第一話 偽物の婚約指輪(後編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第一話「偽物の婚約指輪」後編です。
合成サファイアが留められた婚約指輪に隠されていた、本当の嘘が明らかになります。
「だから、偽物の顔もわかるんです」
水城玲央がそう言ったあと、瑠璃窓の中にはしばらく雨音だけが残った。
椎名美緒は、黒い布の上に置かれた指輪を見つめていた。
青い石は、変わらず美しかった。
偽物だと告げられたあとでも、その色は少しも濁らない。
それがかえって、美緒には残酷に見えた。
「有沢朔さんは、今どこにいますか」
灰原律が尋ねた。
美緒は小さく首を振る。
「わかりません。今日は仕事のあと、会う約束はしていました。でも……」
「連絡は?」
「さっきから何度か。でも、出ません」
律は表情を変えずにメモを取った。
玲央はその横で、指輪をもう一度ルーペ越しに眺めていた。
「灰原さん」
「何です」
「有沢さんが関わっているという宝石詐欺事件。盗まれたのは、どんな石ですか」
律は一瞬だけ沈黙した。
「捜査情報です」
「では、答えられる範囲で」
「サファイアです」
美緒の肩がびくりと震えた。
律は続ける。
「正確には、サファイアとして売られていた石です。鑑定書付きの天然サファイア。ですが、後から偽造の可能性が出てきた」
「鑑定書が偽物だったんですか」
美緒が尋ねる。
律は少しだけ首を振った。
「鑑定書そのものは本物でした。ただ、石がすり替わっていた」
玲央の口元から、笑みが消えた。
ほんのわずかな変化だった。
だが律はそれを見逃さなかった。
「何か、気づきましたか」
「いいえ」
玲央は穏やかな顔に戻った。
「ただ、よくある手口だと思いまして」
「よくある?」
「鑑定書は本物。石だけが偽物。人を騙すには便利です。紙を疑う人は少ないですから」
「経験談ですか」
「反省談です」
律の眉がわずかに動く。
美緒は二人の会話を聞きながら、唇をかみしめていた。
「朔さんは……本当に、そういうことに関わっているんですか」
律は答えに迷ったようだった。
玲央が先に言う。
「会って話しましょう」
「え?」
「有沢さんにです。石はここにあります。あとは、人間のほうを見ないと」
律は玲央を見た。
「同行するつもりですか」
「私は宝石商ですから。指輪の持ち主について確認するだけです」
「都合のいい言い方ですね」
「詐欺師でしたので」
玲央は柔らかく笑った。
律は不快そうに息を吐いたが、否定はしなかった。
*
有沢朔は、山下町にある小さなカフェにいた。
店の奥の席で、冷めたコーヒーに手をつけないまま座っている。
玲央たちが入ってくると、朔は立ち上がりかけ、そして美緒の顔を見て動きを止めた。
「美緒」
「朔さん」
二人の間に、言葉にならないものが落ちた。
律が警察手帳を示す。
「神奈川県警の灰原です。少しお話を伺います」
朔は警察手帳を見たあと、玲央を見た。
「あなたは?」
「水城玲央です。瑠璃窓で宝石を扱っています」
「宝石店……」
朔の目が美緒へ向く。
「指輪を、見てもらったのか」
美緒はうなずいた。
「合成サファイアだって」
朔の顔から血の気が引いた。
「そんなはずない」
「本物だって言ったよね」
「そう聞いていたんだ」
律がすぐに口を挟んだ。
「誰からですか」
朔は黙った。
律はテーブルの上に手帳を置く。
「有沢さん。あなたは最近、宝石詐欺事件の関係者と接触していますね」
「違います」
「まだ何も言っていません」
朔は唇を結んだ。
玲央は、彼の手を見ていた。
指先は綺麗だった。
爪の周りに、金属を扱う者の細かな傷はない。石留めの工具を使う者に出やすい指先の荒れもなかった。
そして、朔の視線は指輪ではなく、美緒の表情ばかりを追っていた。
玲央は静かに言う。
「有沢さん。あなたは、この指輪をどこで買いましたか」
朔は答えない。
律の声が硬くなる。
「婚約指輪を買った店を忘れたんですか」
「……店ではありません」
美緒が顔を上げた。
「どういうこと?」
朔は苦しそうに目を伏せる。
「譲ってもらったんだ」
「誰に?」
朔は、なかなか答えなかった。
その沈黙が、美緒の心を削っていく。
「朔さん」
「君のお父さんに」
美緒の目が大きく開かれた。
「父に?」
「結婚の挨拶に行ったときだ。お父さんは、僕を認めてくれなかった。でも最後に、この指輪を出した」
朔は両手を握りしめた。
「美緒の母親が持っていたものだと言っていた。これを渡せば、美緒は安心する。だけど、自分から渡されたとは言うな、と」
「どうして黙ってたの」
「君とお父さんの関係を、これ以上悪くしたくなかった」
美緒は何も言えなかった。
律が問う。
「そのとき、石が合成サファイアだとは?」
「知りませんでした。本当に」
「証明できますか」
朔は悔しそうに唇をかんだ。
「できません」
「あなたは宝石詐欺の関係者と会っています」
「それは仕事の取引先です。僕は広告の仕事をしていて、イベントの案件で会っただけです。宝石の売買なんてしていない」
律はすぐには信じなかった。
玲央は、朔の手元に置かれたコーヒーカップを見た。
取っ手は右側。だが朔は左手でカップに触れている。
「有沢さんは、左利きですか」
唐突な問いに、朔は困惑した。
「え? はい」
玲央はうなずいた。
「指輪の爪についた工具痕は、右利きの人間が作業したものです」
律が玲央を見る。
「断定できるんですか」
「完全には。ただ、工具の入り方に癖があります。少なくとも、有沢さんが慣れない手つきで石を外したなら、もっと傷は乱れる」
「彼をかばうんですか」
「いいえ」
玲央は朔を見た。
「彼は嘘をついています」
美緒の顔がこわばる。
玲央は続けた。
「けれど、指輪を偽物にした嘘ではありません」
朔は目を閉じた。
美緒は、小さく震える声で言った。
「じゃあ、父が……?」
玲央は答えなかった。
しかし、その沈黙は答えと同じだった。
*
椎名誠司の家は、山手の住宅街にあった。
古い洋館を改装した家で、玄関には磨かれた真鍮のノブがついていた。庭の植え込みは丁寧に整えられている。だが、夜の雨の中では、どこか閉ざされた館のようにも見えた。
美緒が呼び鈴を押すと、しばらくして扉が開いた。
現れたのは、六十代前半ほどの男だった。
椎名誠司。
背筋は伸び、髪には白いものが混じっている。穏やかな顔立ちだが、目の奥には長く眠れなかった人間の疲れがあった。
「美緒」
誠司は娘の後ろにいる玲央と律を見て、表情を硬くした。
「警察まで連れてきたのか」
律が一歩前に出る。
「神奈川県警の灰原です。有沢朔さんに渡した指輪について、お話を伺います」
誠司の目がわずかに揺れた。
「何のことですか」
「ご存じのはずです」
玲央が静かに言った。
「椎名さん。あの指輪は、あなたが有沢さんに渡したものですね」
誠司は玲央を見た。
「あなたは?」
「瑠璃窓の水城です。宝石商をしています」
「宝石商……」
誠司の顔に、わずかな警戒が浮かんだ。
玲央はそれを見て、少しだけ笑った。
「指輪を拝見しました。台座は古い手仕事です。おそらく、長く保管されていたものですね」
「妻のものです」
美緒が息を呑む。
「お母さんの?」
誠司は娘を見ないまま答えた。
「ああ」
玲央は続ける。
「ただし、石は最近替えられています。台座の爪に新しい工具痕がある。石だけが合成サファイアになっている。あの作業をしたのは、有沢さんではありません」
律が誠司を見る。
「あなたですね」
誠司はしばらく黙っていた。
部屋の奥で、古い時計が音を立てた。
やがて誠司は言った。
「娘を守りたかっただけです」
美緒の顔が歪む。
「守るって、どういうこと?」
「お前は何も知らない。あの男のことも、この世の中のことも」
「だから試したの?」
美緒の声は震えていた。
「私の結婚を、指輪で?」
誠司は初めて娘を見た。
「金に目がくらむ男かどうか、見極める必要があった」
「朔さんはそんな人じゃない」
「どうしてわかる」
「父さんこそ、どうしてわからないの!」
美緒の声が部屋に響いた。
誠司は苦しそうに目を伏せる。
玲央は、親子の間に割って入るようには話さなかった。
ただ、テーブルの上に置かれた指輪を見ていた。
「椎名さん」
玲央が言う。
「本当に、それだけですか」
誠司の指がわずかに動いた。
「何がです」
「婚約者を試すためだけに、本物のサファイアを外した。そういう説明はできます。ですが、それなら外した本物の石をここで出せばいい」
誠司は答えない。
「本物のサファイアは、今どこにありますか」
沈黙。
律の目が細くなる。
「椎名さん」
「処分した」
誠司は低い声で言った。
「危険なものだったから」
美緒が眉を寄せる。
「危険?」
玲央は静かに指輪を手に取った。
「この指輪の内側に、工房印がありました」
誠司の顔色が変わった。
「小さく、H.C.と」
その瞬間、誠司の表情から父親の顔が消えた。
代わりに現れたのは、十年前の雨をまだ覚えている男の顔だった。
律も反応した。
「H.C.?」
「古い宝飾工房です」
玲央は淡々と言う。
「横浜で、いくつかの修復仕事を請け負っていた。王冠やティアラのような、特殊な宝飾品も扱っていたはずです」
律が玲央を睨む。
「詳しいですね」
「宝石商ですから」
「十年前の事件にも、その工房印が出てきた」
部屋の空気が止まった。
美緒と朔は、意味がわからないという顔で二人を見る。
誠司は、深く息を吐いた。
「やはり、あなたは知っているんですね」
玲央は答えなかった。
誠司は椅子に腰を下ろした。
急に老けたように見えた。
「あのサファイアは、妻の指輪に留まっていた石ではなかった」
美緒がかすれた声で言う。
「どういうこと?」
「昔、預かったんだ。仕事で関わった相手から。少しの間だけ保管してくれと頼まれた」
「仕事って……」
「輸入業をしていた頃だ。美術品や宝飾品の仲介もしていた」
誠司は両手を組んだ。
「その石が何なのか、当時の私は知らなかった。ただ、十年前の事件のあとで気づいた。あれは、関わってはいけない石だった」
律が問う。
「青の王冠事件ですか」
その言葉に、美緒が振り返る。
「青の王冠……?」
律は答えない。
玲央も黙っていた。
誠司は娘に向かって、ゆっくりと言った。
「十年前、横浜で王冠が消えた。中心に大きな青い石が留まっていたと言われている。その事件に関わった人間は、何人も人生を壊した」
「その石が、私の指輪に?」
「同じものかどうかはわからない」
誠司は首を振った。
「だが、似すぎていた。色も、刻印も、来歴も。だから私は怖くなった。お前がそれを身につけることが」
美緒は呆然と父を見ていた。
「じゃあ、朔さんを試したのは……」
「それも本当だ」
誠司は苦しそうに言った。
「私は有沢くんを信用していなかった。だが、それだけじゃない。あの石を誰かに見られたくなかった。お前の幸せの近くに、あんなものを置きたくなかった」
「だから偽物に替えたの?」
「本物を隠すためだ」
玲央が静かに言った。
誠司は目を閉じる。
「そうです」
美緒は何も言えなかった。
朔が一歩前に出る。
「美緒」
彼は、指輪ではなく美緒を見ていた。
「黙っていてごめん。お父さんから受け取ったことを言えなかったのは、君を傷つけたくなかったからだ。でも、それで余計に傷つけた」
美緒の目に涙が浮かぶ。
「私、朔さんを疑った」
「疑わせたのは僕だ」
朔は小さく頭を下げた。
「指輪が本物か偽物かより、ちゃんと話すべきだった」
美緒は指輪を見る。
合成サファイアの青は、静かに光っている。
偽物の青。
けれど、その青がすべてを壊したわけではなかった。
玲央は指輪を美緒の前に置いた。
「椎名さん」
美緒が顔を上げる。
「この指輪の石は、天然ではありません。ですが、あなたがこれからどうするかは、鑑定できません」
「どういう意味ですか」
「宝石の真贋は調べられます。けれど、人の気持ちが本物かどうかは、持ち主が決めるしかない」
美緒は涙をぬぐった。
「私は……ちゃんと話したいです。朔さんとも、父とも」
玲央はうなずいた。
「それがいいと思います」
律はまだ納得しきっていない顔だった。
「本物のサファイアは、どこにありますか」
誠司は黙った。
玲央が先に言う。
「今夜は、ここまでにしましょう」
「水城さん」
律の声が鋭くなる。
「これは事件に関わる可能性があります」
「だからこそです」
玲央は律を見た。
「今ここで無理に引き出せば、椎名さんはまた嘘をつく。嘘は、急がせるほど硬くなる」
「あなたがそれを言いますか」
「私だから言えるんです」
律は悔しそうに黙った。
玲央は誠司に向き直る。
「椎名さん。あなたが本当に娘さんを守りたいなら、次は隠すのではなく、話してください」
誠司は、長い時間をかけてうなずいた。
*
瑠璃窓に戻ったころには、雨は細くなっていた。
美緒と朔は、店の前で立ち止まった。
二人の間にはまだ距離があった。
けれどそれは、もう疑いだけの距離ではなかった。
話すための距離だった。
美緒は指輪の箱を両手で持っていた。
「この指輪、どうしたらいいと思いますか」
玲央は少し考える。
「石を替えることはできます。新しい天然サファイアを探してもいい。あるいは、このまま残すこともできます」
「偽物のまま?」
「ええ」
美緒は驚いたように玲央を見る。
玲央は穏やかに続けた。
「偽物は、人を騙すためだけにあるわけではありません。ときどき、本物を守るために置かれることもある」
美緒は箱を見下ろした。
朔が隣で言う。
「すぐに決めなくていいよ」
美緒はうなずいた。
「うん。今度は、ちゃんと一緒に決めたい」
二人は雨の残る坂道を下りていった。
その背中を見送りながら、律が言った。
「綺麗にまとめましたね」
「まとまってはいませんよ」
玲央は店の扉を開ける。
「人の心は、宝石ほど簡単には磨けません」
律は店内に入ると、カウンターの前で立ち止まった。
「水城さん」
「はい」
「あの工房印。H.C.」
玲央は振り返らない。
「あなた、最初から知っていましたね」
「古い工房印には、少し詳しいんです」
「十年前の青の王冠事件にも、関係している」
玲央は黙った。
その沈黙を、律は見逃さなかった。
「あなたは、あの事件と無関係じゃない」
「刑事さんは、断定がお好きですね」
「あなたは、嘘をつくときだけ笑い方が薄くなる」
玲央はようやく律を見た。
そして、いつものように笑った。
「では、今はどう見えますか」
律は答えた。
「薄いです」
二人の間に、静かな緊張が落ちる。
玲央は肩をすくめた。
「私は、青の王冠事件について多くを知りません」
「多くは、ですか」
「ええ」
「少しは知っている」
玲央は答えなかった。
律は一歩近づく。
「あなたを信用したわけではありません。今日の件も、あなたの鑑定が役に立った。それだけです」
「十分です」
「ですが、あなたが何かを隠しているなら、いずれ暴きます」
玲央は穏やかに言った。
「刑事らしい言葉ですね」
「あなたは宝石商らしくありません」
「よく言われます」
律はしばらく玲央を睨んでいたが、やがて店を出た。
扉の鈴が鳴る。
雨はほとんど止んでいた。
玲央はしばらくその音の余韻を聞いていた。
それから店の奥へ向かう。
古い金庫の前で足を止め、鍵を差し込んだ。
金庫の中には、いくつかの古い書類と、小さな布袋が入っている。
玲央はその中から、一冊の薄いファイルを取り出した。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
青の王冠
鑑定控え
玲央はそれを開かなかった。
ただ、指先で表紙をなぞった。
十年前の雨の匂いが、まだ紙の奥に残っている気がした。
偽物の婚約指輪は、ひとつの恋を壊さなかった。
けれど十年前に消えた本物の青は、まだ誰かの嘘の中で光っていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第一話「偽物の婚約指輪」はこれで完結です。
水城玲央と灰原律、そして十年前に消えた「青の王冠」の謎は、ここから少しずつ深まっていきます。




