暗室からの依頼
夜の三枝神社は、昼間より少しだけ遠く見える。
石段の下に立った時、俺はまず、自分の足がまだ現実に属しているかどうかを確認した。右足を上げる。重い。左足を上げる。もっと重い。
結論として、俺の足はかなり現実に属していた。
「三上さん、止まらないでください」
後ろからこよりに言われた。
「止まってない。人生について考えていただけだ」
「では、人生ごと上ってください」
「巫女の言葉とは思えない厳しさだな」
「界喰を背負ったまま石段の下で人生を考える人に、優しい言葉をかける職業ではありません」
神社は、そういう職業だったらしい。
俺はため息をつき、石段に足をかけた。さっきまで商店街の油とソースの匂いが鼻に残っていたのに、一段上るごとにそれが薄れていく。代わりに、湿った石と夜の木々の匂いが近づいてきた。
境内の奥では、社務所の明かりがまだついていた。
三枝九衛門は、たぶん起きている。
そして起きているということは、怒る準備もできているということだった。
「蓮司」
「何だ」
「もし宮司さんが怒ったら、半分持ってくれ」
「僕が怒られる理由はない」
「一緒にいたじゃないか」
「一緒にいたことと、返却義務を怠ったことは別問題だ」
「名家のくせに友達を売るのか」
「名家だからこそ、契約は守る」
正論で刺してくるな。
俺が石段の途中で二度目の人生会議を開きかけたところで、こよりが横を通り抜けた。
「三上さん」
「何だよ」
「安心してください。祖父はたぶん、怒鳴りません」
「本当か」
「静かに怒ります」
「一番嫌なやつだ」
蓮司が俺の肩に手を置いた。
「三上。覚悟を決めろ」
「戦闘より嫌なんだが」
「だろうな」
「否定しろよ」
そんなくだらない会話をしながら、俺たちは境内へ上がった。
昼間なら、ここには参拝客の気配や、近所の老人が掃き掃除をしている音がある。だが夜の境内は、神社というより、現実の縁に置かれた薄い膜のようだった。
鳥居の影が地面に長く伸びている。
手水舎の水面には、月が割れたみたいに揺れていた。
賽銭箱は、本殿の前で黙っている。
当たり前だ。
賽銭箱は基本的に喋らない。
ただ、最近の俺は、喋らないもののほうが面倒なことを言うと知ってしまっている。
「戻ったか」
社務所の戸が開いた。
九衛門が、いつもの作務衣姿で立っていた。背筋は真っ直ぐで、顔には眠気の欠片もない。夜に強い老人というのは、若者に対する一種の暴力だと思う。
「ただいま戻りました、おじいさま」
こよりが小さく頭を下げる。
「戻りました」
蓮司も続く。
俺は黒布に包まれた界喰を背中から下ろし、両手で差し出した。
「返却に参りました」
できるだけ礼儀正しく言った。
九衛門は界喰を受け取らず、俺を見た。
目が細い。
いや、元から細い気もするが、今は確実に細い。
「三上殿」
「はい」
「返却期限は、何のためにあると思う」
「社会秩序を守るためです」
「分かっておるなら、なぜ毎回ぎりぎりになる」
「社会秩序との距離感を測っていました」
「測るな」
九衛門の声は静かだった。
静かなのに、なぜか石段より重い。
「まあよい」
九衛門は界喰を受け取った。黒布越しでも、刀が一瞬だけ低く唸ったように感じた。
俺の手から重さが消える。
ほっとすると思っていた。
実際、ほっとした。
だが、そのほっとした気持ちの底に、妙な空白が残った。
さっきまで背中にあったものがなくなっただけなのに、背中が少し寒い。
「三上さん?」
こよりがこちらを見る。
「何でもない」
俺は手を振った。
界喰がないほうがいい。
そのはずだ。
あれは重い。危ない。持っていると、関わらなくていいものに関わる羽目になる。
けれど、今日のあの蔵で、日和を縛っていた値札を斬ったのは、あれだった。
千歳さんが言えなかった言葉まで一緒に切り開いたのも、たぶん、あれだった。
嫌なものは嫌だ。
でも、嫌なものが役に立つ時もある。
そのことを認めるのは、界喰を持つより少しだけ面倒だった。
「三上殿」
九衛門が俺を呼んだ。少しだけ背筋が伸びる。
「はい」
「今日、お主は何を見た」
何を、と聞かれて、すぐには答えられなかった。
古い柱。値札。蔵の暗がり。祖父の筆跡。日和の震える手。千歳さんの泣きそうな顔。百二十円のコロッケ。
いろいろ浮かんだが、どれも答えとしては少し違う気がした。
「値段がつけられないものに、無理やり値段をつけると壊れる、ってことですかね」
俺は言った。
「たぶん、人も店も」
九衛門はしばらく俺を見ていた。
それから、低く笑った。
「上出来じゃ」
「え」
「何じゃ。不服か」
「いや、褒められると警戒する体質で」
「難儀な体質じゃな」
「主に周囲のせいです」
こよりがすぐに言う。
「三上さん自身のせいです」
「速い」
「事実ですので」
蓮司が真面目な顔で頷いた。
「三上、受け入れろ」
「お前ら、俺が褒められた瞬間だけ団結するな」
九衛門は愉快そうに喉を鳴らした。
夜の境内に、その笑い声が少しだけ転がる。
それで、ようやく事件が終わった気がした。
幽禍を斬った時ではない。
吸印札が残骸を吸った時でもない。
雨宮家の二人が言葉を交わした時でも、コロッケを食べた時でも、たぶんまだ完全には終わっていなかった。
界喰を返し、九衛門に小言を言われ、こよりに刺され、蓮司に真顔で追い打ちをかけられる。
そういう、どうでもいい日常の形に戻って、ようやく終わる。
退魔というのは、意外と事後処理が長い。
「さて」
九衛門が界喰を安置するとこよりは吸引札を取り出し、渡す。
九衛門が一言祝詞を発すると、吸引札が黒く変色。
それと同時に俺たちの封使が影から黒い腕を伸ばし、吸引札を喰い散らかす。
ものの数瞬で札が消えた。
「今日はもう帰れ。こよりも、遅くまで付き合わせたな」
「私は大丈夫です」
「大丈夫じゃと言う者ほど、後で倒れる」
「祖父に似たんです」
「口だけは達者になりおって」
こよりが少しだけ目を伏せる。
九衛門の声は叱っているようで、叱っていない。こよりの返事も反抗しているようで、甘えている。
家族の会話だ。
雨宮古物店で見たものとは違うが、根っこは少し似ているのかもしれない。
言葉にしなくても残るもの。
言葉にしないと壊れるもの。
その境目は、たぶん界傷より見えにくい。
「三上さん」
こよりが俺を見た。
「何だよ」
「今、少し真面目なことを考えていましたね」
「俺はいつも真面目だよ」
「言うと思いました」
「わかってんじゃん」
予想通りすぎて、むしろ安心した。
俺は両手を上げる。
「分かった。今日はもう何も考えない。帰って寝る。宿題は明日の俺に任せる」
「明日の三上さんも、同じことを言うと思います」
「未来の俺を信じろ」
「信じる根拠がありません」
蓮司が横から言った。
「宿題なら、今日のうちにやっておくべきだ」
「出た、優等生」
「当然だ。日々の積み重ねが――」
「こより、蓮司が長くなる」
「三橋さん、今日は解散です」
「……まだ一文目だったんだが」
「一文目で長くなる予感がしました」
蓮司は少し不満そうだったが、反論しなかった。
こよりの予感はだいたい当たる。
特に三橋の長話に関しては、もはや術式に近い。
俺たちは本殿に軽く頭を下げ、帰ろうとした。
その時だった。
からん、と音がした。
小さな音だった。
賽銭箱の奥で、小銭が木に当たるような音。
俺たち三人の足が、同時に止まった。
夜の境内に風はなかった。
鳥居の外に人影もない。
参道は暗く、石段の下まで見渡しても、誰かが上ってくる気配はない。
それでも、賽銭箱の中で何かが動いた。
「……今の」
俺が言う前に、こよりが本殿へ向き直っていた。
顔つきが変わっている。
さっきまでの同級生の顔ではない。
三枝神社の依頼管理役の顔だ。
「おじいさま」
「うむ」
九衛門も、すでに賽銭箱を見ていた。
蓮司が低く息を吐く。
「依頼か」
「帰っていいって言った直後に?」
「賽銭箱は、三上さんの都合を考慮しません」
「少しはしてほしい」
こよりは返事をせず、賽銭箱の前に膝をついた。
白い指が木の蓋に触れる。
その瞬間、賽銭箱の隙間から、薄い紙片が一枚、ふわりと浮かび上がった。
風もないのに。
誰も触れていないのに。
紙片は、夜の空気に濡れたみたいに揺れながら、こよりの手のひらへ落ちた。
俺は、思わず眉をひそめる。
紙の端が黒い。
焦げたような黒ではない。
界傷の縁に似た、光を吸う黒だった。
昨日までなら、俺はたぶん、見なかったことにしようとした。
今日も、できるならそうしたい。
だが、もう見えてしまった。
見えたものは、だいたい後で寝つきを悪くする。
俺は舌打ちを飲み込み、こよりの手元を覗き込んだ。
紙片には、丸い字でこう書かれていた。
――好きな人が二人います。
沈黙が落ちた。
夜の境内に、虫の声だけが残る。
俺は紙片を見た。
こよりも紙片を見た。
蓮司も紙片を見た。
九衛門だけが、なぜか遠くの空を見ていた。
「……解散」
俺は言った。
「まだ何も始まっていません」
「いや、これは俺たちの管轄じゃない。恋愛相談所へ行け。もしくは保健室。あるいは人生経験豊富な誰か」
「三上さんの人生経験が薄いことだけは分かりました」
「薄いと言うな。省エネと言え」
こよりは紙片を裏返した。
俺はその瞬間、嫌な予感がした。
こういうものは、だいたい裏にろくでもないことが書いてある。
答案用紙も、契約書も、賽銭箱の紙片も、裏面は基本的に信用できない。
こよりの指先の下で、紙の裏に薄い線が浮かび上がった。
地図だ。
学校の見取り図。
最初に黒く滲んだのは、校舎北側の小さな部屋だった。
「写真部の暗室か」
蓮司が言った。
「詳しいな」
「文化祭準備で、掲示物の写真を借りに行ったことがある」
「優等生は暗室の場所まで把握してるのか」
「お前が把握していなさすぎるだけだ」
「俺は明るい場所で生きたいんだよ」
「説得力はないな」
次に、昇降口の掲示板が黒く滲んだ。
そして最後に、屋上へ続く階段前の踊り場。
三つの場所が、細い線で結ばれていく。
線は黒く、途中で何度も途切れていた。まるで、誰かが消しゴムで存在をこすった跡みたいだった。
「恋愛相談が、写真部と掲示板と屋上に関係するのか」
俺は言った。
「青春だな」
「青春にしては黒すぎます」
こよりが紙片を持ち上げる。
その表情は、もう完全に仕事のものだった。
「依頼文自体は軽く見えます。でも、地図が出た以上、界傷が関わっています」
「好きな人が二人いると界傷が開くのか。恋愛は危険だな」
「三上さん」
「はい」
「茶化すなら、もう少し面白くしてください」
「要求水準が上がってる」
蓮司が紙片を覗き込んだ。
「問題は、依頼人が誰かだ。文面だけなら、本人が迷っているように読める」
「好きな人が二人いる本人、か」
「あるいは、その二人のうちどちらか、もしくは周囲の第三者」
「恋愛相関図を作るやつじゃん」
「必要なら作る」
「作るな。祓い師が恋愛相関図を真顔で作るな」
「事件解決のためなら必要だ」
こよりが静かに頷いた。
「三橋さん、明日、模造紙を一枚用意してください」
「分かった」
「分かるな」
俺だけがまともだった。
たぶん。
少なくとも、恋愛相関図を模造紙で作る高校生退魔チームはまともではない。
九衛門が低く笑った。
「若いのう」
「宮司さん、違います。これは若さではなく業務の暴走です」
「何にせよ、見に行くしかあるまい」
「ですよね」
分かっていた。
分かっていたから、嫌だった。
紙片の端に見える黒は、雨宮古物店で見たものより薄い。けれど薄いから安全とは限らない。薄い毒ほど、気づいた時には回っていることがある。
俺にはそれが分かる。
分かってしまう。
それが、最近少しだけ厄介だった。
「明日、学校で確認します」
こよりが言った。
「それはいいが、『界喰』は今日返却したばかりだから俺は戦えないぞ。それに学校だと人目もあるから封使も使えない。となるとあら不思議。俺が明日学校に行く意味はほとんどない」
俺が言うと蓮司が俺の肩を掴む。
「いや、君がいないと界傷の位置が特定できない。結界だけでも設置しておかないと被害が大きくなるだろう」
こいつ本当に正論が好きだな。
「三橋さんの言う通りですよ、三上さん。戦うのは『界喰』を借りてからにしましょう。明日の夜には借りられるでしょう」
そう言って、その日は解散となった。
明日、学校行きたくねぇ。




