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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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22/23

第十一話 律の鑑定(後編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第十一話「律の鑑定」後編です。

灰原家の翡翠は、御影真珠子へ返されます。


律は、自分の名前を捨てるのではなく、隠されていたものを見たうえで、もう一度選び直します。


御影真珠子へ翡翠を返す日は、よく晴れていた。


横浜の空は、少しだけ高く見えた。


灰原律は、瑠璃窓のカウンターの前に立っていた。


黒い布の上には、淡い緑の翡翠が置かれている。


灰原家のブローチから外され、成瀬真澄へ渡され、二十年以上守られてきた石。


御影小夜の声へ辿り着くための鍵。


そして本来、御影家へ返されるべきもの。


玲央は、白い手袋をはめて翡翠の状態を確認していた。


「傷は増えていません」


「よかったです」


律が答える。


「御影さんへ返す前に、鑑定書をつけますか」


「必要ですか」


「宝石としての鑑定書ではなく、状態記録です。いつ、誰から誰へ返されたのか。どういう状態だったのか。それを残しておくためのものです」


律は翡翠を見た。


記録。


この石には、記録が必要だった。


誰かの沈黙だけで運ばれてきたものだからこそ、今度は言葉として残す必要がある。


「お願いします」


「わかりました」


玲央は静かに頷き、書類を書き始めた。


石種。

形状。

寸法。

状態。

由来については、確認可能な範囲のみ。


淡緑色翡翠。

楕円形カボション。

裏面に金属板。

御影小夜の録音原盤への鍵として保管。


律は、その文面を見ていた。


宝石に、過去が書き込まれていく。


それは、石を飾るための言葉ではなかった。


石に背負わされた沈黙を、少しだけ外へ出すための言葉だった。


扉の鈴が鳴った。


入ってきたのは、成瀬真澄だった。


灰色のジャケットを着て、手には小さな鞄を持っている。


横浜に来てから数日、真澄は近くの宿に泊まっていた。


灰原家には泊まっていない。


詩乃と少しずつ話してはいるが、昔のように戻ったわけではない。


昔というものが、そもそも律にはわからない。


「おはようございます」


玲央が言うと、真澄は頭を下げた。


「おはようございます」


律は父を見る。


「準備はできていますか」


「できている」


短い会話だった。


けれど、それでよかった。


父と子として自然に話すには、まだ距離がある。


その距離を急に埋めようとしないことが、今の二人には必要だった。


真澄は、黒い布の上の翡翠を見た。


「長く持ちすぎたな」


律は言った。


「返しに行きましょう」


真澄は頷いた。


玲央が鑑定記録を封筒に入れる。


「私も同行します」


律は少しだけ玲央を見る。


「もちろんです」


「当然のように言われると、不思議ですね」


「ここまで来て、置いていくほうが不自然です」


玲央は柔らかく笑った。


「では、お供します」


「宝石商として?」


「今回は、記録係として」


律は少しだけ笑った。


「似合っています」


「褒めていますか」


「少し」


「少しですか」


いつものやり取りだった。


成瀬はそれを見て、ほんのわずかに表情を緩めた。






御影真珠子は、横浜へ来ていた。


長崎へ戻る前に、翡翠を受け取るため、瑠璃窓の近くの小さなホテルに滞在していると連絡があった。


待ち合わせ場所は、港の見える丘公園だった。


かつて、青の王冠事件で鳴海硝子の手紙が見つかった場所に近い。


偶然かもしれない。


だが、玲央は偶然だけではないように感じていた。


横浜の風は、少し冷たかった。


公園の木々は揺れ、遠くに港が見える。


御影真珠子は、ベンチに座っていた。


黒い帽子。

薄いグレーのコート。

手には、小さな革の手袋。


海を見ている姿は、長崎の灰色の家で見たときよりも、少しだけ軽く見えた。


律たちが近づくと、真珠子はゆっくり立ち上がった。


「来てくださったのですね」


律は頷いた。


「返しに来ました」


真澄は、真珠子の前で深く頭を下げた。


「御影さん」


真珠子は、彼を見た。


「お久しぶりです。成瀬さん」


「長い間、申し訳ありませんでした」


「そうですね」


真珠子の返事は穏やかだった。


だが、許している声ではなかった。


「長すぎました」


真澄は頭を下げたまま言った。


「はい」


「あなたが翡翠を持って消えたことで、守られたものもあるのでしょう」


「はい」


「でも、私の母の声が返ってくるまでにも、長い時間がかかりました」


「はい」


「私は、その時間をなかったことにはできません」


真澄は、静かに答えた。


「できません」


真珠子は、しばらく真澄を見ていた。


それから、律へ視線を移した。


「あなたが持ってきてくれたのですね」


「はい」


律は、鞄から小さなケースを取り出した。


玲央が用意した状態記録も一緒に添える。


「翡翠です。録音原盤は、警察と相談しながら正式な保管と調査に回します。でも、この石は、先にあなたへ返すべきだと思いました」


真珠子の手が、わずかに震えた。


「開けても?」


「はい」


律はケースを差し出した。


真珠子は、ゆっくり蓋を開けた。


淡い緑の翡翠が、陽の光を受ける。


その色を見た瞬間、真珠子の目に涙が浮かんだ。


「母の石です」


彼女は小さく言った。


「ようやく」


誰も何も言わなかった。


風だけが、公園の木々を揺らしている。


真珠子は翡翠を指で触れなかった。


ただ、見ていた。


長い間探していたものを前にして、すぐには触れられないようだった。


玲央は、静かに言った。


「状態記録を添えています。後日、正式な鑑定書が必要であれば作成します」


真珠子は玲央を見る。


「ありがとうございます」


「これは、宝石としてはまだ完全な鑑定ではありません。ただ、どのような状態で返されたかを残すものです」


真珠子は頷いた。


「記録があるのは、いいことです」


彼女は、翡翠を見つめた。


「母は、記録を残すために声を使った人でしたから」


律は、真珠子の横顔を見た。


「御影小夜さんの声は、原盤に残っていました」


「聞きましたか」


「はい」


「どう思いましたか」


律は、少し考えた。


「怖かったです」


真珠子は、静かに頷いた。


「ええ」


「自分の名前の中に、誰かの沈黙があると知るのは、怖い」


「そうですね」


「でも、聞けてよかった」


真珠子は、初めて少しだけ微笑んだ。


「私も、そう思える日が来るまで時間がかかりました」


律は、翡翠のケースを持つ真珠子の手を見た。


「僕は、灰原の名前を捨てません」


真珠子は顔を上げる。


「そうですか」


「はい」


律は続けた。


「灰原宗一郎の名前が録音にあったことは消えません。祖母が沈黙したことも、母が隠したことも、父が逃げたことも消えません」


成瀬が静かに目を伏せる。


律は言った。


「でも、僕はその名前で生きてきました。母も、その名前で僕を育てました」


真珠子は黙って聞いている。


「だから、捨てるのではなく、見ます」


「見る」


「はい」


律は、玲央のほうを少しだけ見た。


「隠すためではなく、聞くために」


玲央は、何も言わなかった。


ただ、小さく頷いた。


真珠子は、翡翠のケースを閉じた。


「よい鑑定ですね」


律は少し驚いたように彼女を見る。


「鑑定?」


「ええ」


真珠子は言った。


「人は、自分の名前を一度くらい鑑定する必要があるのかもしれません」


律は、少しだけ息を吐いた。


「重いですね」


「ええ」


真珠子は微笑んだ。


「でも、あなたは持てると思います」


その言葉を、律は否定しなかった。


まだ持てるかはわからない。


けれど、持とうとは思っている。


それで今は充分だった。


成瀬が口を開いた。


「御影さん」


「はい」


「原盤については、正式に証言します」


真珠子は彼を見る。


「逃げませんか」


「逃げません」


「本当に?」


「律さんに言われました。会う資格があるかどうかは、私が決めることではないと」


真珠子は律を見て、少し笑った。


「いい言葉です」


律は目を逸らした。


「別に、いい言葉のつもりではありません」


「そういう言葉ほど、残るものです」


真珠子は海のほうを見た。


「母の声も、そうでした」


彼女は翡翠のケースを胸元に抱えた。


「これは、母の墓前へ持っていきます」


律が尋ねる。


「お墓があるんですか」


「はい。遺体は戻りませんでしたが、墓はあります」


「そうですか」


「母は、ようやく自分の声と一緒に眠れる」


その言葉に、律は胸の奥が静かに痛むのを感じた。


声が返る。


石が返る。


名前が返る。


全部が元通りになるわけではない。


でも、返すことはできる。






その日の夕方、律は母と二人で灰原家の居間にいた。


玲央と成瀬は瑠璃窓へ戻っている。


本当は成瀬も来る予定だったが、律が今日は母と二人で話したいと言った。


成瀬は何も言わず、頷いた。


詩乃は、台所でお茶を淹れていた。


律は、祖母の写真の前に座っている。


「御影さんに翡翠を返したよ」


詩乃は、お茶を置いた。


「そう」


「泣いていた」


「そう」


詩乃は、祖母の写真を見た。


「母は、どう思うかしら」


律は少し考えた。


「わからない」


「そうね」


「でも、返したほうがよかったと思う」


詩乃は頷いた。


「うん」


律は、母を見る。


「母さん」


「何?」


「父さんと、これからどうするの」


詩乃は、しばらく黙っていた。


湯呑みから、白い湯気が立っている。


「わからない」


律は頷いた。


「うん」


「許せるかも、わからない」


「うん」


「でも、話はする」


律は、少しだけ母を見た。


詩乃は続けた。


「話さなかったことで、あなたを傷つけたから」


律は何も言わなかった。


詩乃は、湯呑みを両手で包む。


「律」


「何?」


「あなたにも、これから聞かせてほしい」


「何を」


「怒っていること」


律は、少し驚いた。


「怒っていること?」


「そう」


詩乃は言った。


「私は、あなたに優しくされるより、怒っていることをちゃんと聞いたほうがいいと思った」


律は、目を伏せた。


母は変わろうとしている。


遅すぎるのかもしれない。


でも、遅すぎると決めるのもまた、律にはまだ早い気がした。


「すぐには言えないかもしれない」


「うん」


「でも、言う」


詩乃は小さく頷いた。


「聞く」


その短いやり取りだけで、律の胸は少しだけ軽くなった。


和解ではない。


許しでもない。


ただ、話すための小さな扉が開いた。


それでよかった。






夜、律は瑠璃窓を訪れた。


店はまだ開いていた。


青い小窓が、静かに光っている。


カウンターには、石のないブローチが置かれていた。


玲央は、その隣で書類を整えている。


「いらっしゃいませ」


「客扱いですか」


「今日はお客様ですか?」


「違います」


「では?」


律は少しだけ考えた。


「報告です」


玲央は微笑んだ。


「どうぞ」


律はカウンターの前に立った。


「翡翠を返しました」


「はい」


「母と話しました」


「はい」


「父とは、まだ話せていません」


「急がなくていいと思います」


「あなたに言われると、少し素直に聞けます」


玲央は少し驚いたように律を見た。


「珍しいですね」


「自分でもそう思います」


律は、ブローチを見た。


中央の空白。


そこには、もう翡翠は戻らない。


「母は、このブローチを持つそうです」


「そうですか」


「空いたまま」


「はい」


「僕も、それがいいと思います」


玲央は、ブローチを丁寧に黒い布の上で整えた。


「空白を残す、という鑑定ですね」


律は少しだけ苦笑した。


「そういう言い方、嫌いではなくなりました」


「それは大きな進歩です」


「誰の?」


「お互いの」


律は、青い小窓を見た。


瑠璃窓。


隠すための場所だった店。


今は、返すための場所になろうとしている。


「水城さん」


「はい」


「僕は、灰原律のままでいます」


「はい」


「ただ、その名前が何を隠していたのかを忘れないでいます」


玲央は静かに頷いた。


「それが、律さんの答えですね」


「今のところは」


「充分です」


律は、ブローチの空白に目を落とした。


「石がないのに、不思議ですね」


「何がですか」


「前より、ちゃんと見える気がします」


玲央は微笑んだ。


「空いている場所を見るのは、得意になりましたね」


「あなたのせいです」


「光栄です」


「褒めていません」


「でしょうね」


二人は少しだけ笑った。


その笑いは、静かだった。


だが、以前よりも近かった。


律は、ブローチから目を離した。


「青の王冠のとき、あなたは証人だと言いましたね」


「言いました」


「今回は、僕が証人になった気がします」


「何の?」


律は少し考えた。


「自分の家の沈黙の」


玲央は、ゆっくり頷いた。


「良い証人です」


律は眉を寄せる。


「また褒めていますか」


「はい」


「珍しいですね」


「たまには」


律は、少し困ったように視線を逸らした。


瑠璃窓の外では、夜の坂道が静かに沈んでいる。


石畳には、昼の光の名残もない。


けれど、青い小窓だけが静かに灯っていた。


律は、その青を見て思った。


この店に来る前、自分は宝石などほとんど知らなかった。


石の名前も、価値も、光の見方も。


けれど今は、少しだけわかる。


宝石は、ただ美しいから残るのではない。


誰かがそこに、言えなかったものを置くから残る。


罪。

願い。

沈黙。

声。

名前。


そして、ときには空白。


律は、石のないブローチをもう一度見た。


空いた場所は、もう欠けているだけには見えなかった。


そこは、聞くための場所だった。






翌朝、灰原家のブローチは詩乃の手元へ戻った。


翡翠はもうない。


中央は空いたまま。


だが、詩乃はそれを小さな箱にしまわなかった。


居間の棚の上に置いた。


祖母の写真の近くに。


律はそれを見て、何も言わなかった。


詩乃も何も言わなかった。


ただ、その空白が家の中に置かれた。


隠されるのではなく、見える場所に。


それだけで、何かが少し変わった気がした。


成瀬真澄は、しばらく横浜に残ることになった。


警察への証言。

御影小夜の原盤の扱い。

過去の関係者への確認。


やるべきことは多い。


詩乃と成瀬がどうなるのかは、まだわからない。


律と成瀬が、親子としてどう始めるのかもわからない。


けれど、わからないままでも、話すことはできる。


律は、そのことを少しだけ知った。






数日後、律は仕事帰りに瑠璃窓へ寄った。


玲央は、カウンターで小さな指輪を磨いていた。


「お疲れさまです」


「仕事中ですか」


「ええ。珍しく本業です」


「珍しく?」


「最近、事件ばかりでしたから」


律は少しだけ笑った。


「たしかに」


玲央は指輪を布に置いた。


「灰原家の件は、これで一区切りですね」


律は頷いた。


「はい」


「寂しいですか」


「なぜそうなるんですか」


「事件が終わると、少し空くものです」


律は、少し考えた。


「空きますね」


「でしょう」


「でも、今回は空いていていいと思います」


玲央は微笑んだ。


「いい答えです」


律は、カウンターに一枚の紙を置いた。


「これは?」


「御影真珠子さんからの手紙です。あなたにも、とのことでした」


玲央は紙を開いた。


そこには、丁寧な字で短い文章が書かれていた。


『翡翠は、母のもとへ戻りました。

声も、ようやく沈黙ではなくなりました。


瑠璃窓が、返す場所でありますように。


御影真珠子』


玲央は、しばらくその文字を見つめた。


「ありがたいですね」


「はい」


律は、青い小窓を見る。


「瑠璃窓は、返す場所になっていますか」


玲央は少し考えた。


「まだ途中です」


「あなたらしい答えですね」


「完成したと言ったら、少し怖いでしょう」


「かなり」


二人は静かに笑った。


店内には、穏やかな時間が流れていた。


だが、その穏やかさの奥で、律は少しだけ予感していた。


すべてが終わったわけではない。


青の王冠。

灰原家のブローチ。

白河周吾。

御影小夜の声。


それぞれは一区切りを迎えた。


けれど、瑠璃窓にはまだ、返されるべきものが集まってくるのかもしれない。


律はカウンターの黒い布を見た。


そこは、宝石が置かれる場所であり、嘘がほどかれる場所であり、空白が見つめられる場所だった。


「水城さん」


「はい」


「次に何か持ち込まれても、驚かない気がします」


玲央は、少しだけ笑った。


「それは頼もしいですね」


「巻き込まれ慣れただけです」


「申し訳ありません」


「本当に思っていますか」


「少し」


「少しですか」


いつものやり取りが戻る。


でも、少しだけ違う。


青の王冠事件のとき、律は玲央を疑っていた。


灰原家のブローチのとき、玲央は律の家族の空白を見た。


今、二人の間には、完全な信頼ではないが、確かな確認がある。


疑うこと。

見ること。

聞くこと。

そして、急いで決めつけないこと。


それが、二人の間に残ったものだった。


玲央は、開店札を見た。


瑠璃窓は、今日も開いている。


青い小窓に、夜の光が宿り始めていた。


第十二話へ続く。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第十一話「律の鑑定」はこれで完結です。

石のないブローチは、空白を残したまま灰原家へ戻りました。


次回はいよいよ最終話。

瑠璃窓が「隠す場所」から「返す場所」になったことを描き、この物語を締めくくります。

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