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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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6/8

暗室からの依頼

夜の三枝神社は、昼間より少しだけ遠く見える。


 石段の下に立った時、俺はまず、自分の足がまだ現実に属しているかどうかを確認した。右足を上げる。重い。左足を上げる。もっと重い。

 結論として、俺の足はかなり現実に属していた。


「三上さん、止まらないでください」


 後ろからこよりに言われた。


「止まってない。人生について考えていただけだ」

「では、人生ごと上ってください」

「巫女の言葉とは思えない厳しさだな」

界喰(かいばみ)を背負ったまま石段の下で人生を考える人に、優しい言葉をかける職業ではありません」


 神社は、そういう職業だったらしい。


 俺はため息をつき、石段に足をかけた。さっきまで商店街の油とソースの匂いが鼻に残っていたのに、一段上るごとにそれが薄れていく。代わりに、湿った石と夜の木々の匂いが近づいてきた。


 境内の奥では、社務所の明かりがまだついていた。

 三枝九衛門(きゅうえもん)は、たぶん起きている。

 そして起きているということは、怒る準備もできているということだった。


「蓮司」

「何だ」

「もし宮司さんが怒ったら、半分持ってくれ」

「僕が怒られる理由はない」

「一緒にいたじゃないか」

「一緒にいたことと、返却義務を怠ったことは別問題だ」

「名家のくせに友達を売るのか」

「名家だからこそ、契約は守る」


 正論で刺してくるな。

 俺が石段の途中で二度目の人生会議を開きかけたところで、こよりが横を通り抜けた。


「三上さん」

「何だよ」

「安心してください。祖父はたぶん、怒鳴りません」

「本当か」

「静かに怒ります」

「一番嫌なやつだ」


 蓮司が俺の肩に手を置いた。


「三上。覚悟を決めろ」

「戦闘より嫌なんだが」

「だろうな」

「否定しろよ」


 そんなくだらない会話をしながら、俺たちは境内へ上がった。


 昼間なら、ここには参拝客の気配や、近所の老人が掃き掃除をしている音がある。だが夜の境内は、神社というより、現実の縁に置かれた薄い膜のようだった。


 鳥居の影が地面に長く伸びている。

 手水舎(ちょうずや)の水面には、月が割れたみたいに揺れていた。

 賽銭箱は、本殿の前で黙っている。


 当たり前だ。

 賽銭箱は基本的に喋らない。

 ただ、最近の俺は、喋らないもののほうが面倒なことを言うと知ってしまっている。


「戻ったか」


 社務所の戸が開いた。


 九衛門が、いつもの作務衣(さむえ)姿で立っていた。背筋は真っ直ぐで、顔には眠気の欠片もない。夜に強い老人というのは、若者に対する一種の暴力だと思う。


「ただいま戻りました、おじいさま」


 こよりが小さく頭を下げる。


「戻りました」


 蓮司も続く。


 俺は黒布に包まれた界喰(かいばみ)を背中から下ろし、両手で差し出した。


「返却に参りました」


 できるだけ礼儀正しく言った。


 九衛門は界喰を受け取らず、俺を見た。


 目が細い。


 いや、元から細い気もするが、今は確実に細い。


「三上殿」

「はい」

「返却期限は、何のためにあると思う」

「社会秩序を守るためです」

「分かっておるなら、なぜ毎回ぎりぎりになる」

「社会秩序との距離感を測っていました」

「測るな」


 九衛門の声は静かだった。

 静かなのに、なぜか石段より重い。


「まあよい」


 九衛門は界喰を受け取った。黒布越しでも、刀が一瞬だけ低く唸ったように感じた。

 俺の手から重さが消える。

 ほっとすると思っていた。

 実際、ほっとした。

 だが、そのほっとした気持ちの底に、妙な空白が残った。

 さっきまで背中にあったものがなくなっただけなのに、背中が少し寒い。


「三上さん?」


 こよりがこちらを見る。


「何でもない」


 俺は手を振った。

 界喰がないほうがいい。

 そのはずだ。

 あれは重い。危ない。持っていると、関わらなくていいものに関わる羽目になる。

 けれど、今日のあの蔵で、日和を縛っていた値札を斬ったのは、あれだった。

 千歳さんが言えなかった言葉まで一緒に切り開いたのも、たぶん、あれだった。

 嫌なものは嫌だ。

 でも、嫌なものが役に立つ時もある。

 そのことを認めるのは、界喰を持つより少しだけ面倒だった。


「三上殿」


 九衛門が俺を呼んだ。少しだけ背筋が伸びる。


「はい」

「今日、お主は何を見た」


 何を、と聞かれて、すぐには答えられなかった。


 古い柱。値札。蔵の暗がり。祖父の筆跡。日和の震える手。千歳さんの泣きそうな顔。百二十円のコロッケ。

 いろいろ浮かんだが、どれも答えとしては少し違う気がした。


「値段がつけられないものに、無理やり値段をつけると壊れる、ってことですかね」


 俺は言った。


「たぶん、人も店も」


 九衛門はしばらく俺を見ていた。

 それから、低く笑った。


「上出来じゃ」

「え」

「何じゃ。不服か」

「いや、褒められると警戒する体質で」

「難儀な体質じゃな」

「主に周囲のせいです」


 こよりがすぐに言う。


「三上さん自身のせいです」

「速い」

「事実ですので」


 蓮司が真面目な顔で頷いた。


「三上、受け入れろ」

「お前ら、俺が褒められた瞬間だけ団結するな」


 九衛門は愉快そうに喉を鳴らした。

 夜の境内に、その笑い声が少しだけ転がる。

 それで、ようやく事件が終わった気がした。


 幽禍(ゆうか)を斬った時ではない。

 吸印札が残骸を吸った時でもない。

 雨宮家の二人が言葉を交わした時でも、コロッケを食べた時でも、たぶんまだ完全には終わっていなかった。


 界喰を返し、九衛門に小言を言われ、こよりに刺され、蓮司に真顔で追い打ちをかけられる。

 そういう、どうでもいい日常の形に戻って、ようやく終わる。

 退魔というのは、意外と事後処理が長い。


「さて」


 九衛門が界喰を安置するとこよりは吸引札を取り出し、渡す。

 九衛門が一言祝詞を発すると、吸引札が黒く変色。

 それと同時に俺たちの封使が影から黒い腕を伸ばし、吸引札を喰い散らかす。

 ものの数瞬で札が消えた。


「今日はもう帰れ。こよりも、遅くまで付き合わせたな」

「私は大丈夫です」

「大丈夫じゃと言う者ほど、後で倒れる」

「祖父に似たんです」

「口だけは達者になりおって」


 こよりが少しだけ目を伏せる。

 九衛門の声は叱っているようで、叱っていない。こよりの返事も反抗しているようで、甘えている。

 家族の会話だ。


 雨宮古物店で見たものとは違うが、根っこは少し似ているのかもしれない。

 言葉にしなくても残るもの。

 言葉にしないと壊れるもの。

 その境目は、たぶん界傷(かいしょう)より見えにくい。


「三上さん」


 こよりが俺を見た。


「何だよ」


「今、少し真面目なことを考えていましたね」

「俺はいつも真面目だよ」

「言うと思いました」

「わかってんじゃん」


 予想通りすぎて、むしろ安心した。


 俺は両手を上げる。


「分かった。今日はもう何も考えない。帰って寝る。宿題は明日の俺に任せる」

「明日の三上さんも、同じことを言うと思います」

「未来の俺を信じろ」

「信じる根拠がありません」


 蓮司が横から言った。


「宿題なら、今日のうちにやっておくべきだ」

「出た、優等生」

「当然だ。日々の積み重ねが――」

「こより、蓮司が長くなる」

「三橋さん、今日は解散です」

「……まだ一文目だったんだが」

「一文目で長くなる予感がしました」


 蓮司は少し不満そうだったが、反論しなかった。

 こよりの予感はだいたい当たる。

 特に三橋の長話に関しては、もはや術式に近い。

 俺たちは本殿に軽く頭を下げ、帰ろうとした。

 その時だった。


 からん、と音がした。


 小さな音だった。

 賽銭箱の奥で、小銭が木に当たるような音。

 俺たち三人の足が、同時に止まった。

 夜の境内に風はなかった。

 鳥居の外に人影もない。

 参道は暗く、石段の下まで見渡しても、誰かが上ってくる気配はない。


 それでも、賽銭箱の中で何かが動いた。


「……今の」


 俺が言う前に、こよりが本殿へ向き直っていた。


 顔つきが変わっている。

 さっきまでの同級生の顔ではない。

 三枝神社の依頼管理役の顔だ。


「おじいさま」

「うむ」


 九衛門も、すでに賽銭箱を見ていた。

 蓮司が低く息を吐く。


「依頼か」

「帰っていいって言った直後に?」

「賽銭箱は、三上さんの都合を考慮しません」

「少しはしてほしい」


 こよりは返事をせず、賽銭箱の前に膝をついた。

 白い指が木の蓋に触れる。


 その瞬間、賽銭箱の隙間から、薄い紙片が一枚、ふわりと浮かび上がった。

 風もないのに。

 誰も触れていないのに。

 紙片は、夜の空気に濡れたみたいに揺れながら、こよりの手のひらへ落ちた。

 俺は、思わず眉をひそめる。

 紙の端が黒い。

 焦げたような黒ではない。

 界傷の縁に似た、光を吸う黒だった。

 昨日までなら、俺はたぶん、見なかったことにしようとした。

 今日も、できるならそうしたい。

 だが、もう見えてしまった。

 見えたものは、だいたい後で寝つきを悪くする。

 俺は舌打ちを飲み込み、こよりの手元を覗き込んだ。


 紙片には、丸い字でこう書かれていた。


 ――好きな人が二人います。


 沈黙が落ちた。


 夜の境内に、虫の声だけが残る。

 俺は紙片を見た。

 こよりも紙片を見た。

 蓮司も紙片を見た。

 九衛門だけが、なぜか遠くの空を見ていた。


「……解散」


 俺は言った。


「まだ何も始まっていません」

「いや、これは俺たちの管轄じゃない。恋愛相談所へ行け。もしくは保健室。あるいは人生経験豊富な誰か」

「三上さんの人生経験が薄いことだけは分かりました」

「薄いと言うな。省エネと言え」


 こよりは紙片を裏返した。

 俺はその瞬間、嫌な予感がした。

 こういうものは、だいたい裏にろくでもないことが書いてある。

 答案用紙も、契約書も、賽銭箱の紙片も、裏面は基本的に信用できない。

 こよりの指先の下で、紙の裏に薄い線が浮かび上がった。

 地図だ。

 学校の見取り図。

 最初に黒く滲んだのは、校舎北側の小さな部屋だった。


「写真部の暗室か」


 蓮司が言った。


「詳しいな」

「文化祭準備で、掲示物の写真を借りに行ったことがある」

「優等生は暗室の場所まで把握してるのか」

「お前が把握していなさすぎるだけだ」

「俺は明るい場所で生きたいんだよ」

「説得力はないな」


 次に、昇降口の掲示板が黒く滲んだ。

 そして最後に、屋上へ続く階段前の踊り場。

 三つの場所が、細い線で結ばれていく。

 線は黒く、途中で何度も途切れていた。まるで、誰かが消しゴムで存在をこすった跡みたいだった。


「恋愛相談が、写真部と掲示板と屋上に関係するのか」


 俺は言った。


「青春だな」

「青春にしては黒すぎます」


 こよりが紙片を持ち上げる。

 その表情は、もう完全に仕事のものだった。


「依頼文自体は軽く見えます。でも、地図が出た以上、界傷(かいしょう)が関わっています」

「好きな人が二人いると界傷が開くのか。恋愛は危険だな」

「三上さん」

「はい」

「茶化すなら、もう少し面白くしてください」

「要求水準が上がってる」


 蓮司が紙片を覗き込んだ。


「問題は、依頼人が誰かだ。文面だけなら、本人が迷っているように読める」

「好きな人が二人いる本人、か」

「あるいは、その二人のうちどちらか、もしくは周囲の第三者」

「恋愛相関図を作るやつじゃん」

「必要なら作る」

「作るな。祓い師が恋愛相関図を真顔で作るな」

「事件解決のためなら必要だ」


 こよりが静かに頷いた。


「三橋さん、明日、模造紙を一枚用意してください」

「分かった」

「分かるな」


 俺だけがまともだった。


 たぶん。

 少なくとも、恋愛相関図を模造紙で作る高校生退魔チームはまともではない。

 九衛門が低く笑った。


「若いのう」

「宮司さん、違います。これは若さではなく業務の暴走です」

「何にせよ、見に行くしかあるまい」

「ですよね」


 分かっていた。

 分かっていたから、嫌だった。


 紙片の端に見える黒は、雨宮古物店で見たものより薄い。けれど薄いから安全とは限らない。薄い毒ほど、気づいた時には回っていることがある。


 俺にはそれが分かる。

 分かってしまう。

 それが、最近少しだけ厄介だった。


「明日、学校で確認します」


 こよりが言った。


「それはいいが、『界喰(かいばみ)』は今日返却したばかりだから俺は戦えないぞ。それに学校だと人目もあるから封使(ふうし)も使えない。となるとあら不思議。俺が明日学校に行く意味はほとんどない」


 俺が言うと蓮司が俺の肩を掴む。


「いや、君がいないと界傷(かいしょう)の位置が特定できない。結界だけでも設置しておかないと被害が大きくなるだろう」


 こいつ本当に正論が好きだな。


「三橋さんの言う通りですよ、三上さん。戦うのは『界喰(かいばみ)』を借りてからにしましょう。明日の夜には借りられるでしょう」


 そう言って、その日は解散となった。

 明日、学校行きたくねぇ。


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