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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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20/23

合流

 血の味がした。

 口の中に溜まった鉄錆の匂いを、朔は無造作に吐き捨てた。

 コンクリートの床に赤い飛沫が散る。それと同時に、背中から壁に激突した衝撃が、遅れて全身の神経を焼き切るように駆け抜けた。


「……ッ」


 黒い長コートが破れ、左腕が不自然な方向に曲がっている。

 肋骨は数本折れているだろう。呼吸をするたびに、肺に鋭い刃物が突き刺さるような痛みが走る。

 だが、朔は倒れ込むことを許さず、壁に背を預けたまま無理やり立ち上がった。


 ここは、街外れにある廃棄された地下浄水施設だ。

 三枝神社を中心とした「五芒星」の陣。その外縁に位置する五つの拠点のうち、最後の一つ。

 朔はここ数日、残りの四つの拠点を単独で潰して回っていた。奴らが集めた幽禍の残滓を吸印し、自分の力として使役するために。

 だが、この最後の拠点だけは、様子が違った。


「……まさか、これほど早く『器』を完成させているとはな」


 朔の視線の先。

 広大な地下空間の中央に、それはいた。

 人型ではない。獣でもない。強いて言うなら、無数の「腕」が絡み合ってできた巨大な肉塊だ。

 その表面には、何百、何千という人間の顔が浮かび上がり、声にならない悲鳴を上げ続けている。


「『別の勢力』とやら……趣味が悪いにも程がある」


 朔が呟くと、暗闇の奥から、くぐもった笑い声が響いた。


『趣味が悪い? これは芸術だよ、御堂の生き残り』


 肉塊の背後から姿を現したのは、顔を白い仮面で覆った男だった。

 仮面には、目と口の部分に黒い穴が空いているだけで、表情は一切読み取れない。だが、その声には明らかな嘲笑が混じっていた。


『我々がこの街の界傷(かいしょう)を広げ、人間の執着をかき集めて作った最高傑作だ。お前がチマチマと集めていた三十七体の幽禍(ゆうか)など、これの足元にも及ばない』

「……そうかよ。なら、試してみるか」


 朔は右手で青白い札を取り出し、血まみれの唇の前に構えた。


「出ろ」


 短い詠唱とともに、朔の影から三十七体の幽禍(ゆうか)が一斉に飛び出した。

 猿、犬、鳥、そして廃病院で取り込んだ複合幽禍。

 それらが一塊の黒い濁流となって、巨大な肉塊へと襲い掛かる。


 だが——。


『無駄だと言っている』


 仮面の男が指を鳴らした瞬間。

 巨大な肉塊から無数の「腕」が伸び、朔が放った幽禍たちを次々と捕らえた。

 そして、まるで泥団子を握り潰すように、三十七体の幽禍を次々と自らの肉体へと取り込んでいく。


「なっ……」


 朔の目が驚愕に見開かれた。

 吸印札で使役している幽禍は、朔の霊力で縛られている。それを強引に引き剥がし、吸収するなど、通常の怪異には不可能なはずだ。


『お前が集めた幽禍も、所詮は人間の執着の残滓。我々の最高傑作にとっては、良い餌でしかない』


 仮面の男が笑う。

 三十七体の幽禍をすべて飲み込んだ肉塊は、さらに一回り大きく膨張し、地下空間の天井に届きそうなほどの威容を誇っていた。


「……チッ」


 朔は舌打ちし、残された唯一の封使(ふうし)——玄武を呼び出した。

 足元の影が盛り上がり、巨大な亀の甲羅のような盾が朔の前に展開される。


『玄武か。四神の封使(ふうし)とはいえ、たった一つで何ができる?』


 仮面の男が腕を振り下ろす。

 肉塊から放たれた無数の腕が、鞭のようにしなりながら玄武の盾に叩きつけられた。


 ドォォォォン!!


 凄まじい衝撃音が地下空間に響き渡る。

 玄武の盾は全方位の攻撃を反発させる特性を持つ。腕の打撃は弾き返されたが、その反動は術者である朔の肉体に直接跳ね返ってきた。


「がはッ……!」


 口から大量の血を吐き、朔は再び壁に叩きつけられた。

 玄武の盾に、ピキリと亀裂が入る。


(……限界か)


 薄れゆく意識の中で、朔は自嘲気味に笑った。

 母・吹雪から聞かされて育った、あの日の惨劇。

 朱雀、白虎、青龍の術士を瞬殺した、超危険な幽禍。

 目の前にいるこの肉塊は、あの時の幽禍(ゆうか)と同等——いや、それ以上の力を持っている。


(……和昌さん)


 朔の脳裏に、母の言葉が蘇る。


『私たちが生きているのは、和昌さんが命を賭けて守ってくれたから。だから朔、あなただけは……三枝の血を絶やしては駄目よ』


 母は、泣きながらそう言った。

 御堂の系統でありながら、三枝神社の結界を守るために戦い、そして死んでいった和昌。

 朔は、その和昌の忘れ形見であるこよりを、何としても守りたかった。

 だから、あの半端な高校生たちを遠ざけようとした。

 自分一人で、すべての泥を被って、この街の結界を守り抜くつもりだった。


(……だが、届かなかったな)


 朔の視界が、黒く染まっていく。

 肉塊が、最後の一撃を振り下ろそうと、巨大な腕を高く振り上げた。


『死ね、御堂の生き残り』


 仮面の男の冷酷な声が響く。

 朔は、目を閉じた。


 ——その時だった。


「……間に合ったか」


 頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。


 ドォォォォン!!


 直後、地下浄水施設の分厚いコンクリートの天井が、凄まじい轟音とともに粉砕された。

 瓦礫の雨が降り注ぐ中、天井に空いた巨大な穴から、三つの影が舞い降りてくる。


「……お前ら……」


 朔が薄目を開けると、そこには、土煙の中に立つ三人の姿があった。

 六角棒を肩に担いだ、真面目そうな長身の男。

 黒い刀——界喰(かいばみ)を右手に提げた、生意気な高校生。

 そして、白衣と緋袴の巫女装束を纏った、黒髪ツインテールの少女。


「……どうして、ここが……」


 朔が掠れた声で問うと、三上と呼ばれていた高校生が、振り返りもせずに答えた。


「お前が残した五芒星の地図だよ。残りの四つが潰されてるなら、最後の一つはここしかないだろ」

「……馬鹿が。お前らの手に負える相手じゃ……」

「黙ってろ。お前が一人で背負い込む理由は、全部九衛門さんから聞いた」


 三上が、界喰(かいばみ)の柄を強く握りしめる。


「ここは、俺たちが引き受ける。蓮司、朔の治療を頼む」

「ああ。無畏(むい)」


 蓮司が短く呼ぶと、淡い光が朔の体を包み込んだ。

 折れた肋骨が繋がり、左腕の痛みが引いていく。


『……三枝の連中か。わざわざ死にに来るとは、ご苦労なことだ』


 仮面の男が、嘲笑うように言う。


「死ぬのはお前だ」


 三上の隣で、こよりが一歩前に出た。

 その瞳には、これまでにないほどの強い怒りが宿っていた。


「お父さんが命懸けで守ったこの街を……そして、朔さんが一人で守ろうとしたこの場所を、これ以上好きにはさせません」


 こよりが、懐から数枚の札を取り出す。

 同時に、彼女の身体を覆う霊力が、爆発的に膨れ上がった。


「韋天(いてん)——最大解放」


 こよりの宣言とともに、彼女の足元のコンクリートが放射状に砕け散った。

 三十倍に強化された身体能力。それはもはや、人間の動きではない。


 朔は、目を見張った。

 母から聞いていた、和昌の韋天。

 それを引き継いだ少女が今、自分を守るために、あの巨大な肉塊へと単騎で突撃していく。


「三上さん! 合わせます!」

「おう!」


 こよりの背中を追うように、三上が阿伽(あか)の風に乗って跳躍する。

 朔は、ただその光景を、息を呑んで見つめることしかできなかった。

 自分が遠ざけようとした彼らは、いつの間にか、朔が想像していたよりも遥かに強くなっていた。


「……ふっ」


 朔の口から、自然と笑みがこぼれた。


「……世話の焼ける連中だ」


 朔は、完全に修復された左腕で立ち上がり、再び玄武の盾を展開した。

 今度は、一人じゃない。

 和昌が守り抜いた三枝の巫女と、その仲間たちとともに。

 朔は、仮面の男に向けて、鋭い視線を放った。


 *


「——シッ!」


 こよりの鋭い呼気とともに、白衣と緋袴が空中で反転する。

 三十倍の身体強化を乗せた回し蹴りが、肉塊から伸びてきた巨大な腕を根本から粉砕した。

 だが、肉塊は痛痒を感じる様子もなく、切断面から新たな腕を瞬時に再生させ、こよりの背後から襲い掛かる。


「こより!」


 上空から三上が叫ぶ。

 だが、こよりは振り返ることもなく、空中で姿勢を捻った。


「玄武——展開!」


 朔が指を弾く。

 こよりの背後に、亀の甲羅のような光の盾が瞬時に形成された。

 肉塊の腕が盾に激突し、凄まじい反発力で弾き返される。


「……助かりました、朔さん」

「礼には及ばん。前だけ見ていろ」


 朔が短く答えると、こよりは無言で頷き、再び肉塊の懐へと飛び込んでいく。

 その連携は、まるで何年も前から一緒に戦ってきたかのように自然だった。


(……不思議なものだな)


 朔は、玄武の盾を操りながら、内心で苦笑した。

 これまで、誰とも組まずに一人で戦ってきた。和昌への負い目と、三枝を守るという使命感だけで、自分の命を削りながら幽禍を集め続けてきた。

 だが今、こうして彼らと背中を預け合っていると、張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩むのを感じた。


『小賢しい真似を……!』


 仮面の男が苛立ちの声を上げる。

 肉塊の表面に浮かぶ無数の顔が一斉に悲鳴を上げ、そこから黒い瘴気が渦を巻いて噴き出した。

 瘴気は無数の鋭い棘に変化し、全方位に向かって放たれる。


「蓮司!」

「わかってる!」


 三上の声に応え、蓮司が六角棒を構えて前に出る。

 無畏(むい)の治癒能力は、傷を治すだけではない。自身の肉体の再生力を極限まで高めることで、一時的に致命傷を無効化する盾として機能する。

 蓮司は自らを盾にして、朔とこよりに向かう棘の雨をその身で受け止めた。

 肉を貫く鈍い音が響くが、蓮司は一歩も引かない。


「三上、今だ!」


 蓮司が叫ぶ。

 その声に応えるように、三上が阿伽(あか)の風に乗って、肉塊の頭上へと舞い降りた。


『界喰(かいばみ)か……だが、この肉塊のどこを斬るつもりだ? これには、核など存在しない!』


 仮面の男が嘲笑う。

 確かに、この肉塊は無数の人間の執着が寄り集まったものだ。単一の核が存在しない以上、これまでの幽禍(ゆうか)のように急所を突くことはできない。

 だが、三上の瞳には、迷いがなかった。


「核がないなら……全部まとめて繋がってる『理屈』を斬るだけだ!」


 三上が、界喰(かいばみ)を両手で上段に構える。

 その瞳が、黒く澄んだ光を帯びる。


(……見えるか、三上)


 朔は、息を呑んで見上げた。

 人間の術者が操る、無数の幽禍を束ねる『上位の理屈』。

 それは、朔にも見えない、術式の深淵だ。


「そこだァァァッ!」


 三上が、虚空に向かって界喰(かいばみ)を振り下ろした。

 肉塊の肉体ではない。

 肉塊と、仮面の男の間に見えない糸のように繋がっている、空間の歪み。

 界喰の黒い刃が、その歪みを両断した。


 ——パリン。


 ガラスが割れるような、甲高い音が地下空間に響いた。


『なっ……馬鹿な……! 私の、支配の術式が……!』


 仮面の男が、初めて狼狽の声を上げた。

 直後、肉塊の動きがピタリと止まる。

 無数の顔が上げていた悲鳴が止み、肉塊の表面から黒い瘴気が急速に失われていく。

 統制を失った幽禍の集合体は、自らの重みに耐えきれず、ドロドロと崩れ落ち始めた。


「こより!」

「はい!」


 三上の声に合わせ、こよりが懐から大量の吸印札を取り出し、崩れ落ちる肉塊に向けて放り投げた。


「——急々(きゅうきゅう)如律令(にょりつりょう)!」


 こよりの詠唱とともに、札が青白い光を放ち、肉塊の残骸を一気に吸い込んでいく。

 朔が三十七体の幽禍を集めるのにかかった時間を、たった数秒で終わらせる、三枝神社の正統な祓いの術式。

 やがて、光が収まると、地下空間には静寂が戻っていた。


『……おのれ、三枝の小娘……それに、あの界喰の小僧……!』


 仮面の男が、ギリッと歯を噛み鳴らす。

 その背後で、空間がぐにゃりと歪み、黒い界傷(かいしょう)の亀裂が口を開けた。


『今日のところは退いてやる。だが、五芒星の陣はまだ生きている。いずれ必ず、この街の結界は我々がこじ開ける……!』


 男はそう言い残し、界傷の亀裂の中へと姿を消した。

 直後、亀裂は音もなく閉じ、完全な静寂が訪れた。


「……逃げられたか」


 三上が、界喰(かいばみ)を下ろして息を吐く。

 蓮司も、無畏(むい)の再生を解き、その場にへたり込んだ。


「大丈夫ですか、蓮司さん」

「ああ……かすり傷だ。無畏があるからな」


 こよりが蓮司の無事を確認し、それから、ゆっくりと朔の方へ歩み寄ってきた。


「朔さん」


 こよりが、朔の前に立つ。

 朔は、気まずそうに視線を逸らした。


「……何だ。礼なら言わねえぞ。俺は頼んでない」

「お父さんのこと、九衛門から聞きました」


 こよりの言葉に、朔はピクリと肩を震わせた。


「あなたが、お父さんの死を背負って、一人でこの街を守ろうとしてくれていたこと……感謝します。ですが」


 こよりが、朔の目を真っ直ぐに見据える。


「これからは、一人で背負い込まないでください。お父さんが守ったのは、あなたのお母様だけではありません。この神社も、この街も、すべてです。……だから、私たちと一緒に守りましょう」


 その言葉には、一切の淀みがなかった。

 朔は、こよりの青紫の瞳を見つめ返し——やがて、小さくため息をついた。


「……お前、和昌さんにそっくりだな。そういう頑固なところ」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 こよりが、ふっと微笑む。

 朔も、つられて微かに口角を上げた。


「……おい、三上」


 朔は、少し離れた場所に立つ三上に声をかけた。


「お前、さっきの界喰(かいばみ)の一撃……悪くなかったぞ」

「へっ。当たり前だろ。お前に『本当の使い方を知らない』って言われてから、ずっと考えてたんだからな」


 三上が、得意げに笑う。

 朔は、黒い長コートの埃を払いながら、彼らの方へ歩み寄った。


「五芒星の陣は、まだ終わっちゃいない。あの仮面の男が言った通り、奴らは必ずまた来る」


 朔の言葉に、三上、こより、蓮司の三人が、同時に頷いた。


「ああ。次に来る時が、本当の決戦だ」


 三上が、界喰を背中に収める。

 地下浄水施設の暗闇の中で、四人の影が一つに交わっていた。

 敵対していた御堂の生き残りが、三枝の巫女とその仲間たちと、真の意味で一つになった瞬間だった。

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