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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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23/23

記録の喪失

翌朝、俺たちは四人で病院へ向かった。


 誰も一人で行かない。


 それが、昨夜こよりと決めたことだった。


 病院の正面玄関から少し離れた植え込みの陰で、俺たちは旧南棟を見上げていた。建物の南側は改修工事のため閉鎖されている。人の出入りは少ないが、救急外来へ向かう患者や職員の姿は絶えない。


「妙だ」


 朔が言った。


「何が?」

「昨夜、天文台の術式が崩れた。それなのに、この建物に残る界傷(かいしょう)は薄くなっていない」


 俺の眼にも、それは見えていた。


 旧南棟の壁を這う黒い線。天文台から伸びていたものと同じだが、ここでは地面に沈むのではなく、建物の中へ集まっている。


 線の中心には、赤い点があった。


 昨日、遠くから見えたものと同じだ。


 心臓のように、一定の間隔で脈打っている。


「術式が移動した?」


 蓮司が手帳を開いた。


「天文台を観測点として使い、ここを実際の器の設置場所にした可能性が高い」

「器は人間か、病院そのものか」


 こよりが問う。


「判断するには、地下を確認する必要がある」

「それなら、すぐに入りましょう」

「待て」


 朔がこよりを止めた。


「地下に、昨日までなかった術式がある。しかも、俺たちを待っている」

「罠だということですか」

「罠でない可能性の方が低い」

「なら、なおさら全員で確認します」


 こよりは、三人を順番に見た。


「誰も単独で動かない。負傷した場合は、すぐに報告する。敵を見つけても、深追いしない」

「最後の項目、三上に言ってるだろ」


 蓮司が言った。


「全員に言っています」

「俺はそこまで無鉄砲じゃない」


 朔が俺を見る。


「昨夜、術式に一人で斬り込んだ」

「必要だったんだよ」

「俺も昨夜、勝手に屋根へ上がった」

「お前は反省しろ」

「お前に言われる筋合いはない」

「二人とも、声を抑えてください」


 こよりが言った。


「病院です」


 俺たちは南棟の裏手へ回った。


 朔が管理会社から借りたという鍵で、工事用の扉を開ける。どう考えても普通に借りたとは思えないが、今は問い詰める余裕がなかった。


 廊下へ入った瞬間、空気が変わった。


 人のいる病院特有の消毒液の匂いが薄れ、代わりに、濡れた紙のような臭気が鼻につく。


 俺の眼には、床に黒い線が見えた。


 線はエレベーターの横にある非常階段へ伸びている。


「地下だ」

「記録保管室か?」


 蓮司が聞く。


「昨日の図面では、古い記憶保管庫と書かれていた」

「記録を使った術式なら、三橋さんを——」


 こよりが言いかけたところで、蓮司が手帳を閉じた。


「俺を狙うとは限らない」

「ですが、あなたが最も記録を残しています」

「だからこそ、警戒する」

「警戒だけで済ませないでください」

「わかっている」


 蓮司はいつものように答えた。


 その時の俺は、あの返事を何の変哲もないものだと思っていた。


 *


 地下へ続く階段には、人の気配がなかった。


 扉を開けると、古い棚が並ぶ保管庫に出た。紙の記録、患者の名前が書かれた箱、病院の増築前の図面。壁には、何十年分もの記録が積み重なっている。


 その中央に、黒い円が描かれていた。


 円の中には、開いた目。


 昨夜の札や天文台の術式と同じ印だ。


「触らないでください」


 こよりが言った。


 だが、その警告を待っていたように、棚の奥から一枚の紙が落ちた。


 紙は床に落ちず、空中で止まった。


 ゆっくりと裏返る。


 三橋蓮司。


 生年月日。血液型。住所。緊急連絡先。


 正確な情報だった。


 その下に、黒い文字が浮かび上がる。


 ——記録済み。


 蓮司の手帳が、独りでに開いた。


「三橋さん!」


 こよりが叫ぶ。


 黒い糸が、紙から伸びた。


 蓮司の手首に絡みつき、次に足首へ巻きつく。彼は六角棒を振り、糸を叩き落とそうとした。だが、棒は空を切った。


 糸は物質ではなかった。


 蓮司の名前と、彼が記録してきた時間を繋ぐ理屈そのものだ。


「俺の後ろへ!」


 蓮司が叫んだ。


 黒い糸が一斉に跳ね上がる。


 俺は界喰を抜き、こよりの前へ出た。刀を振ると、何本かの糸が断ち切られた。しかし、斬った端から新しい糸が生まれる。


 朔が玄武を展開した。


 青黒い盾が俺たち三人を包む。


「蓮司を引き戻せ!」


 朔が叫んだ。


「あぁ!」


 こよりが札を投げる。


 白い札が蓮司の胸に貼りつき、韋天の赤い光が広がった。蓮司を縛る糸が一瞬だけ緩む。

 俺はその隙に踏み込み、糸の中心へ界喰を突き立てた。

 黒い線の向こうに、別の景色が見えた。


 白い部屋。


 窓のない、古い観測室のような場所。

 そこに、誰かが座っている。

 長い黒髪。白い面。膝の上に置かれた細い杖。


 女なのか男なのか、顔を見てもわからない。ただ、その手元には、俺たちの名前が書かれた紙が並べられていた。


 その中で、蓮司の紙だけが赤く濡れている。


『三橋蓮司』


 声が、糸の向こうから響いた。


『記録を残す者。誰よりも多くの存在を、紙の上で生かしてきた者』


 蓮司が顔を上げた。


「お前が、親玉か」


『親玉? 幼い呼び方だ。私は記録する者だ。お前たちが何を守り、何を失い、何を忘れるのかを記録している』


「三橋さんを返してください」


 こよりが言った。


 女の声が、わずかに笑った。


『返す? まだ借りてもいない』


 次の瞬間、蓮司の身体が床から浮き上がった。


「蓮司!」


 黒い糸が彼の腕と脚を引き、保管庫の奥へ運んでいく。玄武の盾から外へ出た瞬間、糸が一気に彼の身体へ食い込んだ。


 血が床へ落ちる。


 蓮司は六角棒を握り、必死に踏みとどまろうとした。


 だが、見えない力が彼の骨を軋ませる。


「やめろ!」


 俺は糸へ斬りかかった。


 届かない。


 あと一歩というところで、別の黒い腕が俺の胸を弾き飛ばした。


 背中から棚へ叩きつけられる。


「三上さん!」


 こよりの声が響いた。


「来るな!」


 蓮司が叫ぶ。


「俺ごと斬れ!」

「できるわけないだろ!」

「できなければ、次に狙われるのはお前たちだ!」


 蓮司は立っていた。


 いや、立たされていた。


 両手首は黒い糸で吊られ、足は床から浮いている。六角棒は遠くへ転がり、背中は保管庫の壁に固定されていた。


 敵は、蓮司を殺すために、すぐには殺さなかった。


 蓮司の手帳が宙へ浮かぶ。


 ページが一枚ずつめくられていく。


 俺たちが戦った幽禍の記録。


 救った人間の名前。


 こよりの父、和昌について書かれた九衛門さんからの聞き取り。


 朔の玄武についての仮記録。


 そして、俺たち四人が初めて一緒に戦った日の記録。


 蓮司は、それらをすべて書いていた。


 敵は、その紙を一枚ずつ蓮司の身体へ貼りつけた。


『記録は、存在を固定する』


 白い紙が胸に貼りつく。


『固定されたものは、壊しやすい』


 黒い文字が蓮司の胸へ染み込んだ。


 蓮司の身体が跳ねる。


 声は出さなかった。


 ただ、歯を食いしばって耐えている。


「蓮司!」


 俺はもう一度、界喰(かいばみ)を構えた。


「お前はそこから動くな!」

「動けない」

「なら、俺が行く!」


 阿伽(あか)の風で身体を浮かせる。


 こよりが隣へ並んだ。


「私も行きます」

「こより、朔と一緒にいろ!」

「嫌です」

「敵の狙いは蓮司だ!」

「だから行きます」


 こよりの身体から韋天(いてん)の赤い光が噴き上がった。


 朔も玄武を前へ出す。


「俺が道を作る」

「お願いします」


 三人で踏み込んだ。


 玄武の盾が黒い腕を押し返し、こよりがその上を走る。俺は黒い糸の起点を探した。


 視える。


 糸は蓮司の身体から伸びているのではない。

 蓮司の記憶から伸びている。

 あの日、俺の傷を治したこと。

 こよりに何度も無茶をするなと言ったこと。

 敵を記録し、俺たちの行動を予測し、次の戦いに備えていたこと。

 そのすべてが一本の鎖になっていた。


「こより、手帳を燃やせ!」

「できません。あれには——」

「今は蓮司を助ける方が先だ!」


 こよりが札を投げた。

 札が手帳へ貼りつき、炎が上がる。

 手帳のページが燃え始めた。

 だが、敵は笑った。


『記録は紙ではない』


 蓮司の胸へ貼られた紙が、黒く変色する。


『覚えている者がいる限り、記録は残る』


 女の声と同時に、黒い腕が蓮司の腹へ突き刺さった。

 今度は、血が大量に流れた。

 こよりが息を呑む。


「三橋さん!」


 彼女は韋天(いてん)で床を蹴った。

 だが、目の前に黒い壁が立ち上がる。

 こよりの拳が壁を砕く。

 二撃、三撃。

 壁の向こうに蓮司が見えているのに、距離が縮まらない。


「どけえええっ!」


 こよりが吼えた。


 拳を振るたびに、緋袴の袖が裂ける。白い肌に赤い線が走るが、彼女は止まらなかった。


「こより、無理だ! 韋天(いてん)の反動が——」

「黙ってください!」


 こよりは壁へ拳を叩き込んだ。


 黒い壁が砕ける。


 同時に、こよりの身体が大きくよろめいた。

 韋天の光が乱れている。

 最大解放の反動が、もう限界を越えていた。

 朔がこよりの肩を支えた。


「一度下がれ」

「嫌です」

「このままでは、助ける前に倒れる」

「三橋さんが、あそこにいるのです」


 こよりは黒い壁の向こうを睨んだ。

 蓮司の身体が、敵の力でさらに引き上げられる。

 黒い腕が腹から抜けた。

 代わりに、首へ別の糸が巻きついた。

 敵は、蓮司を見せつけていた。

 俺たちが助けられない距離で。

 こよりが壊れていく様子を、蓮司に見せながら。


『三枝の巫女よ』


 女の声が響いた。


『お前は、父を失った。今度は、友を失う。守ろうとするほど、器はよく育つ』


「……黙りなさい」


『お前の怒りも、悲しみも、すべてこの男に注げ。そうすれば、彼は長く残る。生きてはいないが、記録としては永遠に——』


「黙れ!」


 こよりが走った。


 朔が玄武を広げ、俺が阿伽(あか)の風でこよりを押し出す。

 三人の力が重なり、黒い壁を突き破った。

 あと数メートル。

 蓮司へ手が届く。

 俺は界喰(かいばみ)を振り上げた。

 糸の中心が見えた。

 蓮司の胸、その奥にある黒い杭。

 あれを斬れば、術式を切れる。


 だが、杭は蓮司の心臓と同じ場所に刺さっている。


「蓮司、動くな!」

「動けない」

「今から、お前の中の術式を斬る!」

「……頼む」


 俺は界喰(かいばみ)を振り下ろした。

 刃が黒い杭へ触れる。

 次の瞬間、敵の親玉が蓮司の身体を乱暴に引いた。

 刃は杭を外れ、蓮司の肩を深く斬った。

 肉が裂け、血が噴き出す。


「蓮司!」

「気にするな!」


 蓮司が叫んだ。


「もう一度だ!」

「無畏(むい)で治せ!」


 こよりが叫ぶ。


「三橋さん、無畏(むい)を!」


 蓮司の胸元で、白い光が瞬いた。

 だが、すぐに消えた。


 蓮司の顔から、初めて明確に動揺が消えた。

 恐怖ではない。

 諦めでもない。

 力がないことを、事実として理解した顔だった。


「……無畏(むい)が、動かない」

「何を言っているのですか!」

「俺の霊力が、もう残っていない」


 蓮司は、敵に何度も身体を固定され、記憶を引き抜かれていた。

 無畏(むい)は傷を塞ぐどころか、彼の存在をこの場に繋ぎ止めるために使われていた。

 治癒へ回す力など、もう残っていなかった。


「こより、下がれ」

「嫌です!」

「無畏(むい)が使えないなら、俺はもう戦えない」

「それでも、連れて帰ります!」

「……こより」


 蓮司が、初めて彼女をその名で呼んだ。

 こよりの動きが止まる。


「俺を見ていろ」

「はい」

「記録してくれ」

「何をですか」

「俺が、最後までここにいたことを」


 こよりの顔が歪んだ。


「そんなことは、私が記録しなくても覚えています」

「なら、覚えておけ」


 蓮司は、かすかに笑った。


「お前は一人ではない」

「三橋さん……」

「三上を頼む。朔も、たぶん放っておくと勝手に死ぬ」

「おい、俺を巻き込むな!」


 叫びながら、俺は再び界喰を振った。

 杭へ届かない。

 敵は蓮司を盾にしている。

 俺たちの動きを読んで、彼の身体を自在に振り回していた。

 朔が玄武で黒い腕を弾く。


「三上、左だ!」


 俺は跳んだ。

 だが、敵の力が蓮司の身体を横へ振った。

 蓮司の背中が、石壁へ激突する。


「蓮司!」


 こよりが手を伸ばす。

 黒い糸が蓮司の喉を締め上げた。

 白い光が、彼の胸から漏れる。

 無畏が、最後に一度だけ傷を塞ごうとした。

 しかし、塞がったのは喉の傷ではなかった。

 こよりの胸元に、白い紋様が浮かび上がる。


『契約者の生命反応、低下』


 無畏の声が、地下室に響く。


『現契約者の霊力、枯渇』


「無畏、治して!」


 こよりが叫ぶ。


『治癒不能』


「命令です!」


『治癒不能』


 敵の親玉が、蓮司の身体をさらに引き寄せた。

 黒い杭が、胸の奥へ沈む。

 蓮司の口から、血がこぼれた。


「三橋さん!」


 こよりが、何度も黒い壁を殴った。

 韋天の光が赤く爆ぜる。

 拳の皮が裂け、血が飛ぶ。


「もう少しです!」


 朔が叫んだ。


「こより、下がれ! 玄武の盾で——」

「下がりません!」

「このままでは、あなたも器になる!」

「構いません!」

「構えろ!」


 朔の声が、初めて怒鳴り声になった。


「お前まで死ぬな!」


 こよりの拳が止まった。

 その一瞬を、敵は見逃さなかった。

 黒い腕が蓮司の腹を貫いた。

 今度は、背中まで抜けた。

 蓮司の身体が大きく跳ねる。


 こよりの口から、声にならない息が漏れた。


「……三橋、さん」


 蓮司の手が、宙を探した。

 こよりが腕を伸ばす。

 指先が触れる。

 だが、掴めない。


 敵は蓮司をこよりの手から奪い、黒い円の中心へ引きずり戻した。


『最後の記録を残そう』


 女の声が愉快そうに響く。


『三橋蓮司。死亡』


「やめろおおおおおっ!」


 俺は界喰(かいばみ)を握り直した。


 視界が赤くなる。

 見える。

 敵の術式。

 黒い杭。

 蓮司の胸。


 そして、その周囲を包む無数の記憶。

 俺は、斬るべきものを見誤っていた。

 敵の本体は、杭ではない。

 蓮司の死を記録しようとする理屈そのものだ。

 それを斬るには、蓮司の存在と繋がったすべての線を断つ必要がある。

 そうすれば、蓮司を救えるかもしれない。

 だが、こよりとの繋がりも、朔との繋がりも、俺との繋がりも、すべて消える。

 蓮司が生きてきた証を、俺自身が喰うことになる。


「三上!」


 蓮司が叫んだ。


「斬れ!」

「でも、お前の記録が——」

「記録は、お前たちが覚えていれば残る!」

「お前はどうなる!」

「知らない」


 蓮司は、血に濡れた顔で笑った。


「俺は、記録係だ。最後まで、結果を確認する」


 黒い腕が、蓮司の胸を締めつけた。


 もう、目を開けていることさえ苦しそうだった。


「三枝さん」


 蓮司がこよりを見る。


「無畏(むい)を、頼む」

「嫌です」

「君なら使える」

「嫌です!」

「俺の代わりに、三人を——」

「あなたの代わりにはなりません!」


 こよりが叫んだ。


「私は、あなたの代わりになるために受け取るのではありません。あなたを、あなたのまま覚えるために——」


 蓮司の目が、ゆっくりと閉じた。

 黒い円の中心で、白い光が弾ける。


『契約者、生命反応消失』


 無畏の声が、淡々と告げた。

 蓮司の身体から、白い光の塊が引き抜かれた。

 敵はそれを握り潰そうとした。


 俺は、最後の力で界喰を振った。


 刀が黒い円を斬る。


 術式の理屈が、音もなく崩れた。

 敵の手から、無畏がこぼれ落ちる。


 こよりが走った。

 韋天の力を使い切った身体で、それでも一歩、二歩と踏み込む。

 無畏の光が彼女の胸へ飛び込んだ。

 赤い光と白い光が、同時にこよりを包む。

 敵の親玉の声が、初めて怒りに歪んだ。


『器を奪うな』


「奪ったのではありません」


 こよりが言った。


 蓮司の身体を抱きしめたまま、敵を睨む。


「三橋さんが、私に託したのです」


『死者の力など、すぐに壊れる』


「壊れません」


 こよりの背後で、二つの封使の光が重なった。


「私が、壊させません」


 敵の術式が崩れ始める。


 朔が玄武で残った黒い腕を押し返し、俺は界喰で出口へ続く糸を斬った。


 地下室の壁が揺れる。


「こより、逃げるぞ!」

「三橋さんを置いていけません」

「置いていかない! 連れて帰る!」


 俺と朔で蓮司の身体を支えた。


 こよりは、その隣で無畏を呼び出した。


「無畏。三橋さんを治してください」


『対象は死亡』


「治してください」


『不可能』


「……では、私たちを生きて帰してください」


『了解』


 白い光が、俺たちを包んだ。


 *


 病院の外へ出た時、空は昼の色になっていた。


 救急車のサイレンが遠くで鳴っている。何も知らない人間たちは、いつものように病院へ入り、いつものように誰かの名前を呼んでいる。


 その声の中に、蓮司の名前はなかった。


 こよりは、蓮司を植え込みの陰へ横たえた。


 無畏を使う。


 白い光が蓮司の身体を包む。


 だが、傷は塞がらない。


 胸の傷も、腹の傷も、首に残った黒い痕も、何一つ消えなかった。


「どうして……」


 こよりの声が震える。もう一度無畏に命令。


「私は命令しています」


『治癒不能』


「命令です!」


『治癒不能』


 無畏は、冷たい声で繰り返した。


 こよりは蓮司の手を握った。


 もう、温かくなかった。


「三橋さん」


 呼びかけても、返事はない。


「三橋さん。起きてください」


 返事はない。


「記録を、整理するのでしょう」


 返事はない。


「あなたがいないと、何をどう残せばいいのかわかりません」


 返事はなかった。


 こよりは、蓮司の手帳を拾い上げた。


 表紙は血で汚れている。


 中のページは、ほとんど破れていた。


 最後に残った一枚へ、蓮司の血で文字が書かれている。


 ——三枝さんを頼む。


 短い一行だった。


 こよりは、その紙を両手で包んだ。


 涙は落ちなかった。


 泣けないのではない。


 泣くことを、まだ許していないのだ。


「俺のせいだ」


 朔が言った。


「俺が敵の罠を見抜けなかった。俺が蓮司を守れなかった」

「俺もだ」


 俺は蓮司の身体を見つめた。


「俺は、斬れると思った。こいつを助けられると思った。なのに、何もできなかった」

「違います」


 こよりが言った。


 声は低く、静かだった。


「三橋さんは、敵に殺されたのです」

「こより……」

「私たちが殺したのではありません。三橋さんが弱かったからでもありません。敵が、三橋さんを捕らえ、力を奪い、いたぶり、殺したのです」


 こよりは蓮司の手帳を胸に抱いた。


「ですから、私は忘れません」


 白い無畏の光が、彼女の背後に立つ。

 赤い韋天の光と、白い無畏の光。

 二つの封使が、こよりの身体の周囲を巡っていた。


「無畏。命令します」


『命令を』


「私たちを、生きて帰してください」


『了解』


「そして、三橋さんが受けた傷を、私たちの身体に残してください」


 無畏が、わずかに揺れた。


『命令の意味を確認』


「忘れないためです」


 こよりは、蓮司の身体を抱き上げた。


「私は、三橋さんの代わりにはなりません。ですが、三橋さんが最後まで守ろうとしたものを、私が守ります」


 俺は界喰の柄を握った。

 朔が玄武を呼び出す。

 その盾は、昨夜の戦いで大きく傷ついていた。

 それでも、俺たちの前へ展開された。


「神社へ戻る」


 朔が言った。


「敵は、三枝神社の地下を起点にしている。親玉は、あそこにいる」

「なら、すぐに追う」

「駄目です」


 こよりが言った。


「まず、三橋さんを連れて帰ります」


 その声には、はっきりとした怒りがあった。


「それから、敵を殺します」


 こよりが、初めてその言葉を口にした。


 祓うでも、止めるでもない。


 殺す。


 父親の死を知った時にも、彼女はそんな言葉を使わなかった。

 だが、蓮司があれほど残虐に殺された今、もう彼女の中で、敵はただの怪異ではなかった。

 人を捕らえ、名前を記録し、苦痛を与え、守ろうとする心ごと器に変える者たち。

 俺たちは病院を離れた。


 こよりの腕の中には、もう返事をしない蓮司がいる。

 その胸元で、無畏の白い光が脈打っている。

 それは蓮司の代わりに生きているのではない。

 蓮司が死んだことを、決してなかったことにしないために、こよりへ残された力だった。


 帰り道、俺は何度も振り返った。

 病院の旧南棟、その最上階の窓に、白い面の女が立っている。

 こちらを見ている。

 その手には、血に濡れた一枚の紙。

 そこには、まだ消されていない文字があった。


 三橋蓮司。


 俺は界喰を抜いた。

 こよりが、隣で蓮司を抱く腕に力を込める。


「次は、あいつを器にします」


 こよりが言った。


「敵の親玉を、ですか」


 朔が問う。


「いいえ」


 こよりは病院の窓を睨んだ。


「敵の親玉の、逃げ道をです」


 その声は冷たかった。


 だが、蓮司の手帳を抱く指だけは、震えていた。


 俺たちは三枝神社へ戻った。

 蓮司を連れて。


 蓮司の死を背負って。


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