できる。調べておく」と手帳を閉じた。
俺は空を見上げた。
夕暮れの空に、一番星が出始めていた。
(普通の日、というものが俺たちにはないな)
まあ、いい。
俺は目を細めて、空を見た。




