第四話 虹を閉じ込めたオパール(後編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第四話「虹を閉じ込めたオパール」後編です。
オパールに隠されていた欠けた名前は、榊未来という十年前に死んだはずの女性へとつながっていきます。
虹の奥にあったのは、真実ではなく、さらに深い空白でした。
榊未来。
その名前は、霧笛画廊の空気を変えた。
壁から外された絵の裏に浮かび上がった、五つの文字。
MIRAE。
白河周吾が残した罠なのか。
それとも、十年前から隠されていた本当の手がかりなのか。
榊悠真は、椅子に座ったまま動かなかった。
画廊の白い壁には、何枚もの絵が掛かっている。
青と黒の絵。
赤い線の絵。
虹色の丸い光を閉じ込めた絵。
そのすべてが、今は黙ってこちらを見ているようだった。
灰原律は、榊の前に立った。
「榊未来さんについて、詳しく聞かせてください」
榊はすぐには答えなかった。
視線は、壁から外された『欠けた王冠』に向けられている。
「十年前に死んだ」
彼は低く言った。
「そう聞かされていた」
「聞かされていた?」
律の声が鋭くなる。
榊はゆっくり頷いた。
「遺体は見ていない」
玲央は何も言わず、オパールの欠片を見つめていた。
乳白色の奥に、小さな虹が沈んでいる。
角度を変えれば、美しく光る。
けれど正面から見れば、ただの白い濁りにも見える。
榊未来という名前も、同じだった。
死者として見れば、そこに終わりがある。
生者として見れば、そこには失踪がある。
そして誰かが意図的に死を作ったのなら、それは事件になる。
律が尋ねる。
「死亡届は?」
「出ているはずだ」
「はず、では困ります」
榊は苦しそうに笑った。
「当時の私は、妹から逃げていたんです」
「逃げていた?」
「未来は、白河に近づいていました。いや、近づかされていたのかもしれない。彼女は絵が好きで、宝石には興味がなかった。でも白河は、彼女の感性を気に入った」
「感性?」
玲央が初めて口を開いた。
榊は彼を見る。
「未来は、色を見分けるのが異常にうまかった。絵の具のわずかな違い、古い修復の跡、光の下で変わる色。そういうものを一目で見抜いた」
玲央の目がわずかに細くなる。
「色を見る目」
「そうだ。白河は言っていた。彼女には、石の嘘が見える、と」
律が玲央を見る。
「宝石鑑定に使われた可能性がありますね」
「ええ」
玲央は静かに頷いた。
「正式な鑑定士でなくても、色を見る目が優れている人間は役に立ちます。特に、処理石や古い宝飾品の違和感を見る場合は」
榊は唇を噛んだ。
「私は止めるべきだった」
「白河に関わるなと?」
「そうだ。でも、未来は聞かなかった。兄さんにはわからない、と言った。私は絵を売る側で、彼女は色を見る側だった。彼女は、私よりもずっと本物に近い場所にいた」
その言葉には、嫉妬と後悔が混じっていた。
玲央はそれを聞き逃さなかった。
「未来さんは、青の王冠を見たのですか」
榊は黙った。
律が一歩近づく。
「榊さん」
「見たと思う」
「なぜそう思うんです」
榊は絵を指した。
「この絵を描いたのは、未来だからだ」
画廊の空気が止まった。
律が『欠けた王冠』を見る。
「作者不明と言っていましたね」
「そう言われていた。師匠にも、白河にも。だが私は知っていた。あの色は未来の色だ」
「では、なぜ隠していたんですか」
「怖かった」
榊の声はかすれていた。
「未来の死とこの絵がつながるなら、私はその事実に耐えられなかった」
玲央は、絵の表面に目を向けた。
黒い背景。
虹色の丸い光。
かすかな金の線。
欠けた王冠。
絵として見れば抽象画。
だが、宝石事件の手がかりとして見れば、それは記録だった。
言葉では残せないものを、色で残した。
「未来さんは、王冠を描いたのではありません」
玲央は言った。
榊が顔を上げる。
「どういう意味だ」
「王冠の形ではなく、王冠の欠け方を描いています」
律が絵を見る。
「欠け方?」
「本来あるべき石がない。あるいは、本来ないはずの石がある。その違和感を、絵として残している」
玲央は、絵の虹色の丸い光を指した。
「この光だけ、周囲と筆の置き方が違います。後から加えたようにも見える」
榊が立ち上がり、絵に近づいた。
「後から……?」
「未来さん本人が加えたのか、別の誰かが加えたのかはわかりません」
律が言う。
「調べる必要がありますね」
「ええ」
玲央はオパールの欠片を絵の近くに置いた。
欠片の中の緑が、絵の中の虹色と一瞬だけ重なった。
そのとき、榊が小さく呟いた。
「岬のアトリエ」
律が振り向く。
「何ですか」
「未来が最後に使っていた場所だ。観音崎の近くに、小さなアトリエがあった」
「なぜ今まで言わなかったんです」
「忘れていたわけじゃない。思い出したくなかったんだ」
「そこに行きましょう」
律は即座に言った。
榊は頷く。
「鍵は……まだある」
玲央は、白いカードの文字を思い出していた。
虹の下に、欠けた名前が眠っている。
欠けた名前は、榊未来。
なら、虹の下に眠っているのは、彼女の死か。
それとも、生きている証拠か。
観音崎へ向かう車の中で、誰もほとんど話さなかった。
運転しているのは律だった。
助手席には玲央。
後部座席には榊悠真。
横浜の市街地を抜け、海沿いの道へ出ると、空気が変わった。
港の匂いから、海そのものの匂いへ。
波の音はまだ聞こえない。
けれど、窓の外の光が少しだけ白くなっていく。
「榊未来さんの死亡記録を確認しました」
律が言った。
「早いですね」
玲央が言う。
「刑事ですから」
「便利ですね」
「あなたに言われたくない」
律は前を向いたまま続けた。
「十年前の十二月。横須賀市内の海岸で、女性の遺体が発見されています。身元は榊未来と判断。所持品と歯科記録で確認された、とあります」
後部座席の榊が目を閉じた。
「やはり……」
「ただし」
律の声が低くなる。
「当時の記録に、いくつか不自然な点があります」
榊が顔を上げる。
「不自然?」
「遺体の損傷が激しく、顔での確認は困難。所持品は本人のもの。しかし歯科記録の照合を行った医師が、その後すぐに海外へ移住しています」
玲央が呟く。
「白河さんなら、好みそうな手口です」
律の横顔が険しくなる。
「死を偽装したと?」
「可能性の話です」
「あなたは可能性を口にするときほど、何か確信していますね」
玲央は少しだけ笑った。
「刑事さんの観察眼も磨かれてきました」
「うれしくありません」
榊が震える声で言った。
「未来は、生きているんですか」
玲央はすぐに答えなかった。
「まだ、わかりません」
「でも、あり得るんですね」
「ええ」
榊は窓の外を見た。
海が見え始めていた。
「もし生きているなら、なぜ私の前に現れなかった」
その問いに、車内は沈黙した。
玲央は思った。
人が姿を消す理由は、ひとつではない。
逃げるため。
守るため。
忘れるため。
誰かを傷つけないため。
あるいは、もう自分の名前で生きられなくなったため。
榊未来が死んだことになっていたなら、彼女は何を守っていたのか。
あるいは、誰に守られていたのか。
岬のアトリエは、海を見下ろす小さな丘の途中にあった。
白い外壁は雨風でくすみ、窓枠の塗装は剥がれている。
周囲には背の高い草が伸び、長いあいだ誰も手入れしていないことがわかった。
榊は古い鍵を取り出した。
手が震えている。
鍵穴に差し込むのに、少し時間がかかった。
扉が開く。
中には、十年分の静けさが溜まっていた。
埃。
乾いた木の匂い。
古い絵の具の匂い。
窓から入る光が、床に斜めの線を作っている。
アトリエの中央には、布をかけられたイーゼルがあった。
壁際にはキャンバスが何枚も立てかけられている。
榊は入り口で立ち尽くしていた。
「そのままだ」
声が震えている。
「十年前から、何も変わっていない」
律は室内を確認する。
「勝手に荒らされた形跡はなさそうですね」
玲央は窓辺へ向かった。
そこに、小さな作業机がある。
絵筆。
乾いたパレット。
古いスケッチブック。
そして、小さな木箱。
玲央は木箱の蓋を開けた。
中には、絵の具ではなく、石が入っていた。
小さな宝石片。
ガラス片。
鉱物標本。
色を見るための資料だろう。
その中に、オパールの欠片がいくつか混じっていた。
霧笛画廊に置かれていた欠片と、よく似ている。
「榊さん」
玲央が呼ぶ。
榊が近づき、木箱を見て息を呑んだ。
「未来の色箱だ」
「色箱?」
「彼女は、色を言葉ではなく物で集めていた。海の青、夕方の灰色、古い血の赤。そういうふうに名前をつけて」
玲央は木箱の中を見た。
小さな紙片に、手書きの名前が添えられている。
『冬の海』
『嘘をついた白』
『帰らない朝』
『割れた虹』
玲央の指が止まった。
割れた虹。
その下に、オパールの欠片が三つ入っている。
だが、ひとつ分だけ空白があった。
「欠片が一つ、抜けています」
律が言う。
「画廊に置かれていたものか」
「おそらく」
榊は木箱を見つめている。
「未来は、何をしていたんだ」
玲央は答えず、スケッチブックを開いた。
中には、王冠の絵が何枚も描かれていた。
完全な王冠。
欠けた王冠。
石の配置だけを描いた図。
中心の青を黒く塗りつぶしたもの。
周囲の石だけに色を入れたもの。
そして最後のページに、文字があった。
『王冠は、名前を隠すために作られた。
でも、白河は名前を消すために使った。』
律がその文を読む。
「名前を隠すためと、名前を消すため。違うんですか」
玲央はスケッチブックを見つめた。
「違います」
「どう違うんです」
「隠すのは、あとで取り出すためです。消すのは、二度と戻さないためです」
榊が低く言った。
「未来は、誰の名前を守ろうとしたんだ」
玲央はスケッチブックをめくった。
次のページ。
そこには、青の王冠らしき図が描かれている。
中心のサファイア。
周囲のダイヤ。
ルビー。
アレキサンドライト。
オパール。
石の横に、それぞれ小さな文字。
Sapphire — N
Ruby — K
Alexandrite — M
Opal — ?
玲央は息を止めた。
オパールの横だけ、疑問符。
榊未来も、最後の名前を知らなかったのか。
あるいは、知ったから消えたのか。
律が言う。
「Nは鳴海。Kは片桐。Mは三鷹でしょうか」
「その可能性が高い」
玲央は答えた。
「では、オパールの人物は?」
「わかりません」
「白河?」
「白河なら、彼は自分の名前を最後の余白にはしないと思います」
「なぜ」
「自分を作者だと思っている人間は、作品の中に名前を書きません」
律は不快そうに眉を寄せた。
「嫌な言い方ですね」
「白河さんは、そういう人です」
玲央はさらにページをめくった。
そこには、オパールの絵が描かれていた。
大きな乳白色の石。
その中に、虹色の線。
だが、虹の一部だけが空白になっている。
その横に、短い文。
『虹の欠けたところに、本当の持ち主がいる。』
榊が声を震わせた。
「本当の持ち主……?」
そのとき、律が室内の奥を見た。
「水城さん」
「はい」
「この床、少し変です」
アトリエの隅。
床板の一部が、他よりわずかに新しかった。
玲央と榊が近づく。
律が慎重に床板を外す。
下には、薄い金属ケースが隠されていた。
霧笛画廊で見つけたものより、少し大きい。
封蝋はない。
代わりに、ケースには小さな文字が刻まれている。
MIRAE
榊が息を呑む。
「未来……」
律がケースを開ける。
中には、写真と、一本の古い録音媒体が入っていた。
小型のICレコーダー。
十年前のものにしては、保存状態が良い。
律が電源を確認する。
「まだ動くかもしれません」
玲央は写真を手に取った。
写っていたのは、榊未来だった。
霧笛画廊の絵から想像したよりも、ずっと若い。
二十代半ばほど。
目が強い。
そして彼女の隣には、鳴海硝子が写っていた。
二人は海辺に立っている。
その間に、小さなケースがある。
ケースの中身は見えない。
写真の裏には、文字が書かれていた。
『彼女は死んでいない。
私も、まだ死なない。』
榊は膝から崩れるように床に座った。
「未来……」
声にならない声だった。
律はICレコーダーを操作した。
小さなノイズ。
それから、女性の声が流れた。
『これを聞いているなら、私はもう榊未来ではいられないのだと思う』
榊が顔を上げた。
「未来の声だ……」
録音は続く。
『白河は、王冠を使って名前を消そうとしている。
鳴海硝子は、王冠を持って逃げたんじゃない。
王冠に隠された名前を、白河より先に守ろうとした。
でも、足りない名前がある。
オパールの名前。
虹の石だけ、誰を示しているのかわからない。
私はそれを見つけた。
見つけてしまった。
だから、私は死んだことになる。』
律の表情が変わる。
玲央は黙って聞いていた。
録音の中の未来の声は、震えていなかった。
強い声だった。
『兄さん。
もしこれを聞いているなら、怒っていると思う。
でも、ごめん。
私は戻れない。
戻れば、私が見つけた名前も消される。
オパールの名前は、王冠の持ち主ではない。
王冠を作らせた人間でもない。
王冠を使って、すべてを隠した人間。
白河周吾ではない。
白河に物語を作らせた、本当の依頼人。』
そこで、録音にノイズが入る。
榊が身を乗り出す。
「未来……!」
音声が途切れかける。
だが、最後に短い言葉が残った。
『虹の名前は、灰色の中にある』
録音はそこで終わった。
アトリエに沈黙が落ちる。
海の音だけが、遠くから聞こえていた。
律が低く言った。
「灰色の中……」
玲央は、ゆっくりと律を見た。
灰原律。
灰。
律も気づいた。
「まさか、私のことだと?」
「違います」
玲央は即座に言った。
「白河さんがそう思わせたい可能性はあります。でも、この録音は十年前のものです。灰原さんは当時、まだ事件に関わっていない」
「では、灰色とは何です」
玲央は考えた。
灰色。
白でも黒でもないもの。
善でも悪でもないもの。
本物でも偽物でもないもの。
そして、青の王冠の事件で、最初からずっと灰色の立場にいた人間。
「中立の人間」
玲央は呟いた。
律が眉を寄せる。
「中立?」
「警察でも、犯人でも、所有者でも、鑑定士でもない。すべての間に立っていた人物」
榊が顔を上げる。
「そんな人間が?」
玲央の頭の中で、十年前の記録がめくられていく。
鳴海家。
白河。
三鷹。
片桐。
H.C.工房。
榊未来。
そして、もう一人。
誰にも属さず、すべての書類に触れることができた人物。
「保険調査員」
玲央は言った。
律が顔を上げる。
「王冠に保険が?」
「当然かけられていました。高額な宝飾品ですから」
「その担当者が、オパールの名前?」
「可能性があります」
「名前は?」
玲央はすぐには答えられなかった。
十年前の鑑定控え。
保険関連の書類。
そこにあった署名。
うすく、記憶の奥で浮かぶ名前。
「灰崎」
律の表情が変わった。
「灰崎?」
「灰崎透」
玲央は言った。
「青の王冠に保険をかけた調査会社の担当者です」
律の目が鋭くなる。
「灰色の中にある。灰崎……」
榊が床に座ったまま呟いた。
「その人間が、未来を消したのか」
玲央は答えなかった。
しかし、オパールの虹が、ようやく一つの形を見せ始めていた。
夕方、瑠璃窓に戻った玲央は、青の王冠の鑑定控えを開いた。
律も隣にいる。
榊は一度、警察に保護される形で署へ向かった。
玲央は古い書類の束から、保険関連の控えを探す。
紙は黄ばんでいた。
十年前の日付。
鳴海家。
青の王冠。
評価額。
保険契約。
そして、担当者。
灰崎透。
律がその名前をスマートフォンで照会する。
「灰崎透。十年前は東都損害調査株式会社の調査員。現在は退職。五年前に独立して、美術品専門の保険鑑定コンサルタントをしています」
「生きていますね」
「はい」
「所在は?」
律が画面を見る。
「横浜市中区。事務所があります」
玲央は書類を見つめた。
オパールの名前は、灰色の中にある。
白河ではない。
白河に物語を作らせた、本当の依頼人。
もし灰崎透がその人物なら。
青の王冠事件は、宝石詐欺ではない。
保険金。
資産隠し。
密輸。
偽装盗難。
すべてが絡む。
そして白河周吾は、主犯ではなく演出家だった可能性がある。
律が低く言った。
「灰崎を追います」
「ええ」
「水城さん」
「はい」
「白河は、あなたにこれを見せたかったんでしょうか。それとも、我々を灰崎へ誘導しているんでしょうか」
玲央は、オパールの欠片を黒い布の上に置いた。
乳白色の奥に、虹が揺れる。
「両方です」
「両方?」
「白河さんは、真実を隠すために嘘を使うだけではありません。真実そのものも、罠として使う」
「最低ですね」
「はい」
玲央は静かに頷いた。
「私の先生です」
律は何も言わなかった。
そのとき、瑠璃窓の扉の鈴が鳴った。
玲央と律が同時に振り向く。
入ってきたのは、年配の男だった。
グレーのスーツ。
銀縁の眼鏡。
白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけている。
男は、店内をゆっくり見回した。
そして、玲央に向かって穏やかに微笑んだ。
「水城玲央さんですね」
玲央は、その男の顔を見た。
写真で見たよりも老いている。
だが、目の奥にある冷たい光は変わらない。
律が警戒する。
「あなたは?」
男は名刺を出した。
灰崎透。
美術品保険鑑定コンサルタント。
律の表情が硬くなる。
「ちょうど、あなたの話をしていました」
灰崎は穏やかに笑った。
「でしょうね」
玲央は黙っている。
灰崎はカウンターの上のオパールの欠片を見た。
「榊未来の色箱を見つけましたか」
律が一歩前へ出る。
「あなたには話を聞く必要があります」
「その前に」
灰崎は玲央を見た。
「白河周吾から伝言を預かっています」
「白河さんから?」
「ええ」
灰崎は、ひどく静かな声で言った。
「王冠は、もうすぐ戻るそうです」
店内の空気が止まった。
青の王冠。
十年前に消えたはずの王冠。
本物か偽物かもわからないまま、玲央の証言によって闇に沈んだ王冠。
それが戻る。
律が低く問う。
「どこに」
灰崎は微笑んだ。
「瑠璃窓に」
玲央の指が、黒い布の上でわずかに止まった。
灰崎はさらに続ける。
「ただし、戻ってくるのは王冠だけではありません」
「何が来るんです」
玲央が尋ねる。
灰崎の目が細くなる。
「あなたの名前です」
「私の?」
「水城玲央。白河周吾。鳴海硝子。榊未来。三鷹正臣。片桐修一」
灰崎は、まるで宝石の名前を読み上げるように言った。
「青の王冠に隠された名前は、まだひとつ欠けています」
律が険しい顔で言う。
「それがあなたではないんですか」
灰崎は笑った。
「私は灰色です。白でも黒でもない。だから名前を隠す必要がなかった」
「意味がわかりません」
「じきにわかります」
灰崎は玲央を見た。
「次に見るべき石は、ダイヤモンドです」
玲央は息を止めた。
古いメモの中で、まだ深く触れていなかった石。
Diamond。
白い石。
透明な石。
もっとも硬く、もっとも光を返す石。
灰崎は言った。
「割れていないダイヤモンドを探してください」
「割れていない?」
「ええ」
灰崎は笑った。
「本当に割れているのは、石ではなく証言です」
その言葉だけを残して、灰崎透は店を出ていった。
律はすぐに追おうとした。
だが、店の前にはもう人影がなかった。
まるで最初から、雨上がりの街に溶けるために来たように。
玲央はカウンターの上のオパールを見た。
虹色の石は、美しかった。
だがその美しさは、もう慰めではなかった。
欠けた名前。
死んだことになっていた女。
生きているかもしれない妹。
灰色の男。
戻ってくる王冠。
そして、次の石。
ダイヤモンド。
玲央は、古いメモのDiamondの行に視線を落とした。
その横には、まだ何も書かれていないと思っていた。
だが、紙を斜めに傾けると、薄い筆跡が浮かんだ。
R.
玲央はその文字を見て、初めて顔色を変えた。
律が気づく。
「何です」
玲央は答えなかった。
答えられなかった。
R。
それは、玲央のRだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第四話「虹を閉じ込めたオパール」はこれで完結です。
榊未来、灰崎透、そして戻ってくる青の王冠。
次回は、ダイヤモンドにまつわる事件です。
もっとも硬い石が示すのは、割れた証言と、水城玲央自身の名前です。




