雨宮古物店(前半)
商店街というものは、夕方になると妙に正直な顔をする。
昼間なら、開いたシャッターと客寄せの声と惣菜屋の油の匂いで、まだ生きているふりができる。けれど日が傾くと、閉まったままの店の錆びたシャッターや、色褪せたポスターや、誰も座っていないベンチがやたら目につく。
俺たちが駅前商店街の外れに着いた時、空は紫と赤の中間みたいな色になっていた。
肉屋のコロッケの匂いがした。
腹が鳴った。
「三上さん」
「違う。これは体内の抗議活動だ」
「まだ何も言っていません」
「言う顔だった」
こよりは巫女装束の袖を押さえながら、商店街の奥へ進んでいく。夕方の買い物客がちらちらこちらを見た。ツインテールの巨乳巫女と、灰髪の男子高校生と、黒布に包んだ長いものを背負った男子高校生の三人組である。
改めて考えると、通報されない方がおかしい。
「蓮司。俺だけ不審者みたいになってないか」
「みたい、ではないな」
「断定するな」
「三上、安心しろ。僕も君の隣を歩いている以上、同類に見られている可能性がある」
「それは安心じゃなくて巻き添えだ」
「巻き添えにしている自覚はあるのですね」
こよりが前を向いたまま刺してくる。
この女、背中にも口があるのかもしれない。
商店街の一番奥、アーケードの骨組みが途切れる場所に、その店はあった。
雨宮古物店。
そう書かれた看板は、木製だった。黒い墨で太く書かれた文字は達筆で、古びてはいるが、安っぽくはない。店先のガラス戸の向こうには、壺、皿、古い時計、木箱に入った茶碗、掛け軸の筒らしきものが並んでいる。
ただ、店の右半分には白い紙が貼られていた。
当面のあいだ休業いたします。
その文字を見た瞬間、俺の背中に背負った界喰が少しだけ重くなった気がした。
「ここです」
こよりが足を止める。
「普通の骨董屋に見えるな」
「普通の骨董屋に見えているなら、普通ではないよ」
蓮司が低い声で言った。
俺はガラス戸越しに店内を見た。
薄暗い。
商品棚に並ぶ古い品物の輪郭が、夕方の光の中で沈んでいる。埃の匂いが外まで漏れてきそうだった。古い木、紙、布、金属。そういうものが長い時間を吸って吐き出した匂い。
そこまでは、まだ普通だった。
普通ではないものが、ひとつだけあった。
棚に置かれた青磁の壺の首に、小さな値札がぶら下がっていた。
いや、壺だけではない。
掛け軸の筒にも。古い柱時計にも。レジ横の椅子にも。壁に掛かった古い写真額にも。
白い紙片が、紐もないのに貼りついている。
そこには墨のような黒い字で金額が書かれていた。
壺、八千円。
時計、三千円。
椅子、五百円。
写真額、十円。
「……見えているか?」
俺が小声で聞くと、蓮司は眉を寄せた。
「壺の値札なら見える。だが、写真額のものは見えない」
「俺には全部見える」
「界傷側の表示ですね」
こよりの声が硬くなった。
全部、という言い方をしたが、正確には全部ではなかった。
ガラス戸の向こう、店の奥へ続く暖簾の下。
そこに、水色のパーカーを着た少女が立っていた。
紙片に名前を書いた子だ。
彼女の足元の影から、白い札が一枚、揺れていた。
札には、金額ではなく、こう書かれていた。
未鑑定。
俺は一瞬だけ、息の仕方を忘れた。
「三上さん?」
「……中に入ろう」
逃げたい時ほど、自分の口が勝手に余計なことを言う。
人生は、本当に嫌なところで俺の意思を裏切る。
こよりがガラス戸を叩いた。
こん、こん。
店の奥で少女が肩を跳ねさせた。こちらに気づいた顔が、泣きそうに歪む。けれど彼女はすぐに奥へ消えた。
少しして、戸が開いた。
「……あの」
小さな声だった。
紙片の文字と同じだと思った。力を入れすぎると破れそうな声。
「三枝神社から来ました」
こよりが言った。
「雨宮日和です・・・」
雨宮日和は小さく挨拶した。近くで見ると中学生くらいに見える。水色のパーカーの袖を両手で握りしめ、こちらを見上げていた。目の下が少し赤い。泣いたあとか、泣けなかったあとか、俺には分からない。
「紙、読みましたか」
「読みました」
こよりはまっすぐ答えた。
「助けに来ました」
その言葉に、日和の顔が一瞬だけゆるんだ。
俺なら、たぶん「調査に来ました」とか「場合によっては」とか余計な逃げ道を用意する。こよりはそうしない。できることとできないことを分ける女だが、来たからには助けると言う。
こういうところは、少しだけ眩しい。
少しだけなので、本人には言わない。
「日和? 誰か来たの?」
店の奥から女の人の声がした。
日和の肩が、さっきより強く固まった。
暖簾をくぐって出てきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。黒い髪を後ろで一つに結び、薄いカーディガンを羽織っている。疲れた顔をしていた。怒っているわけではない。泣いているわけでもない。ただ、何かをずっと我慢している人の顔だった。
「日和。勝手に知らない人を上げちゃ駄目でしょう」
「ごめんなさい」
こよりが一歩前に出る。
「突然申し訳ありません。三枝神社の三枝こよりです。こちらは、神社の手伝いをしている三上さんと三橋さんです」
「手伝い」
俺は思わず復唱した。
便利な言葉である。
不審者という単語を、ここまで柔らかく包めるとは思わなかった。
「三枝神社の……」
女性は少し目を細めた。
「祖父の四十九日で、お札をお願いしたところでしたか」
「はい。雨宮玄斎さんのご供養について、少し確認したいことがありまして」
こよりの嘘は、嘘の形をしていなかった。
たぶん、完全な嘘ではないのだろう。供養も確認も必要ではある。問題は、その確認事項の中に、人間に値札を貼る幽禍の討伐が含まれていることだ。
言い方ひとつで世の中はだいぶ変わる。
「雨宮千歳です。すみません、店は今休業中で、片づいていなくて」
「お気遣いなく」
こよりは丁寧に頭を下げた。
俺と蓮司も続く。
頭を下げた瞬間、界喰の包みが背中でずり落ちかけた。
「おっと」
慌てて肩で支える。
千歳さんの視線が、俺の背中に向いた。
「それは……」
「長いお札です」
こよりが即答した。
長いお札。
刀をここまで強引に言い換える人間を俺は初めて見た。
蓮司が横で小さく咳払いした。笑いを堪えたのかもしれない。お前、そういう時だけ人間味を出すな。
千歳さんは不審そうにしたが、疲れているせいか、それ以上は追及しなかった。
「どうぞ。奥へ」
俺たちは店内に入った。
古物店の中は、外から見たより広かった。棚と棚の間に狭い通路があり、天井近くまで古い品が積まれている。木箱、皿、置物、紙袋に包まれた何か。値札はあちこちについていた。
ただし、普通の値札と、普通ではない値札が混じっている。
普通の値札は黄ばんだ紙で、数字も鉛筆かボールペンだ。普通ではない値札は白すぎる紙で、影の中でも妙に浮いて見える。墨の文字が濡れているように黒い。
俺は棚の配置を見ながら歩いた。
左の棚。壺が三つ。
真ん中の棚。茶碗が五つ。
右の棚。古い人形が一体。
値札のつき方が、商品ごとではない。
棚の端に置かれた茶碗にはついていないのに、その隣の空き箱にはついている。高そうな壺には八千円、壊れた椅子には五百円。金額の高低も、骨董としての価値とは合っていない。
見る人間が長く目を止めたもの。
触ろうとしてやめたもの。
迷ったもの。
そういうものに、札が貼られている気がした。
「三上」
蓮司が小声で言った。
「ああ。普通の査定じゃないな」
「古物商としても雑すぎる」
「そこが気になるのか」
「価値を扱うなら、手順がある」
真面目なやつだ。
怪異相手にも査定の手順を求めるのは、たぶん蓮司くらいだろう。
奥の座敷へ通されると、そこには小さな男の子がいた。五歳くらいだろうか。畳の上で積み木をしている。俺たちを見ると、ぱっと顔を上げた。
「お姉ちゃん、お客さん?」
「陽太、こっち来ちゃだめ」
日和が慌てて弟の前に立つ。
その背中に、値札が見えた。
紙片に書かれていた通りだ。
陽太の背中、シャツの肩甲骨のあたり。
百円。
あまりにも小さな数字だった。
安いとか高いとか、そういう話ではない。
数字にしていること自体が、腹立たしかった。
俺の顔に出たのだろう。こよりがほんの少しだけこちらを見る。
蓮司も見ていた。目が細くなっている。こいつは怒っても大声を出さない。姿勢が少しだけまっすぐになる。
「……お母さん」
日和が掠れた声で言った。
「まだ、ついてる」
千歳さんは自分の右手を左手で覆った。
そこにも値札があった。
二千円。
手首の少し上。皮膚に貼られているわけではない。けれど、確かにそこにある。普通の人間には見えていないのか、千歳さんは値札そのものを見ず、ただ日和の視線を追って自分の手を隠していた。
「日和、もうその話は」
「だって、あるもん」
「疲れているのよ。おじいちゃんが亡くなってから、あなたもずっと」
「違う!」
日和の声が座敷に跳ねた。
陽太がびくっとして、積み木を倒した。
からからと木の音が畳に転がる。
「違うもん。私だけじゃない。お母さんにも、陽太にも、札がついてる。昨日はなかったのに、今日になって」
「日和」
「お母さんが売るって言ったからだよ」
その言葉で、空気が変わった。
千歳さんの顔が、疲れたものから、傷ついたものになった。
「……その話は、あとでしようって言ったでしょう」
「いつもあとでじゃん。おじいちゃんの壺も、掛け軸も、時計も、みんなあとであとでって言って、業者の人に見せて、値段つけて、持っていかせるんでしょ」
「全部は残せないの」
「なんで」
「お店を続けるお金も、人も、もうないから」
「お母さんが嫌いだからでしょ」
日和の声は震えていた。
それは怒りというより、怒りの形をした恐怖だった。
「おじいちゃんのこと、早く片づけたいんでしょ。お店も、品物も、みんな邪魔なんでしょ」
千歳さんは、すぐには答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
けれど、説明されない子どもには、説明されないままの恐怖がある。
その隙間に、何かが入り込む。
俺には、それが見えた。
座敷の奥、襖の向こう。
裏庭へ続く廊下の先に、黒いひび割れが走っている。
細い。
けれど深い。
そのひび割れから、値札の紐みたいな黒い線が何本も伸び、店内の品物や、千歳さんの手や、陽太の背中へ絡みついていた。
「裏に何がある」
俺が小声で聞くと、日和がはっとこちらを見た。
「蔵……おじいちゃんの蔵です。鑑定に使ってた部屋があって」
「三上さん」
こよりが俺の視線を追う。
「見えますか」
「見えたくないくらいには」
蓮司が六角棒の袋を握り直した。
「中心は蔵か」
「たぶんな」
その時、店の表でガラス戸が開く音がした。
「雨宮さーん。黒田です。例の品、引き取りの件で」
男の声だった。
千歳さんの表情が、さらに固まる。
「今日はもう」
「いやあ、早い方がいいですよ。古いものはね、置いとくほど値が落ちる。お気持ちは分かりますけど、値がつくうちに処分しないと」
処分。
その単語を聞いた瞬間、蔵の方で何かが笑った。
声ではない。
紙が擦れる音だった。
ぱらり。
ぱらり。
帳面のページを、見えない指がめくる音。
日和の足元の影に揺れていた「未鑑定」の札が、ゆっくりと持ち上がった。
「日和、下がれ」
俺は言った。
珍しく、自分でも驚くくらい早く声が出た。
だが遅かった。
裏庭へ続く廊下の奥で、襖が内側から開いた。
誰も触れていない。
蔵へ続く木戸の向こうから、白い札が群れになって飛び出した。蝶みたいに見えた。だが、飛び方が違う。紙片はひらひら舞うのではなく、獲物を見つけた虫のように、まっすぐ日和へ向かった。
こよりが拳を握る。
蓮司が前に出る。
俺は界喰の包みに手をかけた。
その前に、黒い値札の紐が畳を走った。
千歳さんと陽太の足元が、ぱん、と弾かれる。二人の身体が座敷の外へ押し出され、廊下側へ転がった。見えない膜に弾かれたように、そこから先へ入ってこられない。
「お母さん!」
日和が叫ぶ。
白い札が、彼女の腕と足に貼りついた。
未鑑定。
未鑑定。
未鑑定。
同じ文字が、紙の表面で増えていく。
日和の瞳から光が抜けた。
崩れる身体を、蓮司が寸前で受け止める。
「気絶している。呼吸はある」
「好都合です」
こよりの声が、低くなる。
一般人に見せられないものが、これから始まる。
目撃者は弾かれ、日和は気を失った。
ならば、遠慮はいらない。
蔵の木戸が、ゆっくり開いた。
暗闇の中に、古い鑑定台が見える。
その上に、分厚い帳面が開いていた。
ページの中央に、濡れた墨で文字が浮かぶ。
雨宮日和。
未鑑定。
次の瞬間、帳面の奥から、長い腕が這い出した。
紙の束のような指。
値札で覆われた胴。
顔はなかった。代わりに、帳面のページを縦に裂いたような口がある。
それが、笑った。
「鑑定ヲ、始メマス」
声は、人の声ではなかった。
古い紙と乾いた骨が、同時に擦れるような音だった。
俺は界喰の黒布をほどいた。
「蓮司」
「分かっている」
「こより」
「結界を張ります。三上さんは、いつも通り最後だけ格好つけてください」
「最初から少しは格好つけさせろ」
「では、逃げないでください」
「要求が重い」
黒い刀身が、夕闇より濃い色で現れる。
幽禍は帳面の口をさらに裂き、日和へ腕を伸ばした。
「値ノ、低キモノヨリ、処分」
その言葉で、俺の中の逃げたい部分が、黙った。
完全に黙ったわけではない。
小さく「帰りたい」とは言っている。
だが、それより大きな声で、別のものが言った。
これは、嫌だ。
見なかったことには、できない。
俺は界喰を握り直した。
「鑑定士ごっこなら、相手を間違えたな」
自分でも少し驚くくらい、声が低かった。
「俺たちは、値段をつけに来たんじゃない」
こよりの札が、蔵の四隅へ飛ぶ。
蓮司の六角棒が、畳を鳴らす。
そして、雨宮古物店の奥で、結界が閉じた。
結界が閉じる瞬間、店の音が遠ざかった。
商店街のざわめきも、外で千歳さんが日和の名を呼ぶ声も、ガラス戸を叩く黒田という男の声も、薄い水膜の向こうに沈んだみたいにぼやける。
代わりに、蔵の中から紙の音が満ちた。
ぱら、ぱら、ぱら。
値札が増えていく音。
幽禍は鑑定台の上から這い出しながら、首のない身体をこちらへ向けた。顔の代わりに開いた帳面の裂け目が、縦に笑う。全身には無数の値札が貼られていた。千円、五百円、十円、処分、返品不可、瑕疵あり。金額だけではない。物に貼られるはずの言葉が、人の皮膚の代わりにその身体を覆っている。
「対象、三名。鑑定、開始」
長い腕が振られた。
白い札が、刃物のように飛ぶ。
「伏せて!」
こよりが叫んだ。
俺は反射的に畳へ転がった。頭上を値札が通過し、背後の柱に突き刺さる。紙のくせに、柱へ深々と刺さった。
「紙の強度じゃないだろ!」
「幽禍に紙質の常識を求めるな」
蓮司が六角棒で札を叩き落とした。乾いた音がする。紙片が割れ、畳に落ちると、じゅう、と黒く焦げた。
「三橋さん、日和さんを!」
「任せろ」
蓮司は気絶した日和を座敷の柱際へ運ぶ。その動きに合わせて、幽禍の腕が伸びた。札の紐が何本も床を這い、日和の足首へ向かう。
こよりが走った。
速い。
巫女装束の白と緋が、視界の端で線になる。こよりは畳を蹴り、壁を蹴り、梁に手をかけ、身体を反転させた。普通の人間の動きではない。因果、韋天。彼女の身体は、踏み出すという行為そのものを祈りに変えている。
豊かな胸元を押さえる晒が、跳躍のたびに白衣の下で軋む。だが、その重さは鈍さではない。むしろ、着地の一瞬に全身の質量を拳へ乗せるための錘みたいだった。白衣、緋袴、黒髪、札。神前に立つはずの色彩が、古物店の薄闇を一直線に裂いていく。
拳が、札の紐の束を打ち抜いた。
ばらばらと紙片が舞う。
「日和さんには触れさせません」
こよりが着地する。
だが次の瞬間、幽禍の裂け目が開いた。
「鑑定結果」
声が響く。
「三枝こより。管理不能」
こよりの胸元に白い札が現れた。
管理不能。
文字を見た瞬間、こよりの足が沈んだ。
畳がへこんだわけではない。身体が、自分自身の重さを急に思い出したみたいに、彼女の膝が落ちる。札が貼られた胸元から、見えない鉛を流し込まれているようだった。
「こより!」
「問題、ありません」
言いながら、こよりは立て直した。
問題ない声ではなかった。
幽禍の値札が、今度は刃になって彼女へ殺到する。
こよりは避けなかった。
踏み込んだ。
白い紙刃が袖を裂き、肩をかすめ、脇腹を切る。緋袴に黒い血ではなく、彼女自身の赤い血が散った。白衣の胸元にも細い裂け目が走り、晒の上に血が一筋落ちる。
それでも、こよりは止まらなかった。
韋天の速度で半歩踏み込む。
床板が割れた。
胸元の札がさらに重くなったのか、彼女の口から短く息が漏れる。けれどその瞳は冷たい。痛みではなく、敵の位置だけを見ている目だった。
「管理不能、ですか」
こよりは幽禍の懐へ入り、拳を深く構えた。
「でしたら、管理しようとしないことです」
彼女の拳が、幽禍の裂け目へ叩き込まれた。
拳がぶつかる音ではない。
肉に釘を打つみたいな音がした。
幽禍の口が、半分吹き飛ぶ。
こよりはそのまま膝蹴りを叩き込み、幽禍の胴を折った。血と紙片が飛ぶ。赤と白と黒が、古い蔵の空気に混ざった。
俺は界喰を構えて前へ出ようとする。
その前に、蓮司が俺の肩を掴んだ。
「待て」
「なんでだよ」
「核が見えていない。斬るなら最後にしろ」
「最後まで待ってたら、こよりが潰れる」
「だから、僕が前に出る」
蓮司は六角棒を回した。
いつもどおりの無表情だったが、その目だけは少し冷たかった。
「三上、君は見ろ。君にしか見えないものがある」
そう言って、蓮司は走った。
六角棒が畳を叩く。幽禍の腕が振るわれる。値札の束が槍のように伸びる。蓮司は真正面から受けた。
紙と木がぶつかったとは思えない重い音。
蓮司の身体が半歩下がる。
それでも、止まった。
「鑑定結果」
幽禍の声。
「三橋蓮司。家名以外、価値ナシ」
蓮司の肩に札が貼りついた。
家名以外価値なし。
嫌な札だった。
他人が勝手に貼るには、あまりにも卑怯な言葉だった。
蓮司の眉が少しだけ動く。
「……なるほど」
六角棒を握る手に力が入る。
「浅い鑑定だ」
次の瞬間、蓮司は踏み込んだ。
六角棒が幽禍の腕を打つ。札が弾ける。もう一撃。肩らしき部分が砕ける。幽禍の身体は紙でできているように見えるのに、打たれるたびに木箱を割るような音がした。
こよりが横から飛び込む。
拳、肘、膝。
韋天により身体能力が二十倍強化されたこよりが放つ連撃が、幽禍の胴を削る。負傷した脇腹から血が散り、白衣の裾が赤く染まる。それでも彼女は、舞っているように速かった。いや、舞などという綺麗なものではない。神楽の形をした暴力だった。
だが、崩れた札はすぐに戻った。帳面のページから新しい値札が生え、破れた箇所に貼りついていく。
「キリがないな」
俺は息を止める。
見ろ。
蓮司が言った。
俺にしか見えないもの。
幽禍の身体ではない。腕でも札でもない。攻撃の軌道でもない。
なら、どこだ。
値札はどこから来ている。
蔵の鑑定台。
開いた帳面。
そこから伸びる黒い紐。
いや、違う。
帳面そのものが核なら、界喰で斬れば終わる。だが帳面は祖父のものだ。日和が守りたいもののひとつだ。幽禍はそこに寄生しているだけ。
帳面のページに、何かが挟まっている。
白い札。
他の札より少し古い。端が焦げて、文字が滲んでいる。
未鑑定。
それだけが、墨ではなく、ひび割れの黒で書かれていた。
「見えた」
俺は呟いた。
幽禍の裂け目が、こちらを向いた。
「鑑定結果」
ぞわり、と背中が冷える。
「三上晃」
名前を呼ばれただけで、足が重くなった。
幽禍の声が、頭の内側に入ってくる。
「見エルダケ」




