点数に魂を縛られた人々
放課後、俺たち三人はまず三枝神社に立ち寄った。昨夜の俺の無断使用の後、今朝一度界喰を返却してしまったからだ。今夜の調査に備えて、もう一度借り受ける必要がある。
祭壇の前に座る九衛門は、黒布に巻かれた界喰を俺に差し出しながら、呆れたように息を吐いた。
「また持っていくのか。お主もせわしない奴じゃな」
「今日は無断で使いませんよ」
「当たり前じゃ」
「約束ですよ、三上さん」
九衛門の小言に、こよりが静かに念を押す。昨日の昼休みの説教を思い出し、俺は大人しく頷いて界喰を受け取った。
傍らで手帳を開いていた蓮司が、咳払いをして報告を始める。
「目的の塾についてだが、名前は『進学塾・桐陽ゼミナール』。駅前のビルに入っている中規模の塾だ。問題の『第三自習室』は、現在『設備点検中』という名目で一週間前から使用禁止になっている」
「設備点検ねえ。一週間も?」
「あぁ。そしてその直前、担当講師だった梶原誠一という三十八歳の男が無断欠勤し、そのまま行方不明になっている」
「『先生が消えました』ってのは、そういうことか」
俺が呟くと、九衛門が湯呑みを置きながら言った。
「塾か。そういう場所には歪みが生まれやすい。みんなが同じ方向を向いて、同じものを目指す場所にはな」
九衛門の言葉を背に受けながら、俺たちは神社を後にした。
*
駅前の雑居ビル、その三階と四階が桐陽ゼミナールだった。
夕方の時間帯ということもあり、塾内にはこれから授業を受ける小中学生や、迎えに来た保護者、事務スタッフの姿がそこかしこにある。
階段の踊り場で、蓮司が手帳を見ながら言った。
「第三自習室は四階の奥だ。問題は、どうやって人払いの結界を張るかだな」
学校外での封使の使用は、一般人に見られないことが絶対条件だ。こよりが人払いの札を使えば三十秒で結界が展開され、その空間から人を遠ざけることができる。だが、その札を「第三自習室のドアの前」という目立つ場所で、誰にも見られずに貼らなければならない。
「僕が火災報知器を鳴らそう」
蓮司が真顔でとんでもないことを言った。
「却下します」
こよりが即座に切り捨てる。
「待て、合理的だぞ。全員が避難している隙に……」
「犯罪です。それに、パニックになれば余計に人が予測不能な動きをします」
「……それもそうか」
真面目な顔で反省する蓮司を横目に、俺はため息をついた。
「俺が行くよ」
「三上さんが?」
「空劫で姿を消して、札を貼ってくる。それなら誰にも見られないだろ」
こよりは少し考え込んだ後、「……わかりました」と頷き、俺に人払いの札を一枚渡した。
「壁に貼ってから、三十秒です。その間は結界が完成していないので、私たちは動けません。気をつけてください」
「わかってる」
俺は空劫を呼び出し、輪郭を薄れさせた。周囲の生徒たちが俺の横を通り過ぎていくが、誰一人として俺の存在に気づかない。
そのまま階段を上がり、四階の奥へと向かう。
廊下の突き当たり、「設備点検中」という貼り紙がされたドアがあった。第三自習室だ。
ドアの隙間からは、すでに濃密な界傷の気配が漏れ出していた。黒い瘴気のようなものが、床を這うように滲み出ている。
俺はドアの横の壁に人払いの札を貼り付けた。
札が微かに光を放ち始める。ここから三十秒。
俺は空劫を解き、こよりと蓮司に合流の合図を送った。二人が足早に廊下を進んでくる。
結界が展開されるまでの三十秒間、俺たちはドアの前で無防備な状態で待機しなければならない。
その時だった。
——カリカリ、カリカリカリ……。
ドアの向こうから、不気味な音が聞こえてきた。
最初はネズミでもいるのかと思ったが、違う。それは、無数のシャーペンが一斉に紙の上を走る音だった。
カリカリ、カリカリ、カリカリカリカリカリ。
狂ったような速度で、何十人、何百人という人間が、取り憑かれたように問題を解き続けているような音。
「……趣味の悪い音だな」
俺が呟くと同時に、札の光がスッと消え、周囲の空気が張り詰めたものに変わった。結界が完成したのだ。
こよりが頷き、蓮司がドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。蓮司が勢いよくドアを開け放つ。
室内は、外から見るよりも異様に広かった。
無数の机が整然と並んでいる。だが、生徒の姿は一人もない。
シャーペンの音だけが、誰もいない空間に響き渡っていた。
正面の黒板には、「第一位」から「第百位」までの名前がびっしりと書かれている。しかし、その名前はすべて、黒いチョークで執拗に塗りつぶされていた。
「これは……成績のランキング表か」
蓮司が手帳を開きながら言った。
「見てください、あそこ」
こよりが指差した先、部屋の隅にある教卓の上に、赤いペンと数十枚の答案用紙が乱雑に積まれていた。
俺は教卓に近づき、一番上の答案用紙を覗き込んだ。
そこには、点数の代わりに、赤い文字で呪詛のような言葉が書き殴られていた。
『不合格』
『価値なし』
『劣等』
『時間の無駄』
「……これが、消えた先生の採点か」
俺がその答案用紙に触れた瞬間だった。
黒板の塗りつぶされた名前が、泥のように蠢き始めた。
黒い泥が黒板から滴り落ち、無人の机の前に次々と人の形を作っていく。
現れたのは、黒い影でできた無数の生徒たちだった。
影たちは一斉にこちらを向き、のっぺりとした顔の口の部分だけを歪めて、口々に呟いた。
「先生、採点してください」
「先生、採点してください」
「先生、採点してください」
こよりが静かに韋天の呼吸を整え、蓮司が鞄から六角棒を引き抜く。
俺は黒布に巻かれた界喰を抜き放ちながら、内心で毒づいた。
ここは、点数でしか自分を測れない奴らの地獄か。
帰りたい。心底、帰りたい。
最初に動いたのはこよりだった。
韋天の力が全身に満ちる。巫女装束の白い袖が空気を切り、影の群れの最前列に突っ込んだ。
拳が、影の胴体に直撃した。
べしゃ、という音とともに影が弾け飛ぶ。黒い泥が四方に散り、こよりの白い装束に斑点を作る。しかし、散った影はすぐに別の机の前で再び形を作り、また同じ言葉を繰り返した。
「先生、採点してください」
「再生が早い」
こよりが呟きながら、次の影へ肘打ちを叩き込む。また弾ける。また再生する。
影の数が増えていた。黒板から次々と新しい影が生まれ、室内を埋め尽くしていく。
「核を探してください!」
こよりが叫ぶ。俺は阿伽を呼び出し、天井近くまで浮き上がった。上から見ると、影の配置に規則性があることがわかった。全員が、教卓を中心に同心円状に並んでいる。そして、その教卓の上に積まれた答案用紙の束——その一番下の一枚だけが、他と違う色をしていた。黒い瘴気を帯びた、一枚の答案用紙。
「核は教卓の答案用紙の束の一番下だ!」
俺が叫んだ瞬間、影の群れがこよりに殺到した。
十体、二十体。影たちが一斉にこよりへ向かい、腕を伸ばす。こよりは後退せず、むしろ前へ出た。
韋天の力を二十倍に引き上げる。
それは神楽の形をした暴力だった。
右の影を肘で砕き、左の影を蹴り飛ばし、背後から来た影の腕を掴んで床に叩きつける。巫女装束の緋袴が翻るたびに黒い泥が飛び散り、白い袖は瞬く間に黒く汚れていく。
だが影は無限に再生する。こよりの拳が届くより早く、新しい影が黒板から生まれてくる。
影の一体がこよりの腕に絡みついた。
黒い手が、白い袖の上から締め上げる。
「くっ」
こよりが顔をしかめた。影の手が袖を食い破り、直接肌に触れる。骨まで届くような冷たさが走り、じわりと赤いものが滲んだ。
別の影がこよりの背中に飛びかかる。鋭い爪が巫女装束を引き裂き、肩口から血が流れた。
「三枝さん!」
蓮司が六角棒で駆けつけ、こよりに絡みついた影を薙ぎ払う。しかし、その隙に影の群れが蓮司を取り囲んだ。
「三上さん、核へ! 今です!」
こよりが叫ぶ。血が滲んだ肩を押さえる素振りも見せず、また影の群れへ向かっていく。
俺は天井から一気に降下した。阿伽が落下速度を制御し、影の頭上を越えて教卓の前に着地する。
答案用紙の束に手を伸ばし、一番上から払いのけていく。二枚、三枚、五枚。
背後で激しい音がした。振り返ると、こよりが三体の影に同時に組みつかれていた。黒い腕が首に絡まり、腰に巻きつき、足首を掴んでいる。それでもこよりは動きを止めない。韋天の力を三十倍に引き上げ、全身の筋肉が軋む音を立てながら、影を一体ずつ引き剥がしていく。巫女装束の帯が乱れ、白い衿が血で汚れ、それでも目だけは教卓の俺を見ていた。
「早く!」
俺は答案用紙を払いのけ続けた。十枚、二十枚。
束の中ほどまで来た時、指先に異質な感触があった。
他の紙とは違う、重さ。引力のようなものを持つ一枚。
取り出すと、それは真っ黒に塗りつぶされた答案用紙だった。名前の欄も、問題も、余白も、すべてが黒一色に塗り潰されている。ただ一箇所、採点欄だけが空白のまま残されていた。
これだ。
俺は界喰を構えた。しかし、ここで迷いが生じた。
この答案用紙を斬れば、幽禍は消える。だが、この紙に込められたものは何だ。塗りつぶされた名前、空白の採点欄——これは、採点されることを恐れ続けた誰かの感情の残滓ではないか。
「三上さん!」
こよりの声で我に返る。
振り返ると、こよりが膝をついていた。
影の群れが四方から押し寄せ、韋天の光が薄れ始めている。肩の傷から血が垂れ、床に黒い染みを作っていた。それでもこよりは顔を上げ、俺を見ていた。
「見えているなら、届けてください」
静かな声だった。
血が出ていても、装束が乱れていても、声だけは揺れていなかった。
俺は答案用紙を見つめた。
空白の採点欄。
採点されることを恐れながら、それでも採点を求め続けた誰かの声。
——先生、採点してください。
そうか。こいつらは、採点されたかったんじゃない。
採点される前に、逃げ出したかったんだ。
でも逃げられなくて、ここに溜まり続けた。
俺は界喰を、答案用紙の採点欄の空白に向けて静かに当てた。斬るのではなく、ただ触れるように。
「もう、採点しなくていい」
呟いた瞬間、界喰が黒い光を吸い込んだ。
答案用紙の黒が、みるみる薄れていく。塗りつぶされた名前が浮かび上がり、問題の文字が現れ、そして——紙は、ただの白紙に戻った。
室内の影たちが、一斉に霧散した。
シャーペンの音が止まる。
黒板の塗りつぶされた名前が消え、白いチョークの跡だけが残った。
こよりがボロボロの巫女装束から吸印札を取り出し広げる。
「吸印!!」
真っ白な答案用紙が吸印札に吸い込まれていき、最後に「封」の文字が浮かんだ。
「討伐確認」
こよりは札を畳むと懐に押し込む。
静寂。
「……終わったか」
蓮司が六角棒を下ろしながら、肩で息をついた。
俺はこよりに駆け寄った。膝をついたまま動かない。肩口の傷から血が滲み続けている。
「おい、立てるか」
「……立てます」
「嘘つくな。顔色が白い」
こよりは反論しかけて、やめた。蓮司が素早くしゃがみ込み、こよりの傷に手を当てる。淡い光が滲み、血が止まっていく。
「肩と腕、二箇所。深くはないが、今夜はもう動くな」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
蓮司の手が光を放つ間、俺はこよりの装束の惨状を見ていた。白い袖は黒く汚れ、緋袴の裾が破れ、衿の血の染みはもう取れないだろう。それでもこよりは背筋を伸ばして座っていた。
血まみれで、ボロボロで、それでも姿勢だけは崩さない。
なんで、そういうやつなんだ。
「三上さん」
こよりが俺を見た。
「ありがとうございました」
「俺は答案用紙に触っただけだ」
「それで十分です」
俺は手の中の白紙を見つめた。採点欄は、今も空白のままだった。
「梶原誠一って先生、どこ行ったんだろうな」
誰に言うでもなく呟くと、こよりが静かに答えた。
「それは、私たちの仕事ではありません」
そうだな。俺たちは幽禍を祓う。人間の行方を追うのは、別の話だ。
俺は白紙を教卓の上に置いた。
「制服、また駄目にしたな」
蓮司が立ち上がりながら言った。こよりの巫女装束を見て、俺も同じことを思っていた。
「洗えば落ちます」
「血の染みは落ちないぞ」
「……お祖父さまに怒られますね」
こよりが小さく息を吐いた。それが笑いなのか諦めなのか、俺には判断がつかなかった。
帰りたい、と思った。
でも、今日は少しだけ、その気持ちより大きい別の何かがあった。
名前はまだ、つけたくない。




