暗室での戦い(前半)
三枝こよりは紙片を丁寧に畳み、懐へしまった。
「界喰なしで斬り合うつもりはありません。三上さんは界傷の位置を見て、三橋さんは記録を取ってください。私は、暗室と掲示板に結界を張れるか確認します」
「俺の担当だけ危険と面倒が合体してないか」
「適材適所です」
「その言葉、最近かなり嫌いになってきた」
九衛門さんが界喰を奥へ運びながら、こちらを振り返った。
「三上殿。嫌ならば、見なかったことにして帰るか」
責める響きはなかった。ただ、本当にそうしてもよいと言っている声だった。だから余計に困る。見なかったことにできるなら、とっくにしている。紙片も、黒い地図も、写真部の暗室も、好きな人が二人いるという平和そうで面倒そうな依頼文も、全部まとめて神社に置いて帰りたい。
けれど、賽銭箱の奥から浮かんだ紙片は、もう俺の目に入ってしまった。見えた界傷を放っておくと、後で必ずもっと嫌な形で戻ってくる。
「……明日、見るだけですからね。見るだけ。触らない。斬らない。戦わない。青春の悩みには深入りしない」
「最後は難しいかもしれません」
「何でだよ」
「依頼文が恋愛相談なので」
「だから嫌なんだよ」
蓮司が眼鏡を押し上げる。
「三上。恋愛感情も人間関係の一種だ。怪異化するなら、構造分析は必要になる」
「お前が恋愛を構造分析と言った時点で、明日の相関図は失敗してる」
「感情を馬鹿にしているわけではない。むしろ複雑だからこそ整理が必要だ」
「真顔で言うな。こっちが恥ずかしくなる」
翌朝、学校へ着くと、昇降口はいつも通りうるさかった。靴箱を開ける音、朝練帰りの運動部の声、誰かの笑い声。日常は、こちらの都合など知らない顔で流れている。
だからこそ、掲示板の前だけが少し浮いて見えた。
文化祭の写真が何枚も貼られている。その端に、写真部の活動紹介として一枚の写真があった。屋上へ続く階段前の踊り場で、三人の生徒が並んで笑っている写真だ。
いや、笑っているのは二人だけだった。
中央の女子生徒は、少し困ったように笑っている。右側の男子生徒は、背が高く、いかにも先輩という感じの爽やかな顔をしていた。だが、左側の生徒だけが白く抜けていた。顔だけではない。輪郭も、制服の線も、指先も、写真の上から砂消しで削られたみたいに曖昧になっている。
「誰だ、これ」
「キャプションでは、二年一組、若槻澪さん。三年二組、朝倉遥斗さん」
こよりが小さく読む。
「二人しか書いてないのか」
「はい」
「でも、三人いる」
「います」
蓮司が遅れてやって来た。手には本当に模造紙を持っている。
「持ってくるなと言っただろ」
「必要になる可能性がある」
「朝の昇降口に模造紙を持った男子高校生、だいぶ目立つぞ」
「もうすぐ文化祭だから目立たないさ」
「便利だな文化祭」
蓮司は写真を見ると、すぐに表情を変えた。
「一人、消えているな。元から二人で撮った写真ではない。若槻さんの肩の寄せ方が左右に均等だ。片方が消えた結果、写真全体の重心がおかしくなっている」
「写真部か、お前は」
「観察だ」
そのとき、白い部分がほんの少し揺れた。紙ではない。水面みたいに、白が内側から波打った。俺は反射的に一歩下がる。
「今、動いた」
こよりが写真へ視線を向ける。もう何も起きていなかった。ただ、白く抜けた生徒の足元に、黒い点がひとつ増えていた。インクの染みみたいな点。界傷の縁と同じ黒。
「長く見ないほうがいいです。何かが、こちらを見返しています」
「写真なのに?」
「写真だから、かもしれません」
朝のチャイムが鳴った。いつもなら、ただ面倒な音だ。今日は少しだけ救われた気がした。
蓮司は若槻澪と朝倉遥斗の周辺を調べることになり、こよりと俺は昼休みに暗室を確認することになった。恋愛相関図を本気で作る蓮司の顔を見て、俺は思った。幽禍より怖いものはいくつかある。そのうちの一つが、使命感を得た優等生だ。
昼休みの暗室は、想像していたより普通だった。写真部の部室の奥にある小さな部屋。入口には「暗室使用中は開閉注意」と書かれた札が掛かっている。古い薬品の匂いが廊下まで漏れていて、俺は入る前から帰りたくなった。
「入るんですか」
「入ります」
「確認しただけだ」
こよりが引き戸に手をかける。その隙間から赤い光が漏れた。昼間の学校には似合わない色だった。夕焼けとも非常灯とも違う。もっと湿っていて、目の奥に貼りつくような赤。
暗室の中は狭かった。棚には薬品瓶、壁には乾燥中の写真、中央に作業台。誰もいない。それなのに、作業台の上に一枚だけ濡れた写真が置かれていた。
「待て。それ、触らないほうがいい」
「何が見えますか」
「写真の端」
写真の端から、黒い線が伸びていた。昨日の紙片に浮かんだ地図と同じ線だ。暗室から掲示板へ。掲示板から屋上前の踊り場へ。途切れ途切れの黒い線が、写真の中で脈を打っている。
そして中央には、三人の名前が書かれていた。
若槻澪。
朝倉遥斗。
もう一つの名前だけが、白く滲んで読めない。
「名前が消えてる」
俺が言うと、背後で戸が勝手に閉まった。こよりの声が鋭くなる。
「三上さん、下がって」
写真の白い滲みが盛り上がった。紙の上から、関節の多い白い指が出てくる。指は、読めない名前を撫でた。
――選んで。
かすれた声が、暗室の赤い光に混ざった。
こよりは戦闘態勢。韋天の能力を発現し、身体能力を強化。
「おい、今闘るのか?」
「せっかく出てきてくれたんです!」
「話が違うだろ!」
白い指が増えた。十本、二十本。写真の中からこちらへ出てこようとしている。さらに頭の無い胴体が立ち上がった。まるで首無し死体のようだ。
――選んで。
――どちらかを、ほんとうにして。
声が近づいた。暗室の写真が一斉に裏返り、若槻澪の姿を映す。廊下で笑う澪。部室でプリントを覗き込む澪。朝倉遥斗の隣で、困ったように笑う澪。その隣には、人ひとり分の白い空白。
こよりが白い人型に突進。うなりをあげて拳を放つと胴体に命中。何かが弾ける音とともに胴体がバラバラになると血の代わりに写真やフィルムが散らばり視界が奪われる。
さらに人型の胴体がぱらぱら、と音を立てて再生。
「再生が早い!」
「根を切っていません。三上さん、腕ではなく写真を見てください!」
「見てる!」
言い返した瞬間、俺の頬を白いフィルムが掠めた。熱い。遅れて痛みが来る。写真の縁が剃刀みたいに薄くなり、暗室は一瞬で処刑場に変わった。
白い胴体から伸びたフィルムはこよりを囲み、一瞬で巻き付く。何重にも巻き付いたフィルムは筋力が二十倍に強化されたこよりでも千切れない。こよりの大きな胸がフィルムに縛られて強調される。
「こより!」
「くっ! 千切れません!」
『界喰』がない俺には戦闘力は無いに等しい。写真の刃が動けないこよりに殺到。俺は全力で盾になる。
「三上さん!」
「うわっ!」
背中を襲う激しい痛み。背中が熱くなり、何かが滴る感覚。
それを見てこよりの目が本気になる。
こよりの制服の下で筋肉がみきみきと音を立てる。こよりは韋天の能力をさらに発動。
「うぉぉぉ!」
こよりは気合の声とともに身体強化を三十倍まで引き上げるとフィルムは千切れ飛ぶ。
ポケットから札を出すと素早く写真に貼り付ける。
白い人形は震えると写真の奥に消えていくと赤い光が溢れだす。
――澪をほんとうにするの。
――それとも、わたしをほんとうにするの。
「答えるな!」
こよりが札を三枚重ねた。結界が赤い光を押し返す。写真は作業台へ落ちる。暗室はようやくただの暗室に戻った。
ただ、写真の中の三人目は、まだ白く抜けたままだった。
完全には封じられていない。押し戻しただけだ。
「三橋さんを呼びます」
こよりが震える手で端末を取ろうとする。
「お前、その手で操作できるのか」
「できます」
「できてない。画面に血がついてる」
「……では、お願いします」
「最初からそう言え」
俺が蓮司に連絡を入れると、数分後、彼は暗室に飛び込んできた。模造紙を抱えたまま、息を切らし、俺とこよりを見るなり顔色を変える。
「三上! 三枝さん!」
「大丈夫だ。写真部の青春が爆発しただけだ」
「黙れ。二人とも傷を見せろ」
蓮司はまず、こよりの前に膝をついた。それは正しい判断だった。悔しいが、俺よりこよりのほうがずっとひどい。
「三枝さん、意識は」
「あります」
「頭も打っているな。動くな」
蓮司の手が淡く光った。封使・無畏。こよりの額の傷が塞がり、腕の切り傷から血が止まっていく。フィルムに締め上げられた痣の色が少しずつ薄くなった。
「……ありがとうございます」
「礼は後でいい。次、三上」
「俺は後で」
「後じゃない」
同じ台詞を返され、俺は黙った。蓮司の手が腹と背中に触れる。淡い光が滲み、切られた皮膚が塞がり、呼吸が少し楽になった。いつ見ても便利すぎる力だ。人間一人に搭載していい機能ではない。
だが、制服は戻らない。当然だ。三橋蓮司の力は、布までは治してくれなかった。
「これ、授業出たら駄目なやつだよな」
「駄目だな」
蓮司が即答した。
「二人とも早退したほうがいい。薬品をこぼして制服を汚したことにする。学校側には僕が話を通す」
「血の匂いがする薬品って何だよ」
「そこは何とかする」
優等生ネットワーク、本当に怖い。
蓮司は作業台の写真へ視線を移した。白く抜けた三人目。その足元の黒い点は、さっきより濃くなっている。
「今夜まで、もつと思うか」
「分かりません」
こよりは正直に答えた。
「でも、昼間にこれ以上は無理です。界喰もありませんし、学校の中で本格的に戦えば、関係ない人を巻き込みます」
「じゃあ、今夜だな」
俺が言うと、蓮司とこよりが同時にこちらを見た。
二十三時に集合。今度は界喰を持って。蓮司は学校に残り、若槻澪と写真部の周辺を調べ直すことになった。俺とこよりは、ジャージに着替えて早退した。
家に帰り、母親にボロボロの制服を渡す。
「……あんた、これ、どうしたの」
「写真部の暗室で薬品をこぼした」
「薬品って・・・これ切れてるじゃない。あなた、いじめられてるの?」
いじめ。幽禍にいじめられている、といえばそうかもしれない。
「いや、ほら、怪我はしてないでしょ」
俺は腕を捲って見せる。
怪我は蓮司が治してくれたから綺麗に治っている。
母親は腕以外にも身体も見たが、怪我は一切ない。
「・・・あなた、ここ一年で制服を何枚ダメにした?高いんだからね?」
「マジでごめん」
自室へ逃げ込むと、蓮司から連絡が入っていた。三枝さんは帰宅済み。大きな異常はなし。ただし今夜の戦闘は短期決着にすること。続けて、こよりからも短く返事が来る。問題ありません。二十三時、予定通り向かいます。
問題ありません、じゃない。
傷は無畏で塞がっても、血を失った感覚までは消えない。こよりだって平気なはずがない。だが俺も止める資格はなかった。俺だって行くつもりなのだから。
今夜行くためには、界喰がいる。
俺は仮眠を取り、二十二時過ぎに目を覚ました。夢に、白い写真が出てきた。顔のない誰かが、そこに立っていた。
――選ばれなかったんじゃない。
――選ばせてもらえなかった。
「……最悪だな」
俺、三上晃が三枝神社へ向かうと、社務所にはまだ灯りがついていた。戸の前で躊躇していると、中から九衛門さんの低い声がした。
「入れ。来ると思っとった」
座卓の上には、黒い布に包まれた細長い物が置かれていた。界喰だった。
「持っていけ」
「いいんですか」
「よくはない。界喰は本来、そう軽々しく貸すものではない。まして、お前はまだ扱いに慣れておらん。だが、今夜は必要じゃろう」
九衛門さんの目が細くなる。
「こよりの話から察するに、その幽禍は写真に宿り、記憶に食い込み、誰かがいたという事実を薄めておる。放っておけば、人ひとりの存在が、初めからなかったことにされる」
「界喰なら、喰えますか」
「喰えるかもしれん。だが、喰う相手を間違えれば、消えかけている者ごと喰う。焦るな。三上殿が喰うべきは、選ばれなかった者ではない。選ばなかったことにした理屈のほうじゃ」
「理屈を、喰う」
「界喰とは、そういうものじゃ。形あるものだけを噛む道具ではない」
黒い布包みは、昼間より重く感じた。実際の重さは変わらない。変わったのは俺のほうだ。
「返せよ。それと、死ぬな。三上殿が死ぬと、こよりが無茶をする」
「俺が死ななくても無茶してますけど」
「なら、なおさら死ぬな」
反論できなかった。
裏門に着くと、蓮司はすでに待っていた。黒っぽい上着、手には折り畳まれたクリアファイル。優等生の夜間外出とは思えない姿だが、本人はまったく動じていない。
「遅い」
「五分前だろ」
「僕は十分前に来た」
「蓮司よ。お前が高校で最初にできた彼女が五分遅刻したとき、同じように指摘をしてフラれたのを覚えているか?」
「事実を言ったまでだ」
蓮司はイケメンで成績もよく真面目だからモテる。だがこんな中身なのだから残念でならない。
校門脇の影から、こよりが姿を現した。黒いジャージに、動きやすそうな靴。額には傷跡もないが、顔色は良くない。それでも目だけは昼間より鋭かった。
「三上さん、三橋さん。お待たせしました」
「お前、本当に来たのか」
「当然です」
「当然じゃないんだよなあ」
蓮司がため息をつく。
「二人とも、体調確認からだ。眩暈、吐き気、痛みの残り」
「ない。たぶん」
「問題ありません」
「どちらも駄目な返答だ」
俺とこよりが同時に怒られている。不本意だが、たぶん正しい。
蓮司はクリアファイルから相関図を出した。若槻澪を中心に、写真部の先輩、同級生、過去の部員、文化祭の展示写真、問題の集合写真まで、矢印とメモがびっしり書き込まれている。
「本当に作ったのか」
「当然だ」
「怖いな、使命感を得た優等生」
「褒め言葉として受け取る」
蓮司は紙の一箇所を指で叩いた。
「若槻さんの相談は、写真部の先輩に関するものだった。彼女は、朝倉先輩が自分ともう一人の女子のどちらかを選べずにいる、と言っていた。ただ、聞き取りをすると妙な点がある。もう一人の女子の名前を、誰もはっきり言えない」
「写真から消えた三人目」
「そう考えるべきだ。写真は存在を固定する媒体であり、同時に存在を消す媒体になっている。幽禍は、三人だった関係を二人の物語へ縫い直している」
こよりが小さく息を吐く。
「完全に定着すれば、その人がいた事実ごと消えるかもしれません。ですが、若槻さんを連れてくるわけにはいきません。彼女が選ばされれば、消失が決定的になる可能性があります」
「じゃあ、誰が選ぶんだよ」
二人とも黙った。
嫌な沈黙だった。
俺は懐の界喰に触れる。
「分かった。俺が選ぶ」
「三上。意味を理解して言っているのか」
「してない」
「なら言うな」
「理解してから言ったら、たぶん言えなくなるだろ」
若槻澪にそれをやらせてはいけない。写真の中で消えかけている誰かにも、それを押しつけてはいけない。なら、俺がやるしかない。
蓮司は最後まで渋い顔をしていたが、門の鍵を取り出した。
「どうしてお前が鍵を持ってるんだ」
「借りた」
「誰から」
「聞かないほうがいい」
「優等生ネットワーク、犯罪の匂いがしてきたぞ」
「緊急避難だ」
夜の学校へ足を踏み入れる。校舎の窓は黒く、部室棟へ続く道は街灯の光から少し外れていた。写真部の暗室の前に立つと、俺の背中が勝手に昼の痛みを思い出した。こよりの指先も、わずかに震えている。
「怖いか?」
「怖いですよ。ですが、怖いからやめる理由にはなりません」
「そういうところ、本当にすごいな」
「三上さんも同じです」
「俺は怖いからやめたい気持ちでいっぱいだけどな」
「でも、やめないでしょう」
それはそうだった。
蓮司が扉に手をかける。
「確認する。三上は界喰を使う。ただし、核が見えるまで無理に喰らわない。三枝さんは結界維持と足止め。三十倍は使わない。昼の反動が残っている」
「必要なら使います」
「必要にしない」
扉の向こうから、濡れた紙が床に貼りつくような音がした。次に、フィルムが巻き戻るような低い音。
――待っていた。
暗室の中から、声がした。
――選んで。
――今度こそ、どちらかをほんとうにして。
「悪いな。俺、そういう二択、嫌いなんだよ」
蓮司が扉を開けた。
赤い光が、夜の廊下へ溢れ出した。
中は、昼間より広かった。壁があるはずの場所に闇が続き、赤い安全灯の下、吊るされた写真が何十枚、何百枚と揺れている。床には印画紙が散乱し、壁際には若槻澪が書き出した記憶の紙束があった。名前、部活、帰り道、笑い方、好きな飲み物。誰かを忘れないために書かれた文字が、端から白く抜け始めている。
「もう崩れてる。三枝さん、入口。三上は中央を見ろ。白い空白が増えたら即座に言え」
「分かりました」
こよりが前へ出た。写真の隙間から白い指が滑り出す。数える前に増え、床に触れた瞬間、暗室中の写真が裏返った。写っていたのは、若槻澪だった。その隣に、人ひとり分の白い空白がある。
――選んで。
――澪をほんとうにするの。
――それとも、わたしをほんとうにするの。
「答えるな!」
蓮司の声が飛んだ。同時に、こよりが動く。札を二枚、指の間に挟み、入口へ殺到する腕を叩き落とした。腕は床に染み込み、別の写真からまた生える。
「三上、見るのは腕じゃない。写真だ!」
俺は床に這いつくばりながら写真を見る。澪の肩が欠け、朝倉の指先も消えかかっている。白い空白は、消えた誰かだけでなく周囲まで食い始めていた。
こよりが跳ぶ。拳で紐を断ち、降り注ぐ写真の刃を蹴り落とす。だが全部は防げない。腕、肩、脇腹が赤く裂ける。それでも彼女は止まらない。
俺は界喰を振るい、こよりへ伸びた白い指を先端から斬り裂く。その直後、俺の腹へ白い腕が束になって突き刺さった。痛い。痛すぎて声が出ない。界喰を白い腕に押しつけ、白い腕を噛ませる。灰色の粉が散り、俺は膝をついた。
「走ります」
こよりが俺の腕を掴む。
「どこへ!」
「中央へ」
正気か、と言う余裕はなかった。こよりが俺を引いて走る。左右から写真が飛ぶ。彼女は拳で受け、受けきれない刃は自分の身体で受けた。昼間みたいに三十倍へ跳ね上げるのではなく、二十倍台でぎりぎり制御している。速いのに、無駄な動きがない。
「蓮司! 中心はどこだ!」
「三人で写ってる写真だ。ただし白い空白じゃない。周りの線を見ろ。写真同士を縫ってるものがある。そいつが本体だ!」
俺は写真を見る。澪、朝倉、白い空白。助けたい、名前を知りたい、選ばなきゃいけない。そんな焦りが喉に手を突っ込んでくる。
違う。
助けるために、見る場所を間違えるな。
写真の端。余白。そこに灰色の縫い目があった。三人で写っていたはずの写真を、二人の物語へ縫い直している糸。
「見えた!」
白い少女が写真の奥から飛び出し、俺を壁へ叩きつけた。壁だと思った場所は写真の束だった。背中が沈み、写真の中の白い手が腕や首を掴む。界喰を握った右手が開かされる。
こよりが突っ込んできた。
「三上さんから、離れなさい!」
白い腕と写真の刃が彼女を裂く。血が散る。それでも蹴りが白い少女の胴を撃ち抜いた。幽禍の動きが鈍った瞬間、蓮司が破れた相関図をばら撒く。
『三人でいた』
『相談した』
『遥斗先輩は苦しそうだった』
不完全な文字が、赤い光の中で浮かぶ。記憶の重さで、幽禍の動きが止まった。
「今!」
俺は右肩の関節が外れる音を聞いた。嫌な音だった。だが、腕が伸びた。界喰が灰色の縫い目に届く。
黒い口が、噛みついた。
暗室が絶叫した。写真が裂け、紐が千切れる。灰色の縫い目が一本、千切れた。その瞬間、写真の一枚に色が戻った。白く抜けていた場所に、黒髪の端が映る。肩までの長さ。澪の手を引く指先。
名前はまだ見えない。でも、誰かがいた。いたのだ。
白い少女の身体が内側から裂け、中から写真の余白を縫い合わせたような灰色の塊が現れた。無数の指、無数の顔のない横顔、何本ものフィルム。切り抜かれた笑顔と泣き顔と見ないふりをした視線。それらが絡まり合い、天井近くまで膨れ上がる。
「核が出た。三上、今度は白い像じゃない。灰色の塊だけを喰え」
蓮司が叫ぶ。
分かっている。消えかけていた誰かではない。二択を強制し、三人だった時間を二人の物語へ縫い直し、痛みを盾にしていた幽禍の核。
灰色の塊が、若槻澪の声で囁いた。
――どうして、選んでくれないの。
「選ばせたきゃ、まず俺たちを倒してからにしろ」
俺は走った。こよりも同時に走る。蓮司の紙片が赤い光の中で舞い、灰色の核へ一直線に道を作る。
写真の刃が降る。こよりが先に跳び、拳を放つ。焼け残った刃が彼女の背中を裂き、俺の脇腹も切った。痛いが、止まる理由にはならない。




