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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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2/7

猿楽の幽禍

旧講堂の照明が、一斉に死んだ。


闇が落ちる、というより、舞台そのものがこちら側から切り離されたようだった。天井も、客席も、舞台袖も、輪郭を失う。数秒前まで埃っぽいだけだった旧講堂の空気が、急に湿った獣の臭いを帯びた。


ぱち。


どこかで音がした。


ぱち。


また鳴る。


ぱち、ぱち、ぱち。


拍手だった。


人の手の音ではない。客席の椅子が、座面と背もたれをぶつけて鳴っている。壊れかけの木材がきしみ、金具が震え、誰も座っていないはずの観客席から、乾いた喝采だけが増えていく。


分かりたくなかったが、分かってしまった。俺の人生は、分かりたくないことばかり分かるようにできている。


「白石さん、動くな」


俺は手探りで白石真帆の肩を押さえた。


返事はない。彼女はさっきの衝撃で気を失っている。少なくとも、本人は動いていない。


だが、彼女の足元だけは違った。


白石の影が、闇の中でゆっくりと立ち上がるように濃くなった。本人は膝から崩れ落ちているのに、影だけが舞台中央へ一歩進む。そして誰もいない客席に向かって、深々と一礼した。


ぱち。


拍手が増えた。


影は顔を上げる。影に顔などない。だが、それでも俺には分かった。


あれは笑っている。


「……なるほどな」


俺は心底嫌そうに息を吐いた。


「こいつ、白石を殺したいんじゃない。舞台に上げたいんだ」


舞台袖で、三枝こよりの札が鳴った。乾いた紙の音が、暗闇を四つに裂く。


「三上さん、白石さんを下げてください。三橋さん、客席側を塞いで」


声はいつも通り静かだった。だが、その静けさは安心材料ではない。こよりが本気で祓う時の声だ。


「了解した」


蓮司の六角棒が床を叩く。とん、と一度。それだけで、怖いものが来る方向にあいつが立ったのが分かった。


俺は白石を抱えるようにして舞台袖へ引きずる。意識のない人間は重い。しかも、彼女の影は床に貼りついたまま、舞台中央へ行こうとしている。白石の身体を下げるたび、影が薄く伸び、黒いゴムのように抵抗した。


「白石さん、悪い。あとで謝る」


俺は彼女の身体を壁際まで運び、崩れないように座らせた。


その間に、こよりは四方へ札を打ち込んでいた。舞台上手、下手、客席前列、天井の梁。白い札が空中に留まり、見えない糸で互いを結ぶ。埃の匂いの底から、線香のような匂いが立ち上った。


結界が閉じる。


その瞬間、白石の影が悲鳴を上げた。


影に口などない。


だが、確かに笑っていた。


床板が内側から裂けた。


黒い腕が生える。


いや、腕ではない。毛に覆われた巨大な前肢だった。爪が舞台板を剥がし、支柱をへし折り、何かが這い出してくる。三メートル近い猿。だが、ただの獣ではない。顔の半分に、演劇部の小道具置き場にあったはずの白い面が貼りついている。


笑っているのか、泣いているのか分からない面だった。


猿の背中から黒い血のようなものが滲む。粘ついた液体が毛並みを濡らし、舞台に落ちるたび、じゅう、と焦げるような音を立てた。


ぱち。


ぱち。


ぱちぱちぱちぱち。


拍手が増えるたび、猿の背が膨れた。筋肉が盛り上がり、骨格が一回り大きくなる。割れた面の奥で、赤黒い眼がこちらを見た。


「喝采で育つタイプか」

「最悪ですね」


こよりが言った。


彼女は制服姿のままだ。けれど、札を挟む指、背筋、目つきだけは、神前に立つ巫女のそれだった。白い肌と整った顔立ち、豊かな体つきのせいで一見柔らかく見えるのに、今のこよりからは刃物じみた硬さしか感じない。


「では、拍手が止むまで殴ります」

「発想が巫女じゃなくて山賊なんだよ」

「祓えれば同じです」


言うが早いか、こよりが息を吸った。


その一呼吸で、空気が変わる。


韋天(いてん)


こよりが名を呼んだ。


返事はない。ただ、床板が爆ぜた。


次の瞬間、こよりの姿が消えた。


いや、消えたように見えただけだ。舞台袖の柱、壁、天井、照明バトン。そのすべてに、白と紺の残像が走る。豊かな体つきからは想像できないほど鋭い加速で、彼女は旧講堂の内側を跳ね回っていた。ツインテールの長い髪が遅れて流れ、札が赤い尾を引く。

韋天(いてん)はこよりの身体能力を二十倍に強化。少女の拳でも一撃必殺の力となる。


猿が吠えた。

その声より早く、こよりの拳が入る。


鈍い音がした。肉を打つ音ではない。壁を内側から砕くような音だった。猿の右肋がまとめてへし折れ、黒い血が扇状に舞台へ散った。返り血がこよりの頬を汚す。

彼女は瞬きもしない。


「三橋さん、左腕」

「承知」


蓮司が走った。六角棒が床を削り、火花を散らす。猿の左腕がこよりを叩き潰そうと振り下ろされた瞬間、蓮司がその下に入った。

骨の折れる音がした。

蓮司の腕か、猿の腕か。たぶん両方だ。


「三上さん」


こよりが宙で反転しながら言った。


「見ていますね」

「見たくないものまでな」


俺は白石の足元を見た。


影がまだ残っている。猿は結界で引き剥がされたはずなのに、白石の影から客席へ、細い黒糸が何本も伸びていた。糸が震えるたび、客席の椅子が拍手する。拍手が鳴るたび、猿の傷が塞がっていく。


「本体じゃない」


俺は舌打ちした。


「あいつ、拍手で縫い直されてる」


猿の折れた肋が、内側からめきめきと戻った。黒い血が傷口へ吸い込まれ、割れた肉が塞がる。こよりが与えた損傷が、拍手に合わせてなかったことにされていく。


「三上、接続を探せ」


蓮司が短く言った。


「言われなくても探してる」

「では、時間は稼ぐ」


蓮司は折れかけた腕で六角棒を構え直した。あいつの無表情は便利だ。痛いのか痛くないのか分からない。いや、痛いに決まっている。分からないのは、なぜそれで前に出られるのかだ。


猿が跳んだ。


巨体に似合わない速度だった。舞台板が砕け、黒い毛の塊がこよりへ迫る。こよりは天井の梁を蹴り、紙一重でかわす。だが猿の腕は一本では終わらない。拍手が増えるたび、肩口から影の腕が生え、四本、六本と増えていく。


「増えるのは反則だろ」

「三上さん、文句より観察を」

「してるよ。ものすごく嫌々」


こよりは空中で身体を捻り、猿の腕の一本に拳を叩き込んだ。猿の腕は千切れ飛び、黒い体液が吹き出し猿の動きが一拍遅れる。


その一拍に、蓮司が入った。


六角棒が猿の肘を砕く。骨が折れ、肉が裂け、黒い血が蓮司の制服を汚した。だが、猿は止まらない。別の腕が横から振り抜かれ、蓮司の身体を舞台袖の壁へ叩きつけた。


壁が割れた。


「蓮司!」

「問題ない」


即答するな。どう見ても問題はある。

猿の拳が、こよりの腹を捉えた。

旧講堂の空気が破裂する。こよりの身体がくの字に折れ、口から血が飛んだ。普通なら、そのまま壁まで叩きつけられて終わる。

だが、こよりは終わらなかった。

彼女は猿の手首を両足で挟み、血を吐きながら、その腕にしがみつく。


「捕まえました」


こよりが着地すると気合い一閃、猿を一本背負でぶん投げ、床に叩きつける。床が割れ、猿の巨体がめり込んだ。それ、巫女の戦い方じゃないから。普通の巫女は華麗にお札とかで戦うでしょ。


さらに蓮司の六角棒が、床にめり込み動けない猿の腕を叩き折った。


骨と肉が爆ぜ、舞台に黒い血が降る。こよりは暴れた猿の足に巻き込まれて床に叩きつけられた。肺から空気が抜ける音がした。


「おい、こより!」

「問題、ありません」


どう見ても問題はあった。彼女の脇腹からは血が流れ、制服の布地が破れている。白いシャツは赤黒く汚れ、呼吸のたびに肩が小さく震えていた。だが、こよりの目だけは冷めている。痛みではなく、敵の動きだけを見ている目だ。


「三上さん、今ので拍手が半分止まりました」

「自分の肋骨も何本か止まってそうだけどな」

「後で三橋さんに治してもらいます」

「治療前提で死地に行くな」

「祓いとは、そういうものです」


こいつら全員、命の扱いが雑すぎる。


だが、こよりの言葉通り、客席の拍手は少し弱まっていた。腕から伸びていた黒糸が何本か千切れている。猿の再生速度が落ちた。

つまり、正解ではある。

正解ではあるが、もっとまともな正解がほしい。


阿伽(あか)


俺は足元へ呼びかけた。

暗闇が、わずかに揺れる。


「白石の影と、猿の接続点はどこだ」


沈黙。


こういう時、封使(ふうし)は本当に余計なことを言わない。聞かれたことに答えない時は、答えられないか、答えたくないか、どちらかだ。


阿伽(あか)


俺はもう一度呼んだ。

猿がこちらを見た。

面の奥の目が、俺を捉える。白石の影から伸びた黒糸が、ぴんと張った。

阿伽の声が、足元からした。


「下」


それだけだった。

だが、十分だった。

俺は床を見た。白石の影から伸びる黒糸。その一本だけが、他の糸と違う。客席ではない。猿の足元でもない。舞台中央に落ちた台本へ伸びている。


台本。

主演。

拍手。


逃げたい白石真帆と、見られたい白石真帆。


「そういうことかよ」


俺は息を吐いた。


「命を狙われています、じゃない。舞台に殺されます、だ」


白石は主演に選ばれた。

たぶん、嬉しかったのだと思う。選ばれたことも、見てもらえることも、拍手を浴びるかもしれないことも。


だが同じくらい、怖かったのだろう。失敗すれば笑われる。期待を裏切れば壊れる。舞台に立てば、自分の全部が照らされる。


その恐怖と欲望を、この旧講堂の何かが喰った。


白石を殺すためではない。

白石を、最高で最悪の舞台へ引きずり出すために。


「こより、蓮司。あと十秒」

「八秒にしてください」


こよりが血を拭いながら立ち上がった。


「無茶言うな」

「三上さんが遅いからです」

「俺のせいにするな」


言いながら、俺は空劫(くうごう)を呼んだ。

世界が少し薄くなる。俺の輪郭が闇に溶け、猿の視線が俺を見失う。光学迷彩のように俺の姿は現実から消えた。これを使うたびに、自分が現実から一枚剥がされていくような感覚がある。気持ちのいいものではない。だが、今は贅沢を言っていられない。


こよりが真正面から突っ込んだ。


猿の腕が、彼女の肩から胸元をかすめて、制服を裂いた。血が散る。それでもこよりは退かない。大きく息を吐き、床を蹴り、猿の顔面へ額を叩きつけた。

白い面にひびが入る。


「今です」


蓮司が猿の膝を砕く。六角棒が骨を潰し、巨体が傾いた。その隙間を、俺は抜けた。

舞台中央。

台本の上に着地する。


黒糸が蠢いた。白石の影が、俺の足元で拍手をしている。やめろ、と言っているようにも、斬ってくれ、と言っているようにも見えた。


「悪いな」


俺は黒い刀身を抜いた。


「どっちの意味でも、終演だ」


界喰(かいばみ)が、影を喰った。

拍手が止まる。

旧講堂が、一瞬だけ完全な無音になった。

その無音を、こよりの拳が破った。

猿の面が砕ける。蓮司の六角棒が膝を潰す。俺は跳び上がり、界喰を振り下ろした。

黒い刀身が、猿の頭蓋から股下までを一息に裂いた。


肉が開き、骨が割れ、内側に詰まっていた拍手の音が悲鳴みたいにこぼれた。黒い血と内臓が舞台にぶちまけられる。割れた面の奥から、猿でも人でもない顔が一瞬だけ覗いた。


それは、笑っていた。


次の瞬間、こよりが『吸印札』を取り出し広げる。


「吸印!」


札が起動すると猿の巨体が内側から折り畳まれていく。毛も、肉も、骨も、拍手も、すべてが一枚の札へ吸い込まれる。吸印札が最後に小さく震える。


もう誰も拍手しなかった。


旧講堂に残ったのは、壊れた床と、血の匂いと、気絶した白石真帆だけだった。


こよりは膝をつき、口元の血を拭った。白い頬に黒い返り血が伸びる。その姿はひどく痛々しいのに、不思議と弱々しくは見えなかった。むしろ、血に濡れたせいで、神社の娘というより、戦場から帰ってきた巫女に見えた。


「三上さん、遅いです」

「タイミングが難しいんだよ」


蓮司が無言でこよりの脇腹に手を当てた。


無畏(むい)


低く名を呼ぶ。


淡い光が傷口を覆った。裂けた肉がゆっくりと閉じていく。見ていて気分のいいものではないが、見慣れてしまっている自分が嫌だった。


「蓮司、お前の腕は」

「後でよい」

「よくないだろ」

「白石さんを先に」


蓮司は本当にこういう奴だ。真面目で、優先順位が正しくて、そのせいで自分の痛みを最後に回す。


俺は白石の足元を見た。

影はもう動かない。普通の影だ。

ただ、床に落ちた台本の端に、黒い指の跡が残っていた。

まるで、誰かが最後までページをめくろうとしていたみたいに。


「なあ、こより」

「何ですか」

「これで終わりだと思うか?」


こよりは少しだけ沈黙した。


それから、いつもの涼しい顔で答えた。


「文化祭は十日後です」

「答えになってない」

「つまり、まだ本番が残っています」


旧講堂の暗がりで、客席の奥がまた一度、ぎい、と鳴った。

今度こそ、本当に椅子の音だった。


たぶん。


幽禍は倒した。あとは白石次第だろう。

舞台に上がりたい憧れの気持ちと恐怖、そこにあの大猿の幽禍はつけいった。

幽禍は倒しても、気持ちが消えるわけではない。


「ま、俺たちの仕事はここまでだな」

「そうですね。お疲れ様でした」


俺たちは白石が目覚める前にズラかる。

ぶっ壊してしまった舞台や床、壁を見られたら怒られるに決まっているからな。



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