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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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20/23

第十話 灰色の家に眠るもの(後編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第十話「灰色の家に眠るもの」後編です。

佐世保の成瀬時計修理店で、灰原律はついに父・成瀬真澄と対面します。


翡翠に閉じ込められていたのは、御影小夜の声。

そして、その声の中には、灰原家にもつながる名前が残されていました。

佐世保へ向かう道は、夕方の光に沈みかけていた。


車窓の向こうに、港が見える。


横浜とも、神戸とも、長崎とも違う海だった。


造船所のクレーン。

入り組んだ湾。

丘の上に並ぶ家々。

夕陽を受けて、海面が鈍い銀色に光っている。


灰原律は、助手席で御影真珠子から受け取った地図を見ていた。


成瀬時計修理店。


そこに、父がいる。


そう思おうとしても、現実味はなかなか追いつかなかった。


成瀬真澄。


名前だけだった父。


母の涙の中にいた父。

祖母の沈黙の中にいた父。

ブローチから抜けた翡翠を持って消えた父。


そして今、佐世保の小さな時計修理店にいるかもしれない父。


律は、地図を折りたたんだ。


運転席の玲央は、前を向いたまま言った。


「緊張していますか」


「していません」


「している人の返事ですね」


「毎回それを言いますね」


「毎回、当たりますから」


律は窓の外を見た。


「緊張というより、腹が立っています」


「お父様に?」


「はい」


「それでいいと思います」


律は、玲央を見た。


「いいんですか」


「はい」


「あなたなら、もう少し綺麗なことを言うと思っていました」


「怒りは、あまり綺麗にしないほうがいいです」


玲央は静かに言った。


「磨きすぎると、別のものになります」


「宝石みたいに?」


「ええ」


律は、少しだけ黙った。


御影真珠子は言った。


真澄さんを、すぐに許そうとしないでください。


許すことを急ぐと、本当に言いたかった怒りが沈んでしまう。


律は、自分が何に怒っているのかを考えた。


会いに来なかったこと。

名乗らなかったこと。

母を一人にしたこと。

自分に何も選ばせなかったこと。


それから。


生きていたこと。


死んだと思うことすらできない曖昧さの中に、母と自分を置いたこと。


怒りは、確かにあった。


それでも、その奥に別の感情もある。


会いたい。


たったそれだけの気持ちが、怒りよりも単純で、怒りよりも扱いにくかった。


玲央は何も言わなかった。


車は海沿いの道を抜け、古い商店街へ入った。


シャッターの下りた店がいくつか並ぶ中に、小さな時計店があった。


木枠の硝子扉。

色褪せた看板。

壁にかかった丸時計の絵。


成瀬時計修理店。


店内には、まだ灯りがついていた。


律は車を降りた。


足元が少しだけ頼りなく感じた。


玲央も隣に立つ。


「一緒に入りますか」


玲央が尋ねる。


律は店を見た。


父に会う。


その最初の瞬間に、誰かが横にいるほうがいいのか。

一人のほうがいいのか。


わからなかった。


けれど、ここまで来た道には玲央がいた。


それを今さらなかったことにする必要もないと思った。


「一緒に」


「はい」


玲央は頷いた。


律は扉に手をかけた。


小さなベルが鳴った。


店内には、時計の音が満ちていた。


壁一面に掛けられた古い時計。

棚に並ぶ懐中時計。

作業台の上の分解されたムーブメント。

細い工具。

拡大鏡。


時間が、部品として並んでいるような場所だった。


カウンターの奥に、一人の男がいた。


白髪交じりの髪。

細い眼鏡。

作業用のルーペを額に上げている。


年齢は六十代半ばほど。


背は高いが、少し痩せている。

手は大きく、指先だけが妙に繊細だった。


男は、律を見ると動きを止めた。


そして、まるで長い間止まっていた時計が急に動き出したように、ゆっくり立ち上がった。


「律」


その声を聞いた瞬間、律は、自分の中の何かが崩れる音を聞いた気がした。


名前を呼ばれた。


初めて会う父に。


生まれてから一度も父として名乗らなかった人に。


それなのに、その人は自分の名前を知っている。


当然のように。


律は、何を言えばいいのかわからなかった。


父さん。


そうは呼べなかった。


成瀬さん。


それも違う気がした。


結局、口から出たのは、ひどく乾いた言葉だった。


「成瀬真澄さんですね」


男の顔が、わずかに痛むように歪んだ。


「そうだ」


「灰原律です」


「知っている」


「でしょうね」


律の声は、自分でも驚くほど硬かった。


玲央は、少し後ろに立っていた。


成瀬真澄は玲央を見る。


「水城玲央さん」


「はい」


「あなたも来たんですね」


「律さんに同行しています」


「そうですか」


真澄は、深く息を吐いた。


「真珠子さんが教えたんですね」


律が言う。


「はい」


「そうだろうと思っていました」


「なぜ逃げなかったんですか」


真澄は、律を見た。


「逃げるのをやめようと思ったから」


律は拳を握った。


「ずっと逃げていた自覚はあるんですね」


「ある」


「母からも、僕からも」


「ある」


「それで、今さらやめるんですか」


真澄は、答えなかった。


店内の時計の音だけが響いている。


律は、その沈黙に苛立った。


「何か言ってください」


「すまなかった」


その言葉は、すぐに出た。


用意していた謝罪のようにも聞こえた。


律は、余計に腹が立った。


「それだけですか」


真澄は目を伏せる。


「それだけで済むとは思っていない」


「なら、何を言うんですか」


「何から話せばいいのかわからない」


律は笑いそうになった。


笑えなかった。


「二十年以上あったでしょう」


真澄は、静かに頷いた。


「そうだな」


「二十年以上あって、何から話すかも決めていなかったんですか」


その言葉に、真澄は初めて顔を上げた。


「会えると思っていなかった」


「僕が探しに来るとは思わなかった?」


「来てほしかった」


「なら、なぜ」


「来てほしくなかった」


律は黙った。


矛盾している。


けれど、その矛盾は嘘には聞こえなかった。


真澄は言った。


「会いたかった。でも、会ってはいけないと思っていた」


「誰のために」


「君と詩乃さんのために」


律の声が低くなる。


「その言葉は、聞き飽きました」


真澄は何も言えなかった。


律は続けた。


「母も、祖母も、御影真珠子さんも、みんな守るためと言いました。でも、守られた僕は、何から守られていたのか知らなかった」


時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


「それは、守ったことになるんですか」


真澄は、律を見ていた。


その目には、深い後悔があった。


「ならなかったのだと思う」


「思う?」


「ならなかった」


真澄は言い直した。


「私は、君を守ったのではなく、君から選ぶ機会を奪った」


律の胸が、少しだけ揺れた。


その言葉を聞きたかったわけではない。


けれど、聞かなければ先に進めない言葉でもあった。


玲央は、黙っていた。


真澄は、カウンターの奥へ回った。


「見せなければならないものがある」


律は、表情を硬くした。


「翡翠ですか」


「そうだ」


真澄は古い金庫を開けた。


中から、木箱を取り出す。


手のひらほどの小さな箱だった。


蓋を開けると、中には淡い緑の石が入っていた。


翡翠。


楕円形のカボション。

深すぎない緑。

内側から、柔らかく光を含むような石。


灰原家のブローチから抜けた石。


律は息を止めた。


この小さな石のせいで、どれほどの沈黙が生まれたのか。


いや、石のせいではない。


人が、それを沈黙にしたのだ。


真澄は言った。


「これは、もともと御影小夜さんのものだった」


「なぜ祖母の家に?」


律が問う。


「小夜さんが、身の危険を感じて水無瀬家に預けたからだ」


「水無瀬家に?」


「君の祖母、千鶴さんの実家だ。水無瀬家は、古い宝飾品の保管を引き受けていた。表向きには質屋や古物商とは違う、個人間の預かりだった」


玲央が静かに言う。


「瑠璃窓の前身に似ていますね」


「そうだ」


真澄は玲央を見る。


「白河は、そういう場所をよく知っていた」


律は翡翠を見る。


「この石には、何が隠されているんですか」


真澄は、翡翠を木箱ごと作業台へ置いた。


「声だ」


「御影小夜さんの声」


「そうだ」


「どうやって」


真澄は、翡翠の裏側を見せた。


表から見れば、ただのカボション。


だが裏側には、薄い金属板がはめ込まれていた。


翡翠の台座だった部分だろう。


金属板には、細かな溝が刻まれている。


玲央が近づいた。


「これは……」


「音溝ですか」


「ええ」


真澄は頷いた。


「かなり特殊なものです。小さな金属板に、音声の一部が刻まれている。完全な録音盤ではありません。けれど、専用の針を当てれば、短い音声を再生できる」


律は、金属板を見つめた。


「そんなものを、翡翠の裏に?」


「御影小夜さんの録音から切り出された一部です」


「なぜそんなことを」


「声を隠すためだ」


真澄の声は低かった。


「彼女の録音には、白河が欲しがる名前が入っていた。だが本当の問題は、白河ではなかった」


律は、息を止める。


「警察関係者」


真澄は頷いた。


「そして、成瀬の名もあった」


律の喉が動く。


「あなたの父親ですか」


「そうだ」


真澄は静かに言った。


「成瀬隆臣。私の父だ」


律は、その名前を心の中で繰り返した。


成瀬隆臣。


自分の祖父。


御影小夜を沈黙にした側にいた人間。


「成瀬隆臣は、何をしたんですか」


真澄は目を伏せた。


「御影小夜さんの録音を消そうとした」


「なぜ」


「録音の中で、ある宝飾品の密輸と、名義のすり替えについて語られていたからだ」


玲央が聞く。


「青の王冠とは別件ですか」


「別件だが、根は同じだ」


真澄は答えた。


「戦後から続く、宝飾品と名義の闇。白河は、それを利用した側だ。だが、彼がすべての始まりではない」


玲央は黙った。


白河は巨大な影だった。


だが、その影の奥には、さらに古い闇がある。


鳴海家。

水無瀬家。

御影家。

成瀬家。


宝石は、美しいまま人の罪を運んできた。


律が低く言う。


「父さんは、それを知って逃げたんですか」


真澄の手が、わずかに止まった。


父さん。


律自身も、その言葉が出たことに驚いた。


自然に出たわけではない。


言おうとして言った。


怒りを込めて。


確かめるために。


真澄は、しばらく何も言わなかった。


やがて、静かに答えた。


「逃げた」


「守ったのではなく?」


「守ろうとした。でも、同時に逃げた」


「何から」


「父の罪から。白河から。詩乃さんから。君から」


律は、真澄を見ていた。


真澄は続ける。


「私は、翡翠を警察に出せなかった。当時、録音に出てくる名前の中に、現職の警察幹部がいた。そこへ持ち込めば、握り潰されるか、白河へ渡ると思った」


「だから持って消えた」


「そうだ」


「母に何も言わず」


「言えば、詩乃さんも狙われると思った」


「祖母には?」


「千鶴さんは知っていた。だから、君に私の名前を言うなと詩乃さんに言った」


律は、拳を握る。


「祖母は、母を守ったんですね」


「そうだ」


「でも、母を縛った」


真澄は頷いた。


「そうだ」


律の目が少し揺れる。


大人たちは、みんな少しずつ正しかったのかもしれない。


そして、みんな少しずつ間違っていた。


守るために隠した。

隠したことで傷つけた。

恐れて黙った。

黙ったことで、さらに恐れを増やした。


白でも黒でもない。


灰色。


灰色の家から、ここまで来た意味が、律には少しだけわかった。


「声を聞かせてください」


律が言った。


真澄は頷いた。


作業台の奥から、小さな再生装置を取り出す。


古いものを改造したような装置だった。


金属板の溝に、細い針を当てる。


真澄の手は震えていた。


修復職人の手。

時計修理人の手。


それでも、震えていた。


玲央は、何も言わずに見ていた。


針が下りる。


小さなノイズが鳴った。


砂を擦るような音。


その奥から、女性の声が聞こえた。


美しい声だった。


遠く、古い劇場の奥から届くような声。


『名前を返してください』


律は息を止めた。


声は続く。


『御影小夜は、沈黙を選びません。

私は、自分の声で残します。


翡翠の取引に関わった者。

白河周吾。

成瀬隆臣。

久世澪子。

水無瀬千鶴。

そして――』


そこで、強いノイズが入る。


律は身を乗り出す。


声が途切れかける。


そして、最後にもう一つの名前が聞こえた。


『灰原宗一郎』


律の身体が固まった。


灰原。


律の姓。


「今のは……」


律の声がかすれた。


真澄は目を閉じた。


「君の祖父だ」


「祖父?」


「灰原宗一郎。詩乃さんの父親。君の母方の祖父だ」


律は、言葉を失った。


母方の祖父。


自分の姓である灰原。


そこにも、名前があった。


「母さんは……」


「知らない」


真澄はすぐに言った。


「詩乃さんは知らなかった。千鶴さんも、最初は知らなかったはずだ」


「最初は?」


「後で知った。だから、緑を恐れた」


律は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


祖母は、成瀬だけでなく、灰原の名も聞いていた。


自分の夫の名を。


だから、翡翠を恐れた。


白河を恐れた。


そして、詩乃に成瀬真澄の名を隠させた。


それは、白河から守るためだけではない。


灰原家そのものが、御影小夜の沈黙に関わっていたからだ。


「灰原宗一郎は、何をしたんですか」


律の声は、自分でも驚くほど静かだった。


真澄は答えた。


「当時、宝飾品の輸送に関わる会社を持っていた。表向きは貿易と運送。だが、裏で名義のない石を動かしていた」


「翡翠も?」


「そうだ」


「御影小夜さんは、それを知った」


「知って、録音に残した」


「だから沈黙にされた」


「そうだ」


律は、再生装置を見た。


小さな金属板。


そこに閉じ込められた声。


声は、思っていたよりも短かった。


しかし、その短さの中に、いくつもの家の名前が入っていた。


白河。

成瀬。

久世。

水無瀬。

灰原。


玲央が静かに言った。


「この金属板は、完全な録音ではありませんね」


真澄は頷いた。


「本体は別にある」


律が顔を上げる。


「本体?」


「御影小夜さんの公開録音の原盤だ」


「どこにありますか」


真澄は、少しだけ黙った。


「ここにはない」


「どこです」


「灰原家だ」


律は息を止めた。


「うちに?」


「千鶴さんが持っていた」


「祖母が?」


「そうだ」


「でも、母は知らない」


「おそらく」


「どこにあるんですか」


真澄は、律を見た。


「水無瀬の家から灰原家へ移されたものの中に、古い真珠の箱があるはずだ」


「真珠の箱」


「そこに、原盤がある」


律は、すぐに母の家を思い浮かべた。


祖母の遺品。

木箱。

古い手紙。

写真。


そこには、まだ見ていないものがある。


玲央が言った。


「つまり、翡翠は原盤そのものではなく、原盤の所在と内容を示す鍵だった」


「そうです」


真澄は玲央を見る。


「私は、その鍵を持って逃げた。原盤を灰原家に残したまま」


律の声が低くなる。


「なぜ原盤も持っていかなかったんです」


「千鶴さんに止められた」


「祖母が?」


「原盤まで持ち出せば、白河に追われる理由が増える。鍵だけを持って消えれば、白河の目は私に向く。原盤は灰原家に隠せる。千鶴さんはそう判断した」


「祖母は、母を守るために?」


「詩乃さんと、君を守るために」


律は黙った。


まただ。


守るため。


聞き飽きた言葉。


けれど今度は、その言葉の内側に祖母の恐怖が見えた。


夫の名が録音にある。

娘は白河の弟子だった男を愛している。

その男は証拠の鍵を持って消える。

娘は妊娠している。


灰原千鶴は、どうすればよかったのか。


正解など、あったのだろうか。


律にはわからなかった。


「父さん」


律は、もう一度その呼び方を使った。


今度は、さっきよりも静かだった。


真澄は、律を見た。


「なぜ、今まで母に手紙を出さなかったんですか」


「出した」


「届いていない」


「そうだ」


「御影真珠子さんの手紙は届いた」


「私の手紙は、何度か戻ってきた。途中で誰かに止められていると思った」


「白河?」


「おそらく。あるいは灰原宗一郎の関係者」


「祖父は、まだ生きているんですか」


真澄は首を振った。


「亡くなっている」


「なら、誰が」


「昔の名前に縛られている人間は、今もいる」


律は眉を寄せる。


「まだ終わっていない?」


「終わらせるためには、原盤を出す必要がある」


真澄は言った。


「君の家にある、御影小夜の声を」


律は深く息を吸った。


「わかりました」


真澄は、驚いたように律を見る。


「律」


「戻ります。母に確認します。祖母の遺品を探します」


「君がやる必要はない」


律の目が鋭くなる。


「まだそれを言うんですか」


真澄は黙った。


律は続けた。


「僕の家のことです。僕の名前のことです。母のことです。祖母のことです。あなたのことでもある」


声は、少し震えていた。


「僕がやります」


真澄は、何かを言いかけて、やめた。


代わりに、深く頭を下げた。


「すまなかった」


律は、それを見ていた。


許したわけではない。


怒りが消えたわけでもない。


ただ、その謝罪を、今度は突き返さずに受け取った。


受け取っただけだった。


「一緒に来ますか」


律が聞いた。


真澄が顔を上げる。


「横浜へ?」


「はい」


「詩乃さんに会う資格があるとは思えない」


「それは母が決めます」


真澄は言葉を失った。


律は続けた。


「僕に会う資格があるかどうかも、あなたが決めることではありません」


真澄の目が揺れた。


「律」


「でも、今すぐ父親面はしないでください」


律は静かに言った。


「僕は、まだあなたを父親として知らない」


真澄は頷いた。


「わかった」


「横浜へ来てください」


「行く」


短い返事だった。


それで充分だった。


玲央は、作業台の上の翡翠を見た。


淡い緑の石。


灰原家のブローチから抜けたもの。


御影小夜の声を閉じ込めた鍵。


成瀬真澄を消し、灰原律から父の名前を遠ざけた石。


だが同時に、その名前を取り戻すための石でもあった。


「この翡翠は、どうしますか」


玲央が尋ねる。


真澄は、翡翠を律の前へ差し出した。


「君に預けたい」


律はすぐには手を出さなかった。


「僕に?」


「本来は、御影真珠子さんへ返すべきものだ。だが、その前に原盤を開く必要がある」


「だから僕が持つ?」


「そうだ」


律は、翡翠を見た。


長い沈黙。


やがて、彼は手を伸ばした。


翡翠を受け取る。


石は思っていたよりも冷たかった。


そして、思っていたよりも重かった。


「預かります」


律は言った。


「返すために」


その言葉に、玲央は少しだけ目を伏せた。


返すために。


青の王冠から続いた言葉が、ここにも来た。


宝石は、所有するためだけにあるのではない。


ときに、返すために残る。






その夜、三人は佐世保の小さな宿に泊まった。


翌朝、横浜へ戻るためだった。


律は、なかなか眠れなかった。


隣の部屋に、成瀬真澄がいる。


父がいる。


その事実が、どうにも落ち着かなかった。


会えた。


話した。


怒った。


聞いた。


翡翠を受け取った。


それでも、空白が一気に埋まったわけではない。


むしろ、空白の輪郭がはっきりしたぶん、余計に痛むところもあった。


律は、机の上に置いた翡翠を見た。


小さなケースに入れられた淡い緑。


ブローチから抜けた石。


母が父へ渡した石。


父が二十年以上守っていた石。


自分に預けられた石。


扉が小さく叩かれた。


「はい」


入ってきたのは玲央だった。


「眠れませんか」


「あなたもでしょう」


「ええ」


玲央は少し笑い、部屋の椅子に座った。


「お父様と話せてよかったですね、と言うのは違う気がします」


「かなり違います」


「ですよね」


律は翡翠を見た。


「会えてよかったとは思います」


「はい」


「でも、腹も立っています」


「はい」


「話せて少し楽になりました」


「はい」


「でも、余計に苦しくもなりました」


「はい」


律は玲央を見る。


「全部肯定するんですね」


「全部本当だと思ったので」


律は少しだけ息を吐いた。


「面倒な感情です」


「人間なので」


「あなたも、こういうとき普通のことを言うんですね」


「たまには」


玲央は翡翠を見た。


「その石は、灰原さんに似ていますね」


「どこがですか」


「硬く見えるけれど、中に声があるところです」


律は、少しだけ嫌そうな顔をした。


「詩的にまとめないでください」


「失礼しました」


「でも」


律は翡翠を見る。


「少しだけ、わかります」


玲央は何も言わなかった。


窓の外には、佐世保の夜が広がっている。


港の灯りが、遠く滲んでいた。


律は言った。


「横浜に戻ったら、母に会わせます」


「お父様を?」


「はい」


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないと思います」


「はい」


「でも、会わないままにはできません」


「そうですね」


律は、翡翠のケースを閉じた。


「それから、祖母の遺品を探します」


「真珠の箱ですね」


「はい」


「原盤が見つかれば、御影小夜さんの声が完全に聞ける」


「そして、灰原宗一郎の名前も」


律は、自分の姓を口にした。


灰原。


今まで当然のように名乗っていた名前。


その名前の中にも、誰かの沈黙がある。


それでも、捨てることはできない。


名前は、罪だけではない。


母の名前でもある。

祖母の名前でもある。

自分が生きてきた名前でもある。


だからこそ、見なければならない。


「水城さん」


「はい」


「次は、僕が鑑定する番かもしれません」


玲央は少しだけ目を細めた。


「何を?」


「自分の名前を」


玲央は、静かに頷いた。


「それは、大事な鑑定ですね」


律は小さく笑った。


「あなたに言われると、少し癪です」


「なぜですか」


「似合いすぎるからです」


玲央は笑った。


その笑いは、静かだった。


だが、以前よりも少し自然だった。


夜が深くなる。


翡翠は、机の上で静かに眠っている。


声を閉じ込めた石。


けれど、その声はもう閉じ込められたままではない。


横浜へ戻れば、灰原家に眠る原盤が開かれる。


そのとき、律は自分の名前と向き合うことになる。


灰原律。


その名前が、どこから来て、何を抱え、これから何を選ぶのか。


まだ答えは出ていない。


けれど、逃げるつもりはなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第十話「灰色の家に眠るもの」はこれで完結です。

律は父と会い、翡翠を受け取りました。


次回は、灰原家に戻り、御影小夜の声の原盤を探します。

律が自分の名前と向き合う「律の鑑定」へ進みます。

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