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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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21/23

地下水道

地下浄水施設に、湿った沈黙が戻ってきた。


 さっきまで何百もの顔が浮かんでいた肉塊は、こよりの吸印札に封じられ、今は小さな札の束になっている。床に残ったのは、黒い泥のような瘴気と、ひび割れたコンクリートだけだった。


 そして、その中央で、俺たちは四人、立ち尽くしていた。


「……何だ。礼なら言わねえぞ。俺は頼んでない」


 朔が、こよりから顔を背けた。


「そうですか」


 こよりは怒るでもなく、淡々と頷いた。


「では、礼は結構です。その代わり、今後は勝手に一人で死にかけるのをやめてください」

「断る」

「即答ですか」

「俺は一人でやる」

「その結果が、あの有様です」


 こよりが指差した先には、壁にめり込んだ朔の身体があった場所がある。コンクリートは大きく陥没し、そこに朔の血がべったりと付着していた。


「一人でやるのは勝手ですが、死ぬなら別の場所でお願いします。神社の仕事が増えます」

「……お前、感謝される気があるのか?」

「ありません。私は事実を述べているだけです」


 相変わらず、こよりはこよりだった。

 父親の死を知って泣き崩れたばかりなのに、今はもう、血と泥にまみれた地下施設で平然と他人を説教している。強いというより、強くあろうとしている。たぶん、本人が思っている以上に。


 朔はこよりを見つめ、それから小さく息を吐いた。


「……母さんから聞いていた和昌さんの話と、よく似ている」

「どこがですか?」

「頑固で、融通が利かなくて、他人の話を聞かない。母さんは、そう言っていた」

「それは褒めているのですか?」

「さあな。少なくとも、俺にはそう見える」

「それは朔さんも同じでは?」


 蓮司が横から口を挟んだ。

 朔が鋭い目を向ける。


「お前は黙っていろ」

「客観的な事実だ」

「記録しておけ。後で破る」

「記録の改竄はしない」


 この状況で、蓮司は本当に手帳を取り出していた。

 地下施設の崩壊しかけた床に片膝をつき、いつものように何かを書き込んでいる。服には穴が空き、無畏で治したばかりの身体からはまだ血が滲んでいるというのに、記録を優先するあたりは病気としか思えない。


「おい蓮司。お前、さっき何本刺さった?」

「確認できた範囲では、左肩に二本、右脇腹に一本、太腿に一本だ」

「それをかすり傷って言ったのかよ」

「無畏(むい)で塞がったから、傷としては残っていない」

「いや、そういう問題じゃないだろ」


 俺が怒鳴ると、蓮司は手帳から顔を上げた。


「問題は、残っている」

「何?」

「血が足りない」


 蓮司は真顔で言った。


「無畏(むい)は傷口を塞ぐことはできるが、失った血液まで瞬時に補えるわけではない。帰ったら休む必要がある」

「最初からそう言え!」


 こよりの眉がぴくりと動いた。


「蓮司さん、帰ったらすぐ横になってください」

「いや、先に今日の記録を整理して——」

「横になってください」

「……はい」


 朔が、そんな俺たちのやり取りを黙って見ていた。

 その表情は相変わらず読みづらかったが、ほんのわずかに口元が緩んでいるように見えた。


「笑ったな」

「笑っていない」

「いや、今のは笑っただろ」

「お前の見間違いだ」

「俺は見えるんだよ」

「黙ってろ」


 朔は言い捨て、施設の奥へ歩き出した。

 俺たちもその後を追う。こよりが最後に、床に落ちた一枚の札を拾い上げた。


 それは、あの仮面の男が使っていた術式の残片だった。

 白い紙の中央に、黒い線で五芒星が描かれている。ただし、俺たちが知っている五芒星とは少し違った。五つの頂点のうち、四つには小さな円が重ねられ、残る一つだけが空白になっている。


「朔さん。この印は?」


 こよりが尋ねると、朔は足を止めた。


「器の配置図だ」

「器?」

「奴らが街に設置した五つの拠点。そのうち四つは、幽禍(ゆうか)を集めて濾すためのものだった。残った一つが、さっきの浄水施設だ」

「なら、五つすべて潰したんだな?」


 俺が聞くと、朔は首を横に振った。


「違う」


 彼は札を受け取り、五芒星の空白を指で示した。


「ここが空いている。奴らは最初から、五つ目を拠点として使うつもりではなかった」

「じゃあ、何のために?」

「最後の器は、三枝神社だ」


 空気が変わった。


 地下施設の湿気とは別の冷たさが、背中を撫でていく。


「この施設を潰しても、五芒星は完成していない。奴らが必要としているのは、神社の地下にある界傷(かいしょう)と、そこに積み重なった封印の力だ」

「封印を解くために、街全体を五芒星の形にしたってことか?」

「正確には、解くためだけではない」


 朔が、札の黒い線を睨む。


「封印の力を、別の器へ移すつもりだ」


 蓮司が手帳に書き込む手を止めた。


「別の器とは、あの肉塊か?」

「あれは試作品だ。人間の執着を集め、幽禍(ゆうか)を束ねるための器。だが、あれでは足りない」

「何が足りない?」

「意思だ」


 朔の答えは短かった。


「幽禍(ゆうか)は力を持っている。人間の執着も、膨大な霊力を生む。だが、単独では制御できない。奴らは、無数の幽禍を一つの意志で動かすための器を作ろうとしている」


 俺は、さっきの肉塊を思い出した。

 あれは強かった。俺たち三人だけなら、まともに戦うことすらできなかっただろう。だが、仮面の男が術式を断たれた瞬間、ただの泥のように崩れた。


「仮面の男が、器を操っていた」

「違う」


 朔は即座に否定した。


「あいつもまた、器を使っていた」


 その言葉に、こよりが視線を上げた。


「仮面の男の背後に、さらに誰かがいるということですか」

「わからない。だが、あの男が自分の意思だけで動いていたとは思えない」

「根拠は?」

「奴は、肉塊が崩れた時に怒鳴った。だが、自分の支配の術式が切れたことに驚いたんじゃない。予定が狂ったことに苛立っていた」


 朔は、さっきの仮面の男を思い返しているようだった。


「奴らには予定がある。五芒星を完成させる時刻か、条件か。いずれにせよ、俺たちはそれを知らない」

「なら、聞き出せばいい」


 俺が言うと、全員の視線が集まった。


「さっきの男を追うのか?」

「追えるのか?」

「界傷(かいしょう)の閉じ際に、俺はあいつの『理屈』を見た。完全には斬れていない。細い繋がりが、まだ残ってる」


 俺は界喰(かいばみ)の柄に手を置いた。


「切れた糸の端みたいなものだ。たぶん、辿れる」

「危険だ」


 朔が言った。


「お前の界喰(かいばみ)は、術式の一部を斬っただけだ。相手の本体に繋がっているなら、逆にこちらの位置を知られる可能性がある」

「それでも、何もしないよりはましだろ」

「何もしないとは言っていない。帰る」

「は?」

「お前たちは負傷している。俺もだ。ここに残れば、次の襲撃に対応できない」


 もっともな話だった。

 だが、俺には納得できなかった。敵の痕跡が目の前にある。今なら追える。今なら、少なくとも次の場所を突き止められるかもしれない。


「三上」


 蓮司が静かに呼んだ。


「お前の顔に書いてある」

「何が」

「今すぐ追いたい、と」

「……悪いかよ」

「悪い。今のお前は、敵を追うために追おうとしている」

「意味がわからない」

「追跡は目的ではない。敵の目的を止めるための手段だ。手段に熱くなれば、目的を見失う」


 蓮司の言葉は、妙に腹立たしかった。

 だが、否定できない。仮面の男の逃げた先を追い、そこでまた戦闘になったら、こよりや蓮司を守れる保証はない。


「……わかったよ。帰る」


 俺が渋々言うと、こよりが頷いた。


「賢明です」

「こよりまで蓮司みたいなこと言うなよ」

「私は蓮司さんほど記録に執着していません」

「そこじゃねえ」


 朔は、俺たちのやり取りを見ながら、少しだけ目を細めた。


「お前たちは、よくそれで今まで生き残ってきたな」

「褒めてるのか?」

「呆れている」

「なら、朔も今日から呆れる側だ」

「俺は加入した覚えはない」

「いや、もう四人で戦ったじゃん」

「一時的な共闘だ」

「こより、こいつどうする?」

「正式な話は神社に戻ってからです。まずは全員、生きて帰ることを優先します」


 こよりはそう言うと、札をまとめて懐にしまった。

 その動作に迷いはない。さっきまで泣いていた少女と同じ人間だとは思えないほど、巫女としての顔を取り戻していた。


 だが、彼女が立ち上がった瞬間、身体がふらついた。


「こより!」


 俺が腕を伸ばすより早く、朔が肩を支えた。

 こよりの顔がわずかに歪む。韋天(いてん)を最大解放した反動だろう。彼女は無理に立っていた。


「離してください」

「歩けるのか」

「歩けます」

「聞いているのは、歩けるかどうかだ」

「ですから——」

「朔さん」


 こよりが、朔の腕を掴んだ。


「私は大丈夫です」

「大丈夫な人間は、壁に手をつかない」

「……」

「母さんから聞いた和昌さんなら、そんな無茶をする奴を見たら怒る」


 こよりの表情が強張った。

 朔は言ってから、しまったという顔をした。だが、もう遅い。


「父を引き合いに出さないでください」


 こよりの声は低かった。


「私は、父の代わりになるために戦っているのではありません」

「わかっている」

「なら、二度とそんな言い方をしないでください」

「……ああ」


 朔は素直に頷いた。


 俺は、二人の間に流れた気まずい沈黙を見ていた。

 朔はこよりを守りたい。こよりは、父親の娘としてではなく、自分自身として戦いたい。その二つは似ているようで、実は正反対なのかもしれない。


「こより」


 俺が呼ぶと、彼女がこちらを見た。


「今は、朔に支えてもらえ。俺が支えると……その、走り出しそうだから」

「どういう意味ですか」

「俺もよくわからない」

「なら、余計なことを言わないでください」


 こよりは呆れたように息を吐いたが、朔の腕を振り払わなかった。

 朔も何も言わず、こよりの歩調に合わせて進み始めた。


 俺と蓮司は、その後ろを歩く。


「なあ、蓮司」

「何だ」

「朔が加入したら、記録係はどうなるんだ?」

「俺が記録する」

「今までと同じじゃん」

「人数が増えただけだ」

「朔の記録もつけるのか?」

「当然だ」

「本人の許可は?」

「必要ない」


 前を歩いていた朔が振り返った。


「聞こえているぞ」

「聞かせてるんだよ」

「なら、覚えておけ。俺の過去は記録するな」

「記録しないという記録を残す」

「お前は本当に面倒な奴だな」


 朔の声に、初めてはっきりとした苛立ちが混じった。

 蓮司は満足そうに手帳を閉じる。


「名前、年齢、使用する封使、術式の特徴。最低限の情報は必要だ」

「断る」

「では、三上。聞き取りを頼む」

「なんで俺が」

「お前はすでに、朔と最も長く会話している」

「会話というより、毎回喧嘩だろ」

「記録上は交流に分類する」


 地下施設の出口へ向かう階段を上りながら、俺は思わず笑った。

 少し前まで、俺たちは三人だった。今は朔がいる。敵として現れ、幽禍を横取りし、何度も俺たちの前から逃げた男だ。

 それでも、さっきの戦いで朔がいなければ、こよりは背後から腕に貫かれていた。蓮司がいなければ、朔は死んでいた。俺がいなければ、あの肉塊は崩せなかった。


 誰か一人でも欠ければ、勝てなかった。


 その事実だけは、全員が理解しているはずだった。


 施設の外に出ると、夜明け前の空が薄く白み始めていた。

 湿った風が吹き、地下の腐臭を洗い流していく。


 鳥居もない、名前もない街外れの空き地。だが、俺にはその景色が少しだけ違って見えた。

 空に浮かぶ界傷の糸。その一本が、さっき斬った術式の残りだ。

 黒い糸は、廃浄水施設から北東へ伸び、街の上空を越えて、どこかへ続いている。


「……見える」


 俺が呟くと、朔が足を止めた。


「何がだ」

「仮面の男が残した術式の端。まだ切れてない。北東に続いてる」

「追うな」

「追わない。場所だけ見る」


 俺は目を凝らした。

 糸の先に、ぼんやりと建物の輪郭が浮かび上がる。古い屋根。高い石垣。周囲に広がる木々。


「……学校?」

「違う」


 蓮司が地図を開いた。


「北東にあるのは、旧市立天文台だ。十年前に閉鎖されている」


 こよりの顔から、血の気が引いた。


「天文台……」

「知っているのか?」

「以前、父が調査に入ったことがあります」


 こよりが、北東の空を見つめる。


「古い記録では、あの場所から三枝神社の地下に向けて、界傷(かいしょう)の反応が確認されたことがあるそうです。ただ、当時は危険性が低いと判断され、封印処理だけが行われました」

「つまり、五芒星の陣の中心じゃない。別の観測点だ」


 朔が低く言った。


「奴らは神社を直接攻める前に、天文台から封印の状態を見ている」

「だったら、次の目的地は決まったな」


 俺が言うと、こよりがこちらを見た。


「駄目です」

「え?」

「今から向かうのは無謀です。蓮司は負傷し、朔さんも重傷から回復したばかり。私も韋天の反動が残っています」

「でも、敵の拠点が見つかった」

「見つかったからこそ、準備が必要です」

「準備している間に逃げられるかもしれない」

「逃げるなら、それも情報です。敵が天文台を放棄するなら、なぜ放棄したのかを調べられます」


 こよりは、そこで言葉を切った。


「三上さん。焦らないでください」


 その声は、いつもの叱責よりも少し柔らかかった。


「今回、朔さんを救えたのは、三人で無理に突っ込んだからではありません。互いの役割を理解していたからです。次も勝ちたいなら、勝てる状態を作る必要があります」


 俺は反論しかけて、口を閉じた。

 確かに、俺たちは勝った。だが、こよりは立っているのがやっとで、蓮司は血を失い、朔は一度死にかけた。俺だって界喰(かいばみ)を握る手が痺れている。


「……わかった。神社に戻る」

「よろしい」


 こよりが頷いた。


「その代わり、天文台の調査は私が指揮します。朔さん、協力していただけますか」


 朔はしばらく黙っていた。

 やがて、北東の空に残る黒い糸を見上げる。


「……俺は、奴らを知っている」

「詳しく教えてください」

「奴らの術式には、御堂の系統と似た部分がある。幽禍を祓わず、力として扱う発想だ」

「同じ系統なのですか?」

「違う。奴らは幽禍を使役しているんじゃない。幽禍(ゆうか)と人間を混ぜて、一つの道具にしている」


 朔の声が、わずかに低くなった。


「御堂の系統が幽禍(ゆうか)を制御しようとしたのは、奴らを生かしたまま扱うためだ。少なくとも、俺たちはそう考えていた。だが、あいつらは最初から、幽禍も人間も消耗品として見ている」


 こよりが、握った札を見下ろした。


「だから、あの肉塊に人間の顔が……」

「街の界傷(かいしょう)を広げ、人間の執着を集めた。あれは幽禍の器であると同時に、犠牲者の墓場だ」


 こよりの表情が硬くなる。

 俺の腹の奥にも、遅れて怒りが湧いてきた。


「朔。お前は、あいつらが何をしようとしているのか本当に知らないのか?」

「知らない。だから探っている」

「なら、なぜ一人で抱え込んだ?」

「……」

「お前が全部話していれば、もっと早く動けた」

「お前たちは信じなかっただろう」

「信じるかどうかは、こっちが決めることだ」


 朔が、俺を睨んだ。

 だが、今度は言い返さなかった。


「……そうだな」


 短い返事だった。


「お前の言う通りだ。俺は、勝手に決めつけていた。お前たちは弱い。巻き込めば死ぬ。そう思っていた」

「実際、何度も死にかけてるけどな」

「それでも、生きている」


 朔は俺たち三人を見回した。


「だから、次からは情報を共有する。俺が知っていることは、すべて話す」


 こよりが頷いた。


「それが、協力するための最低条件です」

「わかった」


 朔は、俺の方へ手を差し出した。

 握手を求めているらしい。顔が無愛想すぎて、最初は何をしているのかわからなかった。


「何だよ」

「協力するんだろう」

「握手?」

「違うのか?」

「いや、そうだけど……お前、急に普通のことするなよ。怖いだろ」

「意味がわからない」


 俺は苦笑しながら、その手を握った。


 朔の手は冷たかった。血が通っていないような冷たさではない。ずっと一人で戦い続けて、体温を分ける相手がいなかった人間の手だった。


「三上晃」

「知ってるだろ」

「改めて聞いている」

「三上晃。見えるだけの普通の高校生」

「普通ではない」

「そこは否定してくれよ」

「界喰(かいばみ)を使い、空間を飛び、術式を喰う普通の高校生がどこにいる」

「……確かに」


 朔が、ほんの少しだけ笑った。


「御堂朔だ。玄武を使う」

「よろしくな、朔」


 手を離した時、こよりがこちらを見ていた。


「何ですか」

「いや、俺たち、今ちゃんと仲間になったのかなと思って」

「まだ仮加入です」

「仮なのかよ」

「正式加入には審査があります」

「どんな審査だ?」

「無断で吸印を横取りしない。単独で死にかけない。報告を怠らない」

「……全部、朔が引っかかってるな」

「お前も人のことは言えない」

「俺は横取りしてない」

「勝手に追跡した」

「それは……まあ」

「三上さんも同じく仮加入です」


 こよりは真顔だった。

 蓮司が手帳に何かを書き込む。


「仮加入者二名、と」

「俺までかよ!」


 朝の空に、俺の抗議だけが虚しく響いた。


 *


 三枝神社へ戻る道中、朔は敵の術式について話した。


 別の勢力は、五芒星の五つの頂点に拠点を置き、各地点で界傷を広げている。界傷そのものを大きくするのではなく、街の人間が抱く執着や恐怖を集め、幽禍を育てるための養分にしていた。


 四つの拠点は、すでに朔が潰した。

 最後の拠点で作られた肉塊は失敗作だったが、失敗したからこそ、相手の手の内がいくつか見えた。


「五芒星の中心に神社を置くのは、封印を破るためじゃない」


 朔が言った。


「神社の封印を、街全体に流すためだ」

「流す?」

「三枝神社の地下にある界傷は、千年以上にわたって封じられている。その封印には、歴代の祓い人の霊力だけでなく、この街に住んだ人間たちの記憶や祈りも蓄積されている」

「それを、五芒星の各地点へ流す?」

「そうだ。奴らは神社の封印を壊すのではなく、裏返すつもりだ」


 こよりが足を止めた。


「裏返す……」

「封じている力を、幽禍を閉じ込めるためではなく、幽禍を現実に固定するために使う。そうなれば、幽禍は一時的な怪異ではなく、この世界の一部になる」


 俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。


「街じゅうが、幽禍の住処になるってことか?」

「それだけではない」


 朔の視線が、三枝神社の方向へ向く。


「神社の地下に封じられた界傷は、単なる穴じゃない。向こう側には、巨大な何かがいる」

「何か?」

「名前は知らない。だが、御堂の古い記録にはこう書かれていた」


 朔は、低い声で記憶をなぞった。


「『界の底に眠るものは、名を持たず、ただ人間の祈りによって形を得る』」


 蓮司が手帳に書き込む。


「それは幽禍なのか?」

「わからない。だが、別の勢力はそれを呼び起こそうとしている」

「何のために?」

「そこまでは知らない」


 朔が言葉を切った。


「だから、天文台を調べる。あそこは、昔から神社の地下の反応を観測していた。奴らがそこで何を見つけたのかを知らなければ、次の手が読めない」


 見えてきた三枝神社の鳥居を、朝日が赤く染めていた。

 いつもなら、帰ってきたという安心感がある場所だ。だが今は、鳥居の向こうに何かが潜んでいるように見える。


 こよりが境内へ入る前に、振り返った。


「朔さん」

「何だ」

「母上には、まだ連絡を取っていないのですか」


 朔の表情が、初めて明確に揺れた。


「……母は、もう戦えない」

「戦ってもらうつもりはありません」

「なら、なぜ聞く」

「和昌のことを、吹雪さんから直接聞きたいと思っています」


 朔は答えなかった。

 吹雪の名を聞いた時、彼の目の奥に、警戒とも恐怖ともつかない色が浮かんだ。


「母は、あの夜のことを話したがらない」

「それでも、聞かなければなりません。父の死を、私が他人の記憶だけで背負うわけにはいかないからです」


 こよりの声は静かだった。

 泣き崩れた少女ではなく、自分の過去を自分の手に取り戻そうとする巫女の声だった。


「……わかった。連絡する」


 朔は、短く答えた。


「ただし、母が話すかどうかは母が決める」

「ええ。それで構いません」


 そのやり取りを聞きながら、俺は朔が初めて、過去から逃げずに誰かへ向き合おうとしているのを感じた。


 蓮司が社務所の方を指差す。


「まずは九衛門さんへの報告だ。俺はその後、医者に行く」

「医者に行くのか?」

 俺が聞いた。

「当たり前だ。無畏(むい)があるからといって、治療が不要になるわけではない」

「お前、さっきまで医者より記録を優先しようとしてたじゃん」

「優先順位を改めた」

「偉い」

「当然だ」


 蓮司は、手帳を胸ポケットにしまった。

 その動きがいつもより少しだけ遅いことに、俺は気づいた。

 だが、本人が何も言わないなら、俺も追及しなかった。


 四人で社務所へ向かう。

 先頭を歩くこより。隣に朔。少し後ろに蓮司と俺。


 ついさっきまで、別々の道を歩いていた四人だった。

 それが、同じ場所へ向かっている。


 ただの一時的な共闘なのかもしれない。

 朔がまた勝手に離れていく可能性もある。

 俺たちが次の戦いで、誰かを失う可能性だってある。


 それでも今は、隣にいる。


 そして、五芒星の中心には三枝神社がある。

 敵は、神社の地下に眠る何かを呼び起こそうとしている。

 その正体を知らないまま、俺たちは次の戦いへ進むしかなかった。


 社務所の戸を開けた瞬間、奥から九衛門の声が飛んできた。


「遅いぞ、お前たち! ……いや、何じゃその人数は」


 九衛門が、朔を見て目を見開く。

 朔は無言で頭を下げた。


「御堂朔です。しばらく、こちらで厄介になります」

「しばらく?」


 九衛門が俺たちを見回す。


「正式加入です」

 こよりが言った。

「仮加入だ」

 朔が否定した。

「どっちだよ!」


 俺の叫びに、九衛門が深々とため息をついた。


「……和昌。お前の娘と、吹雪の息子が、とうとう同じ場所に立ったか」


 その呟きには、喜びよりも重い予感が滲んでいた。


 九衛門は、俺たちを社務所の奥へ招き入れた。


「話を聞こう。天文台のことも、五芒星のことも。そして……朔、おぬしの母に連絡を取る準備もせねばならん」


 その瞬間、境内の奥で、何かが鳴った。


 金属を爪で弾いたような、細く長い音。


 俺たちは一斉に振り返った。


 社殿の屋根の上。

 誰もいないはずの場所に、白い札が一枚、風もないのに揺れていた。


 札に描かれているのは、五芒星ではない。


 黒い円の中に、開いた目が一つ。


 朔の顔から、血の気が引いた。


「……奴らは、もう次の手を打った」


 こよりが札を見上げる。


「天文台ではありませんね」

「違う」


 朔が玄武を呼び出す。

 青黒い甲羅の盾が、社殿と俺たちの間に展開された。


「これは、警告だ」


 白い札の中央に描かれた目が、ゆっくりと開いた。


 次の瞬間、境内全体に、知らない女の声が響き渡った。


『三枝の巫女よ。御堂の子よ。次は、あなたたちの大切なものを器にする』


 声が消える。

 札が黒い炎に包まれ、灰も残さず燃え尽きた。


 こよりは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、懐から吸印札を取り出し、燃え残った霊力を封じ込める。


「……大切なもの、ですか」


 その声は静かだった。

 しかし、札を握る指は震えていた。


 朔が、玄武の盾を消す。


「奴らは、俺たちが守ろうとするものを知っている」

「なら、知られて困るものを減らせばいい」


 蓮司が言った。


「守る対象を、共有し、増やす。そうすれば、一人に集中しない」


 こよりが、蓮司を見る。


「それは、具体的には?」

「まず、情報を共有する。次に、敵が狙う可能性のある場所と人間を洗い出す。それから、誰か一人で行動しない」

「最後の項目は、三上さんと朔さんに徹底してもらいましょう」

「俺もかよ!」

「当然だ」

 朔が言った。

「お前も同じくらい無茶をする」

「お前にだけは言われたくない!」


 九衛門が、疲れたように笑った。


「騒がしいのう。だが、悪くない」


 その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。

 四人になったばかりの俺たちは、まだ互いを完全には信じていない。朔は一人で戦う癖を捨てきれていないし、俺も無茶をする。こよりは父親の死を背負い、蓮司はいつものように記録を続けている。


 不安定で、危なっかしくて、まとまりがない。


 それでも、前よりは強い。


 敵の正体も、地下に眠るものの名前も、まだわからない。

 ただ一つわかっているのは、次の戦いでは、俺たちの誰かではなく、俺たち全員が狙われるということだった。


 こよりが、社殿の奥へ視線を向ける。

 その横顔には、涙の跡がまだ僅かに残っていた。


「九衛門さん。天文台の調査は、いつ行いますか」

「準備が整い次第じゃ。明日の夜までには、必要なものを揃える」

「わかりました」


 こよりが振り返り、俺たちを見る。


「それまでに、各自、休養と準備を。次は誰も単独で動かないこと」

「了解」


 蓮司が答えた。

 朔は無言で頷いた。


 俺も頷きかけて、ふと屋根の上を見た。

 白い札はもうない。

 だが、あの目の感触だけが、まだ空気の中に残っている。


 敵は、こちらを見ている。

 俺たちの大切なものを知ろうとしている。


 なら、次はこっちが見返す番だ。


 俺は界喰(かいばみ)の柄を握った。


 明日の夜、旧市立天文台へ向かう。

 五芒星の中心へ伸びる、敵の術式の根を探るために。


 そして、その先にいる何かの正体を、必ず暴いてやる。


 たとえそれが、三枝神社の地下に眠るものだろうと。

 たとえ、俺たち自身の大切なものが、そのために狙われるとしても。


 今度は、四人で戦う。


 そう決めた直後、社殿の地下から、低い振動が伝わってきた。


 地面の下で、何かが目を覚ましたような音だった。

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