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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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5/7

雨宮古物店(後半)

 胸に札が貼りついた。


 見えるだけ。


 そこに金額はなかった。


 ただ、それだけ。


 見えるだけ。


 戦えない。


 守れない。


 逃げる理由だけは誰より早く見つける。


 そう言われているみたいだった。


 足が、動かない。


「三上さん!」


 こよりの声が聞こえる。


 幽禍(ゆうか)の腕が俺へ伸びる。


 値札の紐が首を狙ってくる。


 俺は、動けなかった。


 怖い。


 それはいつものことだ。


 逃げたい。


 それもいつものことだ。


 でも、違った。


 今回の怖さは、幽禍が怖いのではない。


 見えるだけ、という言葉が怖かった。


 何かが見えているのに、何もしない自分を、俺はたぶん一番怖がっている。


 日和の足元で、未鑑定の札が揺れている。


 陽太の背中に、百円の札があった。


 千歳さんの手に、二千円の札があった。


 そして、こよりが管理不能で、蓮司が家名以外価値なしで、俺が見えるだけだと言われている。


 勝手に決めるな。


 俺は、ようやく息を吐いた。


「……うるせえよ」


 界喰(かいばみ)を握る手に力が戻る。


「見えるだけなら、見えないやつより一歩先に行けるだろ」


 値札の紐が俺の首へ迫る。


 その瞬間、蓮司の六角棒が割り込んだ。紐が絡みつき、棒を締め上げる。蓮司の手の甲が裂けた。


無畏(むい)


 蓮司が短く唱えた。


 淡い光が、裂けた手の甲を覆う。傷が塞がる。さらに、その光の一部がこよりの脇腹へ飛んだ。血の流れが少しだけ緩む。だが裂けた白衣と緋袴までは戻らない。こよりは小さく息を飲み、すぐに姿勢を戻した。


「助かりました」

「礼は後でいい」

「後でも言いません」

「それは少し寂しいな」


 こんな状況で何を言っているんだ、こいつらは。


 だが、そのやり取りで少しだけ息がしやすくなった。


「三上、行け」


 蓮司が言う。


「道は開ける」


 こよりが俺を見た。


 目が合う。


 逃げるな、と言われると思った。


 けれど、こよりは違うことを言った。


「見えているなら、教えてください」


 胸の札が、少し軽くなった。


 命令ではない。


 信頼でもない。


 もっと実務的で、もっと強い言葉だった。


 できる役割を果たせ。


 それだけ。


「あの帳面だ。帳面に挟まった『未鑑定』の札。あれが核だ。帳面本体は斬るな。札だけ剥がすか、開かせる必要がある」

「了解しました」

「難易度高くない?」


 思わず本音が出た。


 こよりが笑った。


 ほんの一瞬だけ。


「では、簡単にします」


 こよりが床を蹴った。


 速さが、さっきより上がる。


 韋天(いてん)


 彼女の足が畳を裂き、壁を蹴り、梁へ跳ぶ。幽禍(ゆうか)の腕が追う。値札の束が空中を埋める。こよりは身をひねり、袖を裂かれながらも、幽禍の頭上を取った。


 紙刃が彼女の肩を深く裂いた。


 血が散る。


 こよりは歯を食いしばりもしなかった。ただ、拳を握り、幽禍の裂け目へ叩き込む。


「雨宮日和。鑑定結果」


 幽禍が日和の方を向く。


 日和の身体が震えた。


 意識はないはずなのに、涙が目尻に浮かぶ。


「不要」


 その言葉が出る寸前だった。


「言わせません」


 こよりが落ちた。


 いや、落下ではない。


 天井から垂直に踏み込んだ。


 豊かな胸元を重力が揺らし、裂けた白衣の裾が血を撒く。その全身の重さと速度を乗せた膝が、幽禍の裂け目へ突き刺さった。紙の口が潰れ、鑑定の声がひしゃげる。


 こよりはその反動で床へ叩きつけられた。


 鈍い音。


 口元から血が一筋こぼれる。


「こより!」

「三橋さん!」


 彼女は俺ではなく、蓮司を呼んだ。


 判断が速い。


 自分の心配より、作戦の続きを優先している。


「ここだ!」


 幽禍の意識がこよりへ向いた、その瞬間。


 蓮司は鑑定台へ突っ込んだ。


 六角棒の先端が、帳面の背を叩く。


 叩き壊すのではない。


 開かせる。


 帳面のページが、風を受けたようにめくれ上がった。


 中に挟まっていた黒い「未鑑定」の札が、一瞬だけ露出する。


 だが幽禍も遅くない。


 こよりが潰した裂け目が、別の場所に開く。


 値札の紐が、日和へ伸びる。


 俺は、空劫(くうごう)を使った。


 視界から、自分の存在が薄れる。光学迷彩のように姿が消える。


 音が遠のく。


 身体が軽くなる代わりに、胃の底が冷たくなる。世界から一歩ずれる感覚。慣れるほど気持ち悪い。慣れたくない。


 幽禍の値札の紐が、俺を見失った。


 俺は棚へ足をかけた。古い木箱を踏む。壊すな、と心のどこかで思ったが、今は許してほしい。梁に手をかけ、身体を引き上げる。


 上から見ると、全部が分かった。


 帳面。


 鑑定台。


 幽禍。


 日和。


 そして、黒い札。


 こよりが血を吐きながら幽禍の胴を押さえている。


 蓮司が六角棒で帳面を開いたまま固定している。


 ページが震える。


 黒い札が奥へ潜ろうとする。


 届かない。


 梁からでは角度が悪い。


 俺の足なら間に合わない。


 その時、耳元で羽音がした。


 声は短かった。


「舞え」


 阿伽(あか)


 足元に、見えない風が巻いた。


 俺の身体が、梁から離れる。


 落ちるのではない。


 前へ出る。


 空気そのものを足場にしたように、身体が宙を滑った。胃が浮く。視界が回る。畳も棚も鑑定台も、全部が斜めに流れていく。


 怖い。


 当然、怖い。


 だが、足が地面についていないせいで、足が動かないことだけは問題にならなかった。


 胸に残っていた「見えるだけ」の痛みが、そこで完全に裂けた。


 見えるだけなら。


 見えた場所まで、飛べばいい。


 俺は空劫(くうごう)を解いた。


 幽禍の裂け目が、ぎょろりとこちらを向いた気がした。


 目はないのに、見られたと分かった。


「三上晃。再鑑定」


「いらん」


 俺は空中で界喰(かいばみ)を振り上げた。


「俺は査定員じゃない」


 阿伽(あか)の風が背中を押す。


 こよりが最後の力で幽禍の腕を蹴り上げる。


 蓮司が帳面を開いたまま叫んだ。


「今だ!」


 界喰(かいばみ)を振り下ろす。


 黒い刀身が、開いた帳面の中央へ落ちた。


 帳面を斬るな。


 札だけ。


 見えるだけなら、見えるものを斬れ。


 刃は、黒い「未鑑定」の札だけを捉えた。


 音はしなかった。


 紙が切れる音も、骨が折れる音も、悲鳴もない。


 ただ、世界のどこかで、値段を読み上げる声が途切れた。


 幽禍の身体に貼られていた値札が、一斉に白紙になる。


 こよりの胸の「管理不能」が消える。


 蓮司の肩の「家名以外価値なし」が消える。


 俺の胸の「見えるだけ」も、紙の縁から燃えるように崩れた。


 幽禍の裂け目が、最後に開く。


「値、ノ、無キ、モノハ」


 俺は界喰を引き抜き、言った。


「売買不可だ」


 その言葉が正しかったのか、格好つけすぎだったのかは分からない。


 ただ、幽禍はそこで崩れた。


 白い札の群れが、雪のように舞う。


 雪にしては、ひどく乾いた音を立てながら。


 鑑定台の上の帳面は、斬られずに残っていた。


 黒い未鑑定の札だけが、界喰の刃に吸い寄せられるように消える。


 俺は着地に失敗し、畳の上を転がった。


 受け身としては最悪だったが、命はある。


 つまり成功である。


「三上さん、格好つけたわりに着地が悪いです」


 こよりが言った。


 血まみれで膝をついたまま言う台詞ではない。


「お前こそ、説教する前に血を止めろ」

「三橋さん」

「今行くよ」


 蓮司が無畏を発現する。淡い光がこよりの肩と脇腹を覆い、裂けた肉をゆっくり閉じていく。見ていて気分のいいものではないが、見慣れてしまっている自分が嫌だった。


 それでも、白衣に染みた赤までは消えない。


 こよりはそれを気にする様子もなく、懐から吸印札を取り出した。


 そして蔵の奥に走っていた黒いひび割れが、痛みに耐えるみたいに細く震えた。


「三橋さん、残滓を押さえてください。三上さんは界喰を納めないで。まだ界傷(かいしょう)が開いています」

「了解」

「分かった」


 蓮司が鑑定台の脚を六角棒で押さえ、こよりが吸印札を掲げる。


 崩れた幽禍の残骸が、黒い砂のように札へ吸い込まれていく。吸印札の表面に、値札の形をした黒い模様が浮かび、やがて一文字に潰れた。


 封。


 こよりがそれを指で押さえ、静かに息を吐いた。


「捕縛完了。討伐確認」


 蓮司が日和の様子を見た。


「呼吸は安定している。外傷もない」

「よかった」


 俺はその場に座り込みかけた。


 その瞬間、こよりの視線が飛んでくる。


「まだ終わっていません」

「分かってる。座り込みかけただけだ」

「座り込むのは終わってからにしてください」

「休憩に厳しい神職だな」


 だが、こよりの言う通りだった。


 蔵の奥。


 鑑定台の下に、まだ黒いひび割れが残っている。


 それは、幽禍の穴というより、誰かの胸の奥に残った傷に見えた。


 そこから、声が漏れていた。


 売りたくない。


 でも、守れない。


 忘れたくない。


 でも、生きていかなきゃいけない。


 私には、何もできない。


 それは日和の声であり、千歳さんの声でもあった。


 俺は界喰を構え直した。


 怖さは、まだ残っている。


 でも、さっき貼られた札はもうない。


 見えるだけ。


 その言葉を、俺はまだ完全には否定できない。


 だけど、見えているなら、斬る場所くらいは選べる。


 俺は黒いひび割れへ刃を向けた。


 刃を振り下ろす前に、こよりが俺の袖を掴んだ。


「待ってください」

「まだ何かいるのか?」

「いません。だから、斬り方を間違えないでください」


 こよりは鑑定台を見た。


 そこには、幽禍が消えたあともなお、雨宮玄斎という人間が使っていた道具が残っている。鑑定帳、硯、細い筆、虫眼鏡、布の手袋。どれも古びていたが、雑に置かれてはいなかった。


 誰かが大事に使っていたものだ。


「界傷だけを閉じます。残っている思いまで消す必要はありません」

「……器用な注文だな」

「できます」

「俺が?」

「はい」


 迷いのない返事だった。


 なぜこの女は、俺より俺を信用するのか。


 意味が分からない。


 だが、言われてしまった以上、やるしかない。


 俺は膝をつき、刃先を黒いひび割れの端に当てた。


 斬る、というより、糸をほどく。


 界喰は幽禍の核を喰らう刀だ。何でも斬ればいいわけではない。以前の戦いで、それは嫌というほど思い知らされた。雑に振れば、守りたいものまで削る。


 ひび割れの奥から、また声がした。


 売りたくない。


 守れない。


 忘れたくない。


 生きていかなきゃ。


 その声は矛盾していた。


 でも、矛盾しているから嘘だとは思わなかった。


 人間の本音は、だいたい矛盾している。


 俺だって、逃げたいのに助けたい。怖いのに格好つけたい。こよりに怒られたくないのに、怒られるようなことばかりする。


 たぶん、そういうものだ。


「売るのと、捨てるのは違う」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


「忘れるのと、片づけるのも違う」


 界喰の刃先が、黒いひび割れを撫でる。


 黒が、薄くなる。


「だから、勝手に値段で終わらせるな」


 最後の一筋を、斬った。


 蔵の中に張りつめていた冷気が抜けた。


 白い札の残骸が、床に落ちる前に消えていく。鑑定台の下のひび割れは、傷跡のような細い線だけを残して閉じた。


 結界の内側に、静けさが戻る。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 最初に動いたのは、日和だった。


「……おじいちゃん」


 かすれた声。


 彼女は柱にもたれたまま目を開けていた。意識が戻ったらしい。蓮司がすぐに膝をつく。


「気分は?」

「……ちょっと、眠いです」

「吐き気は」

「ないです」

「頭痛は」

「少し」

「立たない方がいい」


 蓮司は淡々と確認した。医者みたいだ。将来、医者になったら患者に怖がられそうだが、信頼はされそうである。


 こよりが結界札を外す。


 外の音が戻ってきた。


「日和!」


 千歳さんが座敷へ飛び込んできた。


 結界の膜が消えた途端、彼女は畳に膝をつき、日和を抱きしめる。


「日和、大丈夫? どこか痛い? ごめんね、ごめんね」


 日和は一瞬、身体を硬くした。


 けれど、千歳さんの腕を振り払わなかった。


 陽太も泣きながら走ってきて、二人にしがみつく。


「お姉ちゃん、値札なくなった?」


 日和は弟の背中を見た。


 そこにはもう、百円の札はない。


 千歳さんの手首にも、二千円の札はない。


 日和の影にも、未鑑定の札は揺れていない。


「……なくなった」


 その一言で、陽太はさらに泣いた。


 子どもの涙は、理由が分かりやすいようで分かりにくい。怖かったから泣いているのか、安心したから泣いているのか、たぶん本人にも分かっていない。


 俺にも分からない。


 だから、見なかったことにした。


 かわりに、店の入口に立っている黒田という男を見た。


 四十代くらいの痩せた男で、スーツの襟元が少しよれている。彼は店内を見回し、何が起きたのか分からない顔をしていた。幽禍に利用されていたのだろうが、本人に悪意があったかどうかは分からない。


「ええと、雨宮さん、今日の引き取りは」

「今日はお帰りください」


 千歳さんが言った。


 声は震えていた。


 だが、弱くはなかった。


「整理はします。でも、急いで全部を処分するつもりはありません。娘と一緒に、何を残して、何を手放すか決めます」

「いや、でもですね」

「今日は、お帰りください」


 二度目は、はっきりしていた。


 黒田は何か言いたげに口を開いたが、こよりが巫女装束のまま静かに一歩前へ出ると、なぜか黙った。


 白衣は裂け、緋袴には血が残っている。


 事情を知らない人間が見れば、たぶん神社の人というより、今から祟る側の人だ。


 黒田が黙ったのは正しい。


 神社の圧である。


 巫女は強い。


 黒田は曖昧に頭を下げ、店を出ていった。


 ガラス戸が閉まる音がした。


 それでようやく、雨宮古物店の中に、本当の静けさが戻った。


「お母さん」


 日和が小さく言った。


「私、全部残してって言いたかったわけじゃない」


 千歳さんは日和の背を撫でていた手を止めた。


「ううん。言わせなかったのは、私」

「でも、だって、おじいちゃんのものがなくなったら、おじいちゃんがいなくなるみたいで」

「いなくならないよ」


 千歳さんの声が、そこで少し崩れた。


「でも、私も怖かった。お店を続けられないって認めたら、お父さんに申し訳なくて。日和に恨まれるのも怖くて。だから、早く終わらせようとしたのかもしれない」


 日和は俯いた。


「私、何もできないのに、怒ってばっかりだった」

「何もできなくない」


 千歳さんはそう言って、蔵の鑑定台を見た。


「お父さん、日和にだけは触らせていたでしょう。鑑定帳」


 日和が顔を上げる。


「うん。でも、ただ落書きして怒られただけ」

「怒ってなかったよ」


 千歳さんは立ち上がり、鑑定台の上の帳面へ近づいた。


 蓮司が一瞬だけ俺を見る。


 危険はないか、という確認だ。


 俺は頷いた。


 もう、黒い気配はない。


 千歳さんは鑑定帳をそっと開いた。ページの端には祖父の筆跡らしき細かい文字が並んでいる。品名、来歴、状態、仕入れ値、売値。古いものの履歴が、そこに詰まっていた。


 その最後の方のページに、紙が一枚挟まっていた。


 小さな子どもの絵だった。


 丸い顔の老人と、小さな女の子が手をつないでいる。たぶん、祖父と日和だ。二人の横には、壺とも犬ともつかない謎の生物が描かれている。


 日和の顔が赤くなった。


「な、なんでそれ残ってるの」


 千歳さんは紙の裏を見た。


 そこに、筆で短い言葉が書いてあった。


 値のつかぬもの。


 売買不可。


 雨宮玄斎。


 日和はその文字を見たまま、動かなかった。


 千歳さんの目から、涙が落ちた。


「お父さんらしい」


 そう言って、笑った。


 泣きながら笑う人間を見ると、俺はどうしていいか分からなくなる。


 敵が殴ってくる方がまだ分かりやすい。


「日和」


 千歳さんは絵を日和へ渡した。


「全部は残せない。でも、これは残そう。お店をどうするかも、蔵のものをどうするかも、一緒に決めよう」


「……うん」


 日和は紙を両手で受け取った。


 その手つきは、壊れものを持つみたいだった。


 いや、実際に壊れものなのだろう。


 紙一枚でも、人の中にあるものは簡単に壊れる。


 だから、大事に持つ必要がある。


 陽太が横から覗き込んだ。


「これ、おじいちゃん?」

「そう」

「このへんなの、なに?」

「……壺」

「犬じゃないの?」

「壺!」


 日和が少しだけ声を張った。


 さっきまでの張り詰めた声ではない。


 年相応の、少し恥ずかしそうな声だった。


 千歳さんがまた笑った。


 蔵の中の空気が、ようやく少し暖かくなった。


 俺は界喰を黒布に包み直した。


「終わったな」

「はい」


 こよりが吸印札を懐にしまう。


「これで、今回の依頼は完了です」


「賽銭箱に紙入れたら、ここまで来てくれる神社って、なかなかないよな」


「三枝神社は地域密着型ですから」

「地域密着の意味が広い」


 蓮司が六角棒を袋に戻しながら言った。


「それに、これは神社だけの問題ではない。界傷が開けば、周囲にも広がる」


「真面目か」

「真面目だ」

「自覚がある真面目は強いな」


 蓮司は俺を見た。


「君も、今回は真面目だった」

「今回は、ってなんだ。俺はいつも真面目だろ」

「逃げ道を探すことには」

「それを真面目と言ってくれる友人、貴重だな」

「褒めてはいない」


 こよりが横で小さく息を吐いた。


「三上さん」

「何だよ」

「最後の台詞、少し格好つけすぎでした」

「言うと思ったよ!」

「でも」


 こよりはそこで言葉を切った。


 店の外では、商店街の明かりが灯り始めている。ガラス戸越しの夕闇が、少しずつ夜の色へ変わっていた。


「悪くはありませんでした」


 俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 こよりが褒めた。


 こよりが、俺を。


 これは界傷より珍しい現象ではないだろうか。


「今の、もう一回言ってくれないか。録音する」

「言いません」

「蓮司、聞いたよな」

「聞いていない」

「裏切り者!」

「価値なしと鑑定されても困るからな」


 蓮司が淡々と言った。


 こいつ、意外と根に持っている。


 俺たちは雨宮家に簡単な説明をした。もちろん、幽禍だの界傷だのは言わない。こよりは「不浄なものが品に寄っていたので祓いました」とだけ言った。だいたい合っている。細部を省けば、世の中の説明はだいたい成り立つ。


 日和は帰り際、店先まで見送りに来た。


 手には、祖父の残した絵を大事そうに抱えている。


「あの」

「ん?」

「ありがとうございました」


 日和は深く頭を下げた。


「お賽銭、入れてなくてすみません。紙だけで」


 こよりが首を横に振る。


「お願いは届きました。それで十分です」


 かっこいい。


 こよりが言うと、本当にそう聞こえる。


 俺が同じことを言ったら、たぶん賽銭泥棒の言い訳になる。


「でも、次からはできれば社務所に来てください」

「はい」


 日和が小さく笑った。


 その笑顔を見て、俺はようやく腹が減っていることを思い出した。


 事件が終わると、身体は急に現実的になる。


 商店街へ出ると、さっきの肉屋がまだ開いていた。


 コロッケの匂いがする。


 強烈にする。


「こより」

「駄目です」

「まだ何も言ってない」

「言う顔です」

「俺の顔、分かりやすすぎないか」

「はい」


 即答だった。


 蓮司が財布を出した。


「三つ買うか」

「蓮司!」

「夕食前だが、今日は働いた」

「お前、神か?」

「神ではない。三橋だ」


 真面目に返された。


 こよりは少し迷ったあと、諦めたようにため息をついた。


「一つだけです」

「三人で一つ?」

「一人一つです」

「こより!」

「大声を出さないでください」


 商店街の明かりの下、俺たちはコロッケを買った。


 揚げたてのそれは熱くて、指先を少し火傷しそうだった。息を吹きかけながらかじると、じゃがいもの甘さと油の匂いが広がる。


 うまい。


 ものすごくうまい。


 世界には値段がつくものと、つかないものがある。


 このコロッケには百二十円という値段がついていた。


 だが、事件のあとに三人で食べるこの味が百二十円かと言われると、たぶん違う。


 値段は必要だ。


 ないと店は続かないし、人は生活できない。


 でも、値段だけでは届かない場所がある。


 雨宮古物店の看板は、まだ下ろされていなかった。


 明日下ろされるかもしれない。


 一ヶ月後かもしれない。


 もしかしたら、別の形で残るのかもしれない。


 それは俺たちが決めることではない。


 ただ、日和と千歳さんは、たぶんもう一緒に決められる。


 それだけで、今日ここへ来た意味はあった。


「三上さん」


 こよりがコロッケを半分ほど食べたところで言った。


「界喰、明日の朝までに返してくださいね」

「余韻を返せ」

「返却期限は余韻より大事です」

「神社ってレンタルビデオ屋だったのか?」

「延滞すると、祖父が怖いので」

「それは本当に怖い」


 蓮司が隣で頷いた。


「三上、返した方がいい」

「お前まで真顔で言うな」


 俺は黒布に包まれた界喰を見た。


 さっきまであれほど重かった刀は、今は少しだけ軽く感じる。


 もちろん、気のせいだ。


 気のせいだが、悪い気分ではなかった。


 商店街の向こうで、夜が完全に降りてくる。


 俺たちは三枝神社へ戻るため、駅前の通りを歩き出した。


 背中には界喰。


 手にはコロッケ。


 胸のあたりには、もう何の値札もない。


 ただ、少しだけ熱いものが残っていた。


 それが油のせいなのか、戦闘の余韻なのか、こよりに珍しく褒められたせいなのかは、考えないことにした。


 考えると、たぶんまた顔に出る。


 そしてこよりに言われるのだ。


 言う顔です、と。


 だから俺は、黙ってコロッケの残りを口に放り込んだ。


 百二十円の夕暮れは、悔しいくらいにうまかった。


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