合流
血の味がした。
口の中に溜まった鉄錆の匂いを、朔は無造作に吐き捨てた。
コンクリートの床に赤い飛沫が散る。それと同時に、背中から壁に激突した衝撃が、遅れて全身の神経を焼き切るように駆け抜けた。
「……ッ」
黒い長コートが破れ、左腕が不自然な方向に曲がっている。
肋骨は数本折れているだろう。呼吸をするたびに、肺に鋭い刃物が突き刺さるような痛みが走る。
だが、朔は倒れ込むことを許さず、壁に背を預けたまま無理やり立ち上がった。
ここは、街外れにある廃棄された地下浄水施設だ。
三枝神社を中心とした「五芒星」の陣。その外縁に位置する五つの拠点のうち、最後の一つ。
朔はここ数日、残りの四つの拠点を単独で潰して回っていた。奴らが集めた幽禍の残滓を吸印し、自分の力として使役するために。
だが、この最後の拠点だけは、様子が違った。
「……まさか、これほど早く『器』を完成させているとはな」
朔の視線の先。
広大な地下空間の中央に、それはいた。
人型ではない。獣でもない。強いて言うなら、無数の「腕」が絡み合ってできた巨大な肉塊だ。
その表面には、何百、何千という人間の顔が浮かび上がり、声にならない悲鳴を上げ続けている。
「『別の勢力』とやら……趣味が悪いにも程がある」
朔が呟くと、暗闇の奥から、くぐもった笑い声が響いた。
『趣味が悪い? これは芸術だよ、御堂の生き残り』
肉塊の背後から姿を現したのは、顔を白い仮面で覆った男だった。
仮面には、目と口の部分に黒い穴が空いているだけで、表情は一切読み取れない。だが、その声には明らかな嘲笑が混じっていた。
『我々がこの街の界傷を広げ、人間の執着をかき集めて作った最高傑作だ。お前がチマチマと集めていた三十七体の幽禍など、これの足元にも及ばない』
「……そうかよ。なら、試してみるか」
朔は右手で青白い札を取り出し、血まみれの唇の前に構えた。
「出ろ」
短い詠唱とともに、朔の影から三十七体の幽禍が一斉に飛び出した。
猿、犬、鳥、そして廃病院で取り込んだ複合幽禍。
それらが一塊の黒い濁流となって、巨大な肉塊へと襲い掛かる。
だが——。
『無駄だと言っている』
仮面の男が指を鳴らした瞬間。
巨大な肉塊から無数の「腕」が伸び、朔が放った幽禍たちを次々と捕らえた。
そして、まるで泥団子を握り潰すように、三十七体の幽禍を次々と自らの肉体へと取り込んでいく。
「なっ……」
朔の目が驚愕に見開かれた。
吸印札で使役している幽禍は、朔の霊力で縛られている。それを強引に引き剥がし、吸収するなど、通常の怪異には不可能なはずだ。
『お前が集めた幽禍も、所詮は人間の執着の残滓。我々の最高傑作にとっては、良い餌でしかない』
仮面の男が笑う。
三十七体の幽禍をすべて飲み込んだ肉塊は、さらに一回り大きく膨張し、地下空間の天井に届きそうなほどの威容を誇っていた。
「……チッ」
朔は舌打ちし、残された唯一の封使——玄武を呼び出した。
足元の影が盛り上がり、巨大な亀の甲羅のような盾が朔の前に展開される。
『玄武か。四神の封使とはいえ、たった一つで何ができる?』
仮面の男が腕を振り下ろす。
肉塊から放たれた無数の腕が、鞭のようにしなりながら玄武の盾に叩きつけられた。
ドォォォォン!!
凄まじい衝撃音が地下空間に響き渡る。
玄武の盾は全方位の攻撃を反発させる特性を持つ。腕の打撃は弾き返されたが、その反動は術者である朔の肉体に直接跳ね返ってきた。
「がはッ……!」
口から大量の血を吐き、朔は再び壁に叩きつけられた。
玄武の盾に、ピキリと亀裂が入る。
(……限界か)
薄れゆく意識の中で、朔は自嘲気味に笑った。
母・吹雪から聞かされて育った、あの日の惨劇。
朱雀、白虎、青龍の術士を瞬殺した、超危険な幽禍。
目の前にいるこの肉塊は、あの時の幽禍と同等——いや、それ以上の力を持っている。
(……和昌さん)
朔の脳裏に、母の言葉が蘇る。
『私たちが生きているのは、和昌さんが命を賭けて守ってくれたから。だから朔、あなただけは……三枝の血を絶やしては駄目よ』
母は、泣きながらそう言った。
御堂の系統でありながら、三枝神社の結界を守るために戦い、そして死んでいった和昌。
朔は、その和昌の忘れ形見であるこよりを、何としても守りたかった。
だから、あの半端な高校生たちを遠ざけようとした。
自分一人で、すべての泥を被って、この街の結界を守り抜くつもりだった。
(……だが、届かなかったな)
朔の視界が、黒く染まっていく。
肉塊が、最後の一撃を振り下ろそうと、巨大な腕を高く振り上げた。
『死ね、御堂の生き残り』
仮面の男の冷酷な声が響く。
朔は、目を閉じた。
——その時だった。
「……間に合ったか」
頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
ドォォォォン!!
直後、地下浄水施設の分厚いコンクリートの天井が、凄まじい轟音とともに粉砕された。
瓦礫の雨が降り注ぐ中、天井に空いた巨大な穴から、三つの影が舞い降りてくる。
「……お前ら……」
朔が薄目を開けると、そこには、土煙の中に立つ三人の姿があった。
六角棒を肩に担いだ、真面目そうな長身の男。
黒い刀——界喰を右手に提げた、生意気な高校生。
そして、白衣と緋袴の巫女装束を纏った、黒髪ツインテールの少女。
「……どうして、ここが……」
朔が掠れた声で問うと、三上と呼ばれていた高校生が、振り返りもせずに答えた。
「お前が残した五芒星の地図だよ。残りの四つが潰されてるなら、最後の一つはここしかないだろ」
「……馬鹿が。お前らの手に負える相手じゃ……」
「黙ってろ。お前が一人で背負い込む理由は、全部九衛門さんから聞いた」
三上が、界喰の柄を強く握りしめる。
「ここは、俺たちが引き受ける。蓮司、朔の治療を頼む」
「ああ。無畏」
蓮司が短く呼ぶと、淡い光が朔の体を包み込んだ。
折れた肋骨が繋がり、左腕の痛みが引いていく。
『……三枝の連中か。わざわざ死にに来るとは、ご苦労なことだ』
仮面の男が、嘲笑うように言う。
「死ぬのはお前だ」
三上の隣で、こよりが一歩前に出た。
その瞳には、これまでにないほどの強い怒りが宿っていた。
「お父さんが命懸けで守ったこの街を……そして、朔さんが一人で守ろうとしたこの場所を、これ以上好きにはさせません」
こよりが、懐から数枚の札を取り出す。
同時に、彼女の身体を覆う霊力が、爆発的に膨れ上がった。
「韋天——最大解放」
こよりの宣言とともに、彼女の足元のコンクリートが放射状に砕け散った。
三十倍に強化された身体能力。それはもはや、人間の動きではない。
朔は、目を見張った。
母から聞いていた、和昌の韋天。
それを引き継いだ少女が今、自分を守るために、あの巨大な肉塊へと単騎で突撃していく。
「三上さん! 合わせます!」
「おう!」
こよりの背中を追うように、三上が阿伽の風に乗って跳躍する。
朔は、ただその光景を、息を呑んで見つめることしかできなかった。
自分が遠ざけようとした彼らは、いつの間にか、朔が想像していたよりも遥かに強くなっていた。
「……ふっ」
朔の口から、自然と笑みがこぼれた。
「……世話の焼ける連中だ」
朔は、完全に修復された左腕で立ち上がり、再び玄武の盾を展開した。
今度は、一人じゃない。
和昌が守り抜いた三枝の巫女と、その仲間たちとともに。
朔は、仮面の男に向けて、鋭い視線を放った。
*
「——シッ!」
こよりの鋭い呼気とともに、白衣と緋袴が空中で反転する。
三十倍の身体強化を乗せた回し蹴りが、肉塊から伸びてきた巨大な腕を根本から粉砕した。
だが、肉塊は痛痒を感じる様子もなく、切断面から新たな腕を瞬時に再生させ、こよりの背後から襲い掛かる。
「こより!」
上空から三上が叫ぶ。
だが、こよりは振り返ることもなく、空中で姿勢を捻った。
「玄武——展開!」
朔が指を弾く。
こよりの背後に、亀の甲羅のような光の盾が瞬時に形成された。
肉塊の腕が盾に激突し、凄まじい反発力で弾き返される。
「……助かりました、朔さん」
「礼には及ばん。前だけ見ていろ」
朔が短く答えると、こよりは無言で頷き、再び肉塊の懐へと飛び込んでいく。
その連携は、まるで何年も前から一緒に戦ってきたかのように自然だった。
(……不思議なものだな)
朔は、玄武の盾を操りながら、内心で苦笑した。
これまで、誰とも組まずに一人で戦ってきた。和昌への負い目と、三枝を守るという使命感だけで、自分の命を削りながら幽禍を集め続けてきた。
だが今、こうして彼らと背中を預け合っていると、張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩むのを感じた。
『小賢しい真似を……!』
仮面の男が苛立ちの声を上げる。
肉塊の表面に浮かぶ無数の顔が一斉に悲鳴を上げ、そこから黒い瘴気が渦を巻いて噴き出した。
瘴気は無数の鋭い棘に変化し、全方位に向かって放たれる。
「蓮司!」
「わかってる!」
三上の声に応え、蓮司が六角棒を構えて前に出る。
無畏の治癒能力は、傷を治すだけではない。自身の肉体の再生力を極限まで高めることで、一時的に致命傷を無効化する盾として機能する。
蓮司は自らを盾にして、朔とこよりに向かう棘の雨をその身で受け止めた。
肉を貫く鈍い音が響くが、蓮司は一歩も引かない。
「三上、今だ!」
蓮司が叫ぶ。
その声に応えるように、三上が阿伽の風に乗って、肉塊の頭上へと舞い降りた。
『界喰か……だが、この肉塊のどこを斬るつもりだ? これには、核など存在しない!』
仮面の男が嘲笑う。
確かに、この肉塊は無数の人間の執着が寄り集まったものだ。単一の核が存在しない以上、これまでの幽禍のように急所を突くことはできない。
だが、三上の瞳には、迷いがなかった。
「核がないなら……全部まとめて繋がってる『理屈』を斬るだけだ!」
三上が、界喰を両手で上段に構える。
その瞳が、黒く澄んだ光を帯びる。
(……見えるか、三上)
朔は、息を呑んで見上げた。
人間の術者が操る、無数の幽禍を束ねる『上位の理屈』。
それは、朔にも見えない、術式の深淵だ。
「そこだァァァッ!」
三上が、虚空に向かって界喰を振り下ろした。
肉塊の肉体ではない。
肉塊と、仮面の男の間に見えない糸のように繋がっている、空間の歪み。
界喰の黒い刃が、その歪みを両断した。
——パリン。
ガラスが割れるような、甲高い音が地下空間に響いた。
『なっ……馬鹿な……! 私の、支配の術式が……!』
仮面の男が、初めて狼狽の声を上げた。
直後、肉塊の動きがピタリと止まる。
無数の顔が上げていた悲鳴が止み、肉塊の表面から黒い瘴気が急速に失われていく。
統制を失った幽禍の集合体は、自らの重みに耐えきれず、ドロドロと崩れ落ち始めた。
「こより!」
「はい!」
三上の声に合わせ、こよりが懐から大量の吸印札を取り出し、崩れ落ちる肉塊に向けて放り投げた。
「——急々如律令!」
こよりの詠唱とともに、札が青白い光を放ち、肉塊の残骸を一気に吸い込んでいく。
朔が三十七体の幽禍を集めるのにかかった時間を、たった数秒で終わらせる、三枝神社の正統な祓いの術式。
やがて、光が収まると、地下空間には静寂が戻っていた。
『……おのれ、三枝の小娘……それに、あの界喰の小僧……!』
仮面の男が、ギリッと歯を噛み鳴らす。
その背後で、空間がぐにゃりと歪み、黒い界傷の亀裂が口を開けた。
『今日のところは退いてやる。だが、五芒星の陣はまだ生きている。いずれ必ず、この街の結界は我々がこじ開ける……!』
男はそう言い残し、界傷の亀裂の中へと姿を消した。
直後、亀裂は音もなく閉じ、完全な静寂が訪れた。
「……逃げられたか」
三上が、界喰を下ろして息を吐く。
蓮司も、無畏の再生を解き、その場にへたり込んだ。
「大丈夫ですか、蓮司さん」
「ああ……かすり傷だ。無畏があるからな」
こよりが蓮司の無事を確認し、それから、ゆっくりと朔の方へ歩み寄ってきた。
「朔さん」
こよりが、朔の前に立つ。
朔は、気まずそうに視線を逸らした。
「……何だ。礼なら言わねえぞ。俺は頼んでない」
「お父さんのこと、九衛門から聞きました」
こよりの言葉に、朔はピクリと肩を震わせた。
「あなたが、お父さんの死を背負って、一人でこの街を守ろうとしてくれていたこと……感謝します。ですが」
こよりが、朔の目を真っ直ぐに見据える。
「これからは、一人で背負い込まないでください。お父さんが守ったのは、あなたのお母様だけではありません。この神社も、この街も、すべてです。……だから、私たちと一緒に守りましょう」
その言葉には、一切の淀みがなかった。
朔は、こよりの青紫の瞳を見つめ返し——やがて、小さくため息をついた。
「……お前、和昌さんにそっくりだな。そういう頑固なところ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
こよりが、ふっと微笑む。
朔も、つられて微かに口角を上げた。
「……おい、三上」
朔は、少し離れた場所に立つ三上に声をかけた。
「お前、さっきの界喰の一撃……悪くなかったぞ」
「へっ。当たり前だろ。お前に『本当の使い方を知らない』って言われてから、ずっと考えてたんだからな」
三上が、得意げに笑う。
朔は、黒い長コートの埃を払いながら、彼らの方へ歩み寄った。
「五芒星の陣は、まだ終わっちゃいない。あの仮面の男が言った通り、奴らは必ずまた来る」
朔の言葉に、三上、こより、蓮司の三人が、同時に頷いた。
「ああ。次に来る時が、本当の決戦だ」
三上が、界喰を背中に収める。
地下浄水施設の暗闇の中で、四人の影が一つに交わっていた。
敵対していた御堂の生き残りが、三枝の巫女とその仲間たちと、真の意味で一つになった瞬間だった。




