天文台
翌朝、俺たちは朝食を取りながら、天文台の調査計画を確認した。
*
朝食の席には、四人分の膳が並んでいた。朔の前には膳がない。
「朔。食べてください」
こよりが白飯を差し出す。
「必要ない」
「食べないなら、今日の調査には参加させません」
朔はしばらくこよりを見た後、黙って茶碗を受け取った。
九衛門さんは、天文台の地下に直径十二メートルほどの円形空間があると説明した。階段は現在の図面から削除されている。蓮司によれば、図面の改訂時期は和昌が調査に入った頃と近かった。
「父が調べた記録は残っていません」
「正式な記録はな。わしが封じた。あの場所には、知識そのものに食いつく幽禍がおった」
九衛門さんが古い木箱から真鍮の円盤を取り出した。星図に見えるが、俺の眼には、星々から三枝神社へ伸びる黒い線が見えた。
「天文台は空ではなく、界傷と地下の反応を観測していた」
朔が円盤を覗き込む。
「別の勢力は、地下のものが反応する時刻と場所を測っている。器を置く場所を決めるためだ」
「器とは、人間か?」
「人間でも、封使でも、場所でも、記録でもいい。守る者がいる存在ほど、幽禍を定着させる芯になる」
昨夜の声が蘇る。——あなたたちの大切なものを器にする。
「私を危険物のように扱わないでください」
こよりが言った。
「危険物だと言っている」
「では、なおさら本人に判断させてください。天文台へ行きます。誰も一人で動かないことを条件に」
蓮司が手帳を閉じた。
「無畏は昨日の治癒で消耗している。今日の戦闘では、使用回数を制限する」
「お前も朔も、勝手に死ぬなよ」
「死ぬ予定はない」
「予定がある奴は、普通そう言わない」
こよりの口元が、わずかに緩んだ。
*
日が落ちるまで、俺たちはそれぞれ準備に追われた。
こよりは札を選び、朔は玄武の損傷を確かめ、蓮司は図面を整理した。俺がこよりに無理をするなと言うと、彼女は札から顔を上げた。
「無理はしています。ですが、あなたも同じでしょう」
「俺は主人公だから」
「根拠になっていません」
それでも、こよりは少しだけ笑った。父親の死を知ったばかりなのに、俺たちの前では立っている。だが、その背負い方を一人にさせてはいけない。
「誰も一人で動かない。約束だ」
俺たちは、それぞれ頷いた。
*
旧市立天文台へ向かう山道には、街灯がほとんどなかった。
俺たちは阿伽の風で移動速度を補いながら、木々の間を進んだ。先頭は朔。次にこより、蓮司、最後尾が俺だ。
「どうして俺が最後なんだよ」
「お前は後ろを見ていない」
朔が振り返らずに言った。反論しようとした時、こよりが手を上げた。
「止まってください」
全員が足を止めた。
木々の向こうに、天文台の白いドームが見えていた。
廃墟というほど崩れてはいない。だが、外壁は黒ずみ、窓は何枚か割れている。ドームの頂点には、かつて避雷針だったらしい鉄柱が突き出ていた。
俺の眼には、建物の周囲を走る界傷が見えた。
黒い線が、地面から壁へ、壁からドームへ伸びている。
その線は五本あった。
五芒星の頂点から集まった術式が、天文台の中央で束ねられている。
「……ここが中心じゃない」
俺が言うと、朔がこちらを見る。
「何がだ」
「五本の線が、ドームの下で一つに集まってる。でも、そこで終わってない。地下へ向かってる」
「地下の円形空間か」
蓮司が手帳を開いた。
「入口はどこだ?」
「主観測棟の中です」
こよりが建物を指した。
「古い記録では、観測機器の搬入口が地下資料庫へ通じていたはずです」
「詳しいな」
「父の調査記録を読んだことがあります」
「さっき、記録は残ってないって」
「正式な記録はありません。父が書いた個人的なメモだけです」
こよりは一枚の折り畳まれた紙を取り出した。
紙の端には、和昌の文字らしい走り書きがある。俺には読めない。だが、こよりはそれを見た瞬間、わずかに息を詰めた。
「何て書いてある?」
「……『星は、下を見ている』」
朔の顔色が変わった。
「その下に何か続いているか」
「いいえ。そこだけです」
「母さんが言っていた言葉と同じだ」
「吹雪さんが?」
「昔、あの夜の前に言っていた。天文台で観測しているのは空ではない。地面の下から、星を見上げている何かだと」
木々の間を、冷たい風が抜けた。
風の音に混じって、金属を擦るような音が聞こえる。
ドームの方からだ。
こよりが札を構えた。
「来ます」
次の瞬間、天文台の窓が一斉に内側から割れた。
黒いものが、窓枠を突き破って飛び出してくる。
それは人の形をしていた。だが、頭部がない。首から上の代わりに、天体望遠鏡の筒のような白い円柱が伸びている。腕は四本あり、それぞれの先端に、星形の刃がついていた。
その背後から、同じ形のものが二体、さらに現れる。
「幽禍です」
こよりの声が響いた。
「三上さん、右。蓮司さん、中央。朔さんは左をお願いします」
「了解」
「命令するな」
「では、左を担当してください」
「……了解」
朔が玄武を展開した。
青黒い甲羅の盾が、木々の間いっぱいに広がる。星形の刃が盾に叩きつけられ、耳障りな音を立てた。
こよりはすでに走っていた。
韋天の力で地面を蹴り、白衣の袖を翻しながら、一体の懐へ潜り込む。拳が幽禍の胴体にめり込み、白い外殻が砕けた。
だが、砕けた破片が空中で星形に並び替わり、こよりの背中へ飛ぶ。
「こより、後ろ!」
俺は阿伽の風で飛び出した。
界喰を抜く。
見えた。
幽禍の身体ではない。
頭部の筒から伸びた黒い線。その先が、天文台のドームの奥へ繋がっている。こいつらは建物から生えた手足にすぎない。
俺はその線へ刀を振った。
刃が触れた瞬間、黒い線が悲鳴のように震えた。
界喰が、繋がりを喰う。
幽禍の一体が、動きを止めた。
「今です!」
こよりの札が、その胸へ貼りつく。
白い光が弾け、幽禍の身体が内側から崩れた。
「やった!」
叫んだ直後、別の刃が俺の肩を掠めた。
「やってない!」
蓮司の六角棒が横から飛んできて、幽禍の腕を叩き折った。
「気を抜くな。敵は三体ではない」
蓮司の言葉に、俺は周囲を見た。
天文台の屋根。壊れた窓。地面の亀裂。
黒い線が、全部で十二本ある。
窓の奥から、さらに白い円柱がいくつも伸びていた。
「おい、蓮司。三体じゃないって、何体だよ!」
「確認できる範囲では、十六体」
「増えてるじゃねえか!」
「敵が出てきているからな」
「見ればわかる!」
こよりが一体を蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「数を数えている暇があるなら、術式の起点を探してください!」
「それをやってる!」
「なら、見つけてください!」
無茶な注文だ。
だが、俺の眼には、少しずつ別のものが見え始めていた。
黒い線の一本一本の奥に、薄い銀色の文字が浮かんでいる。文字というより、意味の断片だ。
観測。
固定。
転写。
そして、器。
四つ目の文字だけが、すべての線の中心に集まっている。
「……器が、起点じゃない」
俺は叫んだ。
「こいつらは幽禍を作ってるんじゃない! 何かを測って、その結果を地下へ送ってる!」
「送っている先は?」
朔が盾越しに問う。
「ドームの中心。望遠鏡の下だ!」
「なら、そこを壊す」
「簡単に言うなよ!」
「簡単ではない。だから、お前が道を作れ」
朔が玄武を前へ押し出した。
盾が軋み、幽禍の群れをまとめて押し返す。こよりがその隙間を駆け抜け、蓮司が左右から迫る刃を六角棒で弾き落とす。
四人の動きが、初めて同時に噛み合った。
俺は風に乗って屋根へ飛び、ドームの頂点へ着地する。
白い外壁に、五芒星の術式が刻まれていた。
その中心には、目のような黒い円。
昨夜、神社に現れた札と同じ印だ。
「見つけた」
界喰を構える。
だが、黒い円の中心に、人の顔が浮かんだ。
知らない女だった。
いや、顔そのものではない。誰かの記憶を切り取ったような輪郭。長い髪。疲れた目。白い手が、胸元で何かを握っている。
こよりの顔が、脳裏をよぎった。
「……和昌さん」
朔の声が下から聞こえた。
その顔が、こよりの父親なのかどうか、俺にはわからない。だが、朔がそう呼んだ瞬間、術式が大きく脈打った。
顔が笑う。
『器は、記憶から作る』
女の声が、天文台全体に響いた。
『大切にされているものほど、よく馴染む』
俺は界喰を振り下ろした。
刃が黒い円の縁に食い込み、術式が弾ける。
空間が大きく歪んだ。
見えない力が、俺の手から界喰を引き抜こうとする。
名前を喰われる。
帰り道を喰われる。
その感覚が、柄を通して腕に這い上がってきた。
「阿伽!」
『御意』
風が背中を押した。
同時に、下から玄武の盾が伸びてきて、俺と術式の間へ割り込む。
「離れろ!」
「まだだ!」
俺は界喰をさらに押し込んだ。
黒い円の奥に、一本だけ違う線が見える。
五芒星から地下へ向かう線ではない。
天文台から、どこか別の場所へ伸びる細い糸。
その先にあるのは、三枝神社ではなかった。
街の中心。大きな病院の屋上。
そして、その屋上には、見覚えのある霊力の輪郭があった。
「……誰かいる」
俺が呟いた直後、術式が崩れた。
白いドームが内側から膨らみ、爆発する。
俺は空劫を呼び出し、輪郭を薄れさせた。飛び散った金属片が身体をすり抜け、屋根の向こうへ落ちていく。
地上では、こよりが最後の幽禍を吸印札へ封じていた。
朔は片膝をついている。玄武の盾には大きな亀裂が走っていた。
蓮司は六角棒を杖のように使い、肩で息をしている。
「全員、生きてるか?」
俺が屋根から声をかけると、こよりが顔を上げた。
「三上さんが一番危険な場所にいること以外は」
「俺も生きてる」
「それは結果です。行動の評価ではありません」
俺は屋根から飛び降りた。
着地した瞬間、膝が笑った。格好よく着地したつもりだったが、実際には転びかけてこよりに襟首を掴まれた。
「……無茶をするなと言ったはずです」
「俺は必要なことをした」
「その判断を、一人で行ったことが問題です」
「朔が盾を出しただろ」
「朔さんは、あなたを助けるために玄武を損耗させています」
見ると、玄武の盾の亀裂が、ゆっくりと広がっていた。
朔は立ち上がろうとしたが、片足が崩れた。
「朔!」
こよりが支える。
「触るな」
「立てますか」
「立てる」
「質問に答えてください」
「……少し、難しい」
「では、支えます」
朔は反論しなかった。
蓮司が俺の肩を見た。
「出血している」
「掠っただけだ」
「治す」
「お前は霊力を温存するんじゃなかったのか?」
「傷が浅いなら、治癒に必要な量も少ない」
「本当か?」
「本当だ」
「なんか今日のお前、妙に頼もしいな。明日あたり死ぬんじゃねえか?」
蓮司は無表情で俺を見た。
「縁起でもないことを言うな」
「いや、言い出したのはお前だろ。お前が無茶をするから——」
「俺は無茶をしていない」
「朔と同じこと言ってるぞ」
蓮司の無畏が肩の傷を塞いだ。
指先から伝わる熱が消えた後、蓮司の顔色が少し悪くなった。
「蓮司?」
「問題ない。帰るぞ」
その指がわずかに震えていたが、今は追及できなかった。
*
神社へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
俺たちは社務所の広間に集まり、天文台で見たものを九衛門さんに報告した。
こよりは回収した術式の破片を畳の上に並べ、蓮司は図面を書き起こし、朔は玄武の損傷を確認している。
「病院の屋上に、別の反応があった」
俺が言うと、九衛門さんの眉が動いた。
「病院とな」
「誰かがいた。霊力の輪郭だけだけど、俺は見たことがある気がする」
「誰じゃ?」
「わからない。ただ、敵は天文台で測った結果を、病院へ送っていた」
蓮司が図面を広げた。
「天文台と病院を結ぶ直線上に、古い送電線がある。現在は使われていないが、地下の共同溝を通っている」
「街の地下に、五芒星とは別の経路があるということか」
こよりが尋ねた。
「そうじゃ。五芒星が表の陣なら、共同溝は裏の導線じゃろう」
朔が術式の破片を見た。
「天文台は、器を作る場所ではなかった」
「測る場所だった」
俺が続ける。
「そして、測った結果を病院に送ってた。あそこには、何かを置くつもりなんだ」
「何か、ではない」
朔が言った。
「誰かだ」
広間が静まり返った。
「敵は、すでに器を選んでいる」
「病院に入院している人間か?」
こよりの声が硬くなった。
「あるいは、病院そのものかもしれない」
九衛門さんが目を閉じる。
「大切なものを器にする、か。奴らは人間の情そのものを利用するつもりじゃ」
「なら、明日にでも病院を調べます」
こよりが言った。
「待て」
朔が遮った。
「病院には人が多い。敵がそこを選んだなら、幽禍を隠すには最適だ。正面から入れば、こちらの動きも読まれる」
「では、どうしますか」
「俺が先に行く」
「却下です」
「なぜだ」
「単独行動は禁止したはずです」
「俺は偵察を——」
「却下です」
こよりは同じ言葉を、今度は少し強く言った。
朔は黙った。
俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いや。昨日まで敵だった奴が、今日はこよりに単独行動を禁止されてるのが、なんか面白くて」
「笑うところではありません」
「わかってる。でも、少しだけ安心した」
こよりが俺を見る。
「何がですか」
「朔が、もう一人で行く奴として扱われてないから」
朔の目が細くなった。
「俺は、まだ仮加入だ」
「仮でも何でも、飯を食って、怪我をして、作戦会議に出てる。もう十分こっち側だろ」
「勝手に決めるな」
「こより、どうなんだ?」
「……仮加入です」
「そこは変わらないのかよ」
「ですが、仮加入者を一人で死なせるつもりはありません」
朔は何も言わなかった。
代わりに、玄武の亀裂へ手を置いた。
「……わかった。次からは、勝手に行かない」
「次から、ということは、今までは勝手に行っていたと認めるんだな」
蓮司が手帳に書き込んだ。
「記録した」
「破れ」
「破らない」
「お前たちは、本当に緊張感がないな」
九衛門さんが深いため息をついた。
「緊張感がないのではない。緊張しておるからこそ、くだらぬことを言えるのじゃ」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
たぶん、全員が理解していた。
病院に誰かがいる。
敵は、その誰かを器にしようとしている。
そして、俺たちはまだ、その人物が誰なのかを知らない。
こよりが、畳の上の術式片を見つめた。
「明日の朝、病院の記録と、天文台から伸びていた導線を調べます。患者、職員、建物の改修履歴。誰が器に選ばれたのかを特定します」
「病院を敵に回すことになるぞ」
朔が言った。
「すでに、敵は病院を使っています」
こよりは顔を上げた。
「なら、そこにいる人たちを巻き込ませないために、私たちが先に動きます」
こよりの瞳に、迷いはなかった。
父親の死を知ったばかりで、昨日は泣いていた。今日も身体は重く、韋天の反動は残っている。それでも彼女は立っている。
守られたことを理由に、一人で背負うのではなく。
今度は、俺たち四人で。
「決まりだな」
俺は界喰の柄に手を置いた。
「明日は病院だ」
「三上さん」
「何だよ」
「その前に、傷の確認と睡眠です」
「作戦会議は?」
「終わりました」
「俺の格好いい決め台詞は?」
「ありません」
蓮司が立ち上がった。
「俺は記録を整理してから寝る」
「お前も寝ろ」
「必要な分だけ寝る」
「また変な死亡フラグを——」
「言うな」
蓮司が珍しく、俺の言葉を途中で遮った。
冗談を言っただけのつもりだった。
なのに、彼の声は思ったより低く、真剣だった。
俺は口を閉じた。
蓮司は何事もなかったように手帳を開いた。
「……明日の行動予定を書いておく」
「はいはい」
こよりが立ち上がり、朔へ視線を向けた。
「朔さん。あなたは玄武の回復を優先してください」
「必要ない」
「必要です」
「俺は戦える」
「戦えるかどうかではなく、戦い続けられるかどうかを聞いています」
朔は黙り、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
その返事を聞いて、俺は少し驚いた。
朔は、誰かの言うことを聞く男ではなかった。少なくとも、俺たちの前ではそうだった。
だが、こよりの言葉だけは、少しずつ届き始めている。
それが仲間というものなのかは、まだわからない。
ただ、社務所の灯りの下で、俺たちは同じ地図を見ていた。
地図の上には、五芒星と、そこから外へ伸びる一本の線。
線の先には、病院がある。
敵が大切なものを器にするというなら、俺たちはその大切なものを、誰の手にも渡さない。
そのために、明日もまた戦う。
できれば、朝飯を食ってから。
できれば、誰も死なずに。
できれば、蓮司にも余計なことを言わせずに。
まあ、最後の一つは、たぶん無理だろう。
社殿の地下から、また低い振動が伝わってきた。
昨日よりも近い。
地面の下で、何かがこちらの足音を聞いている。
俺は窓の外を見た。
暗い境内の向こう、山の方角に、白いドームの残骸が浮かんでいる。
そのさらに先で、街の明かりが一つだけ消えた。
病院の屋上だ。
俺の眼には、そこから伸びた黒い糸が見えた。
糸は夜空を横切り、三枝神社の地下へと繋がっている。
そして、その途中に、赤い点が一つ灯った。
まるで、誰かの心臓が、遠くで脈打ったように。
敵は、もう器を用意している。
俺たちは翌朝、四人で病院へ向かう。誰も一人で行かないために。




