地下水道
地下浄水施設に、湿った沈黙が戻ってきた。
さっきまで何百もの顔が浮かんでいた肉塊は、こよりの吸印札に封じられ、今は小さな札の束になっている。床に残ったのは、黒い泥のような瘴気と、ひび割れたコンクリートだけだった。
そして、その中央で、俺たちは四人、立ち尽くしていた。
「……何だ。礼なら言わねえぞ。俺は頼んでない」
朔が、こよりから顔を背けた。
「そうですか」
こよりは怒るでもなく、淡々と頷いた。
「では、礼は結構です。その代わり、今後は勝手に一人で死にかけるのをやめてください」
「断る」
「即答ですか」
「俺は一人でやる」
「その結果が、あの有様です」
こよりが指差した先には、壁にめり込んだ朔の身体があった場所がある。コンクリートは大きく陥没し、そこに朔の血がべったりと付着していた。
「一人でやるのは勝手ですが、死ぬなら別の場所でお願いします。神社の仕事が増えます」
「……お前、感謝される気があるのか?」
「ありません。私は事実を述べているだけです」
相変わらず、こよりはこよりだった。
父親の死を知って泣き崩れたばかりなのに、今はもう、血と泥にまみれた地下施設で平然と他人を説教している。強いというより、強くあろうとしている。たぶん、本人が思っている以上に。
朔はこよりを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……母さんから聞いていた和昌さんの話と、よく似ている」
「どこがですか?」
「頑固で、融通が利かなくて、他人の話を聞かない。母さんは、そう言っていた」
「それは褒めているのですか?」
「さあな。少なくとも、俺にはそう見える」
「それは朔さんも同じでは?」
蓮司が横から口を挟んだ。
朔が鋭い目を向ける。
「お前は黙っていろ」
「客観的な事実だ」
「記録しておけ。後で破る」
「記録の改竄はしない」
この状況で、蓮司は本当に手帳を取り出していた。
地下施設の崩壊しかけた床に片膝をつき、いつものように何かを書き込んでいる。服には穴が空き、無畏で治したばかりの身体からはまだ血が滲んでいるというのに、記録を優先するあたりは病気としか思えない。
「おい蓮司。お前、さっき何本刺さった?」
「確認できた範囲では、左肩に二本、右脇腹に一本、太腿に一本だ」
「それをかすり傷って言ったのかよ」
「無畏で塞がったから、傷としては残っていない」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
俺が怒鳴ると、蓮司は手帳から顔を上げた。
「問題は、残っている」
「何?」
「血が足りない」
蓮司は真顔で言った。
「無畏は傷口を塞ぐことはできるが、失った血液まで瞬時に補えるわけではない。帰ったら休む必要がある」
「最初からそう言え!」
こよりの眉がぴくりと動いた。
「蓮司さん、帰ったらすぐ横になってください」
「いや、先に今日の記録を整理して——」
「横になってください」
「……はい」
朔が、そんな俺たちのやり取りを黙って見ていた。
その表情は相変わらず読みづらかったが、ほんのわずかに口元が緩んでいるように見えた。
「笑ったな」
「笑っていない」
「いや、今のは笑っただろ」
「お前の見間違いだ」
「俺は見えるんだよ」
「黙ってろ」
朔は言い捨て、施設の奥へ歩き出した。
俺たちもその後を追う。こよりが最後に、床に落ちた一枚の札を拾い上げた。
それは、あの仮面の男が使っていた術式の残片だった。
白い紙の中央に、黒い線で五芒星が描かれている。ただし、俺たちが知っている五芒星とは少し違った。五つの頂点のうち、四つには小さな円が重ねられ、残る一つだけが空白になっている。
「朔さん。この印は?」
こよりが尋ねると、朔は足を止めた。
「器の配置図だ」
「器?」
「奴らが街に設置した五つの拠点。そのうち四つは、幽禍を集めて濾すためのものだった。残った一つが、さっきの浄水施設だ」
「なら、五つすべて潰したんだな?」
俺が聞くと、朔は首を横に振った。
「違う」
彼は札を受け取り、五芒星の空白を指で示した。
「ここが空いている。奴らは最初から、五つ目を拠点として使うつもりではなかった」
「じゃあ、何のために?」
「最後の器は、三枝神社だ」
空気が変わった。
地下施設の湿気とは別の冷たさが、背中を撫でていく。
「この施設を潰しても、五芒星は完成していない。奴らが必要としているのは、神社の地下にある界傷と、そこに積み重なった封印の力だ」
「封印を解くために、街全体を五芒星の形にしたってことか?」
「正確には、解くためだけではない」
朔が、札の黒い線を睨む。
「封印の力を、別の器へ移すつもりだ」
蓮司が手帳に書き込む手を止めた。
「別の器とは、あの肉塊か?」
「あれは試作品だ。人間の執着を集め、幽禍を束ねるための器。だが、あれでは足りない」
「何が足りない?」
「意思だ」
朔の答えは短かった。
「幽禍は力を持っている。人間の執着も、膨大な霊力を生む。だが、単独では制御できない。奴らは、無数の幽禍を一つの意志で動かすための器を作ろうとしている」
俺は、さっきの肉塊を思い出した。
あれは強かった。俺たち三人だけなら、まともに戦うことすらできなかっただろう。だが、仮面の男が術式を断たれた瞬間、ただの泥のように崩れた。
「仮面の男が、器を操っていた」
「違う」
朔は即座に否定した。
「あいつもまた、器を使っていた」
その言葉に、こよりが視線を上げた。
「仮面の男の背後に、さらに誰かがいるということですか」
「わからない。だが、あの男が自分の意思だけで動いていたとは思えない」
「根拠は?」
「奴は、肉塊が崩れた時に怒鳴った。だが、自分の支配の術式が切れたことに驚いたんじゃない。予定が狂ったことに苛立っていた」
朔は、さっきの仮面の男を思い返しているようだった。
「奴らには予定がある。五芒星を完成させる時刻か、条件か。いずれにせよ、俺たちはそれを知らない」
「なら、聞き出せばいい」
俺が言うと、全員の視線が集まった。
「さっきの男を追うのか?」
「追えるのか?」
「界傷の閉じ際に、俺はあいつの『理屈』を見た。完全には斬れていない。細い繋がりが、まだ残ってる」
俺は界喰の柄に手を置いた。
「切れた糸の端みたいなものだ。たぶん、辿れる」
「危険だ」
朔が言った。
「お前の界喰は、術式の一部を斬っただけだ。相手の本体に繋がっているなら、逆にこちらの位置を知られる可能性がある」
「それでも、何もしないよりはましだろ」
「何もしないとは言っていない。帰る」
「は?」
「お前たちは負傷している。俺もだ。ここに残れば、次の襲撃に対応できない」
もっともな話だった。
だが、俺には納得できなかった。敵の痕跡が目の前にある。今なら追える。今なら、少なくとも次の場所を突き止められるかもしれない。
「三上」
蓮司が静かに呼んだ。
「お前の顔に書いてある」
「何が」
「今すぐ追いたい、と」
「……悪いかよ」
「悪い。今のお前は、敵を追うために追おうとしている」
「意味がわからない」
「追跡は目的ではない。敵の目的を止めるための手段だ。手段に熱くなれば、目的を見失う」
蓮司の言葉は、妙に腹立たしかった。
だが、否定できない。仮面の男の逃げた先を追い、そこでまた戦闘になったら、こよりや蓮司を守れる保証はない。
「……わかったよ。帰る」
俺が渋々言うと、こよりが頷いた。
「賢明です」
「こよりまで蓮司みたいなこと言うなよ」
「私は蓮司さんほど記録に執着していません」
「そこじゃねえ」
朔は、俺たちのやり取りを見ながら、少しだけ目を細めた。
「お前たちは、よくそれで今まで生き残ってきたな」
「褒めてるのか?」
「呆れている」
「なら、朔も今日から呆れる側だ」
「俺は加入した覚えはない」
「いや、もう四人で戦ったじゃん」
「一時的な共闘だ」
「こより、こいつどうする?」
「正式な話は神社に戻ってからです。まずは全員、生きて帰ることを優先します」
こよりはそう言うと、札をまとめて懐にしまった。
その動作に迷いはない。さっきまで泣いていた少女と同じ人間だとは思えないほど、巫女としての顔を取り戻していた。
だが、彼女が立ち上がった瞬間、身体がふらついた。
「こより!」
俺が腕を伸ばすより早く、朔が肩を支えた。
こよりの顔がわずかに歪む。韋天を最大解放した反動だろう。彼女は無理に立っていた。
「離してください」
「歩けるのか」
「歩けます」
「聞いているのは、歩けるかどうかだ」
「ですから——」
「朔さん」
こよりが、朔の腕を掴んだ。
「私は大丈夫です」
「大丈夫な人間は、壁に手をつかない」
「……」
「母さんから聞いた和昌さんなら、そんな無茶をする奴を見たら怒る」
こよりの表情が強張った。
朔は言ってから、しまったという顔をした。だが、もう遅い。
「父を引き合いに出さないでください」
こよりの声は低かった。
「私は、父の代わりになるために戦っているのではありません」
「わかっている」
「なら、二度とそんな言い方をしないでください」
「……ああ」
朔は素直に頷いた。
俺は、二人の間に流れた気まずい沈黙を見ていた。
朔はこよりを守りたい。こよりは、父親の娘としてではなく、自分自身として戦いたい。その二つは似ているようで、実は正反対なのかもしれない。
「こより」
俺が呼ぶと、彼女がこちらを見た。
「今は、朔に支えてもらえ。俺が支えると……その、走り出しそうだから」
「どういう意味ですか」
「俺もよくわからない」
「なら、余計なことを言わないでください」
こよりは呆れたように息を吐いたが、朔の腕を振り払わなかった。
朔も何も言わず、こよりの歩調に合わせて進み始めた。
俺と蓮司は、その後ろを歩く。
「なあ、蓮司」
「何だ」
「朔が加入したら、記録係はどうなるんだ?」
「俺が記録する」
「今までと同じじゃん」
「人数が増えただけだ」
「朔の記録もつけるのか?」
「当然だ」
「本人の許可は?」
「必要ない」
前を歩いていた朔が振り返った。
「聞こえているぞ」
「聞かせてるんだよ」
「なら、覚えておけ。俺の過去は記録するな」
「記録しないという記録を残す」
「お前は本当に面倒な奴だな」
朔の声に、初めてはっきりとした苛立ちが混じった。
蓮司は満足そうに手帳を閉じる。
「名前、年齢、使用する封使、術式の特徴。最低限の情報は必要だ」
「断る」
「では、三上。聞き取りを頼む」
「なんで俺が」
「お前はすでに、朔と最も長く会話している」
「会話というより、毎回喧嘩だろ」
「記録上は交流に分類する」
地下施設の出口へ向かう階段を上りながら、俺は思わず笑った。
少し前まで、俺たちは三人だった。今は朔がいる。敵として現れ、幽禍を横取りし、何度も俺たちの前から逃げた男だ。
それでも、さっきの戦いで朔がいなければ、こよりは背後から腕に貫かれていた。蓮司がいなければ、朔は死んでいた。俺がいなければ、あの肉塊は崩せなかった。
誰か一人でも欠ければ、勝てなかった。
その事実だけは、全員が理解しているはずだった。
施設の外に出ると、夜明け前の空が薄く白み始めていた。
湿った風が吹き、地下の腐臭を洗い流していく。
鳥居もない、名前もない街外れの空き地。だが、俺にはその景色が少しだけ違って見えた。
空に浮かぶ界傷の糸。その一本が、さっき斬った術式の残りだ。
黒い糸は、廃浄水施設から北東へ伸び、街の上空を越えて、どこかへ続いている。
「……見える」
俺が呟くと、朔が足を止めた。
「何がだ」
「仮面の男が残した術式の端。まだ切れてない。北東に続いてる」
「追うな」
「追わない。場所だけ見る」
俺は目を凝らした。
糸の先に、ぼんやりと建物の輪郭が浮かび上がる。古い屋根。高い石垣。周囲に広がる木々。
「……学校?」
「違う」
蓮司が地図を開いた。
「北東にあるのは、旧市立天文台だ。十年前に閉鎖されている」
こよりの顔から、血の気が引いた。
「天文台……」
「知っているのか?」
「以前、父が調査に入ったことがあります」
こよりが、北東の空を見つめる。
「古い記録では、あの場所から三枝神社の地下に向けて、界傷の反応が確認されたことがあるそうです。ただ、当時は危険性が低いと判断され、封印処理だけが行われました」
「つまり、五芒星の陣の中心じゃない。別の観測点だ」
朔が低く言った。
「奴らは神社を直接攻める前に、天文台から封印の状態を見ている」
「だったら、次の目的地は決まったな」
俺が言うと、こよりがこちらを見た。
「駄目です」
「え?」
「今から向かうのは無謀です。蓮司は負傷し、朔さんも重傷から回復したばかり。私も韋天の反動が残っています」
「でも、敵の拠点が見つかった」
「見つかったからこそ、準備が必要です」
「準備している間に逃げられるかもしれない」
「逃げるなら、それも情報です。敵が天文台を放棄するなら、なぜ放棄したのかを調べられます」
こよりは、そこで言葉を切った。
「三上さん。焦らないでください」
その声は、いつもの叱責よりも少し柔らかかった。
「今回、朔さんを救えたのは、三人で無理に突っ込んだからではありません。互いの役割を理解していたからです。次も勝ちたいなら、勝てる状態を作る必要があります」
俺は反論しかけて、口を閉じた。
確かに、俺たちは勝った。だが、こよりは立っているのがやっとで、蓮司は血を失い、朔は一度死にかけた。俺だって界喰を握る手が痺れている。
「……わかった。神社に戻る」
「よろしい」
こよりが頷いた。
「その代わり、天文台の調査は私が指揮します。朔さん、協力していただけますか」
朔はしばらく黙っていた。
やがて、北東の空に残る黒い糸を見上げる。
「……俺は、奴らを知っている」
「詳しく教えてください」
「奴らの術式には、御堂の系統と似た部分がある。幽禍を祓わず、力として扱う発想だ」
「同じ系統なのですか?」
「違う。奴らは幽禍を使役しているんじゃない。幽禍と人間を混ぜて、一つの道具にしている」
朔の声が、わずかに低くなった。
「御堂の系統が幽禍を制御しようとしたのは、奴らを生かしたまま扱うためだ。少なくとも、俺たちはそう考えていた。だが、あいつらは最初から、幽禍も人間も消耗品として見ている」
こよりが、握った札を見下ろした。
「だから、あの肉塊に人間の顔が……」
「街の界傷を広げ、人間の執着を集めた。あれは幽禍の器であると同時に、犠牲者の墓場だ」
こよりの表情が硬くなる。
俺の腹の奥にも、遅れて怒りが湧いてきた。
「朔。お前は、あいつらが何をしようとしているのか本当に知らないのか?」
「知らない。だから探っている」
「なら、なぜ一人で抱え込んだ?」
「……」
「お前が全部話していれば、もっと早く動けた」
「お前たちは信じなかっただろう」
「信じるかどうかは、こっちが決めることだ」
朔が、俺を睨んだ。
だが、今度は言い返さなかった。
「……そうだな」
短い返事だった。
「お前の言う通りだ。俺は、勝手に決めつけていた。お前たちは弱い。巻き込めば死ぬ。そう思っていた」
「実際、何度も死にかけてるけどな」
「それでも、生きている」
朔は俺たち三人を見回した。
「だから、次からは情報を共有する。俺が知っていることは、すべて話す」
こよりが頷いた。
「それが、協力するための最低条件です」
「わかった」
朔は、俺の方へ手を差し出した。
握手を求めているらしい。顔が無愛想すぎて、最初は何をしているのかわからなかった。
「何だよ」
「協力するんだろう」
「握手?」
「違うのか?」
「いや、そうだけど……お前、急に普通のことするなよ。怖いだろ」
「意味がわからない」
俺は苦笑しながら、その手を握った。
朔の手は冷たかった。血が通っていないような冷たさではない。ずっと一人で戦い続けて、体温を分ける相手がいなかった人間の手だった。
「三上晃」
「知ってるだろ」
「改めて聞いている」
「三上晃。見えるだけの普通の高校生」
「普通ではない」
「そこは否定してくれよ」
「界喰を使い、空間を飛び、術式を喰う普通の高校生がどこにいる」
「……確かに」
朔が、ほんの少しだけ笑った。
「御堂朔だ。玄武を使う」
「よろしくな、朔」
手を離した時、こよりがこちらを見ていた。
「何ですか」
「いや、俺たち、今ちゃんと仲間になったのかなと思って」
「まだ仮加入です」
「仮なのかよ」
「正式加入には審査があります」
「どんな審査だ?」
「無断で吸印を横取りしない。単独で死にかけない。報告を怠らない」
「……全部、朔が引っかかってるな」
「お前も人のことは言えない」
「俺は横取りしてない」
「勝手に追跡した」
「それは……まあ」
「三上さんも同じく仮加入です」
こよりは真顔だった。
蓮司が手帳に何かを書き込む。
「仮加入者二名、と」
「俺までかよ!」
朝の空に、俺の抗議だけが虚しく響いた。
*
三枝神社へ戻る道中、朔は敵の術式について話した。
別の勢力は、五芒星の五つの頂点に拠点を置き、各地点で界傷を広げている。界傷そのものを大きくするのではなく、街の人間が抱く執着や恐怖を集め、幽禍を育てるための養分にしていた。
四つの拠点は、すでに朔が潰した。
最後の拠点で作られた肉塊は失敗作だったが、失敗したからこそ、相手の手の内がいくつか見えた。
「五芒星の中心に神社を置くのは、封印を破るためじゃない」
朔が言った。
「神社の封印を、街全体に流すためだ」
「流す?」
「三枝神社の地下にある界傷は、千年以上にわたって封じられている。その封印には、歴代の祓い人の霊力だけでなく、この街に住んだ人間たちの記憶や祈りも蓄積されている」
「それを、五芒星の各地点へ流す?」
「そうだ。奴らは神社の封印を壊すのではなく、裏返すつもりだ」
こよりが足を止めた。
「裏返す……」
「封じている力を、幽禍を閉じ込めるためではなく、幽禍を現実に固定するために使う。そうなれば、幽禍は一時的な怪異ではなく、この世界の一部になる」
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「街じゅうが、幽禍の住処になるってことか?」
「それだけではない」
朔の視線が、三枝神社の方向へ向く。
「神社の地下に封じられた界傷は、単なる穴じゃない。向こう側には、巨大な何かがいる」
「何か?」
「名前は知らない。だが、御堂の古い記録にはこう書かれていた」
朔は、低い声で記憶をなぞった。
「『界の底に眠るものは、名を持たず、ただ人間の祈りによって形を得る』」
蓮司が手帳に書き込む。
「それは幽禍なのか?」
「わからない。だが、別の勢力はそれを呼び起こそうとしている」
「何のために?」
「そこまでは知らない」
朔が言葉を切った。
「だから、天文台を調べる。あそこは、昔から神社の地下の反応を観測していた。奴らがそこで何を見つけたのかを知らなければ、次の手が読めない」
見えてきた三枝神社の鳥居を、朝日が赤く染めていた。
いつもなら、帰ってきたという安心感がある場所だ。だが今は、鳥居の向こうに何かが潜んでいるように見える。
こよりが境内へ入る前に、振り返った。
「朔さん」
「何だ」
「母上には、まだ連絡を取っていないのですか」
朔の表情が、初めて明確に揺れた。
「……母は、もう戦えない」
「戦ってもらうつもりはありません」
「なら、なぜ聞く」
「和昌のことを、吹雪さんから直接聞きたいと思っています」
朔は答えなかった。
吹雪の名を聞いた時、彼の目の奥に、警戒とも恐怖ともつかない色が浮かんだ。
「母は、あの夜のことを話したがらない」
「それでも、聞かなければなりません。父の死を、私が他人の記憶だけで背負うわけにはいかないからです」
こよりの声は静かだった。
泣き崩れた少女ではなく、自分の過去を自分の手に取り戻そうとする巫女の声だった。
「……わかった。連絡する」
朔は、短く答えた。
「ただし、母が話すかどうかは母が決める」
「ええ。それで構いません」
そのやり取りを聞きながら、俺は朔が初めて、過去から逃げずに誰かへ向き合おうとしているのを感じた。
蓮司が社務所の方を指差す。
「まずは九衛門さんへの報告だ。俺はその後、医者に行く」
「医者に行くのか?」
俺が聞いた。
「当たり前だ。無畏があるからといって、治療が不要になるわけではない」
「お前、さっきまで医者より記録を優先しようとしてたじゃん」
「優先順位を改めた」
「偉い」
「当然だ」
蓮司は、手帳を胸ポケットにしまった。
その動きがいつもより少しだけ遅いことに、俺は気づいた。
だが、本人が何も言わないなら、俺も追及しなかった。
四人で社務所へ向かう。
先頭を歩くこより。隣に朔。少し後ろに蓮司と俺。
ついさっきまで、別々の道を歩いていた四人だった。
それが、同じ場所へ向かっている。
ただの一時的な共闘なのかもしれない。
朔がまた勝手に離れていく可能性もある。
俺たちが次の戦いで、誰かを失う可能性だってある。
それでも今は、隣にいる。
そして、五芒星の中心には三枝神社がある。
敵は、神社の地下に眠る何かを呼び起こそうとしている。
その正体を知らないまま、俺たちは次の戦いへ進むしかなかった。
社務所の戸を開けた瞬間、奥から九衛門の声が飛んできた。
「遅いぞ、お前たち! ……いや、何じゃその人数は」
九衛門が、朔を見て目を見開く。
朔は無言で頭を下げた。
「御堂朔です。しばらく、こちらで厄介になります」
「しばらく?」
九衛門が俺たちを見回す。
「正式加入です」
こよりが言った。
「仮加入だ」
朔が否定した。
「どっちだよ!」
俺の叫びに、九衛門が深々とため息をついた。
「……和昌。お前の娘と、吹雪の息子が、とうとう同じ場所に立ったか」
その呟きには、喜びよりも重い予感が滲んでいた。
九衛門は、俺たちを社務所の奥へ招き入れた。
「話を聞こう。天文台のことも、五芒星のことも。そして……朔、おぬしの母に連絡を取る準備もせねばならん」
その瞬間、境内の奥で、何かが鳴った。
金属を爪で弾いたような、細く長い音。
俺たちは一斉に振り返った。
社殿の屋根の上。
誰もいないはずの場所に、白い札が一枚、風もないのに揺れていた。
札に描かれているのは、五芒星ではない。
黒い円の中に、開いた目が一つ。
朔の顔から、血の気が引いた。
「……奴らは、もう次の手を打った」
こよりが札を見上げる。
「天文台ではありませんね」
「違う」
朔が玄武を呼び出す。
青黒い甲羅の盾が、社殿と俺たちの間に展開された。
「これは、警告だ」
白い札の中央に描かれた目が、ゆっくりと開いた。
次の瞬間、境内全体に、知らない女の声が響き渡った。
『三枝の巫女よ。御堂の子よ。次は、あなたたちの大切なものを器にする』
声が消える。
札が黒い炎に包まれ、灰も残さず燃え尽きた。
こよりは、しばらく何も言わなかった。
やがて、懐から吸印札を取り出し、燃え残った霊力を封じ込める。
「……大切なもの、ですか」
その声は静かだった。
しかし、札を握る指は震えていた。
朔が、玄武の盾を消す。
「奴らは、俺たちが守ろうとするものを知っている」
「なら、知られて困るものを減らせばいい」
蓮司が言った。
「守る対象を、共有し、増やす。そうすれば、一人に集中しない」
こよりが、蓮司を見る。
「それは、具体的には?」
「まず、情報を共有する。次に、敵が狙う可能性のある場所と人間を洗い出す。それから、誰か一人で行動しない」
「最後の項目は、三上さんと朔さんに徹底してもらいましょう」
「俺もかよ!」
「当然だ」
朔が言った。
「お前も同じくらい無茶をする」
「お前にだけは言われたくない!」
九衛門が、疲れたように笑った。
「騒がしいのう。だが、悪くない」
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
四人になったばかりの俺たちは、まだ互いを完全には信じていない。朔は一人で戦う癖を捨てきれていないし、俺も無茶をする。こよりは父親の死を背負い、蓮司はいつものように記録を続けている。
不安定で、危なっかしくて、まとまりがない。
それでも、前よりは強い。
敵の正体も、地下に眠るものの名前も、まだわからない。
ただ一つわかっているのは、次の戦いでは、俺たちの誰かではなく、俺たち全員が狙われるということだった。
こよりが、社殿の奥へ視線を向ける。
その横顔には、涙の跡がまだ僅かに残っていた。
「九衛門さん。天文台の調査は、いつ行いますか」
「準備が整い次第じゃ。明日の夜までには、必要なものを揃える」
「わかりました」
こよりが振り返り、俺たちを見る。
「それまでに、各自、休養と準備を。次は誰も単独で動かないこと」
「了解」
蓮司が答えた。
朔は無言で頷いた。
俺も頷きかけて、ふと屋根の上を見た。
白い札はもうない。
だが、あの目の感触だけが、まだ空気の中に残っている。
敵は、こちらを見ている。
俺たちの大切なものを知ろうとしている。
なら、次はこっちが見返す番だ。
俺は界喰の柄を握った。
明日の夜、旧市立天文台へ向かう。
五芒星の中心へ伸びる、敵の術式の根を探るために。
そして、その先にいる何かの正体を、必ず暴いてやる。
たとえそれが、三枝神社の地下に眠るものだろうと。
たとえ、俺たち自身の大切なものが、そのために狙われるとしても。
今度は、四人で戦う。
そう決めた直後、社殿の地下から、低い振動が伝わってきた。
地面の下で、何かが目を覚ましたような音だった。




