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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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15/18

点数に魂を縛られた人々

 放課後、俺たち三人はまず三枝神社に立ち寄った。昨夜の俺の無断使用の後、今朝一度界喰(かいばみ)を返却してしまったからだ。今夜の調査に備えて、もう一度借り受ける必要がある。

 祭壇の前に座る九衛門(きゅうえもん)は、黒布に巻かれた界喰(かいばみ)を俺に差し出しながら、呆れたように息を吐いた。


「また持っていくのか。お主もせわしない奴じゃな」

「今日は無断で使いませんよ」

「当たり前じゃ」

「約束ですよ、三上さん」


 九衛門の小言に、こよりが静かに念を押す。昨日の昼休みの説教を思い出し、俺は大人しく頷いて界喰を受け取った。

 傍らで手帳を開いていた蓮司が、咳払いをして報告を始める。


「目的の塾についてだが、名前は『進学塾・桐陽(とうよう)ゼミナール』。駅前のビルに入っている中規模の塾だ。問題の『第三自習室』は、現在『設備点検中』という名目で一週間前から使用禁止になっている」

「設備点検ねえ。一週間も?」

「あぁ。そしてその直前、担当講師だった梶原誠一という三十八歳の男が無断欠勤し、そのまま行方不明になっている」

「『先生が消えました』ってのは、そういうことか」


 俺が呟くと、九衛門が湯呑みを置きながら言った。


「塾か。そういう場所には歪みが生まれやすい。みんなが同じ方向を向いて、同じものを目指す場所にはな」


 九衛門の言葉を背に受けながら、俺たちは神社を後にした。


 *


 駅前の雑居ビル、その三階と四階が桐陽(とうよう)ゼミナールだった。

 夕方の時間帯ということもあり、塾内にはこれから授業を受ける小中学生や、迎えに来た保護者、事務スタッフの姿がそこかしこにある。

 階段の踊り場で、蓮司が手帳を見ながら言った。


「第三自習室は四階の奥だ。問題は、どうやって人払いの結界を張るかだな」


 学校外での封使の使用は、一般人に見られないことが絶対条件だ。こよりが人払いの札を使えば三十秒で結界が展開され、その空間から人を遠ざけることができる。だが、その札を「第三自習室のドアの前」という目立つ場所で、誰にも見られずに貼らなければならない。


「僕が火災報知器を鳴らそう」


 蓮司が真顔でとんでもないことを言った。


「却下します」


 こよりが即座に切り捨てる。


「待て、合理的だぞ。全員が避難している隙に……」

「犯罪です。それに、パニックになれば余計に人が予測不能な動きをします」

「……それもそうか」


 真面目な顔で反省する蓮司を横目に、俺はため息をついた。


「俺が行くよ」

「三上さんが?」

空劫(くうごう)で姿を消して、札を貼ってくる。それなら誰にも見られないだろ」


 こよりは少し考え込んだ後、「……わかりました」と頷き、俺に人払いの札を一枚渡した。


「壁に貼ってから、三十秒です。その間は結界が完成していないので、私たちは動けません。気をつけてください」

「わかってる」


 俺は空劫(くうごう)を呼び出し、輪郭を薄れさせた。周囲の生徒たちが俺の横を通り過ぎていくが、誰一人として俺の存在に気づかない。

 そのまま階段を上がり、四階の奥へと向かう。

 廊下の突き当たり、「設備点検中」という貼り紙がされたドアがあった。第三自習室だ。

 ドアの隙間からは、すでに濃密な界傷(かいしょう)の気配が漏れ出していた。黒い瘴気のようなものが、床を這うように滲み出ている。

 俺はドアの横の壁に人払いの札を貼り付けた。

 札が微かに光を放ち始める。ここから三十秒。

 俺は空劫(くうごう)を解き、こよりと蓮司に合流の合図を送った。二人が足早に廊下を進んでくる。


 結界が展開されるまでの三十秒間、俺たちはドアの前で無防備な状態で待機しなければならない。

 その時だった。


 ——カリカリ、カリカリカリ……。


 ドアの向こうから、不気味な音が聞こえてきた。

 最初はネズミでもいるのかと思ったが、違う。それは、無数のシャーペンが一斉に紙の上を走る音だった。

 カリカリ、カリカリ、カリカリカリカリカリ。

 狂ったような速度で、何十人、何百人という人間が、取り憑かれたように問題を解き続けているような音。


「……趣味の悪い音だな」


 俺が呟くと同時に、札の光がスッと消え、周囲の空気が張り詰めたものに変わった。結界が完成したのだ。

 こよりが頷き、蓮司がドアノブに手をかける。

 鍵はかかっていなかった。蓮司が勢いよくドアを開け放つ。


 室内は、外から見るよりも異様に広かった。

 無数の机が整然と並んでいる。だが、生徒の姿は一人もない。

 シャーペンの音だけが、誰もいない空間に響き渡っていた。

 正面の黒板には、「第一位」から「第百位」までの名前がびっしりと書かれている。しかし、その名前はすべて、黒いチョークで執拗に塗りつぶされていた。


「これは……成績のランキング表か」


 蓮司が手帳を開きながら言った。


「見てください、あそこ」


 こよりが指差した先、部屋の隅にある教卓の上に、赤いペンと数十枚の答案用紙が乱雑に積まれていた。

 俺は教卓に近づき、一番上の答案用紙を覗き込んだ。

 そこには、点数の代わりに、赤い文字で呪詛のような言葉が書き殴られていた。


『不合格』

『価値なし』

『劣等』

『時間の無駄』


「……これが、消えた先生の採点か」


 俺がその答案用紙に触れた瞬間だった。

 黒板の塗りつぶされた名前が、泥のように蠢き始めた。

 黒い泥が黒板から滴り落ち、無人の机の前に次々と人の形を作っていく。

 現れたのは、黒い影でできた無数の生徒たちだった。

 影たちは一斉にこちらを向き、のっぺりとした顔の口の部分だけを歪めて、口々に呟いた。


「先生、採点してください」

「先生、採点してください」

「先生、採点してください」


 こよりが静かに韋天の呼吸を整え、蓮司が鞄から六角棒を引き抜く。

 俺は黒布に巻かれた界喰を抜き放ちながら、内心で毒づいた。


 ここは、点数でしか自分を測れない奴らの地獄か。

 帰りたい。心底、帰りたい。


最初に動いたのはこよりだった。

 韋天(いてん)の力が全身に満ちる。巫女装束の白い袖が空気を切り、影の群れの最前列に突っ込んだ。


 拳が、影の胴体に直撃した。

 べしゃ、という音とともに影が弾け飛ぶ。黒い泥が四方に散り、こよりの白い装束に斑点を作る。しかし、散った影はすぐに別の机の前で再び形を作り、また同じ言葉を繰り返した。


「先生、採点してください」

「再生が早い」


 こよりが呟きながら、次の影へ肘打ちを叩き込む。また弾ける。また再生する。

 影の数が増えていた。黒板から次々と新しい影が生まれ、室内を埋め尽くしていく。


「核を探してください!」


 こよりが叫ぶ。俺は阿伽(あか)を呼び出し、天井近くまで浮き上がった。上から見ると、影の配置に規則性があることがわかった。全員が、教卓を中心に同心円状に並んでいる。そして、その教卓の上に積まれた答案用紙の束——その一番下の一枚だけが、他と違う色をしていた。黒い瘴気を帯びた、一枚の答案用紙。


「核は教卓の答案用紙の束の一番下だ!」


 俺が叫んだ瞬間、影の群れがこよりに殺到した。

 十体、二十体。影たちが一斉にこよりへ向かい、腕を伸ばす。こよりは後退せず、むしろ前へ出た。


 韋天の力を二十倍に引き上げる。

 それは神楽の形をした暴力だった。

 右の影を肘で砕き、左の影を蹴り飛ばし、背後から来た影の腕を掴んで床に叩きつける。巫女装束の緋袴が翻るたびに黒い泥が飛び散り、白い袖は瞬く間に黒く汚れていく。

 だが影は無限に再生する。こよりの拳が届くより早く、新しい影が黒板から生まれてくる。


 影の一体がこよりの腕に絡みついた。

 黒い手が、白い袖の上から締め上げる。


「くっ」


 こよりが顔をしかめた。影の手が袖を食い破り、直接肌に触れる。骨まで届くような冷たさが走り、じわりと赤いものが滲んだ。

 別の影がこよりの背中に飛びかかる。鋭い爪が巫女装束を引き裂き、肩口から血が流れた。


「三枝さん!」


 蓮司が六角棒で駆けつけ、こよりに絡みついた影を薙ぎ払う。しかし、その隙に影の群れが蓮司を取り囲んだ。


「三上さん、核へ! 今です!」


 こよりが叫ぶ。血が滲んだ肩を押さえる素振りも見せず、また影の群れへ向かっていく。

 俺は天井から一気に降下した。阿伽(あか)が落下速度を制御し、影の頭上を越えて教卓の前に着地する。


 答案用紙の束に手を伸ばし、一番上から払いのけていく。二枚、三枚、五枚。

 背後で激しい音がした。振り返ると、こよりが三体の影に同時に組みつかれていた。黒い腕が首に絡まり、腰に巻きつき、足首を掴んでいる。それでもこよりは動きを止めない。韋天の力を三十倍に引き上げ、全身の筋肉が軋む音を立てながら、影を一体ずつ引き剥がしていく。巫女装束の帯が乱れ、白い衿が血で汚れ、それでも目だけは教卓の俺を見ていた。


「早く!」


 俺は答案用紙を払いのけ続けた。十枚、二十枚。

 束の中ほどまで来た時、指先に異質な感触があった。

 他の紙とは違う、重さ。引力のようなものを持つ一枚。


 取り出すと、それは真っ黒に塗りつぶされた答案用紙だった。名前の欄も、問題も、余白も、すべてが黒一色に塗り潰されている。ただ一箇所、採点欄だけが空白のまま残されていた。


 これだ。


 俺は界喰(かいばみ)を構えた。しかし、ここで迷いが生じた。

 この答案用紙を斬れば、幽禍(ゆうか)は消える。だが、この紙に込められたものは何だ。塗りつぶされた名前、空白の採点欄——これは、採点されることを恐れ続けた誰かの感情の残滓ではないか。


「三上さん!」


 こよりの声で我に返る。

 振り返ると、こよりが膝をついていた。

 影の群れが四方から押し寄せ、韋天(いてん)の光が薄れ始めている。肩の傷から血が垂れ、床に黒い染みを作っていた。それでもこよりは顔を上げ、俺を見ていた。


「見えているなら、届けてください」


 静かな声だった。

 血が出ていても、装束が乱れていても、声だけは揺れていなかった。


 俺は答案用紙を見つめた。

 空白の採点欄。

 採点されることを恐れながら、それでも採点を求め続けた誰かの声。


 ——先生、採点してください。


 そうか。こいつらは、採点されたかったんじゃない。

 採点される前に、逃げ出したかったんだ。

 でも逃げられなくて、ここに溜まり続けた。


 俺は界喰(かいばみ)を、答案用紙の採点欄の空白に向けて静かに当てた。斬るのではなく、ただ触れるように。


「もう、採点しなくていい」


 呟いた瞬間、界喰が黒い光を吸い込んだ。

 答案用紙の黒が、みるみる薄れていく。塗りつぶされた名前が浮かび上がり、問題の文字が現れ、そして——紙は、ただの白紙に戻った。


 室内の影たちが、一斉に霧散した。

 シャーペンの音が止まる。

 黒板の塗りつぶされた名前が消え、白いチョークの跡だけが残った。


 こよりがボロボロの巫女装束から吸印札を取り出し広げる。


「吸印!!」


 真っ白な答案用紙が吸印札に吸い込まれていき、最後に「封」の文字が浮かんだ。


「討伐確認」


 こよりは札を畳むと懐に押し込む。


 静寂。


「……終わったか」


 蓮司が六角棒を下ろしながら、肩で息をついた。


 俺はこよりに駆け寄った。膝をついたまま動かない。肩口の傷から血が滲み続けている。


「おい、立てるか」

「……立てます」

「嘘つくな。顔色が白い」


 こよりは反論しかけて、やめた。蓮司が素早くしゃがみ込み、こよりの傷に手を当てる。淡い光が滲み、血が止まっていく。


「肩と腕、二箇所。深くはないが、今夜はもう動くな」

「ありがとうございます」

「礼はいい」


 蓮司の手が光を放つ間、俺はこよりの装束の惨状を見ていた。白い袖は黒く汚れ、緋袴の裾が破れ、衿の血の染みはもう取れないだろう。それでもこよりは背筋を伸ばして座っていた。

 血まみれで、ボロボロで、それでも姿勢だけは崩さない。

 なんで、そういうやつなんだ。


「三上さん」


 こよりが俺を見た。


「ありがとうございました」

「俺は答案用紙に触っただけだ」

「それで十分です」


 俺は手の中の白紙を見つめた。採点欄は、今も空白のままだった。


「梶原誠一って先生、どこ行ったんだろうな」


 誰に言うでもなく呟くと、こよりが静かに答えた。


「それは、私たちの仕事ではありません」


 そうだな。俺たちは幽禍を祓う。人間の行方を追うのは、別の話だ。

 俺は白紙を教卓の上に置いた。


「制服、また駄目にしたな」


 蓮司が立ち上がりながら言った。こよりの巫女装束を見て、俺も同じことを思っていた。


「洗えば落ちます」

「血の染みは落ちないぞ」

「……お祖父さまに怒られますね」


 こよりが小さく息を吐いた。それが笑いなのか諦めなのか、俺には判断がつかなかった。


 帰りたい、と思った。

 でも、今日は少しだけ、その気持ちより大きい別の何かがあった。

 名前はまだ、つけたくない。


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