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界傷の祓い人  作者: 安曇 東成


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1/7

命を狙われています

旧講堂の天井から、照明器具が落ちてきた。


文化祭を十日後に控えた放課後だった。舞台上では演劇部員たちが大道具の位置を直し、客席では実行委員がパンフレットの束を数え、舞台袖では俺が、することもなく腕を組んで立っていた。


いや、正確には、することはあった。


落ちてくる照明器具を避ける、という極めて重要な用事である。


頭上で、金属の軋む音がした。


短く、嫌な音だった。何かが限界を迎える時の音は、だいたい聞いた瞬間に分かる。分かったところで、事態が好転するわけではない。次の瞬間、黒い照明器具が支柱ごと外れ、舞台袖めがけて斜めに落下してきた。


周囲の生徒たちが悲鳴を上げるより早く、俺はそれを見上げた。


「帰っていいか?」

「よくない」


即答したのは、三枝(さえぐさ)こよりだった。


こよりは舞台袖の壁際に立ち、片手に古びた紙片を持っている。制服の上から薄手のカーディガンを羽織り、長い髪をツインテールにまとめていた。表情は涼しい。落ちてくる照明器具よりも、紙片に書かれた文字の方がよほど重要だと言わんばかりだった。


「依頼文には『命を狙われています』とあります。照明が落ちてきた時点で、少なくとも命は狙われています」

「俺の命もな」


そう文句を言い終える前に、横合いから風が鳴った。


六角棒が、落下する照明器具の側面を叩いた。


鈍い衝撃音が旧講堂に響く。照明器具は軌道を逸らされ、舞台袖の床に激突した。古い板張りの床が砕け、埃が白く舞い上がる。客席側から、ようやく悲鳴が重なった。


六角棒を構えていた三橋蓮司(みつはしれんじ)は、舞い上がる埃の中で一歩も退いていなかった。背筋を伸ばし、眉ひとつ動かさず、いつも通り真面目すぎる顔をしている。


「三上。祓いに関わる者が、己の退路を求めるのは感心しない」

「今のは退路じゃない。正当な避難申請だ」

「却下だ」

「お前が却下する権利はない」

「では、こよりに判断を仰ぐ」

「却下です」

「ほら見ろ」

「二対一の多数決を祓いの判断基準にするな」


俺は肩を落とした。


旧講堂の中には、まだ埃が残っている。舞台袖の床に転がった照明器具は、電源ケーブルを引きずったまま沈黙していた。金属部分は古びていたが、支柱の切断面だけは妙に新しい。錆びた鉄が折れたのではない。何か、薄い刃物で削ぎ落とされたような断面だった。


俺はそれを一瞥し、目を細めた。


床板の隙間に、黒いひびが走っている。


普通の人間には、おそらく見えない。旧講堂が古いからでも、床が傷んでいるからでもない。木目に沿わず、影とも汚れとも違う黒が、舞台袖から壁へ、壁から天井へ、細く伸びている。


界傷(かいしょう)


俺には、そう呼ばれるものが見える。


現実のこちら側に、向こう側の何かが爪を立てた痕。異世界から染み出した幽禍が通った跡。三枝神社の宮司がそう説明したのは一年前のことだが、俺はいまだにその説明を全面的には信じていない。


全面的には信じていないが、見えるものは見える。


そして見えてしまったものは、だいたい面倒事になる。


「……当たりっぽいな」


俺が呟くと、こよりが紙片から顔を上げた。


「界傷ですか?」

「床から壁。あと天井。照明の支柱にも少し。人為的な事故ってより、誰かが現実を雑に引っ掻いた感じだな」

「表現が雑ですが、状況は分かりました」

「褒められた気がしない」

「褒めてはいません」


こよりはあっさり言って、手元の紙片をたたんだ。


それは、三枝神社の賽銭箱に入っていた依頼文だった。


三枝神社は、町外れの山裾にある小さな神社である。表向きは縁結びと学業成就の神社として知られているが、俺に言わせれば、実態は怪異相談窓口兼、面倒事の投函箱だった。


賽銭箱に時々、こういう依頼が届く。


今回の文面は短かった。


命を狙われています。


署名はない。ただし、紙片に残った界傷の反応から、こよりは依頼人がこの旧講堂に関わる人物だと判断した。文化祭前の旧講堂。演劇部。相次ぐ事故。そして今、落ちてきた照明器具。


ここまで揃うと、俺でも分かる。


帰りたい。


「こより。確認なんだが」

「何ですか」

「依頼人の特定は?」

「まだです。ただ、反応が強いのは演劇部一年、白石真帆さんの周辺です。彼女は今年の文化祭演劇で主演に選ばれています」

「主演ねえ」


俺は舞台の中央を見た。


そこでは、一人の女子生徒が、青ざめた顔で立ち尽くしていた。肩までの髪を揺らし、台本を胸に抱えている。周囲の部員が彼女を気遣って声をかけているが、返事はない。視線は舞台袖の照明器具に釘付けになっている。


白石真帆。


おそらく、彼女が依頼人だ。


あるいは、彼女が依頼人だと思わされている。


その区別が、俺はいつも嫌いだった。幽禍(ゆうか)が絡む事件では、助けを求めている人間と、騒ぎを起こしている原因が同じ人物であることも珍しくない。本人に自覚がない場合は、なおさら厄介だ。


蓮司が六角棒を肩に担ぎ直した。


「三上、どう見る」

「どうって、照明が落ちた」

「それは見れば分かる」

「じゃあ聞くなよ」

「そういう意味ではない。幽禍(ゆうか)の仕業か、人の仕業かという話だ」

「俺は専門家じゃない」

「一年前から界傷を見ている人間が何を言う」

「一年前から見てるだけで、好きで見てるわけじゃない」


俺が言うと、蓮司は少しだけ眉を寄せた。


呆れというより、苛立ちに近い表情だった。三橋蓮司は、いつも真面目だ。真面目に祓いを学び、真面目に身体を鍛え、真面目に危険な場所の前に立つ。そして真面目であるがゆえに、俺のような人間が封使(ふうし)を二体も与えられている事実を、たぶん納得していない。


俺としては、納得していないのはこっちだと言いたかった。


封使(ふうし)など、もらいたくてもらったものではない。


(あきら)


足元から俺にだけ聞こえるレベルの小さな声がした。


俺の影が、ほんの少しだけ揺れる。


封使(ふうし)阿伽(あか)


一年前、三枝神社の宮司によって名を与えられ、俺に縛られた幽禍(ゆうか)の一体である。


「上を」


阿伽が短く告げた。


俺は反射的に天井を見た。


舞台上の照明バトンが、わずかに揺れている。さっき落ちたものとは別の列だ。金属の支柱に、黒いひびが伸びている。まるで、見えない指がそこを撫でたように。


「二発目かよ」


俺が舌打ちした瞬間、こよりが動いた。


彼女はスカートのポケットから小さな札を取り出し、舞台袖の柱に叩きつけた。乾いた音と同時に、空気がぴんと張る。旧講堂の埃っぽい匂いの中に、かすかに線香のような香りが混じった。


「三橋さん、舞台中央へ。三上さんは白石さんの近くに」

「俺が?」

「依頼人候補です。守ってください」

「蓮司の方が守るの向いてるだろ」

「三橋さんは落下物を止めます。三上さんは、逃げそうな顔をしているので、逆に人の逃げ道を塞ぐのに向いています」

「最悪の適性評価だな」


だが、俺は走った。


文句を言いながらも、走った。


舞台中央では、白石真帆がようやく自分の置かれた状況に気づき、震える手で台本を抱きしめていた。彼女の足元に、薄く伸びる影がある。旧講堂の照明はまばらで、影が揺れるのは当然だ。


だが、その影は、本人より先に怯えていた。


白石が一歩も動いていないのに、影だけが舞台の奥へ逃げようとしている。


その異常を見て、俺は顔をしかめた。


「白石真帆さんだな」


彼女はびくりと肩を震わせた。


「え、あ、はい。あの、あなたは……?」

「通りすがりの、帰りたい人間だ」

「三上さん」


舞台袖から、こよりの冷たい声が飛んだ。


俺は咳払いした。


「三枝神社の関係者。たぶん、あんたの依頼を受けた」

「依頼……」


白石の顔から、さらに血の気が引いた。

その反応で、俺は確信した。賽銭箱に紙を入れたのは彼女だ。少なくとも、彼女にはその記憶がある。

だが、同時に気づく。

彼女の影が、舞台袖の落ちた照明器具の方を見ていた。

影には顔などない。

なのに、見ていると分かった。


「蓮司!」


俺が叫ぶのと、二つ目の照明バトンが外れるのは、ほとんど同時だった。

今度は舞台中央。白石の頭上だ。


蓮司が床を蹴った。六角棒を両手で握り、真っ直ぐに跳び込む。落下する金属と、人間の腕力だけで受け止めるには重すぎる質量。その間に、蓮司は迷いなく身を入れた。


次の瞬間、蓮司の六角棒が照明バトンを受け止めた。


鈍い音。床板が鳴る。蓮司の腕が軋む。それでも、彼は倒れなかった。


「下がれ、三上!」

「もう下がってる!」


俺は白石の腕を掴み、舞台の端へ引いた。白石は足がもつれ、台本を落としそうになる。それを俺が雑に押さえた。


「す、すみません……!」

「謝るのは後でいい」


白石は泣きそうな顔をした。


しまった、と思った。怯えている相手に言う台詞ではなかったかもしれない。だが、気の利いた励ましなど持ち合わせていない。


だから、視線だけは舞台から外さなかった。



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