記録の喪失
翌朝、俺たちは四人で病院へ向かった。
誰も一人で行かない。
それが、昨夜こよりと決めたことだった。
病院の正面玄関から少し離れた植え込みの陰で、俺たちは旧南棟を見上げていた。建物の南側は改修工事のため閉鎖されている。人の出入りは少ないが、救急外来へ向かう患者や職員の姿は絶えない。
「妙だ」
朔が言った。
「何が?」
「昨夜、天文台の術式が崩れた。それなのに、この建物に残る界傷は薄くなっていない」
俺の眼にも、それは見えていた。
旧南棟の壁を這う黒い線。天文台から伸びていたものと同じだが、ここでは地面に沈むのではなく、建物の中へ集まっている。
線の中心には、赤い点があった。
昨日、遠くから見えたものと同じだ。
心臓のように、一定の間隔で脈打っている。
「術式が移動した?」
蓮司が手帳を開いた。
「天文台を観測点として使い、ここを実際の器の設置場所にした可能性が高い」
「器は人間か、病院そのものか」
こよりが問う。
「判断するには、地下を確認する必要がある」
「それなら、すぐに入りましょう」
「待て」
朔がこよりを止めた。
「地下に、昨日までなかった術式がある。しかも、俺たちを待っている」
「罠だということですか」
「罠でない可能性の方が低い」
「なら、なおさら全員で確認します」
こよりは、三人を順番に見た。
「誰も単独で動かない。負傷した場合は、すぐに報告する。敵を見つけても、深追いしない」
「最後の項目、三上に言ってるだろ」
蓮司が言った。
「全員に言っています」
「俺はそこまで無鉄砲じゃない」
朔が俺を見る。
「昨夜、術式に一人で斬り込んだ」
「必要だったんだよ」
「俺も昨夜、勝手に屋根へ上がった」
「お前は反省しろ」
「お前に言われる筋合いはない」
「二人とも、声を抑えてください」
こよりが言った。
「病院です」
俺たちは南棟の裏手へ回った。
朔が管理会社から借りたという鍵で、工事用の扉を開ける。どう考えても普通に借りたとは思えないが、今は問い詰める余裕がなかった。
廊下へ入った瞬間、空気が変わった。
人のいる病院特有の消毒液の匂いが薄れ、代わりに、濡れた紙のような臭気が鼻につく。
俺の眼には、床に黒い線が見えた。
線はエレベーターの横にある非常階段へ伸びている。
「地下だ」
「記録保管室か?」
蓮司が聞く。
「昨日の図面では、古い記憶保管庫と書かれていた」
「記録を使った術式なら、三橋さんを——」
こよりが言いかけたところで、蓮司が手帳を閉じた。
「俺を狙うとは限らない」
「ですが、あなたが最も記録を残しています」
「だからこそ、警戒する」
「警戒だけで済ませないでください」
「わかっている」
蓮司はいつものように答えた。
その時の俺は、あの返事を何の変哲もないものだと思っていた。
*
地下へ続く階段には、人の気配がなかった。
扉を開けると、古い棚が並ぶ保管庫に出た。紙の記録、患者の名前が書かれた箱、病院の増築前の図面。壁には、何十年分もの記録が積み重なっている。
その中央に、黒い円が描かれていた。
円の中には、開いた目。
昨夜の札や天文台の術式と同じ印だ。
「触らないでください」
こよりが言った。
だが、その警告を待っていたように、棚の奥から一枚の紙が落ちた。
紙は床に落ちず、空中で止まった。
ゆっくりと裏返る。
三橋蓮司。
生年月日。血液型。住所。緊急連絡先。
正確な情報だった。
その下に、黒い文字が浮かび上がる。
——記録済み。
蓮司の手帳が、独りでに開いた。
「三橋さん!」
こよりが叫ぶ。
黒い糸が、紙から伸びた。
蓮司の手首に絡みつき、次に足首へ巻きつく。彼は六角棒を振り、糸を叩き落とそうとした。だが、棒は空を切った。
糸は物質ではなかった。
蓮司の名前と、彼が記録してきた時間を繋ぐ理屈そのものだ。
「俺の後ろへ!」
蓮司が叫んだ。
黒い糸が一斉に跳ね上がる。
俺は界喰を抜き、こよりの前へ出た。刀を振ると、何本かの糸が断ち切られた。しかし、斬った端から新しい糸が生まれる。
朔が玄武を展開した。
青黒い盾が俺たち三人を包む。
「蓮司を引き戻せ!」
朔が叫んだ。
「あぁ!」
こよりが札を投げる。
白い札が蓮司の胸に貼りつき、韋天の赤い光が広がった。蓮司を縛る糸が一瞬だけ緩む。
俺はその隙に踏み込み、糸の中心へ界喰を突き立てた。
黒い線の向こうに、別の景色が見えた。
白い部屋。
窓のない、古い観測室のような場所。
そこに、誰かが座っている。
長い黒髪。白い面。膝の上に置かれた細い杖。
女なのか男なのか、顔を見てもわからない。ただ、その手元には、俺たちの名前が書かれた紙が並べられていた。
その中で、蓮司の紙だけが赤く濡れている。
『三橋蓮司』
声が、糸の向こうから響いた。
『記録を残す者。誰よりも多くの存在を、紙の上で生かしてきた者』
蓮司が顔を上げた。
「お前が、親玉か」
『親玉? 幼い呼び方だ。私は記録する者だ。お前たちが何を守り、何を失い、何を忘れるのかを記録している』
「三橋さんを返してください」
こよりが言った。
女の声が、わずかに笑った。
『返す? まだ借りてもいない』
次の瞬間、蓮司の身体が床から浮き上がった。
「蓮司!」
黒い糸が彼の腕と脚を引き、保管庫の奥へ運んでいく。玄武の盾から外へ出た瞬間、糸が一気に彼の身体へ食い込んだ。
血が床へ落ちる。
蓮司は六角棒を握り、必死に踏みとどまろうとした。
だが、見えない力が彼の骨を軋ませる。
「やめろ!」
俺は糸へ斬りかかった。
届かない。
あと一歩というところで、別の黒い腕が俺の胸を弾き飛ばした。
背中から棚へ叩きつけられる。
「三上さん!」
こよりの声が響いた。
「来るな!」
蓮司が叫ぶ。
「俺ごと斬れ!」
「できるわけないだろ!」
「できなければ、次に狙われるのはお前たちだ!」
蓮司は立っていた。
いや、立たされていた。
両手首は黒い糸で吊られ、足は床から浮いている。六角棒は遠くへ転がり、背中は保管庫の壁に固定されていた。
敵は、蓮司を殺すために、すぐには殺さなかった。
蓮司の手帳が宙へ浮かぶ。
ページが一枚ずつめくられていく。
俺たちが戦った幽禍の記録。
救った人間の名前。
こよりの父、和昌について書かれた九衛門さんからの聞き取り。
朔の玄武についての仮記録。
そして、俺たち四人が初めて一緒に戦った日の記録。
蓮司は、それらをすべて書いていた。
敵は、その紙を一枚ずつ蓮司の身体へ貼りつけた。
『記録は、存在を固定する』
白い紙が胸に貼りつく。
『固定されたものは、壊しやすい』
黒い文字が蓮司の胸へ染み込んだ。
蓮司の身体が跳ねる。
声は出さなかった。
ただ、歯を食いしばって耐えている。
「蓮司!」
俺はもう一度、界喰を構えた。
「お前はそこから動くな!」
「動けない」
「なら、俺が行く!」
阿伽の風で身体を浮かせる。
こよりが隣へ並んだ。
「私も行きます」
「こより、朔と一緒にいろ!」
「嫌です」
「敵の狙いは蓮司だ!」
「だから行きます」
こよりの身体から韋天の赤い光が噴き上がった。
朔も玄武を前へ出す。
「俺が道を作る」
「お願いします」
三人で踏み込んだ。
玄武の盾が黒い腕を押し返し、こよりがその上を走る。俺は黒い糸の起点を探した。
視える。
糸は蓮司の身体から伸びているのではない。
蓮司の記憶から伸びている。
あの日、俺の傷を治したこと。
こよりに何度も無茶をするなと言ったこと。
敵を記録し、俺たちの行動を予測し、次の戦いに備えていたこと。
そのすべてが一本の鎖になっていた。
「こより、手帳を燃やせ!」
「できません。あれには——」
「今は蓮司を助ける方が先だ!」
こよりが札を投げた。
札が手帳へ貼りつき、炎が上がる。
手帳のページが燃え始めた。
だが、敵は笑った。
『記録は紙ではない』
蓮司の胸へ貼られた紙が、黒く変色する。
『覚えている者がいる限り、記録は残る』
女の声と同時に、黒い腕が蓮司の腹へ突き刺さった。
今度は、血が大量に流れた。
こよりが息を呑む。
「三橋さん!」
彼女は韋天で床を蹴った。
だが、目の前に黒い壁が立ち上がる。
こよりの拳が壁を砕く。
二撃、三撃。
壁の向こうに蓮司が見えているのに、距離が縮まらない。
「どけえええっ!」
こよりが吼えた。
拳を振るたびに、緋袴の袖が裂ける。白い肌に赤い線が走るが、彼女は止まらなかった。
「こより、無理だ! 韋天の反動が——」
「黙ってください!」
こよりは壁へ拳を叩き込んだ。
黒い壁が砕ける。
同時に、こよりの身体が大きくよろめいた。
韋天の光が乱れている。
最大解放の反動が、もう限界を越えていた。
朔がこよりの肩を支えた。
「一度下がれ」
「嫌です」
「このままでは、助ける前に倒れる」
「三橋さんが、あそこにいるのです」
こよりは黒い壁の向こうを睨んだ。
蓮司の身体が、敵の力でさらに引き上げられる。
黒い腕が腹から抜けた。
代わりに、首へ別の糸が巻きついた。
敵は、蓮司を見せつけていた。
俺たちが助けられない距離で。
こよりが壊れていく様子を、蓮司に見せながら。
『三枝の巫女よ』
女の声が響いた。
『お前は、父を失った。今度は、友を失う。守ろうとするほど、器はよく育つ』
「……黙りなさい」
『お前の怒りも、悲しみも、すべてこの男に注げ。そうすれば、彼は長く残る。生きてはいないが、記録としては永遠に——』
「黙れ!」
こよりが走った。
朔が玄武を広げ、俺が阿伽の風でこよりを押し出す。
三人の力が重なり、黒い壁を突き破った。
あと数メートル。
蓮司へ手が届く。
俺は界喰を振り上げた。
糸の中心が見えた。
蓮司の胸、その奥にある黒い杭。
あれを斬れば、術式を切れる。
だが、杭は蓮司の心臓と同じ場所に刺さっている。
「蓮司、動くな!」
「動けない」
「今から、お前の中の術式を斬る!」
「……頼む」
俺は界喰を振り下ろした。
刃が黒い杭へ触れる。
次の瞬間、敵の親玉が蓮司の身体を乱暴に引いた。
刃は杭を外れ、蓮司の肩を深く斬った。
肉が裂け、血が噴き出す。
「蓮司!」
「気にするな!」
蓮司が叫んだ。
「もう一度だ!」
「無畏で治せ!」
こよりが叫ぶ。
「三橋さん、無畏を!」
蓮司の胸元で、白い光が瞬いた。
だが、すぐに消えた。
蓮司の顔から、初めて明確に動揺が消えた。
恐怖ではない。
諦めでもない。
力がないことを、事実として理解した顔だった。
「……無畏が、動かない」
「何を言っているのですか!」
「俺の霊力が、もう残っていない」
蓮司は、敵に何度も身体を固定され、記憶を引き抜かれていた。
無畏は傷を塞ぐどころか、彼の存在をこの場に繋ぎ止めるために使われていた。
治癒へ回す力など、もう残っていなかった。
「こより、下がれ」
「嫌です!」
「無畏が使えないなら、俺はもう戦えない」
「それでも、連れて帰ります!」
「……こより」
蓮司が、初めて彼女をその名で呼んだ。
こよりの動きが止まる。
「俺を見ていろ」
「はい」
「記録してくれ」
「何をですか」
「俺が、最後までここにいたことを」
こよりの顔が歪んだ。
「そんなことは、私が記録しなくても覚えています」
「なら、覚えておけ」
蓮司は、かすかに笑った。
「お前は一人ではない」
「三橋さん……」
「三上を頼む。朔も、たぶん放っておくと勝手に死ぬ」
「おい、俺を巻き込むな!」
叫びながら、俺は再び界喰を振った。
杭へ届かない。
敵は蓮司を盾にしている。
俺たちの動きを読んで、彼の身体を自在に振り回していた。
朔が玄武で黒い腕を弾く。
「三上、左だ!」
俺は跳んだ。
だが、敵の力が蓮司の身体を横へ振った。
蓮司の背中が、石壁へ激突する。
「蓮司!」
こよりが手を伸ばす。
黒い糸が蓮司の喉を締め上げた。
白い光が、彼の胸から漏れる。
無畏が、最後に一度だけ傷を塞ごうとした。
しかし、塞がったのは喉の傷ではなかった。
こよりの胸元に、白い紋様が浮かび上がる。
『契約者の生命反応、低下』
無畏の声が、地下室に響く。
『現契約者の霊力、枯渇』
「無畏、治して!」
こよりが叫ぶ。
『治癒不能』
「命令です!」
『治癒不能』
敵の親玉が、蓮司の身体をさらに引き寄せた。
黒い杭が、胸の奥へ沈む。
蓮司の口から、血がこぼれた。
「三橋さん!」
こよりが、何度も黒い壁を殴った。
韋天の光が赤く爆ぜる。
拳の皮が裂け、血が飛ぶ。
「もう少しです!」
朔が叫んだ。
「こより、下がれ! 玄武の盾で——」
「下がりません!」
「このままでは、あなたも器になる!」
「構いません!」
「構えろ!」
朔の声が、初めて怒鳴り声になった。
「お前まで死ぬな!」
こよりの拳が止まった。
その一瞬を、敵は見逃さなかった。
黒い腕が蓮司の腹を貫いた。
今度は、背中まで抜けた。
蓮司の身体が大きく跳ねる。
こよりの口から、声にならない息が漏れた。
「……三橋、さん」
蓮司の手が、宙を探した。
こよりが腕を伸ばす。
指先が触れる。
だが、掴めない。
敵は蓮司をこよりの手から奪い、黒い円の中心へ引きずり戻した。
『最後の記録を残そう』
女の声が愉快そうに響く。
『三橋蓮司。死亡』
「やめろおおおおおっ!」
俺は界喰を握り直した。
視界が赤くなる。
見える。
敵の術式。
黒い杭。
蓮司の胸。
そして、その周囲を包む無数の記憶。
俺は、斬るべきものを見誤っていた。
敵の本体は、杭ではない。
蓮司の死を記録しようとする理屈そのものだ。
それを斬るには、蓮司の存在と繋がったすべての線を断つ必要がある。
そうすれば、蓮司を救えるかもしれない。
だが、こよりとの繋がりも、朔との繋がりも、俺との繋がりも、すべて消える。
蓮司が生きてきた証を、俺自身が喰うことになる。
「三上!」
蓮司が叫んだ。
「斬れ!」
「でも、お前の記録が——」
「記録は、お前たちが覚えていれば残る!」
「お前はどうなる!」
「知らない」
蓮司は、血に濡れた顔で笑った。
「俺は、記録係だ。最後まで、結果を確認する」
黒い腕が、蓮司の胸を締めつけた。
もう、目を開けていることさえ苦しそうだった。
「三枝さん」
蓮司がこよりを見る。
「無畏を、頼む」
「嫌です」
「君なら使える」
「嫌です!」
「俺の代わりに、三人を——」
「あなたの代わりにはなりません!」
こよりが叫んだ。
「私は、あなたの代わりになるために受け取るのではありません。あなたを、あなたのまま覚えるために——」
蓮司の目が、ゆっくりと閉じた。
黒い円の中心で、白い光が弾ける。
『契約者、生命反応消失』
無畏の声が、淡々と告げた。
蓮司の身体から、白い光の塊が引き抜かれた。
敵はそれを握り潰そうとした。
俺は、最後の力で界喰を振った。
刀が黒い円を斬る。
術式の理屈が、音もなく崩れた。
敵の手から、無畏がこぼれ落ちる。
こよりが走った。
韋天の力を使い切った身体で、それでも一歩、二歩と踏み込む。
無畏の光が彼女の胸へ飛び込んだ。
赤い光と白い光が、同時にこよりを包む。
敵の親玉の声が、初めて怒りに歪んだ。
『器を奪うな』
「奪ったのではありません」
こよりが言った。
蓮司の身体を抱きしめたまま、敵を睨む。
「三橋さんが、私に託したのです」
『死者の力など、すぐに壊れる』
「壊れません」
こよりの背後で、二つの封使の光が重なった。
「私が、壊させません」
敵の術式が崩れ始める。
朔が玄武で残った黒い腕を押し返し、俺は界喰で出口へ続く糸を斬った。
地下室の壁が揺れる。
「こより、逃げるぞ!」
「三橋さんを置いていけません」
「置いていかない! 連れて帰る!」
俺と朔で蓮司の身体を支えた。
こよりは、その隣で無畏を呼び出した。
「無畏。三橋さんを治してください」
『対象は死亡』
「治してください」
『不可能』
「……では、私たちを生きて帰してください」
『了解』
白い光が、俺たちを包んだ。
*
病院の外へ出た時、空は昼の色になっていた。
救急車のサイレンが遠くで鳴っている。何も知らない人間たちは、いつものように病院へ入り、いつものように誰かの名前を呼んでいる。
その声の中に、蓮司の名前はなかった。
こよりは、蓮司を植え込みの陰へ横たえた。
無畏を使う。
白い光が蓮司の身体を包む。
だが、傷は塞がらない。
胸の傷も、腹の傷も、首に残った黒い痕も、何一つ消えなかった。
「どうして……」
こよりの声が震える。もう一度無畏に命令。
「私は命令しています」
『治癒不能』
「命令です!」
『治癒不能』
無畏は、冷たい声で繰り返した。
こよりは蓮司の手を握った。
もう、温かくなかった。
「三橋さん」
呼びかけても、返事はない。
「三橋さん。起きてください」
返事はない。
「記録を、整理するのでしょう」
返事はない。
「あなたがいないと、何をどう残せばいいのかわかりません」
返事はなかった。
こよりは、蓮司の手帳を拾い上げた。
表紙は血で汚れている。
中のページは、ほとんど破れていた。
最後に残った一枚へ、蓮司の血で文字が書かれている。
——三枝さんを頼む。
短い一行だった。
こよりは、その紙を両手で包んだ。
涙は落ちなかった。
泣けないのではない。
泣くことを、まだ許していないのだ。
「俺のせいだ」
朔が言った。
「俺が敵の罠を見抜けなかった。俺が蓮司を守れなかった」
「俺もだ」
俺は蓮司の身体を見つめた。
「俺は、斬れると思った。こいつを助けられると思った。なのに、何もできなかった」
「違います」
こよりが言った。
声は低く、静かだった。
「三橋さんは、敵に殺されたのです」
「こより……」
「私たちが殺したのではありません。三橋さんが弱かったからでもありません。敵が、三橋さんを捕らえ、力を奪い、いたぶり、殺したのです」
こよりは蓮司の手帳を胸に抱いた。
「ですから、私は忘れません」
白い無畏の光が、彼女の背後に立つ。
赤い韋天の光と、白い無畏の光。
二つの封使が、こよりの身体の周囲を巡っていた。
「無畏。命令します」
『命令を』
「私たちを、生きて帰してください」
『了解』
「そして、三橋さんが受けた傷を、私たちの身体に残してください」
無畏が、わずかに揺れた。
『命令の意味を確認』
「忘れないためです」
こよりは、蓮司の身体を抱き上げた。
「私は、三橋さんの代わりにはなりません。ですが、三橋さんが最後まで守ろうとしたものを、私が守ります」
俺は界喰の柄を握った。
朔が玄武を呼び出す。
その盾は、昨夜の戦いで大きく傷ついていた。
それでも、俺たちの前へ展開された。
「神社へ戻る」
朔が言った。
「敵は、三枝神社の地下を起点にしている。親玉は、あそこにいる」
「なら、すぐに追う」
「駄目です」
こよりが言った。
「まず、三橋さんを連れて帰ります」
その声には、はっきりとした怒りがあった。
「それから、敵を殺します」
こよりが、初めてその言葉を口にした。
祓うでも、止めるでもない。
殺す。
父親の死を知った時にも、彼女はそんな言葉を使わなかった。
だが、蓮司があれほど残虐に殺された今、もう彼女の中で、敵はただの怪異ではなかった。
人を捕らえ、名前を記録し、苦痛を与え、守ろうとする心ごと器に変える者たち。
俺たちは病院を離れた。
こよりの腕の中には、もう返事をしない蓮司がいる。
その胸元で、無畏の白い光が脈打っている。
それは蓮司の代わりに生きているのではない。
蓮司が死んだことを、決してなかったことにしないために、こよりへ残された力だった。
帰り道、俺は何度も振り返った。
病院の旧南棟、その最上階の窓に、白い面の女が立っている。
こちらを見ている。
その手には、血に濡れた一枚の紙。
そこには、まだ消されていない文字があった。
三橋蓮司。
俺は界喰を抜いた。
こよりが、隣で蓮司を抱く腕に力を込める。
「次は、あいつを器にします」
こよりが言った。
「敵の親玉を、ですか」
朔が問う。
「いいえ」
こよりは病院の窓を睨んだ。
「敵の親玉の、逃げ道をです」
その声は冷たかった。
だが、蓮司の手帳を抱く指だけは、震えていた。
俺たちは三枝神社へ戻った。
蓮司を連れて。
蓮司の死を背負って。




