第二話 鑑定書だけが本物のルビー(後編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第二話「鑑定書だけが本物のルビー」後編です。
偽物のルビー、本物の鑑定書、片桐修一の死。
赤い石に隠されていた真相が、「青の王冠」の輪郭を少しずつ浮かび上がらせます。
山下公園の夜は、海の匂いが薄く混じっていた。
昼間の観光客が消えたあとも、港の灯りだけは眠らない。
水面には、ビルの明かりと船の輪郭が細く揺れている。
午後九時前。
噴水の近くに、片桐紗英は立っていた。
グレーのコートの襟を押さえ、何度も周囲を見回している。
その手には、小さな封筒が握られていた。
中に入っているのは、ルビーの鑑定書。
ただし、本物ではない。
水城玲央が用意した複写だった。
本物の鑑定書は、今も瑠璃窓の金庫にある。
「本当に、これで来るんでしょうか」
紗英が小さく言った。
少し離れたベンチに座っていた玲央は、海のほうを見たまま答えた。
「来ます」
「どうしてわかるんですか」
「石ではなく、鑑定書を要求したからです」
「それが?」
「相手は、あのルビーそのものに価値がないことを知っています」
玲央は静かに続けた。
「つまり、相手は素人ではない。宝石の価値ではなく、書類の価値を知っている人間です。そういう人は、確かめに来ます。自分の目で」
紗英は封筒を握りしめた。
「父を脅していたのも、その人なんでしょうか」
玲央はすぐには答えなかった。
噴水の水音が、夜の中で細かく響いている。
少し離れた場所には、灰原律がいた。
コートの襟を立て、通行人のように立っている。だが視線は、ずっと周囲を捉えていた。
さらに公園の外側には、私服の捜査員が二人いる。
玲央はその配置を見て、律らしいと思った。
正攻法。
堅実。
逃げ道を塞ぐ。
だが、脅迫する側が本当に宝石業界の人間なら、そう簡単に姿は見せない。
宝石商も詐欺師も、光の当たる場所に立つのは最後の一瞬だけだ。
午後九時。
紗英のスマートフォンが震えた。
非通知。
紗英の肩がこわばる。
律が離れた位置から小さく頷く。
紗英は通話を押した。
「……はい」
加工された声が聞こえた。
「封筒は持ってきたか」
「持っています」
「噴水の縁に置け」
紗英は玲央を見た。
玲央は少しだけ頷く。
紗英はゆっくりと噴水に近づき、封筒を縁に置いた。
「置きました」
「そのまま離れろ」
「父のことを知っているんですか」
沈黙。
紗英は震える声で続けた。
「父は、あなたに脅されていたんですか」
電話の向こうで、かすかな笑い声がした。
「片桐は、自分で選んだ」
「何をですか」
「偽物を売ることを」
紗英の顔が白くなる。
「違う」
「違わない。あいつは、鑑定書だけが本物のルビーをオークションに出そうとしていた。死んだあとにそれが世間に出れば、片桐の名前は終わる」
「あなたがそうさせたんでしょう」
「証拠は?」
その声は楽しんでいた。
紗英の指が震える。
玲央は立ち上がった。
「証拠なら、石が持っていますよ」
紗英のスマートフォン越しに、声が止まった。
玲央は噴水のそばへ歩いていく。
「片桐さんは偽物を売ろうとしていた。たしかに、表面だけ見ればそう見える。でも彼は、少なくとも石がすり替わっていることに気づいていた」
電話の向こうの声は沈黙したままだ。
玲央は続ける。
「だからメモを残した。鑑定書は本物だ。だから信用するな」
「誰だ、お前」
「宝石商です」
「警察か」
「いいえ」
玲央は少しだけ笑った。
「警察なら、もう少し正直に名乗ります」
離れた場所で、律が露骨に不快そうな顔をした。
玲央は気にしない。
「あなたは鑑定書が欲しい。けれど本物の鑑定書なら、もうここにはありません」
通話の向こうで、息がわずかに乱れた。
「ふざけるな」
「ふざけてはいません。あなたが欲しがっているのは紙ではない。その紙が示している、本来のルビーの行方です」
海風が吹いた。
封筒の端が揺れる。
「片桐さんは、本来のルビーを知っていた。だから殺された。違いますか」
その瞬間だった。
噴水の反対側で、黒い帽子の男が動いた。
それまでベンチでスマートフォンを触っていた中年の男。
目立たない、どこにでもいるような服装。
だが、玲央の言葉に反応して、ほんの少しだけ足を引いた。
律が動く。
「警察です。動かないでください」
男は走った。
公園の舗道を抜け、海沿いの道へ向かう。
律が追う。
私服の捜査員も動いた。
紗英が息を呑む。
玲央は走らなかった。
彼は噴水の縁に置かれた封筒を拾い、男が座っていたベンチへ歩いた。
そこには、紙コップがひとつ残されていた。
まだ少し温かい。
玲央は紙コップの横に、小さな赤い欠片を見つけた。
石ではない。
赤いワックスのようなもの。
封蝋。
古い書類を閉じるときに使われる赤い蝋。
玲央はそれを白いハンカチに包んだ。
遠くで、律の声が聞こえた。
「止まれ!」
すぐに、誰かが倒れる音がした。
数分後、男は律たちに取り押さえられて戻ってきた。
四十代後半ほど。
細い目。
高級そうではないが、仕立てのよいコート。
顔には焦りと怒りが混じっている。
律が男の腕を押さえたまま言った。
「名前は」
男は答えない。
玲央が近づく。
「白河先生の使いの方ですか」
男の表情が、一瞬だけ変わった。
律がそれを見た。
「白河を知っているのか」
男は舌打ちした。
「何のことだ」
「では、あなた個人が鑑定書を欲しがったと?」
玲央は穏やかに言う。
「それは少し無理があります。あなたはルビーを見ていない。なのに鑑定書だけを要求した。誰かに言われたんでしょう」
男は玲央を睨んだ。
「お前、何者だ」
「さっき言いました。宝石商です」
「ただの宝石商が、白河先生の名前を出すか」
律の目が鋭くなる。
男は自分の失言に気づき、口を閉じた。
玲央はそれ以上追及しなかった。
白河。
やはり、その名前が出てくる。
十年前、青の王冠の鑑定に関わった男。
玲央に、偽物を本物に見せる言葉を教えた男。
師と呼ぶべきか。
罪の始まりと呼ぶべきか。
どちらにしても、まだ終わっていない。
律は男を捜査員に引き渡した。
「署で話を聞く」
男は抵抗しなかった。
ただ、玲央の横を通り過ぎるとき、低く言った。
「先生は、お前がまだ生きていることを知っている」
玲央は何も答えなかった。
男は連れていかれた。
紗英はその場に立ち尽くしていた。
「父は……本当に殺されたんですか」
律は答えられない。
玲央も、すぐには答えなかった。
噴水の水が、淡い光を受けて揺れている。
「片桐さんが何を飲んで亡くなったのか。それは検査結果を待つ必要があります」
玲央は言った。
「でも、お父様が死ぬ前に何かを残そうとしていたのは確かです」
「何を?」
「本来のルビーの行方です」
紗英は震える唇で言った。
「父は、悪い人だったんでしょうか」
玲央は紗英を見た。
その問いに、簡単な答えはない。
片桐修一は清廉な男ではなかった。
宝石の世界で生きる者は、白だけではいられない。
古物も宝石も、過去の誰かの欲望を運んでくる。
だが、それでも最後に何かを守ろうとしたのなら。
「悪い人だったかどうかは、私には鑑定できません」
玲央は静かに言った。
「ですが、最後まで全部を売り渡した人ではなかったと思います」
紗英の目に涙が浮かんだ。
「それだけで、少し救われます」
「救われるには、まだ早いです」
律が言った。
その声は冷たいが、残酷ではなかった。
「真相を確認します。お父さんが何に関わっていたのかも」
紗英は頷いた。
「お願いします」
夜の海風が、彼女の髪を揺らした。
翌日、片桐修一の死因について速報が入った。
毒物反応あり。
使用されたのは、即効性の強い薬物ではなかった。
少量ずつ摂取すると心臓に負担をかけ、持病の発作にも見える種類のものだという。
片桐の持病を知っている人間でなければ、選びにくい方法だった。
瑠璃窓のカウンターでその話を聞いた玲央は、赤いルビーを見つめていた。
片桐紗英の許可を得て、指輪は一時的に瑠璃窓に預けられている。
律は書類のコピーをカウンターに置いた。
「昨夜捕まえた男は、名を新堂克己。宝飾品ブローカーです」
「白河さんとの関係は?」
「本人は否認しています。ただ、通話履歴に白河周吾の関連会社と見られる番号があった」
その名を聞いても、玲央は表情を変えなかった。
律はそれを見ていた。
「白河周吾。あなたの昔の師匠ですか」
「よく調べましたね」
「警察ですから」
「では、私が何者だったかも、だいぶご存じでしょう」
「少しだけ」
律の声は低い。
「あなたは十年前、白河周吾のもとで宝石の鑑定補助をしていた。表向きは」
「裏では?」
「偽造鑑定書を使った宝石詐欺に関わっていた」
玲央は微笑んだ。
「だいたい正解です」
「笑うところですか」
「いいえ」
玲央の笑みは消えた。
「笑わないと、うまく話せないだけです」
律は一瞬だけ黙った。
その沈黙は、昨日までのものと少し違った。
単なる嫌悪ではない。
踏み込むべきか迷う人間の沈黙だった。
玲央はルビーを顕微鏡の下に置いた。
「この石には価値がありません」
「昨日も聞きました」
「けれど、石座には価値があります」
律が眉を寄せる。
「石座?」
玲央は指輪の内側を示した。
「ここを見てください」
律はルーペを受け取り、覗き込んだ。
リングの内側。
磨耗した金属の奥に、ごく細い刻印があった。
HC。
第一話の婚約指輪にもあった工房印。
だが、今回はそれだけではない。
HCの横に、小さな数字が刻まれている。
0721。
「番号?」
律が言う。
玲央は頷く。
「工房の管理番号です。おそらく、修復記録と対応しています」
「調べられますか」
「正規の記録が残っていれば」
「非正規なら?」
玲央は答えなかった。
律は察した。
「あなたなら、心当たりがある」
「昔の帳簿に、似た番号を見たことがあります」
「青の王冠の?」
玲央は少しだけ沈黙した。
その沈黙が答えだった。
律は低く言う。
「やはり、つながるんですね」
玲央はルビーを光にかざした。
赤い石は、人工的に整えられた美しさを放っている。
傷をガラスで満たされ、透明に見せかけられた石。
中身の弱さを、外から流し込まれた光で覆っている。
人間によく似ている。
「このルビーの指輪は、もともと別の石を留めていた可能性があります」
「本来のルビーですか」
「ええ。鑑定書に記載された、非加熱のミャンマー産ルビー」
「それが、青の王冠と何の関係が?」
玲央はカウンターの下から、古いファイルを取り出した。
青の王冠
鑑定控え
律の表情が変わった。
「それを、今まで隠していたんですか」
「開く勇気がなかっただけです」
「同じことです」
「そうかもしれません」
玲央はファイルを開いた。
十年前の紙は、少し黄ばんでいた。
そこには、王冠の写真と宝石の配置図、修復記録の写しが綴じられている。
中心には、大粒のサファイア。
その周囲には、小さなダイヤと、赤い石が八つ。
律が写真を覗き込む。
「ルビー?」
「装飾用の小粒石です。大きな価値はないとされていました」
「されていた?」
玲央は一枚の資料を指した。
「王冠の修復時、周囲のルビーのうち一石だけが交換されている。記録上は、破損による交換。けれど、その交換石の管理番号が……」
玲央は指輪の内側を見た。
「0721」
律が息を止める。
「つまり、片桐のルビーは、青の王冠に使われていた石?」
「可能性があります」
「でも、鑑定書には三カラット超えのルビーとある。王冠の周囲の小粒石とは大きさが違う」
「だから、この鑑定書は別の石のものです」
「では、なぜ同じ指輪に?」
玲央は静かに言った。
「混ぜたんです」
「混ぜた?」
「価値のある鑑定書。価値のない処理ルビー。青の王冠に関係する石座。これらを一つにして、誰かが片桐さんに渡した」
「何のために」
「片桐さんを罠にかけるためです」
律は黙った。
玲央は続ける。
「片桐さんがそれをオークションに出せば、偽装出品の責任を負う。出さなければ、脅迫される。どちらにしても、彼は逃げられない」
「誰がそんなことを」
「白河周吾」
律がその名を口にした。
玲央は否定しなかった。
「少なくとも、その周辺の誰かです」
「目的は?」
玲央はファイルの中の王冠写真を見た。
十年前の青。
「片桐さんは、青の王冠事件で何かを知っていた」
「何を」
「王冠から外された本物の石の行方」
「サファイアですか」
「サファイアだけではありません」
玲央は王冠の写真を指でなぞった。
「王冠には、青い中心石だけでなく、周囲の石にも意味があった。たぶん、私たちは今まで中心だけを見すぎていた」
律はその言葉を飲み込むように黙った。
宝石事件では、誰もが一番大きな石を見る。
一番高価なもの。
一番目立つもの。
だが、詐欺師はよく知っている。
人が見る場所に、真実は置かない。
「片桐さんは、中心の青ではなく、周囲の赤を知っていた」
玲央は言った。
「だから、このルビーが使われた」
律が問う。
「では、本来の鑑定書のルビーは?」
「それはまだわかりません」
「あなたなら見当がついている顔です」
「顔に出ていますか」
「出ています」
玲央は苦笑した。
「困りましたね」
「言ってください」
玲央は少しだけ迷った。
そして、ファイルから一枚の古いメモを取り出した。
そこには、かすれた筆跡で宝石のリストが書かれている。
Sapphire
Diamond
Ruby
Alexandrite
Opal
律が読む。
「石の名前?」
「青の王冠の修復記録に挟まっていたメモです。正式な資料ではありません」
「この順番に意味が?」
「わかりません。ただ……」
玲央はルビーの行を指した。
そこには、小さく片桐の名が書かれていた。
Ruby — K.
律の表情が険しくなる。
「Kは片桐」
「おそらく」
「では、他の石にも誰かが割り当てられている?」
「そう考えるのが自然です」
「次の事件が起きると?」
玲央は答えなかった。
そのかわり、メモの最後の行を見た。
Opal。
その横には、何も書かれていない。
空白。
ただ、その空白だけが、ひどく不気味だった。
その日の夕方、片桐紗英が瑠璃窓を訪れた。
父の死が事件として捜査されることになったと聞き、彼女はひどく疲れた顔をしていた。
それでも、足取りは昨日より少しだけしっかりしていた。
「父は、やっぱり悪いことに関わっていたんですね」
紗英はカウンターの前で言った。
玲央はルビーの指輪をケースに戻す。
「片桐さんは、間違った場所に長くいたのだと思います」
「それは、悪い人とは違うんですか」
「違わないこともあります」
紗英は小さく笑った。
「優しい言い方ですね」
「優しすぎる言い方かもしれません」
玲央はケースを彼女の前に置いた。
「このルビーは、しばらく警察で保管されることになると思います」
「はい」
「ただ、鑑定書はあなたに返されるまで時間がかかるでしょう」
「それは構いません」
紗英は少しだけ迷ってから言った。
「父が残したメモを見て、思ったんです。あれは、私に向けていたのかもしれないって」
「鑑定書は本物だ。だから信用するな」
「はい」
彼女は目を伏せた。
「父は昔から、私に本物を見分けろと言っていました。宝石でも、人間でも。でも父自身が、一番見分けられていなかったのかもしれない」
「本物を見分けることと、本物を選ぶことは違います」
紗英が玲央を見る。
「違うんですか」
「ええ」
玲央は静かに言った。
「本物だとわかっていても、人は偽物を選ぶことがあります。偽物だとわかっていても、手放せないこともある」
「父も?」
「たぶん」
紗英はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「父の店を、少し整理しようと思います。続けるかどうかは、まだわかりません。でも、何が残っているのか、自分で見てみます」
「それがいいと思います」
「もし宝石が出てきたら、また見てもらえますか」
「もちろん」
「信用してもいいんですか」
その問いに、玲央は一瞬だけ笑った。
「確認してください」
紗英は少し驚き、それから初めて柔らかく笑った。
「そうします」
彼女が帰ったあと、瑠璃窓には夕暮れの青が入り込んだ。
律はまだ店内にいた。
「あなたは、被害者遺族にまで疑えと言うんですね」
「疑うことは、拒むことではありません」
「あなたらしい言い訳です」
「灰原さんらしい返しですね」
律はカウンターの上の青の王冠のファイルを見た。
「次は何が起こると思いますか」
「わかりません」
「嘘ですね」
「半分だけ」
玲央は古いメモを見た。
Sapphire。
Ruby。
Alexandrite。
Opal。
中心の青。
周囲の赤。
変色する石。
虹を閉じ込めた石。
本物と偽物の境目は、だんだん細くなっている。
律が言った。
「白河周吾を追います」
「危険ですよ」
「刑事ですから」
「彼は普通の詐欺師ではありません」
「あなたよりも?」
玲央は少しだけ沈黙した。
「私が偽物を作ったのなら、彼は本物という物語を作った人です」
律の顔が険しくなる。
「どういう意味ですか」
「人は石を買うのではありません。由来を買う。歴史を買う。誰かに愛されたという物語を買う。白河さんは、それをよく知っている」
玲央は青の王冠の写真を閉じた。
「だから、本物の石より危険です」
律はしばらく黙っていた。
そして言った。
「それでも追います」
「でしょうね」
「あなたも来ますか」
玲央は意外そうに律を見た。
「私を信用していないのでは?」
「信用していません」
律は即答した。
「ですが、あなたは白河を知っている」
玲央は少しだけ笑った。
今度の笑みは、薄くなかった。
「いいでしょう」
「条件があります」
「何でしょう」
「隠し事をしたら、次は協力者ではなく容疑者として扱います」
「厳しいですね」
「あなたにはちょうどいい」
玲央は頷いた。
「覚えておきます」
律はファイルを指した。
「まず、その青の王冠について、あなたが知っていることを話してください」
玲央は青い小窓を見た。
夕暮れの光が、そこに沈んでいる。
十年前と同じ青ではない。
けれど、どこか似ている。
「十年前、私は王冠を見ました」
玲央は静かに言った。
律の目が変わる。
「事件当日に?」
「はい」
「なぜ今まで黙っていた」
玲央はファイルに手を置いた。
「私が見た王冠は、本物ではなかったからです」
律は言葉を失った。
玲央は続ける。
「少なくとも、そう思っていました」
「今は違うんですか」
「わからなくなりました」
瑠璃窓の中に、夜が落ち始めていた。
ショーケースの宝石たちが、一つずつ灯りを含んでいく。
赤いルビーは、もうそこにはない。
けれどその赤が残した熱だけが、まだ店の空気に残っている。
玲央は青の王冠のファイルを閉じた。
「偽物だったはずの王冠に、本物の石が混じっていたのかもしれません」
「それが、今回のルビー?」
「おそらく」
「では中心のサファイアは?」
玲央は答えなかった。
その沈黙の中で、店の電話が鳴った。
古い固定電話の音。
玲央は受話器を取った。
「瑠璃窓です」
しばらく無音。
そして、老人とも若者ともつかない声がした。
「久しぶりだね、玲央」
律が顔を上げた。
玲央の指が、受話器を持ったまま止まる。
声は穏やかだった。
懐かしむようで、少しも懐かしくない声。
「赤い石は、よく燃えただろう」
玲央は目を伏せた。
「白河さん」
律の表情が鋭くなる。
電話の向こうで、白河周吾が笑った。
「次は、色の変わる石だ」
通話は切れた。
玲央はしばらく、受話器を耳に当てたまま動かなかった。
律が問う。
「色の変わる石?」
玲央は受話器を戻した。
「アレキサンドライトです」
瑠璃窓の青い小窓に、夜の色が深く沈んでいた。
その青はもう、ただの窓の色ではなかった。
十年前に消えた王冠が、闇の奥で少しずつ形を取り戻していく。
そんな色だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第二話「鑑定書だけが本物のルビー」はこれで完結です。
鑑定書が示していたのは、ただのルビーではなく、十年前の王冠につながる赤い欠片でした。
次回は、光によって色を変える宝石――アレキサンドライトにまつわる事件です。




