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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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第二話 鑑定書だけが本物のルビー(前編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第二話「鑑定書だけが本物のルビー」前編です。

片桐という古美術商の死と、鑑定書つきの高額ルビー。

その赤い石は、水城玲央と灰原律を再び「青の王冠」の影へ近づけていきます。

雨が上がった翌日の横浜は、街全体が薄く磨かれたように見えた。


山手の坂道には、まだところどころ水たまりが残っている。そこに朝の光が落ちると、石畳は古い硝子のように淡く光った。


瑠璃窓の青い小窓にも、その光が差していた。


水城玲央は、開店前の店内で黒い布を広げていた。


昨日の夜に預かった婚約指輪は、もうカウンターの上にはない。椎名美緒はあのあと、指輪を持ち帰った。合成サファイアのままにするか、新しい石を入れるかは、婚約者と話して決めると言っていた。


玲央はそれでいいと思った。


宝石は、持ち主が決めることで初めて意味を持つ。


本物か偽物かを調べることはできる。

だが、その石をどう抱えるかまでは、鑑定できない。


店の奥から古い金庫の音がした。


玲央は昨夜取り出したファイルを、まだ元の場所に戻せずにいた。


青の王冠。

鑑定控え。


かすれた文字は、十年経っても消えていない。


玲央は表紙に指を置いた。


開けば、記憶も開く。


それがわかっていたから、彼はまだ開かない。


扉の鈴が鳴った。


まだ開店時間には少し早い。


玲央は金庫を閉め、鍵を回した。


「どうぞ」


店に入ってきたのは、灰原律だった。


昨日と同じ濃紺のコートではない。今日は黒に近いスーツ姿で、手には小さな封筒を持っている。雨に濡れていないぶん、表情の硬さだけがよく見えた。


「開店前でしたか」


「宝石は時間を守りませんから」


「人間は守るべきです」


「耳が痛いですね」


玲央は柔らかく笑った。


律はその笑みに反応しない。カウンターの前に立ち、封筒を置いた。


「鑑定を依頼したいものがあります」


「警察から正式に?」


「まだ違います」


「では、灰原さん個人から?」


「そう思ってもらって構いません」


玲央は封筒を見る。


「中身は宝石ですか」


「写真と鑑定書の写しです。本体はまだ持ち出せません」


「事件ですか」


律は一拍置いて答えた。


「事件になるかもしれません」


玲央は封筒を開けた。


中には数枚の写真と、宝石鑑別書のコピーが入っていた。


写真に写っていたのは、ルビーだった。


深い赤。


黒いベルベットの上で、小さな炎のように光っている。周囲に添えられたメレダイヤも上品で、リングの作りはかなり良い。中央のルビーはオーバルカット。大きさも充分にある。


玲央は写真を一枚ずつ並べた。


「非加熱ルビー、ミャンマー産。推定三・二カラット」


律が言った。


「鑑定書にはそうあります」


「美しいですね。写真だけなら」


「写真だけなら?」


玲央は鑑定書のコピーを見た。


発行年月日は八年前。

発行元は国内でも信用のある鑑別機関。

記載された重量、寸法、特徴、処理の有無。どれもきちんとしている。


本物の鑑定書に見えた。


少なくとも、紙は。


「このルビーがどうかしましたか」


「所有者が亡くなりました」


律は淡々と言った。


「片桐修一。横浜で古美術と宝飾品を扱っていた男です」


「存じています」


律の目が細くなる。


「知り合いですか」


「顔を合わせたことがある程度です。あまり親しいとは言えません」


「元詐欺師同士だから?」


玲央は笑った。


「片桐さんは詐欺師ではありませんよ。少なくとも、表向きは」


「あなたがそう言うと、信用しにくい」


「その姿勢は大切です」


律は封筒からもう一枚、写真を出した。


そこには、古い机の上に置かれた指輪と、割れたグラスが写っていた。


空気が変わった。


「亡くなったのは昨夜です」


「昨日?」


「自宅兼店舗の二階で倒れているのが見つかりました。死因は現時点では急性心不全の疑い。ただ、現場にいくつか不審な点がある」


「殺人の可能性が?」


「まだ断定できません」


玲央は写真を見つめた。


片桐修一。

古美術商。宝飾品の仲介もしていた男。


十年前の夜を知っている人間の一人。


玲央は、その名前を聞いただけで胸の奥に古い埃が舞うのを感じた。


律はそれを見ていた。


「やはり、知っているんですね」


「名前だけです」


「また薄い笑い方をしています」


「刑事さんは観察が細かい」


「あなたほどではありません」


玲央は写真から目を離した。


「このルビーが問題なのですか」


「片桐修一は、このルビーを今日の午後、あるオークション会社へ持ち込む予定でした。ところが、その前日に死亡した」


「出品予定品ですか」


「はい。推定落札価格は三千万から五千万」


店内の空気が、少し重くなる。


ルビーは小さな石だ。

だが小さな石ほど、金額も欲望も、密度が高くなる。


「それで、鑑定書つきの高額ルビー。所有者が急死。警察としては一応調べたい、と」


「それだけではありません」


律は別の紙を差し出した。


そこには、短い手書きのメモが写っていた。


『鑑定書は本物だ。だから信用するな。』


玲央は、その一文を見て黙った。


律が言う。


「片桐の机の引き出しから見つかりました。誰に向けたものかは不明です」


「鑑定書は本物。だから信用するな」


玲央は小さく繰り返した。


「面白い言葉ですね」


「面白がる場面ではありません」


「ええ。失礼」


玲央は鑑定書のコピーをもう一度見た。


発行番号。

石の特徴。

カラット数。

寸法。

非加熱の記載。


紙としては、破綻していない。


だが、片桐が残した言葉が正しいなら、問題はそこではない。


鑑定書が偽物なのではない。


鑑定書だけが本物なのだ。


「実物を見なければ断定はできません」


玲央は言った。


「ただ、もしこのメモの意味をそのまま受け取るなら、考えられる可能性はひとつです」


「石が違う」


律が先に言った。


玲央はうなずいた。


「鑑定書は本物。ただし、その鑑定書が指しているルビーは、今そこにあるルビーではない」


「すり替え」


「ええ」


「昨日の婚約指輪と同じですか」


「似ています。でも、目的は違うかもしれません」


「目的?」


玲央は写真の中のルビーを見た。


「婚約指輪では、本物を隠すために偽物を置いた。ですが今回は、偽物を本物に見せるために本物の鑑定書を使っている」


「詐欺ですね」


「とても古典的で、とても有効な詐欺です」


律は不快そうに眉を寄せた。


「詳しそうですね」


「はい」


玲央は否定しなかった。


「私は昔、そういうものをいくつも見てきました」


「見てきた、ですか」


「関わってきた、と言ったほうが、灰原さんは納得しますか」


律は黙った。


その沈黙には、軽蔑だけではなく、迷いもあった。


玲央はそれに気づいた。


昨日とは違う。

律はただ玲央を疑うためだけに来たのではない。


このルビーの裏に、何かがある。

そして律は、それをひとりで判断しきれない。


だから、ここへ来た。


「実物はどこに?」


「片桐の娘が持っています」


「警察が押収していないのですか」


「現時点では、事件性が確定していません。娘が任意で保管しています」


「娘さんのお名前は?」


「片桐紗英。三十二歳。父親の店を手伝っていました」


「彼女はそのルビーを売るつもりですか」


「わかりません。ただ、今日の午後、店に来るように伝えてあります」


玲央は少しだけ笑った。


「つまり、私に鑑定させるつもりだったんですね」


「正式な依頼ではありません」


「便利な言葉です」


「あなたもよく使いそうだ」


「否定できません」


律は腕時計を見た。


「一時間後に来ます」


「ここに?」


「はい」


「灰原さんは、私を信用していないのでは?」


「信用していません」


律は即答した。


「ですが、あなたの目は使える」


玲央はその言葉に少しだけ目を細めた。


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めていません」


「では、鑑定料は高くなりますね」


律は何か言い返そうとして、やめた。


店の外を、風が通った。


青い小窓に、昼前の光が揺れる。


玲央はルビーの写真をもう一度見た。


赤い石。


青の王冠とは色が違う。

けれど宝石の事件は、色で分かれているわけではない。


赤も青も、嘘の中では同じように沈む。


「灰原さん」


「何です」


「片桐修一さんの死は、本当に心不全ですか」


律はわずかに目を伏せた。


「現場に争った形跡はありません」


「答えになっていません」


「毒物検査の結果待ちです」


玲央はうなずいた。


「なるほど」


「何がなるほどなんですか」


「ルビーは火の石と呼ばれることがあります」


「それが?」


「火のそばでは、人はよく喉が渇く」


律の表情が険しくなる。


「グラスに何か入っていたと?」


「写真だけでは何も」


「また曖昧な言い方を」


「石も人も、実物を見るまでは断定しない主義なんです」


律は溜息をついた。


「一時間後です」


「お待ちしています」


律は封筒を置いたまま、店を出ていった。


扉の鈴が鳴る。


玲央はしばらく、その音を聞いていた。


それから、カウンターの下から一冊の古い帳簿を取り出した。


片桐修一。


その名を探す。


ページをめくるたび、紙の匂いが立った。


十年前の記録。

宝石業者。

仲介人。

鑑定士。

名前の横に、細かな印がついている。


そして、片桐修一の名のそばには、ひとつの文字が書かれていた。


H.C.


玲央は指を止めた。


昨日の婚約指輪。

工房印。

青の王冠。


そして今日のルビー。


「早いですね」


誰に向けるでもなく、玲央はつぶやいた。


「まだ、二つ目ですよ」


青い小窓の光が、帳簿の上に落ちていた。


片桐紗英が瑠璃窓に現れたのは、正午を少し過ぎたころだった。


律も一緒だった。


紗英は、細身の黒いワンピースに、薄いグレーのコートを羽織っていた。喪服というほどではない。けれど、色を選ぶ気力をなくした人間の服装だった。


顔立ちは整っている。だが目の下には薄い影があり、ほとんど眠れていないことがわかった。


彼女は店に入ると、まずショーケースを見た。


宝石を見る人間の目だった。


ただの客ではない。

価値を知っている目だ。


「片桐紗英さんですね」


玲央が言う。


「はい」


紗英は小さく頭を下げた。


「父がお世話になったことがあると聞いています」


「少しだけです」


玲央は曖昧に答えた。


紗英はその曖昧さに気づいたようだったが、追及しなかった。


律が言う。


「片桐さん。先ほどお話しした通り、こちらでルビーを確認してもらいます」


「父の死と関係があるんですか」


「それを調べるためです」


「警察は、父が殺されたと思っているんですか」


律は返答に困ったように黙った。


玲央が代わりに口を開いた。


「まず、石を見せていただけますか」


紗英は鞄から小さなケースを取り出した。


黒革のケース。


机の上に置かれた瞬間、玲央はそれが安物ではないとわかった。


古いが、丁寧に扱われている。


紗英の手は震えていなかった。


しかし、ケースを開ける動作だけが少し遅い。


中に、ルビーの指輪があった。


写真で見るより、赤は深かった。


美しい。


少なくとも、第一印象ではそう言える。


玲央は白い手袋をはめ、指輪を取り出した。


光の下へ置く。


ルビーは小さな火のように光った。


「綺麗ですね」


紗英が言った。


「父は、この石だけは絶対に手放さないと言っていました」


「ですが、出品予定だった」


律が言う。


紗英は唇を結んだ。


「最近になって、急に売ると言い出したんです」


「理由は?」


「店を畳むためだと」


「本当にそう思いますか」


玲央の問いに、紗英はすぐ答えなかった。


「……違うと思います」


「なぜ?」


「父は、嘘をつくときだけ、指輪を磨くんです」


律が顔を上げる。


玲央は少しだけ目を細めた。


「面白い癖ですね」


「子どもの頃から見ていました。父が母に隠し事をするときも、取引先に都合の悪い電話をする前も、いつも何かを磨いていた」


紗英はルビーを見た。


「亡くなる前の数日、父はずっとこの指輪を磨いていました」


「何かに怯えている様子は?」


「ありました」


「誰かと会っていましたか」


「わかりません。でも、電話は何度も」


「相手は?」


紗英は首を振る。


「父は私に聞かせないようにしていました。ただ、一度だけ聞こえました」


「何と?」


紗英の声が低くなる。


「鑑定書は返す。だから、石には触るな、と」


店内が静かになった。


律がメモを取る手を止める。


玲央はルビーから目を離さなかった。


「鑑定書は返す。石には触るな」


「はい」


「その鑑定書は?」


紗英は鞄から封筒を出した。


「これです」


玲央は受け取った。


本物だった。


少なくとも、紙の質、押印、発行形式、番号の並びに不自然さはない。


「原本ですね」


「父の金庫にありました」


玲央は鑑定書とルビーを並べた。


記載重量、三・二一カラット。

寸法、縦八・九ミリ、横七・一ミリ、深さ四・二ミリ。


玲央はルビーを測定器に乗せた。


表示された数字を見て、少しだけ沈黙する。


律が聞く。


「どうですか」


「重さが違います」


紗英の顔がこわばる。


「違う?」


「この石は、三・〇四カラットです」


「削られた可能性は?」


律が言う。


玲央はうなずいた。


「あります。石は再研磨されることがありますから」


「では、それだけでは判断できない」


「ええ」


玲央はルビーをピンセットで持ち、側面を見た。


ガードル。

石の外周部分。


そこに、小さな欠けがあった。


欠けそのものは珍しくない。古い指輪なら、使っているうちに傷もつく。


だが、欠けの位置が鑑定書の特徴図と合わない。


玲央は鑑定書の拡大図を指で押さえた。


「この鑑定書に記録されている石には、右上のガードル付近に特徴的な傷があります」


「この石には?」


「左下にあります」


律が眉を寄せた。


「指輪の向きが違うだけでは?」


「いいえ。カットの形と内包物の位置を合わせると、傷の位置が合いません」


紗英の顔が青ざめていく。


「それは……つまり」


玲央はすぐには答えなかった。


今度は顕微鏡を準備する。


ルビーを固定し、光を入れる。


赤の奥に、小さな亀裂のような線が見えた。

その線の中に、ガラス質の光がかすかに入っている。


玲央は倍率を変えた。


やはりそうだ。


「このルビーには、鉛ガラス充填の痕跡があります」


律が聞く。


「鉛ガラス充填?」


「傷や亀裂の多いルビーに、鉛を含むガラスを染み込ませて透明度を上げる処理です。見た目は綺麗になりますが、価値は大きく下がります。耐久性にも注意が必要です」


紗英が震える声で言った。


「鑑定書には、非加熱って……」


「この鑑定書のルビーは、非加熱かもしれません」


玲央は静かに言った。


「ですが、この指輪についているルビーは違います」


紗英は椅子に座り込んだ。


「じゃあ、父は偽物を売ろうとしていたんですか」


「まだ決めるには早い」


律が言う。


「いや」


玲央は首を振った。


「片桐さんは、少なくとも気づいていたはずです」


紗英が顔を上げる。


「なぜですか」


玲央は、机に置かれた手書きのメモのコピーを見た。


鑑定書は本物だ。

だから信用するな。


「この言葉を残したからです」


紗英の目が揺れる。


「父が書いたんですか」


「筆跡は確認中です」


律が言った。


「ですが、おそらく」


紗英は両手で顔を覆った。


「父は、何をしようとしていたんですか」


玲央はルビーを見つめた。


赤い石は、何も答えない。


だが沈黙の中にも、形はある。


嘘には重心がある。


この事件の嘘は、石ではなく、鑑定書のほうに寄りかかっている。


「片桐さんは、誰かに脅されていた可能性があります」


玲央は言った。


律が反応する。


「根拠は?」


「出品予定だった高額ルビーが、実際には価値の低い処理石だった。片桐さんはそれに気づいていた。気づいていながら出品しようとしていた。普通なら、そんな危険は冒しません」


「金に困っていたなら?」


「その可能性もあります」


玲央は紗英を見る。


「お父様は、資金繰りに困っていましたか」


紗英は小さく首を振った。


「店は大きくありません。でも、借金で追われているようなことはなかったと思います」


「では、理由は別にある」


律が言う。


「脅迫」


「あるいは、取引」


「何の?」


玲央は答えなかった。


代わりに、鑑定書の発行番号を見た。


番号の末尾。


そこに、小さな違和感があった。


書式としては正しい。

だが、発行年と番号帯がわずかにずれている。


ただの事務上のズレかもしれない。

だが、玲央には見覚えがあった。


十年前、似た番号を見た。


青の王冠の鑑定控え。


そこに添付されていた、複数の参考鑑別書。


同じような番号帯。


同じ時期。


そして、H.C.の印。


「水城さん?」


紗英が声をかけた。


玲央は我に返った。


「すみません」


律はその反応を見逃していなかった。


「また何か知っている顔ですね」


「顔に出ていますか」


「出ています」


「困りましたね。宝石商としては失格です」


「詐欺師としても、でしょう」


玲央は薄く笑った。


だが、その笑みはすぐに消えた。


「片桐さんは、この鑑定書をどこから手に入れたのでしょう」


紗英が答える。


「父の古い取引先からだと思います」


「名前は?」


「わかりません。ただ、父はその人のことを、先生と呼んでいました」


「先生?」


「はい」


律がメモを取る。


玲央は静かに聞いた。


「その先生の名前を聞いたことは?」


紗英は記憶を探るように目を伏せた。


「一度だけ。電話口で……たぶん、白河、と」


玲央の指が止まった。


律がそれを見る。


「水城さん」


玲央は答えない。


紗英は不安そうに二人を見た。


「白河さんという方を知っているんですか」


玲央は、ほんの少しだけ笑った。


「古い宝石商の世界では、珍しくない名前です」


「また嘘ですか」


律の声が冷たくなる。


玲央はルビーをケースに戻した。


「灰原さん。片桐さんの死因が確定するまで、この石を外に出してはいけません」


「理由は」


「このルビーは、価値のある石ではありません」


「なら、なぜ?」


玲央は鑑定書を見た。


「価値があるのは、この石ではなく、この鑑定書のほうです」


紗英が呆然とする。


「紙に、価値が?」


「紙そのものではありません」


玲央は静かに言った。


「この鑑定書が、本来どの石のために発行されたものなのか。そこに価値がある」


律の目が鋭くなる。


「その本来の石が、青の王冠に関係している可能性がある?」


店内が静まり返った。


紗英にはその意味がわからない。


だが玲央と律の間だけに、昨日から続く青い影が落ちていた。


玲央は答えなかった。


そのとき、紗英のスマートフォンが鳴った。


着信音が、店内に不自然に響く。


紗英は画面を見て、顔色を変えた。


「非通知……」


律がすぐに言った。


「出てください。スピーカーに」


紗英は震える指で通話を押した。


店内に、低く加工されたような声が流れた。


「ルビーは持っているな」


紗英は息を呑む。


律が目で合図する。


紗英はなんとか声を出した。


「あなたは誰ですか」


「鑑定書を渡せ」


「鑑定書……?」


「石はいらない。鑑定書だけでいい」


玲央の目が細くなった。


声は続けた。


「今夜九時。山下公園の噴水前に来い。警察に言えば、父親が何を売ろうとしていたか、全部ばらす」


電話は切れた。


紗英はスマートフォンを握ったまま固まっていた。


律はすぐに通話履歴を確認する。


玲央はルビーのケースを見下ろした。


赤い石は、ただ静かに眠っている。


だが、本当に狙われているのは石ではない。


鑑定書。


本物の紙。


そして、そこに結びついているはずの、消えた本物の石。


玲央は窓の外を見た。


青い小窓に、昼の横浜が映っている。


その青の奥で、十年前の王冠がまた少しだけ光った気がした。


「灰原さん」


「何です」


「今夜、山下公園へ行きましょう」


「あなたは来なくていい」


「いいえ」


玲央は穏やかに言った。


「これは、宝石の取引です」


律が睨む。


「脅迫事件です」


「では、なおさらです」


玲央は鑑定書を封筒に戻した。


「脅迫する人間は、相手が何を怖がるかをよく知っています」


「あなたの得意分野ですか」


「はい」


玲央は、ほんの少しだけ笑った。


「私は昔、人の欲と恐怖で値段をつけていましたから」


紗英がその言葉に顔を上げる。


律は何も言わなかった。


瑠璃窓の中で、赤いルビーだけが静かに光っていた。


まるで火が、まだ燃える場所を探しているように。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


石は偽物。

けれど、鑑定書は本物。


では、本来その鑑定書が示していた石はどこへ消えたのか。

次回、ルビーに隠された取引と、十年前の事件につながる名前が少しずつ明らかになります。

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