第十話 灰色の家に眠るもの(前編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第十話「灰色の家に眠るもの」前編です。
長崎へ向かった玲央と律は、御影真珠子の痕跡を追い、海沿いの古い家へ辿り着きます。
そこで待っていたのは、律の父・成瀬真澄がまだ生きているという確かな証言でした。
長崎へ向かう列車の窓には、海が映っていた。
神戸の港とは違う海だった。
横浜の海とも違う。
もっと近く、もっと古く、人の暮らしのそばにある海。
灰原律は、窓の外を見ていた。
手元には、母から届いた写真がある。
昨夜、灰原詩乃が探し出したという古い手紙。
その本文はまだ確認できていない。
詩乃が写真に撮って送ってきたのは、封筒の表だけだった。
差出人は、御影真珠子。
消印は、律が五歳だった年の秋。
宛先は、灰原詩乃。
その封筒の下には、詩乃の字で小さくメモが添えられていた。
『真澄さんは生きています、と書かれていた手紙です。本文は、直接渡します。』
律は、その一文を何度も見た。
真澄さんは生きています。
父は生きていた。
少なくとも、自分が五歳のころには。
なら、なぜ会いに来なかったのか。
なぜ名乗らなかったのか。
なぜ、母はその手紙を隠したのか。
問いは増えるばかりだった。
隣の席で、水城玲央は御影真珠子宛ての古い私書箱番号を見ていた。
月森紗代が保管していた紙片。
長崎県。
外海。
御影真珠子様。
すでに、その私書箱は使われていない可能性が高い。
だが、行くしかなかった。
「灰原さん」
玲央が声をかける。
「はい」
「少し休んだほうがいいです」
「眠れません」
「でしょうね」
「なら、なぜ言うんですか」
「休めない人に、休むという選択肢を思い出してもらうためです」
律は、少しだけ眉を寄せた。
「あなたは時々、面倒くさい優しさを出しますね」
「良い表現ですね」
「褒めていません」
「でしょうね」
玲央は少し笑った。
その笑い方は、青の王冠事件の前よりも薄くなかった。
少なくとも律には、そう見えた。
白河周吾の影は、まだ消えていない。
だが玲央は、以前のようにその影を笑みで隠すことを少しずつやめているようだった。
律は封筒の写真をしまった。
「水城さん」
「はい」
「あなたは、お兄さんと再会したとき、どう思いましたか」
玲央は少しだけ目を伏せた。
「最初は、現実味がありませんでした」
「怒りは?」
「ありました」
「嬉しさは?」
「ありました」
「どちらが強かったですか」
玲央は、すぐには答えなかった。
列車が小さな駅を通過する。
窓の向こうに、海沿いの家々が流れていく。
「順番がなかったです」
「順番?」
「嬉しいと思った次の瞬間に怒って、怒った次の瞬間に申し訳なくなって、そのあと少し安心しました」
「忙しいですね」
「ええ」
玲央は静かに言った。
「人間は、鑑定結果のように一つの言葉で決まりませんから」
律は黙った。
父に会えたら、自分は何を思うのだろう。
怒るのか。
泣くのか。
何も言えないのか。
それとも、思ったより冷静に名前を確認するだけなのか。
自分のことなのに、まるでわからなかった。
「もし父に会ったら」
律は言いかけて、言葉を止めた。
玲央は待った。
急かさない。
「僕は、刑事として聞くべきなんでしょうか。それとも、息子として聞くべきなんでしょうか」
「どちらも、ではだめですか」
律は玲央を見る。
「そんな器用なことができますか」
「できないかもしれません」
「では」
「でも、片方だけにもなれないと思います」
玲央は窓の外を見た。
「灰原さんは刑事です。事実を確認する人です。でも、成瀬真澄さんにとっては息子でもある」
「父がそう思っていれば、ですが」
「手紙には、あなたが生まれることを心から望んでいるとありました」
律は視線を落とした。
その言葉は、まだ胸にうまく入らない。
父に望まれていた。
知らなかったことを急に渡されても、どう受け取ればいいのかわからない。
「望んでいたなら、なぜ会いに来なかったんですか」
律の声は低かった。
玲央は答えなかった。
答えられるはずがない。
それを答えるべきは、成瀬真澄だけだった。
長崎に着いたころには、空は少しずつ晴れていた。
駅を出ると、湿った風が頬を撫でた。
坂の街。
遠くに海が見える。
路面電車が走り、古い建物と新しいビルが不思議な距離で並んでいる。
律は、駅前の空気を吸い込んだ。
初めて来た街なのに、どこか既視感がある。
それは、父がここにつながっているかもしれないと知っているからだろうか。
玲央はスマートフォンで地図を確認している。
「外海までは、少しかかります」
「行きましょう」
「その前に、私書箱があった郵便局を確認しましょう」
律は頷いた。
二人はまず、古い私書箱番号のあった郵便局へ向かった。
建物は当時とは変わっていたが、場所は同じだった。
窓口で事情を説明すると、古い記録は残っていないと言われた。
当然だった。
何十年も前の私書箱の契約者記録など、そう簡単に残っているはずがない。
ただ、年配の局員が、紙片に書かれた住所を見て少しだけ首を傾げた。
「御影さん、ですか」
律が反応する。
「ご存じですか」
「いえ、私が知っている御影さんとは違うかもしれませんが」
「何でも構いません」
局員は少し考えた。
「外海のほうに、昔“灰色の家”と呼ばれていた家がありましてね」
玲央が顔を上げる。
「灰色の家」
「海沿いの古い家です。外壁が灰色だったから、地元ではそう呼ばれていました。今はもう人が住んでいないと思いますが、そこに一時期、御影という女性がいたと聞いたことがあります」
律の胸が鳴った。
灰色の家。
その呼び名には、白とも黒ともつかないものを抱えたまま、長い時間を黙ってきたような重さがあった。
灰色。
白でも黒でもない。
白河でもない。
完全な被害者でもない。
加害者でもない。
守った人でも、隠した人でもある。
そんな場所にふさわしい名前だった。
「その家の場所を教えていただけますか」
玲央が尋ねると、局員は簡単な道順を書いてくれた。
「ただ、古い家ですからね。入れるかどうかはわかりません」
「ありがとうございます」
外へ出ると、律はすぐに言った。
「行きましょう」
玲央は頷いた。
「はい」
外海へ向かう道は、海に沿っていた。
車はレンタカーだった。
運転席には律。
助手席には玲央。
道の片側には山。
もう片側には海。
灰色の雲が、空の端にまだ残っている。
白でも黒でもない空。
律はハンドルを握りながら、局員に教えられた道を進んだ。
道は次第に細くなり、観光地から少しずつ離れていく。
やがて、海を見下ろす斜面の途中に、古い家が見えた。
外壁は、確かに灰色だった。
もともとは白かったのかもしれない。
雨風に晒され、潮に焼かれ、時間に削られて、灰色になった家。
窓は閉ざされている。
庭には背の高い草が伸びている。
門は錆びていたが、完全には壊れていなかった。
「ここですね」
玲央が言った。
律は車を停めた。
「人の気配はありません」
「ですが、最近誰かが来た可能性はあります」
玲央は門の下を見た。
草が一部踏まれている。
古い家にしては、新しい足跡だった。
律の表情が刑事のものに戻る。
「中を確認します」
「許可は?」
「所有者不明の空き家です。まず外周確認だけです」
「刑事さんらしい」
「あなたは勝手に入りそうなので先に言いました」
「信用されていますね」
「逆です」
二人は門を開けた。
錆びた音が、静かな空気に響く。
庭に入ると、潮の匂いが濃くなった。
家の窓は曇り、内側は見えない。
玄関扉には鍵がかかっていた。
だが、横の勝手口は少しだけ開いていた。
律が手袋をはめる。
「誰かが入っています」
玲央も頷いた。
「最近ですね」
「ここからは慎重に」
律は警察へ位置情報を送った。
応援を呼ぶほどではないが、念のためだった。
勝手口から中に入る。
家の中は、長く閉じられた匂いがした。
埃。
古い木。
湿気。
海風。
床板が小さく鳴る。
台所はほとんど空だった。
棚には古い茶碗がいくつか残されている。
壁には、色褪せたカレンダーがかかっていた。
日付は十年以上前で止まっている。
律は室内を確認する。
「誰かが住んでいる様子はありません」
「でも、来た人はいます」
玲央は床の埃を見た。
足跡がある。
一人分。
靴底の跡は大きくない。
女性か、小柄な男性。
足跡は廊下を通り、奥の部屋へ続いていた。
二人は足跡を追った。
奥の部屋は、海に面していた。
窓は閉ざされているが、隙間から光が入っている。
部屋の中央に、古い机があった。
机の上には、何もない。
だが、壁に一枚の写真が貼られていた。
古い写真。
そこには、若い女性が写っていた。
黒い髪。
白いブラウス。
指には、真珠の指輪。
御影真珠子。
おそらく。
その横には、もう一人の女性が写っている。
少し年上で、横顔が美しい。
御影小夜だろう。
玲央は写真を見つめた。
「親子ですね」
律は写真の下を見た。
そこに、小さな文字が書かれている。
『声は、海に沈めない』
律は息を止めた。
「御影小夜の言葉でしょうか」
玲央が言う。
「あるいは、真珠子さんの」
律は机の引き出しを確認した。
一段目は空。
二段目も空。
三段目だけ、鍵がかかっていた。
玲央が引き出しの側面を見る。
「古い鍵です。壊さなくても開くかもしれません」
「できますか」
「やってみます」
「あなた、本当に昔何をしていたんですか」
「聞かないほうがいいこともあります」
「聞きますよ、いつか」
玲央は小さく笑った。
細い道具で鍵穴を探る。
数十秒後、かすかな音がして鍵が開いた。
律は呆れた顔をした。
「今のは見なかったことにします」
「助かります」
引き出しの中には、小さな布袋が入っていた。
灰色の布袋。
中には、真珠が一粒入っていた。
指輪のものより少し大きい。
形は歪んでいる。
だが、柔らかな光があった。
そして、紙片が一枚。
律が広げる。
そこには、短い文章が書かれていた。
『翡翠は、灰色の家にはない。
声を持っていった人を探してください。』
律の目が鋭くなる。
「声を持っていった人」
「成瀬真澄さんでしょうか」
玲央が言う。
「父が、翡翠と録音を持って消えた」
「はい」
「でも、これは誰が残したんですか」
玲央は紙の文字を見た。
「御影真珠子さんだと思います」
「彼女はここに来た」
「おそらく最近」
律は足跡を見た。
「なら、生きている可能性が高い」
「はい」
律の表情が少し変わった。
希望ではない。
だが、追えるものが見つかった顔だった。
玲央は机の上を見る。
何もないと思った机の表面に、薄い傷がある。
「灰原さん、ライトを」
律が携帯のライトを当てる。
机の表面に、細い刻みが浮かび上がった。
文字だ。
SASEBO
律が読む。
「佐世保」
「次は佐世保ですね」
「御影真珠子が、そこへ?」
「あるいは、成瀬真澄さんが」
律は紙片を見た。
声を持っていった人を探してください。
「父は佐世保にいる」
玲央は即答しなかった。
「可能性があります」
「行きます」
「はい」
律は写真の中の御影真珠子を見た。
その指には、真珠の指輪がある。
月森宝飾に置いていったはずの指輪。
写真は、それより前に撮られたものだろう。
御影真珠子は、母の沈黙を抱え、その沈黙を代金として置き、そして今もどこかで声を追っている。
律は、自分の父を追っている。
似ている。
追うものは違う。
けれど、空白に置いていかれた子どもという意味では、同じなのかもしれない。
そのとき、家の外で物音がした。
律が即座に振り向く。
誰かが庭を歩いた音。
草が擦れる。
玲央が小さく言う。
「誰かいます」
律は扉へ向かった。
「警察です。そこにいる方、動かないでください」
返事はない。
二人は廊下を戻り、勝手口から外へ出た。
庭の奥、海へ下りる細い道のそばに、人影があった。
黒い帽子。
薄いコート。
小柄な人物。
律が一歩踏み出す。
「御影真珠子さんですか」
人影は、ゆっくり振り向いた。
女性だった。
年齢は六十代後半から七十代ほど。
背筋は少し曲がっているが、目は強い。
その目は、壁の写真に写る若い女性と同じだった。
御影真珠子。
彼女は律を見た。
次に、玲央を見る。
そして、静かに言った。
「成瀬真澄の息子ですね」
律は息を止めた。
「父を、知っているんですか」
真珠子は頷いた。
「ええ」
「父は、生きていますか」
その問いは、律の口からほとんど勝手に出た。
真珠子は、しばらく黙った。
海風が吹く。
灰色の家の壁が、かすかに軋む。
やがて、彼女は言った。
「生きています」
律の指が震えた。
「どこに」
「佐世保です」
玲央は、机の文字を思い出した。
SASEBO。
やはり。
律は一歩近づく。
「会えますか」
真珠子は首を振った。
「今のままでは、会えません」
「なぜです」
「真澄さんは、あなたに会う資格がないと思っているから」
律の表情が硬くなる。
「それを決めるのは、父ではありません」
真珠子の目が、少しだけ揺れた。
「そうですね」
彼女は、海のほうを見た。
「あなたは、詩乃さんに似ています」
「母を知っているんですか」
「手紙を送りました」
「五歳のころですね」
「ええ」
「なぜ、それきり?」
真珠子は答えなかった。
律の声が少し強くなる。
「なぜ、誰も最後まで話さないんですか」
玲央は、律を止めなかった。
これは律が言うべき言葉だと思った。
律は続ける。
「母も、祖母も、父も、あなたも。みんな守ると言って隠す。隠したものが、こっちにどう残るかは考えない」
真珠子は、静かにその言葉を受け止めた。
「その通りです」
「謝られたいわけではありません」
「それも、わかります」
「なら、教えてください」
律は、真珠子をまっすぐ見た。
「父は、何を守ったんですか」
真珠子は、灰色の家を見上げた。
「私の母の声です」
「御影小夜さんの」
「はい」
「その声には、何が録音されているんですか」
真珠子は、長く黙った。
そして言った。
「名前です」
「誰の名前ですか」
「私の母を沈黙にした人たちの名前」
律の目が鋭くなる。
「成瀬という名前も?」
真珠子は頷いた。
「ありました」
律の喉が動いた。
「父の家族ですか」
「真澄さんの父親です」
律は、言葉を失った。
成瀬真澄の父。
自分にとっては祖父にあたる人物。
その人が、御影小夜を沈黙にした側にいた。
真珠子は続ける。
「でも、真澄さんは違いました」
「違う?」
「彼は、自分の父親の名前が録音されていると知って、それを消そうとはしませんでした」
律は黙った。
「守ったんです」
真珠子の声は静かだった。
「自分の家の罪を、消さずに守った」
玲央は、成瀬真澄という人物の輪郭を少しずつ掴み始めていた。
修復職人。
直せないものばかり見つけてしまう、と言った男。
白河から離れようとした男。
自分の父の罪を知り、その証拠を隠すのではなく、白河から守った男。
律は低く言った。
「なぜ父は、警察に出さなかったんですか」
真珠子は、律を見る。
「出せなかった」
「なぜ」
「白河がその録音を欲しがっていたからです」
「白河に渡すわけにはいかなかった。それはわかります。でも警察なら」
真珠子は首を振る。
「当時、その名前の中に、警察関係者もいました」
律の表情が変わる。
「警察関係者」
「ええ」
「誰です」
「そこまでは、ここでは言えません」
「またですか」
律の声が低くなる。
真珠子は静かに言った。
「佐世保へ行ってください」
「父に会えと?」
「はい」
「父が話すと?」
「話さなければならない時が来ました」
「なぜ今なんです」
真珠子は、玲央を見た。
「白河周吾が捕まったからです」
玲央は静かに頷いた。
白河が捕まった。
それは、終わりではなく、他の沈黙がほどける始まりだった。
真珠子は続ける。
「白河が自由でいる限り、真澄さんは表に出られなかった。録音も、翡翠も、彼自身も、白河に奪われる可能性があった」
「今なら?」
律が聞く。
「今なら、あなたに会えるかもしれません」
「かもしれない?」
「真澄さんは、長く隠れすぎました。自分がまだ父親でいる資格があると思っていない」
律は拳を握った。
「それは、会ってから言ってほしい」
真珠子は、少しだけ微笑んだ。
「そう言うと思いました」
「父に似ていますか」
「いいえ」
真珠子は首を振った。
「あなたは、あなたです」
その言葉に、律は何も返せなかった。
真珠子は、コートの内側から小さな封筒を取り出した。
「これを」
律が受け取る。
中には、一枚の地図と、短いメモが入っていた。
佐世保市内の住所。
海沿いの古い時計修理店。
店名は、
成瀬時計修理店。
律は、その文字を見つめた。
「父は、時計を直しているんですか」
真珠子は頷いた。
「宝飾品から離れたかったのでしょう。でも、直す仕事からは離れられなかった」
玲央は、静かにその言葉を聞いた。
宝石の修復職人が、時計修理店へ。
壊れた時間を直すように。
いや、時間そのものは直せない。
直せるのは、止まった針だけだ。
「灰原さん」
玲央が言うと、律はメモを握ったまま頷いた。
「行きます」
真珠子は海を見た。
「その前に、一つだけ」
「何ですか」
「真澄さんを、すぐに許そうとしないでください」
律は眉を寄せた。
「どういう意味です」
「許すことを急ぐと、本当に言いたかった怒りが沈んでしまう」
真珠子の声は、海風の中で静かだった。
「私がそうでした」
律は何も言わなかった。
真珠子は、灰色の家を見た。
「母の沈黙を取り戻したいと思いながら、私は長い間、母を沈黙の中に閉じ込めたままでした。怒ることも、泣くことも、許すことも、全部遅すぎた」
彼女は律を見る。
「あなたは、遅すぎないように」
律は、ゆっくり頷いた。
「覚えておきます」
真珠子は玲央に向き直った。
「水城玲央さん」
「はい」
「あなたのことも、真澄さんから聞いています」
玲央は少しだけ驚いた。
「私のことを?」
「白河のそばにいた若い宝石商のことを。あの人は、まだ戻れるかもしれないと、真澄さんは言っていました」
玲央は言葉を失った。
成瀬真澄。
会った記憶はほとんどない。
だが彼は、玲央のことを知っていた。
白河のそばにいた若者として。
そして、戻れるかもしれない人間として。
「そうですか」
玲央は、かろうじてそう答えた。
真珠子は頷いた。
「だから、律さんと来たのがあなたでよかった」
その言葉は、玲央には少し重すぎた。
けれど、受け取らないわけにはいかなかった。
灰色の家の前で、三人はしばらく海を見ていた。
真珠子は、もう多くを語らなかった。
ただ、最後に言った。
「翡翠は、まだ真澄さんが持っています」
律は、メモを握りしめる。
「父に会えば、翡翠もある」
「はい」
「録音も?」
真珠子は、静かに頷いた。
「声は、まだ沈んでいません」
その言葉を残して、御影真珠子は海へ下りる細い道を歩いていった。
止める理由はなかった。
彼女は逃げたのではない。
長い沈黙の役目を終えた人のように、ゆっくりと歩いていった。
律はその背中を見送った。
そして、メモに書かれた佐世保の住所を見る。
成瀬時計修理店。
父がいるかもしれない場所。
いや。
いる。
律は、ようやくそう思った。
「行きましょう」
玲央が言う。
律は頷いた。
「はい」
灰色の家の中には、まだ古い写真と真珠が残っている。
翡翠はそこにはなかった。
けれど、灰色の家は何もない場所ではなかった。
そこには、沈黙がほどけるための入口が眠っていた。
律は車へ向かって歩き出した。
海風が、手元の封筒を揺らす。
その中には、父へ続く地図が入っている。
これ以上、誰かの沈黙に守られているだけではいられなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
灰色の家には、翡翠そのものはありませんでした。
けれど、御影真珠子が残した言葉によって、翡翠と録音は成瀬真澄のもとにあることがわかります。
次回、律はついに父と対面します。
成瀬真澄が守り続けた翡翠と、御影小夜の声の正体が明らかになります。




