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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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第十一話 律の鑑定(前編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第十一話「律の鑑定」前編です。

灰原家へ戻った律たちは、祖母の遺品の中から御影小夜の声の原盤を見つけます。


そこに残されていたのは、灰原という名前にもつながる沈黙の記録でした。


横浜へ戻った日の空は、よく晴れていた。


長崎と佐世保で見た海の色が、まだ目の奥に残っている。


灰原律は、車の窓から流れる街を見ていた。


隣には水城玲央。

後部座席には成瀬真澄が座っている。


律の父。


そう思うたびに、胸の奥がまだ少し軋んだ。


父と呼ぶには、あまりにも時間が空きすぎている。

他人と呼ぶには、手紙の文字と声の記憶が近すぎる。


成瀬真澄は、後部座席で静かに外を見ていた。


佐世保の時計修理店から持ってきた鞄は小さかった。

中には着替えと、工具が少し。

そして、律に預けられた翡翠を扱うための器具が入っている。


人生を二十年以上隠してきた人間の荷物は、拍子抜けするほど少なかった。


灰原家へ向かう道中、誰も多くは話さなかった。


玲央が運転しながら、時折バックミラーを見る。


成瀬はそれに気づいているのかいないのか、黙ったままだった。


律は、母から届いた短いメッセージを何度も見返していた。


『待っています。』


それだけだった。


灰原詩乃らしい、短い言葉。


けれど、そこには逃げないという意思があった。


律は携帯を閉じた。


「水城さん」


「はい」


「少し、ゆっくり走ってください」


玲央は横目で律を見た。


「時間を稼ぎたい?」


律は少しだけ黙った。


「はい」


「わかりました」


車の速度がわずかに落ちた。


成瀬が後ろから静かに言った。


「すまない」


律は振り返らなかった。


「今は謝らないでください」


「わかった」


成瀬はそれ以上言わなかった。


律は窓の外を見る。


見慣れた街だった。


母と暮らした街。

祖母の家があった街。

刑事として働く街。


けれど、今は少し違って見える。


この街のどこかに、御影小夜の声の原盤が眠っている。


灰原家の中に。


祖母が隠し、母が知らず、律が見つけようとしているもの。


翡翠に閉じ込められていた声は、短かった。


名前を返してください。


白河周吾。

成瀬隆臣。

久世澪子。

水無瀬千鶴。

灰原宗一郎。


その名の中に、自分の姓があった。


灰原。


律は、その名前で生きてきた。


母の姓。

祖母の家の姓。

自分の仕事の名札に刻まれている姓。


その名前の奥に、誰かの沈黙がある。


それを知ってもなお、自分は灰原律でいられるのか。


わからなかった。






灰原家に着くと、玄関の前に詩乃が立っていた。


薄い紺色のカーディガンを羽織っている。


髪は整えていたが、顔色はあまりよくない。


車が止まる。


律は、すぐにはドアを開けられなかった。


成瀬も動かない。


玲央だけが、静かにエンジンを切った。


「行きましょう」


その声に押されるように、律は車を降りた。


詩乃は、律を見た。


次に、成瀬真澄を見た。


その瞬間、彼女の表情が崩れた。


泣くのでも、怒るのでもない。


二十年以上前に止まった時間を、急に目の前へ置かれた人の顔だった。


成瀬は、玄関の前で深く頭を下げた。


「詩乃さん」


詩乃は何も言わなかった。


成瀬は頭を下げたまま続ける。


「すみませんでした」


風が、庭の葉を揺らした。


律は、その二人を見ていた。


母と父。


自分の知らない時間を共有している二人。


それが、少し悔しかった。


自分は二人の間から生まれたのに、その時間を何も知らない。


詩乃は、ようやく口を開いた。


「生きていたんですね」


「はい」


「本当に」


「はい」


「一度も、会いに来なかった」


成瀬は目を伏せた。


「はい」


詩乃の声は震えていた。


「私は、何度も死んだのだと思おうとしました」


「はい」


「でも、思えなかった」


「……はい」


「律に、あなたのことを聞かれるたびに、死んだと言えなかった。生きているとも言えなかった」


成瀬は顔を上げられない。


詩乃は続けた。


「それが、どれだけ残酷だったかわかりますか」


「わかります、とは言えません」


成瀬は静かに答えた。


「私は、その残酷さをあなたに背負わせました」


詩乃の目から、涙が落ちた。


「そうです」


その言葉は、責めるためというより、ようやく事実を置くためのものだった。


「あなたは、私に背負わせた」


「はい」


「律にも」


「はい」


「それでも、来たんですね」


成瀬は、ゆっくり頭を上げた。


「律さんが、来てくれと言いました」


詩乃は律を見る。


律は目を逸らさなかった。


「僕が呼んだ」


詩乃は、涙を拭った。


「そう」


短い言葉だった。


けれど、その中には、母として息子の選択を受け止める響きがあった。


玲央は一歩下がっていた。


部外者として距離を取っている。


だが、律にはその距離がありがたかった。


詩乃は玄関を開けた。


「入ってください」


成瀬は一瞬ためらった。


詩乃が言った。


「謝るなら、中で聞きます」


成瀬は小さく頷いた。


四人は、灰原家へ入った。






居間には、灰原千鶴の写真が飾られていた。


厳しい目をした祖母。


律は、その写真を見た。


祖母は、何を思ってこの家に原盤を隠したのだろう。


夫である灰原宗一郎の名が入った録音を。

娘の未来を守るために。

孫の名前を守るために。

あるいは、自分の罪を抱えるために。


詩乃は、古い木箱をテーブルに置いた。


「これが、母の遺品です」


前にも見た箱だった。


成瀬真澄の手紙。

月森宝飾の写真。

成瀬と詩乃の写真。


けれど、まだすべては見ていない。


律は箱を開けた。


中には、手紙や写真のほかに、小さな布袋がいくつかある。


詩乃が言った。


「真珠の箱と言われても、思い当たるものがありませんでした。でも、母は真珠のネックレスを持っていました」


「その箱は?」


玲央が聞く。


「捨てたと思っていました。でも、今朝もう一度探したら、押し入れの奥にありました」


詩乃は、別の小箱を出した。


黒い布張りの箱。


蓋には、真珠店の古いロゴが刻まれている。


律はそれを見た。


「開けていい?」


詩乃は頷いた。


律は蓋に手をかけた。


指が少し震えている。


箱を開ける。


中には、真珠のネックレスは入っていなかった。


代わりに、薄い円盤が一枚、古い紙に包まれて入っていた。


小さな録音盤。


紙には、墨のような字でこう書かれている。


『御影小夜 翡翠の眠る夜』


律は、息を止めた。


これだ。


御影小夜の声。


灰原家に隠されていた原盤。


成瀬は、椅子に座ったまま動かなかった。


詩乃は口元を押さえている。


「母は、これを……」


「隠していた」


律が言った。


詩乃は、灰原千鶴の写真を見る。


「私の家に」


玲央は録音盤を覗き込んだ。


「かなり古いものです。状態を確認しないと、再生で傷む可能性があります」


成瀬が静かに言った。


「私が見ます」


律は、成瀬を見る。


「できますか」


「昔、月森で扱ったことがある」


「壊さないでください」


成瀬は頷いた。


「壊さない」


その返事は、修復職人の声だった。


成瀬は鞄から道具を取り出した。


綿手袋。

小さなブラシ。

拡大鏡。

専用の針。

携帯型の再生装置。


時計修理の工具に似ているが、少し違う。


玲央も隣に立った。


「手伝います」


成瀬は玲央を見た。


「お願いします」


二人は録音盤を慎重に取り出した。


律はそれを見ていた。


父と玲央。


どちらも、白河の近くにいた人間。


どちらも、白河から離れようとした人間。


そして今、二人は同じ机で、御影小夜の声を壊さないように扱っている。


その光景は、少し不思議だった。


成瀬が言った。


「傷はありますが、再生できます」


玲央が頷く。


「一度だけなら、安全に聞けると思います」


律は、母を見る。


「聞く?」


詩乃は、少しだけ震えていた。


「聞かなければならないんでしょう」


「無理しなくていい」


詩乃は首を振った。


「私も、灰原の名前を持っています」


律は黙った。


詩乃は続けた。


「聞きます」


成瀬が再生装置を整える。


部屋に、緊張が満ちた。


針が、録音盤に下りる。


最初に聞こえたのは、古いノイズだった。


風のような音。

雨のような音。

遠い拍手のような音。


やがて、女性の声が現れた。


『翡翠の眠る夜』


美しい声だった。


翡翠に仕込まれた金属板で聞いた声よりも、ずっとはっきりしている。


やわらかく、深く、そしてどこか冷たい。


御影小夜の声。


『海は、すべてを隠してくれると言う人がいます。

けれど、海は隠しません。

ただ、沈められたものを、長く抱くだけです。』


律は、息を詰めて聞いた。


これは朗読だった。


物語の形をしている。


だが、その奥に、別の声がある。


『翡翠は、緑の石です。

しかし、その緑は森の色ではありません。

人が言わなかった言葉を、長く沈めた水の色です。』


詩乃が、手を握りしめている。


成瀬は目を閉じていた。


玲央は、音の揺れを確認するように静かに聞いている。


録音は続く。


『私は、名前を預けました。

白河周吾。

成瀬隆臣。

久世澪子。

水無瀬千鶴。

灰原宗一郎。』


律の胸が冷たくなる。


短い金属板で聞いた名前と同じ。


だが、原盤にはさらに続きがあった。


『この人たちは、私の声を消そうとした人たちです。

けれど、すべてが同じ罪ではありません。


奪った者。

運んだ者。

隠した者。

恐れて黙った者。

そして、後から気づいても戻れなかった者。』


律は、祖母の写真を見た。


水無瀬千鶴。

灰原宗一郎。


祖母は、どこにいたのか。


奪ったのか。

運んだのか。

隠したのか。

恐れて黙ったのか。


『私は、沈黙を選んだのではありません。

沈黙にされました。


けれど、私もまた、沈黙で誰かを傷つけました。

娘の真珠子に、本当のことを伝えられなかった。


だから、声を残します。


いつか、この声を聞く人へ。

名前を裁く前に、名前が何をしたのかを見てください。』


玲央が、わずかに目を伏せた。


名前を裁く前に、名前が何をしたのかを見てください。


それは、鑑定に近い言葉だった。


石の名前ではなく、石の状態を見る。

人の名前ではなく、その人が何をしたのかを見る。


律は、録音に耳を澄ませた。


ノイズが少し強くなる。


そして、御影小夜の声が、さらに低くなった。


『成瀬隆臣は、翡翠を奪いました。

灰原宗一郎は、翡翠を運びました。

久世澪子は、翡翠を隠しました。

白河周吾は、それを美しい嘘に変えようとしました。


水無瀬千鶴は、最後に翡翠を守ろうとしました。


けれど、守るために黙りました。

黙ったことで、私の声はさらに遠くなりました。』


詩乃が、声を殺して泣いた。


律は、祖母の写真を見た。


千鶴は、完全な加害者ではなかった。


完全な被害者でもなかった。


途中で気づき、守ろうとして、それでも沈黙した。


律の胸の中に、何か重いものが落ちた。


灰色。


祖母は灰色だった。


そして、灰原という名前もまた、灰色の中にあった。


録音は、終わりに近づいていた。


『真珠子。

もしあなたがこれを聞いているなら、私は謝ります。

あなたに沈黙を残してしまったことを。


そして、これを聞く未来の誰かへ。


宝石を返してください。

名前を返してください。

沈黙にされた声を、沈黙のままにしないでください。』


最後に、長いノイズが入った。


そして、御影小夜の声は消えた。


部屋には、時計の音もない。


誰も動かなかった。


律は、録音盤を見つめていた。


声は、確かにあった。


御影小夜は、沈黙していなかった。


沈黙にされても、声を残していた。


そしてその声は、灰原家の中に眠っていた。


成瀬が、ゆっくり針を上げた。


「これが、私が守っていたものです」


律は、父を見る。


「守っていたのは、声だけですか」


成瀬は少しだけ目を伏せた。


「いいや」


「何を守っていたんです」


「自分の父の罪から、目を逸らさないためのものも」


律は黙った。


成瀬は続けた。


「私は、成瀬隆臣の息子だ。その事実から逃げたかった。だが、この声を消してしまえば、本当に父と同じ側になると思った」


「だから守った」


「そうだ」


「でも、母からは逃げた」


「そうだ」


「僕からも」


「そうだ」


律は、深く息を吸った。


「父さん」


その呼び方に、成瀬の目が揺れた。


「僕は、まだあなたを許せません」


成瀬は頷いた。


「わかっている」


「でも、御影小夜の声を守ったことは、たぶん間違っていなかったと思います」


成瀬は、何も言わなかった。


律は続ける。


「だから、その二つを分けます」


玲央が、律を見る。


詩乃も顔を上げた。


「あなたがした正しいことと、あなたが僕たちにした間違ったことを、一緒にしません」


成瀬は、唇を結んだ。


「ありがとう」


「感謝されることではありません」


律の声は、静かだった。


「これは、僕がそうしないと前に進めないだけです」


成瀬は頷いた。


詩乃が、涙を拭った。


「律」


律は母を見る。


「母さんにも、同じです」


詩乃の顔がこわばる。


「僕は、母さんが怖かったことを少しはわかりました。祖母に縛られていたことも。僕を守ろうとしたことも」


詩乃は、震える声で言った。


「うん」


「でも、隠されたことは許せない」


詩乃は目を閉じた。


「うん」


「だから、すぐには許しません」


「うん」


「でも、話を聞きます」


詩乃の涙がまた落ちた。


「ありがとう」


律は、少しだけ目を逸らした。


「感謝されることではない」


「それでも」


詩乃は言った。


「ありがとう」


居間に、静かな空気が流れた。


玲央は、黒い布の上に置かれた翡翠を見た。


淡い緑の石。


声を閉じ込めていた石。


いや、閉じ込めていたのではない。


声を守っていた。


誰かが聞く日まで。






午後、律は一人で祖母の写真の前に座っていた。


灰原千鶴。


厳しい目をした祖母。


律は、写真を見つめる。


「祖母さん」


久しぶりに、そう呼んだ。


子どもの頃の呼び方だった。


「あなたは、正しかったんですか」


写真は答えない。


「間違っていたんですか」


やはり答えない。


律は小さく息を吐いた。


「たぶん、両方ですね」


水無瀬千鶴は、御影小夜の声を完全には消さなかった。

原盤を灰原家に隠し、翡翠の鍵を成瀬真澄に託した。


だが、そのために娘に沈黙を強いた。

孫に父の名を隠した。

御影真珠子に、母の声を返さなかった。


守ったものもある。

傷つけたものもある。


それをどう受け止めればいいのか。


律には、まだわからない。


ただ、ひとつだけ思った。


人は、ひとつの言葉では決められない。


加害者。

被害者。

母。

父。

祖母。

刑事。


どの名前も、その人の全部ではない。


律は、自分の名前を思う。


灰原律。


灰原宗一郎の名を含む家の名前。

灰原詩乃から受け継いだ名前。

水無瀬千鶴が守り、隠した名前。

そして、自分が生きてきた名前。


この名前を捨てれば、楽になるのか。


いや。


捨てても、消えない。


名前は、罪だけではない。


傷でもあり、記録でもあり、これから何をするかを決める場所でもある。


律は、写真の前で静かに言った。


「僕は、灰原律のままでいます」


声に出すと、その言葉は思っていたよりも重かった。


「ただし、隠すためではなく、聞くために」


祖母の写真は、やはり何も答えない。


けれど、その厳しい目が少しだけ柔らかく見えたのは、律の気のせいかもしれない。






夕方、瑠璃窓へ戻ると、青い小窓に淡い光が入っていた。


玲央は、店のカウンターに黒い布を広げた。


そこに、灰原家のブローチを置く。


石のないブローチ。


そして、その隣に翡翠を置いた。


律、詩乃、成瀬も店に来ていた。


詩乃は少し戸惑っている。

成瀬は黙っている。

律は、カウンターの前に立っていた。


玲央は言った。


「戻しますか」


律はブローチと翡翠を見た。


「本来は、御影真珠子さんへ返すべき石です」


「はい」


「でも、このブローチにも戻す場所がある」


「はい」


「どうすればいいと思いますか」


玲央は、すぐには答えなかった。


「私が決めることではありません」


律は少しだけ笑った。


「そう言うと思いました」


「鑑定はできます。石が合うか、爪が耐えられるか、修復できるか。けれど、戻すかどうかは持ち主が決めることです」


律は母を見る。


「母さん」


詩乃はブローチを見つめた。


「私は、もうそれを持つ資格がないと思っていました」


「資格?」


「翡翠を外して、真澄さんに渡して、あなたに何も言わなかった」


詩乃は目を伏せる。


「だから、このブローチを見るのが怖かった」


成瀬が静かに言った。


「詩乃さん」


彼女は成瀬を見ない。


「でも、今は少し違います」


詩乃は、翡翠を見た。


「この石は、返すべきものです。御影真珠子さんに。御影小夜さんに」


律は頷いた。


「うん」


「だから、ブローチには戻さないほうがいいと思う」


律は、少しだけ驚いたように母を見た。


詩乃は続けた。


「空いたままでいい」


「空いたまま?」


「その空白も、私たちの家にあったものだから」


玲央は、静かに目を伏せた。


石のないブローチ。


その空白を埋めるために始まった鑑定。


けれど、答えは必ずしも石を戻すことではない。


空白を空白として見ることも、ひとつの返し方なのかもしれない。


律はブローチを見た。


中央の石座は、ぽっかりと空いている。


以前は、そこに何があったのか知りたかった。


今は、そこに何がなかったのかも少し見える。


父の名前。

母の沈黙。

祖母の恐れ。

御影小夜の声。

御影真珠子の怒り。


そして、自分の問い。


「では、翡翠は御影真珠子さんへ返します」


律は言った。


「ブローチは、空いたまま母さんが持っていてください」


詩乃の目が潤む。


「いいの?」


「うん」


「律は?」


「僕は、覚えておく」


律は、ブローチを見る。


「空いている場所があったことを」


玲央は、黒い布の上のブローチを丁寧に整えた。


「では、翡翠は一時的にお預かりします。御影真珠子さんへ返す準備をしましょう」


律は頷いた。


「お願いします」


成瀬が口を開いた。


「私も行きます」


律が成瀬を見る。


「長崎へ?」


「御影真珠子さんに、返さなければならない」


「父さんが?」


「私も、長く預かりすぎた」


律は、少し考えた。


「わかりました」


成瀬は小さく頭を下げた。


詩乃は、そのやり取りを黙って見ていた。


家族が元に戻ったわけではない。


そもそも、元の形など律は知らない。


けれど、まったく別の形で始まることはできるのかもしれない。


それは、綺麗な和解ではなかった。


けれど、嘘のない始まりだった。


玲央は、律を見る。


「灰原さん」


「何です」


「これが、あなたの鑑定ですか」


律は少しだけ考えた。


「まだ途中です」


「そうですね」


「でも、一つだけわかりました」


「何が?」


律は、ブローチの空白を見た。


「名前は、受け継ぐだけではなく、選び直すものです」


玲央は、静かに微笑んだ。


「良い鑑定です」


「あなたに褒められると、少し複雑です」


「なぜですか」


「似合いすぎるからです」


玲央は笑った。


瑠璃窓の青い小窓から、夕方の光が差し込んでいる。


その光は、ブローチの空白に落ちた。


石のない場所が、静かに光を受けている。


埋めなくても、そこには意味がある。


律は、その空白を見つめた。


もう、目を逸らさなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第十一話では、律が自分の名前と向き合う場面を描きました。

ブローチの空白は、埋めるべき欠落ではなく、覚えておくべき場所へと変わっていきます。


次回、灰原家のブローチ編の締めくくりです。

翡翠を御影真珠子へ返し、律がこの事件に自分なりの答えを出します。

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