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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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4/7

雨宮古物店(前半)

 商店街というものは、夕方になると妙に正直な顔をする。


 昼間なら、開いたシャッターと客寄せの声と惣菜屋の油の匂いで、まだ生きているふりができる。けれど日が傾くと、閉まったままの店の錆びたシャッターや、色褪せたポスターや、誰も座っていないベンチがやたら目につく。


 俺たちが駅前商店街の外れに着いた時、空は紫と赤の中間みたいな色になっていた。


 肉屋のコロッケの匂いがした。


 腹が鳴った。


「三上さん」

「違う。これは体内の抗議活動だ」

「まだ何も言っていません」

「言う顔だった」


 こよりは巫女装束の袖を押さえながら、商店街の奥へ進んでいく。夕方の買い物客がちらちらこちらを見た。ツインテールの巨乳巫女と、灰髪の男子高校生と、黒布に包んだ長いものを背負った男子高校生の三人組である。


 改めて考えると、通報されない方がおかしい。


「蓮司。俺だけ不審者みたいになってないか」

「みたい、ではないな」

「断定するな」

「三上、安心しろ。僕も君の隣を歩いている以上、同類に見られている可能性がある」

「それは安心じゃなくて巻き添えだ」

「巻き添えにしている自覚はあるのですね」


 こよりが前を向いたまま刺してくる。


 この女、背中にも口があるのかもしれない。


 商店街の一番奥、アーケードの骨組みが途切れる場所に、その店はあった。


 雨宮古物店。


 そう書かれた看板は、木製だった。黒い墨で太く書かれた文字は達筆で、古びてはいるが、安っぽくはない。店先のガラス戸の向こうには、壺、皿、古い時計、木箱に入った茶碗、掛け軸の筒らしきものが並んでいる。


 ただ、店の右半分には白い紙が貼られていた。


 当面のあいだ休業いたします。


 その文字を見た瞬間、俺の背中に背負った界喰(かいばみ)が少しだけ重くなった気がした。


「ここです」


 こよりが足を止める。


「普通の骨董屋に見えるな」

「普通の骨董屋に見えているなら、普通ではないよ」


 蓮司が低い声で言った。


 俺はガラス戸越しに店内を見た。


 薄暗い。


 商品棚に並ぶ古い品物の輪郭が、夕方の光の中で沈んでいる。埃の匂いが外まで漏れてきそうだった。古い木、紙、布、金属。そういうものが長い時間を吸って吐き出した匂い。


 そこまでは、まだ普通だった。


 普通ではないものが、ひとつだけあった。


 棚に置かれた青磁の壺の首に、小さな値札がぶら下がっていた。


 いや、壺だけではない。


 掛け軸の筒にも。古い柱時計にも。レジ横の椅子にも。壁に掛かった古い写真額にも。


 白い紙片が、紐もないのに貼りついている。


 そこには墨のような黒い字で金額が書かれていた。


 壺、八千円。


 時計、三千円。


 椅子、五百円。


 写真額、十円。


「……見えているか?」


 俺が小声で聞くと、蓮司は眉を寄せた。


「壺の値札なら見える。だが、写真額のものは見えない」

「俺には全部見える」

界傷(かいしょう)側の表示ですね」


 こよりの声が硬くなった。


 全部、という言い方をしたが、正確には全部ではなかった。


 ガラス戸の向こう、店の奥へ続く暖簾の下。


 そこに、水色のパーカーを着た少女が立っていた。


 紙片に名前を書いた子だ。


 彼女の足元の影から、白い札が一枚、揺れていた。


 札には、金額ではなく、こう書かれていた。


 未鑑定。


 俺は一瞬だけ、息の仕方を忘れた。


「三上さん?」

「……中に入ろう」


 逃げたい時ほど、自分の口が勝手に余計なことを言う。


 人生は、本当に嫌なところで俺の意思を裏切る。


 こよりがガラス戸を叩いた。


 こん、こん。


 店の奥で少女が肩を跳ねさせた。こちらに気づいた顔が、泣きそうに歪む。けれど彼女はすぐに奥へ消えた。


 少しして、戸が開いた。


「……あの」


 小さな声だった。


 紙片の文字と同じだと思った。力を入れすぎると破れそうな声。


「三枝神社から来ました」


 こよりが言った。


雨宮日和(あまみやひより)です・・・」


 雨宮日和は小さく挨拶した。近くで見ると中学生くらいに見える。水色のパーカーの袖を両手で握りしめ、こちらを見上げていた。目の下が少し赤い。泣いたあとか、泣けなかったあとか、俺には分からない。


「紙、読みましたか」

「読みました」


 こよりはまっすぐ答えた。


「助けに来ました」


 その言葉に、日和の顔が一瞬だけゆるんだ。


 俺なら、たぶん「調査に来ました」とか「場合によっては」とか余計な逃げ道を用意する。こよりはそうしない。できることとできないことを分ける女だが、来たからには助けると言う。


 こういうところは、少しだけ眩しい。


 少しだけなので、本人には言わない。


「日和? 誰か来たの?」


 店の奥から女の人の声がした。


 日和の肩が、さっきより強く固まった。


 暖簾をくぐって出てきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。黒い髪を後ろで一つに結び、薄いカーディガンを羽織っている。疲れた顔をしていた。怒っているわけではない。泣いているわけでもない。ただ、何かをずっと我慢している人の顔だった。


「日和。勝手に知らない人を上げちゃ駄目でしょう」

「ごめんなさい」


 こよりが一歩前に出る。


「突然申し訳ありません。三枝神社の三枝こよりです。こちらは、神社の手伝いをしている三上さんと三橋さんです」

「手伝い」


 俺は思わず復唱した。


 便利な言葉である。


 不審者という単語を、ここまで柔らかく包めるとは思わなかった。


「三枝神社の……」


 女性は少し目を細めた。


「祖父の四十九日で、お札をお願いしたところでしたか」

「はい。雨宮玄斎(あまみやげんさい)さんのご供養について、少し確認したいことがありまして」


 こよりの嘘は、嘘の形をしていなかった。


 たぶん、完全な嘘ではないのだろう。供養も確認も必要ではある。問題は、その確認事項の中に、人間に値札を貼る幽禍(ゆうか)の討伐が含まれていることだ。


 言い方ひとつで世の中はだいぶ変わる。


雨宮千歳(あまみやちとせ)です。すみません、店は今休業中で、片づいていなくて」

「お気遣いなく」


 こよりは丁寧に頭を下げた。


 俺と蓮司も続く。


 頭を下げた瞬間、界喰の包みが背中でずり落ちかけた。


「おっと」


 慌てて肩で支える。


 千歳さんの視線が、俺の背中に向いた。


「それは……」

「長いお札です」


 こよりが即答した。


 長いお札。


 刀をここまで強引に言い換える人間を俺は初めて見た。


 蓮司が横で小さく咳払いした。笑いを堪えたのかもしれない。お前、そういう時だけ人間味を出すな。


 千歳さんは不審そうにしたが、疲れているせいか、それ以上は追及しなかった。


「どうぞ。奥へ」


 俺たちは店内に入った。


 古物店の中は、外から見たより広かった。棚と棚の間に狭い通路があり、天井近くまで古い品が積まれている。木箱、皿、置物、紙袋に包まれた何か。値札はあちこちについていた。


 ただし、普通の値札と、普通ではない値札が混じっている。


 普通の値札は黄ばんだ紙で、数字も鉛筆かボールペンだ。普通ではない値札は白すぎる紙で、影の中でも妙に浮いて見える。墨の文字が濡れているように黒い。


 俺は棚の配置を見ながら歩いた。


 左の棚。壺が三つ。


 真ん中の棚。茶碗が五つ。


 右の棚。古い人形が一体。


 値札のつき方が、商品ごとではない。


 棚の端に置かれた茶碗にはついていないのに、その隣の空き箱にはついている。高そうな壺には八千円、壊れた椅子には五百円。金額の高低も、骨董としての価値とは合っていない。


 見る人間が長く目を止めたもの。


 触ろうとしてやめたもの。


 迷ったもの。


 そういうものに、札が貼られている気がした。


「三上」


 蓮司が小声で言った。


「ああ。普通の査定じゃないな」

「古物商としても雑すぎる」

「そこが気になるのか」

「価値を扱うなら、手順がある」


 真面目なやつだ。


 怪異相手にも査定の手順を求めるのは、たぶん蓮司くらいだろう。


 奥の座敷へ通されると、そこには小さな男の子がいた。五歳くらいだろうか。畳の上で積み木をしている。俺たちを見ると、ぱっと顔を上げた。


「お姉ちゃん、お客さん?」

「陽太、こっち来ちゃだめ」


 日和が慌てて弟の前に立つ。


 その背中に、値札が見えた。


 紙片に書かれていた通りだ。


 陽太の背中、シャツの肩甲骨のあたり。


 百円。


 あまりにも小さな数字だった。


 安いとか高いとか、そういう話ではない。


 数字にしていること自体が、腹立たしかった。


 俺の顔に出たのだろう。こよりがほんの少しだけこちらを見る。


 蓮司も見ていた。目が細くなっている。こいつは怒っても大声を出さない。姿勢が少しだけまっすぐになる。


「……お母さん」


 日和が掠れた声で言った。


「まだ、ついてる」


 千歳さんは自分の右手を左手で覆った。


 そこにも値札があった。


 二千円。


 手首の少し上。皮膚に貼られているわけではない。けれど、確かにそこにある。普通の人間には見えていないのか、千歳さんは値札そのものを見ず、ただ日和の視線を追って自分の手を隠していた。


「日和、もうその話は」

「だって、あるもん」

「疲れているのよ。おじいちゃんが亡くなってから、あなたもずっと」

「違う!」


 日和の声が座敷に跳ねた。


 陽太がびくっとして、積み木を倒した。


 からからと木の音が畳に転がる。


「違うもん。私だけじゃない。お母さんにも、陽太にも、札がついてる。昨日はなかったのに、今日になって」

「日和」

「お母さんが売るって言ったからだよ」


 その言葉で、空気が変わった。


 千歳さんの顔が、疲れたものから、傷ついたものになった。


「……その話は、あとでしようって言ったでしょう」

「いつもあとでじゃん。おじいちゃんの壺も、掛け軸も、時計も、みんなあとであとでって言って、業者の人に見せて、値段つけて、持っていかせるんでしょ」

「全部は残せないの」

「なんで」

「お店を続けるお金も、人も、もうないから」

「お母さんが嫌いだからでしょ」


 日和の声は震えていた。


 それは怒りというより、怒りの形をした恐怖だった。


「おじいちゃんのこと、早く片づけたいんでしょ。お店も、品物も、みんな邪魔なんでしょ」


 千歳さんは、すぐには答えなかった。


 答えられなかったのかもしれない。


 けれど、説明されない子どもには、説明されないままの恐怖がある。


 その隙間に、何かが入り込む。


 俺には、それが見えた。


 座敷の奥、襖の向こう。


 裏庭へ続く廊下の先に、黒いひび割れが走っている。


 細い。


 けれど深い。


 そのひび割れから、値札の紐みたいな黒い線が何本も伸び、店内の品物や、千歳さんの手や、陽太の背中へ絡みついていた。


「裏に何がある」


 俺が小声で聞くと、日和がはっとこちらを見た。


「蔵……おじいちゃんの蔵です。鑑定に使ってた部屋があって」

「三上さん」


 こよりが俺の視線を追う。


「見えますか」

「見えたくないくらいには」


 蓮司が六角棒の袋を握り直した。


「中心は蔵か」

「たぶんな」


 その時、店の表でガラス戸が開く音がした。


「雨宮さーん。黒田です。例の品、引き取りの件で」


 男の声だった。


 千歳さんの表情が、さらに固まる。


「今日はもう」

「いやあ、早い方がいいですよ。古いものはね、置いとくほど値が落ちる。お気持ちは分かりますけど、値がつくうちに処分しないと」


 処分。


 その単語を聞いた瞬間、蔵の方で何かが笑った。


 声ではない。


 紙が擦れる音だった。


 ぱらり。


 ぱらり。


 帳面のページを、見えない指がめくる音。


 日和の足元の影に揺れていた「未鑑定」の札が、ゆっくりと持ち上がった。


「日和、下がれ」


 俺は言った。


 珍しく、自分でも驚くくらい早く声が出た。


 だが遅かった。


 裏庭へ続く廊下の奥で、襖が内側から開いた。


 誰も触れていない。


 蔵へ続く木戸の向こうから、白い札が群れになって飛び出した。蝶みたいに見えた。だが、飛び方が違う。紙片はひらひら舞うのではなく、獲物を見つけた虫のように、まっすぐ日和へ向かった。


 こよりが拳を握る。


 蓮司が前に出る。


 俺は界喰(かいばみ)の包みに手をかけた。


 その前に、黒い値札の紐が畳を走った。


 千歳さんと陽太の足元が、ぱん、と弾かれる。二人の身体が座敷の外へ押し出され、廊下側へ転がった。見えない膜に弾かれたように、そこから先へ入ってこられない。


「お母さん!」


 日和が叫ぶ。


 白い札が、彼女の腕と足に貼りついた。


 未鑑定。


 未鑑定。


 未鑑定。


 同じ文字が、紙の表面で増えていく。


 日和の瞳から光が抜けた。


 崩れる身体を、蓮司が寸前で受け止める。


「気絶している。呼吸はある」

「好都合です」


 こよりの声が、低くなる。


 一般人に見せられないものが、これから始まる。


 目撃者は弾かれ、日和は気を失った。


 ならば、遠慮はいらない。


 蔵の木戸が、ゆっくり開いた。


 暗闇の中に、古い鑑定台が見える。


 その上に、分厚い帳面が開いていた。


 ページの中央に、濡れた墨で文字が浮かぶ。


 雨宮日和。


 未鑑定。


 次の瞬間、帳面の奥から、長い腕が這い出した。


 紙の束のような指。


 値札で覆われた胴。


 顔はなかった。代わりに、帳面のページを縦に裂いたような口がある。


 それが、笑った。


「鑑定ヲ、始メマス」


 声は、人の声ではなかった。


 古い紙と乾いた骨が、同時に擦れるような音だった。


 俺は界喰の黒布をほどいた。


「蓮司」

「分かっている」

「こより」


「結界を張ります。三上さんは、いつも通り最後だけ格好つけてください」

「最初から少しは格好つけさせろ」

「では、逃げないでください」

「要求が重い」


 黒い刀身が、夕闇より濃い色で現れる。


 幽禍は帳面の口をさらに裂き、日和へ腕を伸ばした。


「値ノ、低キモノヨリ、処分」


 その言葉で、俺の中の逃げたい部分が、黙った。


 完全に黙ったわけではない。


 小さく「帰りたい」とは言っている。


 だが、それより大きな声で、別のものが言った。


 これは、嫌だ。


 見なかったことには、できない。


 俺は界喰を握り直した。


「鑑定士ごっこなら、相手を間違えたな」


 自分でも少し驚くくらい、声が低かった。


「俺たちは、値段をつけに来たんじゃない」


 こよりの札が、蔵の四隅へ飛ぶ。


 蓮司の六角棒が、畳を鳴らす。


 そして、雨宮古物店の奥で、結界が閉じた。


 結界が閉じる瞬間、店の音が遠ざかった。


 商店街のざわめきも、外で千歳さんが日和の名を呼ぶ声も、ガラス戸を叩く黒田という男の声も、薄い水膜の向こうに沈んだみたいにぼやける。


 代わりに、蔵の中から紙の音が満ちた。


 ぱら、ぱら、ぱら。


 値札が増えていく音。


 幽禍は鑑定台の上から這い出しながら、首のない身体をこちらへ向けた。顔の代わりに開いた帳面の裂け目が、縦に笑う。全身には無数の値札が貼られていた。千円、五百円、十円、処分、返品不可、瑕疵あり。金額だけではない。物に貼られるはずの言葉が、人の皮膚の代わりにその身体を覆っている。


「対象、三名。鑑定、開始」


 長い腕が振られた。


 白い札が、刃物のように飛ぶ。


「伏せて!」


 こよりが叫んだ。


 俺は反射的に畳へ転がった。頭上を値札が通過し、背後の柱に突き刺さる。紙のくせに、柱へ深々と刺さった。


「紙の強度じゃないだろ!」

「幽禍に紙質の常識を求めるな」


 蓮司が六角棒で札を叩き落とした。乾いた音がする。紙片が割れ、畳に落ちると、じゅう、と黒く焦げた。


「三橋さん、日和さんを!」

「任せろ」


 蓮司は気絶した日和を座敷の柱際へ運ぶ。その動きに合わせて、幽禍の腕が伸びた。札の紐が何本も床を這い、日和の足首へ向かう。


 こよりが走った。


 速い。


 巫女装束の白と緋が、視界の端で線になる。こよりは畳を蹴り、壁を蹴り、梁に手をかけ、身体を反転させた。普通の人間の動きではない。因果、韋天(いてん)。彼女の身体は、踏み出すという行為そのものを祈りに変えている。


 豊かな胸元を押さえる(さらし)が、跳躍のたびに白衣の下で軋む。だが、その重さは鈍さではない。むしろ、着地の一瞬に全身の質量を拳へ乗せるための(おもり)みたいだった。白衣、緋袴、黒髪、札。神前に立つはずの色彩が、古物店の薄闇を一直線に裂いていく。


 拳が、札の紐の束を打ち抜いた。


 ばらばらと紙片が舞う。


「日和さんには触れさせません」


 こよりが着地する。


 だが次の瞬間、幽禍の裂け目が開いた。


「鑑定結果」


 声が響く。


「三枝こより。管理不能」


 こよりの胸元に白い札が現れた。


 管理不能。


 文字を見た瞬間、こよりの足が沈んだ。


 畳がへこんだわけではない。身体が、自分自身の重さを急に思い出したみたいに、彼女の膝が落ちる。札が貼られた胸元から、見えない鉛を流し込まれているようだった。


「こより!」

「問題、ありません」


 言いながら、こよりは立て直した。


 問題ない声ではなかった。


 幽禍の値札が、今度は刃になって彼女へ殺到する。


 こよりは避けなかった。


 踏み込んだ。


 白い紙刃が袖を裂き、肩をかすめ、脇腹を切る。緋袴に黒い血ではなく、彼女自身の赤い血が散った。白衣の胸元にも細い裂け目が走り、(さらし)の上に血が一筋落ちる。


 それでも、こよりは止まらなかった。


 韋天(いてん)の速度で半歩踏み込む。


 床板が割れた。


 胸元の札がさらに重くなったのか、彼女の口から短く息が漏れる。けれどその瞳は冷たい。痛みではなく、敵の位置だけを見ている目だった。


「管理不能、ですか」


 こよりは幽禍(ゆうか)の懐へ入り、拳を深く構えた。


「でしたら、管理しようとしないことです」


 彼女の拳が、幽禍の裂け目へ叩き込まれた。


 拳がぶつかる音ではない。


 肉に釘を打つみたいな音がした。


 幽禍の口が、半分吹き飛ぶ。


 こよりはそのまま膝蹴りを叩き込み、幽禍の胴を折った。血と紙片が飛ぶ。赤と白と黒が、古い蔵の空気に混ざった。


 俺は界喰(かいばみ)を構えて前へ出ようとする。


 その前に、蓮司が俺の肩を掴んだ。


「待て」

「なんでだよ」

「核が見えていない。斬るなら最後にしろ」

「最後まで待ってたら、こよりが潰れる」

「だから、僕が前に出る」


 蓮司は六角棒を回した。


 いつもどおりの無表情だったが、その目だけは少し冷たかった。


「三上、君は見ろ。君にしか見えないものがある」


 そう言って、蓮司は走った。


 六角棒が畳を叩く。幽禍の腕が振るわれる。値札の束が槍のように伸びる。蓮司は真正面から受けた。


 紙と木がぶつかったとは思えない重い音。


 蓮司の身体が半歩下がる。


 それでも、止まった。


「鑑定結果」


 幽禍の声。


「三橋蓮司。家名以外、価値ナシ」


 蓮司の肩に札が貼りついた。


 家名以外価値なし。


 嫌な札だった。


 他人が勝手に貼るには、あまりにも卑怯な言葉だった。


 蓮司の眉が少しだけ動く。


「……なるほど」


 六角棒を握る手に力が入る。


「浅い鑑定だ」


 次の瞬間、蓮司は踏み込んだ。


 六角棒が幽禍の腕を打つ。札が弾ける。もう一撃。肩らしき部分が砕ける。幽禍の身体は紙でできているように見えるのに、打たれるたびに木箱を割るような音がした。


 こよりが横から飛び込む。


 拳、肘、膝。


 韋天により身体能力が二十倍強化されたこよりが放つ連撃が、幽禍(ゆうか)の胴を削る。負傷した脇腹から血が散り、白衣の裾が赤く染まる。それでも彼女は、舞っているように速かった。いや、舞などという綺麗なものではない。神楽の形をした暴力だった。


 だが、崩れた札はすぐに戻った。帳面のページから新しい値札が生え、破れた箇所に貼りついていく。


「キリがないな」


 俺は息を止める。


 見ろ。


 蓮司が言った。


 俺にしか見えないもの。


 幽禍の身体ではない。腕でも札でもない。攻撃の軌道でもない。


 なら、どこだ。


 値札はどこから来ている。


 蔵の鑑定台。


 開いた帳面。


 そこから伸びる黒い紐。


 いや、違う。


 帳面そのものが核なら、界喰で斬れば終わる。だが帳面は祖父のものだ。日和が守りたいもののひとつだ。幽禍はそこに寄生しているだけ。


 帳面のページに、何かが挟まっている。


 白い札。


 他の札より少し古い。端が焦げて、文字が滲んでいる。


 未鑑定。


 それだけが、墨ではなく、ひび割れの黒で書かれていた。


「見えた」


 俺は呟いた。


 幽禍の裂け目が、こちらを向いた。


「鑑定結果」


 ぞわり、と背中が冷える。


「三上晃」


 名前を呼ばれただけで、足が重くなった。


 幽禍の声が、頭の内側に入ってくる。


「見エルダケ」



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