雨宮古物店(後半)
胸に札が貼りついた。
見えるだけ。
そこに金額はなかった。
ただ、それだけ。
見えるだけ。
戦えない。
守れない。
逃げる理由だけは誰より早く見つける。
そう言われているみたいだった。
足が、動かない。
「三上さん!」
こよりの声が聞こえる。
幽禍の腕が俺へ伸びる。
値札の紐が首を狙ってくる。
俺は、動けなかった。
怖い。
それはいつものことだ。
逃げたい。
それもいつものことだ。
でも、違った。
今回の怖さは、幽禍が怖いのではない。
見えるだけ、という言葉が怖かった。
何かが見えているのに、何もしない自分を、俺はたぶん一番怖がっている。
日和の足元で、未鑑定の札が揺れている。
陽太の背中に、百円の札があった。
千歳さんの手に、二千円の札があった。
そして、こよりが管理不能で、蓮司が家名以外価値なしで、俺が見えるだけだと言われている。
勝手に決めるな。
俺は、ようやく息を吐いた。
「……うるせえよ」
界喰を握る手に力が戻る。
「見えるだけなら、見えないやつより一歩先に行けるだろ」
値札の紐が俺の首へ迫る。
その瞬間、蓮司の六角棒が割り込んだ。紐が絡みつき、棒を締め上げる。蓮司の手の甲が裂けた。
「無畏」
蓮司が短く唱えた。
淡い光が、裂けた手の甲を覆う。傷が塞がる。さらに、その光の一部がこよりの脇腹へ飛んだ。血の流れが少しだけ緩む。だが裂けた白衣と緋袴までは戻らない。こよりは小さく息を飲み、すぐに姿勢を戻した。
「助かりました」
「礼は後でいい」
「後でも言いません」
「それは少し寂しいな」
こんな状況で何を言っているんだ、こいつらは。
だが、そのやり取りで少しだけ息がしやすくなった。
「三上、行け」
蓮司が言う。
「道は開ける」
こよりが俺を見た。
目が合う。
逃げるな、と言われると思った。
けれど、こよりは違うことを言った。
「見えているなら、教えてください」
胸の札が、少し軽くなった。
命令ではない。
信頼でもない。
もっと実務的で、もっと強い言葉だった。
できる役割を果たせ。
それだけ。
「あの帳面だ。帳面に挟まった『未鑑定』の札。あれが核だ。帳面本体は斬るな。札だけ剥がすか、開かせる必要がある」
「了解しました」
「難易度高くない?」
思わず本音が出た。
こよりが笑った。
ほんの一瞬だけ。
「では、簡単にします」
こよりが床を蹴った。
速さが、さっきより上がる。
韋天。
彼女の足が畳を裂き、壁を蹴り、梁へ跳ぶ。幽禍の腕が追う。値札の束が空中を埋める。こよりは身をひねり、袖を裂かれながらも、幽禍の頭上を取った。
紙刃が彼女の肩を深く裂いた。
血が散る。
こよりは歯を食いしばりもしなかった。ただ、拳を握り、幽禍の裂け目へ叩き込む。
「雨宮日和。鑑定結果」
幽禍が日和の方を向く。
日和の身体が震えた。
意識はないはずなのに、涙が目尻に浮かぶ。
「不要」
その言葉が出る寸前だった。
「言わせません」
こよりが落ちた。
いや、落下ではない。
天井から垂直に踏み込んだ。
豊かな胸元を重力が揺らし、裂けた白衣の裾が血を撒く。その全身の重さと速度を乗せた膝が、幽禍の裂け目へ突き刺さった。紙の口が潰れ、鑑定の声がひしゃげる。
こよりはその反動で床へ叩きつけられた。
鈍い音。
口元から血が一筋こぼれる。
「こより!」
「三橋さん!」
彼女は俺ではなく、蓮司を呼んだ。
判断が速い。
自分の心配より、作戦の続きを優先している。
「ここだ!」
幽禍の意識がこよりへ向いた、その瞬間。
蓮司は鑑定台へ突っ込んだ。
六角棒の先端が、帳面の背を叩く。
叩き壊すのではない。
開かせる。
帳面のページが、風を受けたようにめくれ上がった。
中に挟まっていた黒い「未鑑定」の札が、一瞬だけ露出する。
だが幽禍も遅くない。
こよりが潰した裂け目が、別の場所に開く。
値札の紐が、日和へ伸びる。
俺は、空劫を使った。
視界から、自分の存在が薄れる。光学迷彩のように姿が消える。
音が遠のく。
身体が軽くなる代わりに、胃の底が冷たくなる。世界から一歩ずれる感覚。慣れるほど気持ち悪い。慣れたくない。
幽禍の値札の紐が、俺を見失った。
俺は棚へ足をかけた。古い木箱を踏む。壊すな、と心のどこかで思ったが、今は許してほしい。梁に手をかけ、身体を引き上げる。
上から見ると、全部が分かった。
帳面。
鑑定台。
幽禍。
日和。
そして、黒い札。
こよりが血を吐きながら幽禍の胴を押さえている。
蓮司が六角棒で帳面を開いたまま固定している。
ページが震える。
黒い札が奥へ潜ろうとする。
届かない。
梁からでは角度が悪い。
俺の足なら間に合わない。
その時、耳元で羽音がした。
声は短かった。
「舞え」
阿伽。
足元に、見えない風が巻いた。
俺の身体が、梁から離れる。
落ちるのではない。
前へ出る。
空気そのものを足場にしたように、身体が宙を滑った。胃が浮く。視界が回る。畳も棚も鑑定台も、全部が斜めに流れていく。
怖い。
当然、怖い。
だが、足が地面についていないせいで、足が動かないことだけは問題にならなかった。
胸に残っていた「見えるだけ」の痛みが、そこで完全に裂けた。
見えるだけなら。
見えた場所まで、飛べばいい。
俺は空劫を解いた。
幽禍の裂け目が、ぎょろりとこちらを向いた気がした。
目はないのに、見られたと分かった。
「三上晃。再鑑定」
「いらん」
俺は空中で界喰を振り上げた。
「俺は査定員じゃない」
阿伽の風が背中を押す。
こよりが最後の力で幽禍の腕を蹴り上げる。
蓮司が帳面を開いたまま叫んだ。
「今だ!」
界喰を振り下ろす。
黒い刀身が、開いた帳面の中央へ落ちた。
帳面を斬るな。
札だけ。
見えるだけなら、見えるものを斬れ。
刃は、黒い「未鑑定」の札だけを捉えた。
音はしなかった。
紙が切れる音も、骨が折れる音も、悲鳴もない。
ただ、世界のどこかで、値段を読み上げる声が途切れた。
幽禍の身体に貼られていた値札が、一斉に白紙になる。
こよりの胸の「管理不能」が消える。
蓮司の肩の「家名以外価値なし」が消える。
俺の胸の「見えるだけ」も、紙の縁から燃えるように崩れた。
幽禍の裂け目が、最後に開く。
「値、ノ、無キ、モノハ」
俺は界喰を引き抜き、言った。
「売買不可だ」
その言葉が正しかったのか、格好つけすぎだったのかは分からない。
ただ、幽禍はそこで崩れた。
白い札の群れが、雪のように舞う。
雪にしては、ひどく乾いた音を立てながら。
鑑定台の上の帳面は、斬られずに残っていた。
黒い未鑑定の札だけが、界喰の刃に吸い寄せられるように消える。
俺は着地に失敗し、畳の上を転がった。
受け身としては最悪だったが、命はある。
つまり成功である。
「三上さん、格好つけたわりに着地が悪いです」
こよりが言った。
血まみれで膝をついたまま言う台詞ではない。
「お前こそ、説教する前に血を止めろ」
「三橋さん」
「今行くよ」
蓮司が無畏を発現する。淡い光がこよりの肩と脇腹を覆い、裂けた肉をゆっくり閉じていく。見ていて気分のいいものではないが、見慣れてしまっている自分が嫌だった。
それでも、白衣に染みた赤までは消えない。
こよりはそれを気にする様子もなく、懐から吸印札を取り出した。
そして蔵の奥に走っていた黒いひび割れが、痛みに耐えるみたいに細く震えた。
「三橋さん、残滓を押さえてください。三上さんは界喰を納めないで。まだ界傷が開いています」
「了解」
「分かった」
蓮司が鑑定台の脚を六角棒で押さえ、こよりが吸印札を掲げる。
崩れた幽禍の残骸が、黒い砂のように札へ吸い込まれていく。吸印札の表面に、値札の形をした黒い模様が浮かび、やがて一文字に潰れた。
封。
こよりがそれを指で押さえ、静かに息を吐いた。
「捕縛完了。討伐確認」
蓮司が日和の様子を見た。
「呼吸は安定している。外傷もない」
「よかった」
俺はその場に座り込みかけた。
その瞬間、こよりの視線が飛んでくる。
「まだ終わっていません」
「分かってる。座り込みかけただけだ」
「座り込むのは終わってからにしてください」
「休憩に厳しい神職だな」
だが、こよりの言う通りだった。
蔵の奥。
鑑定台の下に、まだ黒いひび割れが残っている。
それは、幽禍の穴というより、誰かの胸の奥に残った傷に見えた。
そこから、声が漏れていた。
売りたくない。
でも、守れない。
忘れたくない。
でも、生きていかなきゃいけない。
私には、何もできない。
それは日和の声であり、千歳さんの声でもあった。
俺は界喰を構え直した。
怖さは、まだ残っている。
でも、さっき貼られた札はもうない。
見えるだけ。
その言葉を、俺はまだ完全には否定できない。
だけど、見えているなら、斬る場所くらいは選べる。
俺は黒いひび割れへ刃を向けた。
刃を振り下ろす前に、こよりが俺の袖を掴んだ。
「待ってください」
「まだ何かいるのか?」
「いません。だから、斬り方を間違えないでください」
こよりは鑑定台を見た。
そこには、幽禍が消えたあともなお、雨宮玄斎という人間が使っていた道具が残っている。鑑定帳、硯、細い筆、虫眼鏡、布の手袋。どれも古びていたが、雑に置かれてはいなかった。
誰かが大事に使っていたものだ。
「界傷だけを閉じます。残っている思いまで消す必要はありません」
「……器用な注文だな」
「できます」
「俺が?」
「はい」
迷いのない返事だった。
なぜこの女は、俺より俺を信用するのか。
意味が分からない。
だが、言われてしまった以上、やるしかない。
俺は膝をつき、刃先を黒いひび割れの端に当てた。
斬る、というより、糸をほどく。
界喰は幽禍の核を喰らう刀だ。何でも斬ればいいわけではない。以前の戦いで、それは嫌というほど思い知らされた。雑に振れば、守りたいものまで削る。
ひび割れの奥から、また声がした。
売りたくない。
守れない。
忘れたくない。
生きていかなきゃ。
その声は矛盾していた。
でも、矛盾しているから嘘だとは思わなかった。
人間の本音は、だいたい矛盾している。
俺だって、逃げたいのに助けたい。怖いのに格好つけたい。こよりに怒られたくないのに、怒られるようなことばかりする。
たぶん、そういうものだ。
「売るのと、捨てるのは違う」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「忘れるのと、片づけるのも違う」
界喰の刃先が、黒いひび割れを撫でる。
黒が、薄くなる。
「だから、勝手に値段で終わらせるな」
最後の一筋を、斬った。
蔵の中に張りつめていた冷気が抜けた。
白い札の残骸が、床に落ちる前に消えていく。鑑定台の下のひび割れは、傷跡のような細い線だけを残して閉じた。
結界の内側に、静けさが戻る。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に動いたのは、日和だった。
「……おじいちゃん」
かすれた声。
彼女は柱にもたれたまま目を開けていた。意識が戻ったらしい。蓮司がすぐに膝をつく。
「気分は?」
「……ちょっと、眠いです」
「吐き気は」
「ないです」
「頭痛は」
「少し」
「立たない方がいい」
蓮司は淡々と確認した。医者みたいだ。将来、医者になったら患者に怖がられそうだが、信頼はされそうである。
こよりが結界札を外す。
外の音が戻ってきた。
「日和!」
千歳さんが座敷へ飛び込んできた。
結界の膜が消えた途端、彼女は畳に膝をつき、日和を抱きしめる。
「日和、大丈夫? どこか痛い? ごめんね、ごめんね」
日和は一瞬、身体を硬くした。
けれど、千歳さんの腕を振り払わなかった。
陽太も泣きながら走ってきて、二人にしがみつく。
「お姉ちゃん、値札なくなった?」
日和は弟の背中を見た。
そこにはもう、百円の札はない。
千歳さんの手首にも、二千円の札はない。
日和の影にも、未鑑定の札は揺れていない。
「……なくなった」
その一言で、陽太はさらに泣いた。
子どもの涙は、理由が分かりやすいようで分かりにくい。怖かったから泣いているのか、安心したから泣いているのか、たぶん本人にも分かっていない。
俺にも分からない。
だから、見なかったことにした。
かわりに、店の入口に立っている黒田という男を見た。
四十代くらいの痩せた男で、スーツの襟元が少しよれている。彼は店内を見回し、何が起きたのか分からない顔をしていた。幽禍に利用されていたのだろうが、本人に悪意があったかどうかは分からない。
「ええと、雨宮さん、今日の引き取りは」
「今日はお帰りください」
千歳さんが言った。
声は震えていた。
だが、弱くはなかった。
「整理はします。でも、急いで全部を処分するつもりはありません。娘と一緒に、何を残して、何を手放すか決めます」
「いや、でもですね」
「今日は、お帰りください」
二度目は、はっきりしていた。
黒田は何か言いたげに口を開いたが、こよりが巫女装束のまま静かに一歩前へ出ると、なぜか黙った。
白衣は裂け、緋袴には血が残っている。
事情を知らない人間が見れば、たぶん神社の人というより、今から祟る側の人だ。
黒田が黙ったのは正しい。
神社の圧である。
巫女は強い。
黒田は曖昧に頭を下げ、店を出ていった。
ガラス戸が閉まる音がした。
それでようやく、雨宮古物店の中に、本当の静けさが戻った。
「お母さん」
日和が小さく言った。
「私、全部残してって言いたかったわけじゃない」
千歳さんは日和の背を撫でていた手を止めた。
「ううん。言わせなかったのは、私」
「でも、だって、おじいちゃんのものがなくなったら、おじいちゃんがいなくなるみたいで」
「いなくならないよ」
千歳さんの声が、そこで少し崩れた。
「でも、私も怖かった。お店を続けられないって認めたら、お父さんに申し訳なくて。日和に恨まれるのも怖くて。だから、早く終わらせようとしたのかもしれない」
日和は俯いた。
「私、何もできないのに、怒ってばっかりだった」
「何もできなくない」
千歳さんはそう言って、蔵の鑑定台を見た。
「お父さん、日和にだけは触らせていたでしょう。鑑定帳」
日和が顔を上げる。
「うん。でも、ただ落書きして怒られただけ」
「怒ってなかったよ」
千歳さんは立ち上がり、鑑定台の上の帳面へ近づいた。
蓮司が一瞬だけ俺を見る。
危険はないか、という確認だ。
俺は頷いた。
もう、黒い気配はない。
千歳さんは鑑定帳をそっと開いた。ページの端には祖父の筆跡らしき細かい文字が並んでいる。品名、来歴、状態、仕入れ値、売値。古いものの履歴が、そこに詰まっていた。
その最後の方のページに、紙が一枚挟まっていた。
小さな子どもの絵だった。
丸い顔の老人と、小さな女の子が手をつないでいる。たぶん、祖父と日和だ。二人の横には、壺とも犬ともつかない謎の生物が描かれている。
日和の顔が赤くなった。
「な、なんでそれ残ってるの」
千歳さんは紙の裏を見た。
そこに、筆で短い言葉が書いてあった。
値のつかぬもの。
売買不可。
雨宮玄斎。
日和はその文字を見たまま、動かなかった。
千歳さんの目から、涙が落ちた。
「お父さんらしい」
そう言って、笑った。
泣きながら笑う人間を見ると、俺はどうしていいか分からなくなる。
敵が殴ってくる方がまだ分かりやすい。
「日和」
千歳さんは絵を日和へ渡した。
「全部は残せない。でも、これは残そう。お店をどうするかも、蔵のものをどうするかも、一緒に決めよう」
「……うん」
日和は紙を両手で受け取った。
その手つきは、壊れものを持つみたいだった。
いや、実際に壊れものなのだろう。
紙一枚でも、人の中にあるものは簡単に壊れる。
だから、大事に持つ必要がある。
陽太が横から覗き込んだ。
「これ、おじいちゃん?」
「そう」
「このへんなの、なに?」
「……壺」
「犬じゃないの?」
「壺!」
日和が少しだけ声を張った。
さっきまでの張り詰めた声ではない。
年相応の、少し恥ずかしそうな声だった。
千歳さんがまた笑った。
蔵の中の空気が、ようやく少し暖かくなった。
俺は界喰を黒布に包み直した。
「終わったな」
「はい」
こよりが吸印札を懐にしまう。
「これで、今回の依頼は完了です」
「賽銭箱に紙入れたら、ここまで来てくれる神社って、なかなかないよな」
「三枝神社は地域密着型ですから」
「地域密着の意味が広い」
蓮司が六角棒を袋に戻しながら言った。
「それに、これは神社だけの問題ではない。界傷が開けば、周囲にも広がる」
「真面目か」
「真面目だ」
「自覚がある真面目は強いな」
蓮司は俺を見た。
「君も、今回は真面目だった」
「今回は、ってなんだ。俺はいつも真面目だろ」
「逃げ道を探すことには」
「それを真面目と言ってくれる友人、貴重だな」
「褒めてはいない」
こよりが横で小さく息を吐いた。
「三上さん」
「何だよ」
「最後の台詞、少し格好つけすぎでした」
「言うと思ったよ!」
「でも」
こよりはそこで言葉を切った。
店の外では、商店街の明かりが灯り始めている。ガラス戸越しの夕闇が、少しずつ夜の色へ変わっていた。
「悪くはありませんでした」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
こよりが褒めた。
こよりが、俺を。
これは界傷より珍しい現象ではないだろうか。
「今の、もう一回言ってくれないか。録音する」
「言いません」
「蓮司、聞いたよな」
「聞いていない」
「裏切り者!」
「価値なしと鑑定されても困るからな」
蓮司が淡々と言った。
こいつ、意外と根に持っている。
俺たちは雨宮家に簡単な説明をした。もちろん、幽禍だの界傷だのは言わない。こよりは「不浄なものが品に寄っていたので祓いました」とだけ言った。だいたい合っている。細部を省けば、世の中の説明はだいたい成り立つ。
日和は帰り際、店先まで見送りに来た。
手には、祖父の残した絵を大事そうに抱えている。
「あの」
「ん?」
「ありがとうございました」
日和は深く頭を下げた。
「お賽銭、入れてなくてすみません。紙だけで」
こよりが首を横に振る。
「お願いは届きました。それで十分です」
かっこいい。
こよりが言うと、本当にそう聞こえる。
俺が同じことを言ったら、たぶん賽銭泥棒の言い訳になる。
「でも、次からはできれば社務所に来てください」
「はい」
日和が小さく笑った。
その笑顔を見て、俺はようやく腹が減っていることを思い出した。
事件が終わると、身体は急に現実的になる。
商店街へ出ると、さっきの肉屋がまだ開いていた。
コロッケの匂いがする。
強烈にする。
「こより」
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「言う顔です」
「俺の顔、分かりやすすぎないか」
「はい」
即答だった。
蓮司が財布を出した。
「三つ買うか」
「蓮司!」
「夕食前だが、今日は働いた」
「お前、神か?」
「神ではない。三橋だ」
真面目に返された。
こよりは少し迷ったあと、諦めたようにため息をついた。
「一つだけです」
「三人で一つ?」
「一人一つです」
「こより!」
「大声を出さないでください」
商店街の明かりの下、俺たちはコロッケを買った。
揚げたてのそれは熱くて、指先を少し火傷しそうだった。息を吹きかけながらかじると、じゃがいもの甘さと油の匂いが広がる。
うまい。
ものすごくうまい。
世界には値段がつくものと、つかないものがある。
このコロッケには百二十円という値段がついていた。
だが、事件のあとに三人で食べるこの味が百二十円かと言われると、たぶん違う。
値段は必要だ。
ないと店は続かないし、人は生活できない。
でも、値段だけでは届かない場所がある。
雨宮古物店の看板は、まだ下ろされていなかった。
明日下ろされるかもしれない。
一ヶ月後かもしれない。
もしかしたら、別の形で残るのかもしれない。
それは俺たちが決めることではない。
ただ、日和と千歳さんは、たぶんもう一緒に決められる。
それだけで、今日ここへ来た意味はあった。
「三上さん」
こよりがコロッケを半分ほど食べたところで言った。
「界喰、明日の朝までに返してくださいね」
「余韻を返せ」
「返却期限は余韻より大事です」
「神社ってレンタルビデオ屋だったのか?」
「延滞すると、祖父が怖いので」
「それは本当に怖い」
蓮司が隣で頷いた。
「三上、返した方がいい」
「お前まで真顔で言うな」
俺は黒布に包まれた界喰を見た。
さっきまであれほど重かった刀は、今は少しだけ軽く感じる。
もちろん、気のせいだ。
気のせいだが、悪い気分ではなかった。
商店街の向こうで、夜が完全に降りてくる。
俺たちは三枝神社へ戻るため、駅前の通りを歩き出した。
背中には界喰。
手にはコロッケ。
胸のあたりには、もう何の値札もない。
ただ、少しだけ熱いものが残っていた。
それが油のせいなのか、戦闘の余韻なのか、こよりに珍しく褒められたせいなのかは、考えないことにした。
考えると、たぶんまた顔に出る。
そしてこよりに言われるのだ。
言う顔です、と。
だから俺は、黙ってコロッケの残りを口に放り込んだ。
百二十円の夕暮れは、悔しいくらいにうまかった。




