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瑠璃窓の宝石商  作者: 秀人


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第七話 鳴海硝子の最後の鑑定(後編)

元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。


第七話「鳴海硝子の最後の鑑定」後編です。

本物の青の王冠と、鳴海硝子が十年間抱えていた青。


白河周吾の物語が終わったあと、玲央たちは「返す」ための一歩を踏み出します。


白河周吾が連れていかれたあと、鳴海邸には長い静けさが残った。


それは、事件が終わったあとの静けさではなかった。


十年のあいだ閉じていた部屋に、ようやく空気が入ったような静けさだった。


応接室の黒い布の上には、本物の青の王冠が置かれている。


中心のサファイアは、夜の灯りの中でも強すぎる青を放たなかった。


静かな青だった。


見せつけるためではなく、残るための青。


玲央は、その王冠を見つめていた。


十年前、彼が見たのは白河が作った鍵の王冠だった。


本物の青の王冠ではなかった。


だから、偽物だという証言は完全な誤りではなかった。


けれど、完全な真実でもなかった。


その半分の正しさが、白河に利用された。


半分正しい言葉は、ときに完全な嘘より人を深く傷つける。


玲央は、ようやくその重さを理解し始めていた。


灰原律は、封筒と王冠の記録を確認していた。


「鳴海さん。この王冠と資料は、証拠品として一時的にお預かりすることになります」


「はい」


鳴海硝子は静かに頷いた。


「構いません。むしろ、そのためにお呼びしました」


「後日、正式な事情聴取も必要になります」


「わかっています」


「戸籍上の死亡扱いについても、手続きが必要です」


硝子は小さく笑った。


「死んでいることをやめるのは、なかなか大変そうですね」


律は真面目な顔で答えた。


「大変です」


玲央は思わず少しだけ笑った。


律がこちらを見る。


「何ですか」


「いえ。灰原さんらしいなと」


「どういう意味です」


「死んでいることをやめる人に、ちゃんと手続きの話をするところが」


律は表情を変えずに言った。


「大事なことです」


硝子も、小さく笑った。


その笑いは、ひどく久しぶりのもののように見えた。


水城怜一は、窓辺に立っていた。


外の庭を見ている。


夜露に濡れた薔薇の枝。

黒い鉄柵。

坂の向こうに滲む横浜の灯り。


玲央は、兄の背中を見た。


十年。


死んだと思っていた兄が、そこにいる。


けれど、その事実にすぐ手を伸ばせるほど、玲央の心は単純ではなかった。


嬉しさもある。

怒りもある。

申し訳なさもある。

置いていかれたような痛みもある。


それらが混ざって、どれも言葉にならない。


怜一が振り返らずに言った。


「言いたいことがあるなら言え」


玲央は少し驚いた。


「顔に出ていましたか」


「昔から出る」


「そうでしたか」


「出ていないと思っているのは、お前だけだった」


玲央は苦笑した。


「灰原さんにも同じようなことを言われます」


「いい刑事だ」


「まだ、そこまで褒めたことはありません」


律が書類から顔を上げる。


「聞こえています」


怜一は少しだけ笑った。


玲央は、兄の隣へ歩いた。


「兄さん」


「何だ」


「どうして、私に知らせてくれなかったんですか」


怜一は外を見たまま黙った。


しばらくして、低い声で言った。


「知らせれば、お前は白河のところへ戻った」


玲央は答えられなかった。


「当時のお前は、白河を信じていた。俺が何を言っても、兄の嫉妬か妨害だと思っただろう」


「……はい」


「だから、消えた」


「死んだことになって?」


「そうだ」


「それで、十年も?」


怜一は、ようやく玲央を見た。


「十年かけても、終わらなかった」


その目には、疲労があった。


玲央が知らなかった十年。


怜一は、白河と灰崎を追い、鳴海硝子と連絡を取り、榊未来の痕跡を探し、片桐や相良の沈黙を拾い集めていたのだろう。


その間、玲央は瑠璃窓で宝石を見ていた。


偽物を見抜く宝石商として。


自分の過去だけは、見ないようにしながら。


「私は、逃げていましたね」


玲央は言った。


怜一はすぐには答えなかった。


「逃げた場所で、何をしたかにもよる」


「瑠璃窓で、宝石を見ていました」


「なら、全部は無駄じゃない」


「そうでしょうか」


怜一は、玲央の顔を見た。


「今日、お前は白河の罠に乗らなかった」


玲央は黙った。


「十年前なら乗っていた」


「はい」


「なら、十年分はあった」


その言葉は、不器用だった。


けれど、玲央には充分だった。


胸の奥に、ゆっくりと温度が戻る。


硝子が王冠の前に立った。


「玲央さん」


玲央は振り返る。


「はい」


「最後に、もう一度だけ見ていただけますか」


「王冠を?」


「いいえ」


硝子は、自分の胸元から小さなペンダントを外した。


古い銀細工のペンダントだった。


中央には、青い石が一つ留まっている。


大きくはない。

むしろ控えめな石だった。


「これは?」


玲央が尋ねる。


「私が十年間、持っていた石です」


硝子はペンダントを黒い布の上に置いた。


「青の王冠の中心石だと、白河は思っていました」


律が顔を上げる。


「中心のサファイア?」


「いいえ」


硝子は首を振った。


「違います」


玲央は白い手袋をはめた。


ペンダントを持ち上げ、光の下へ置く。


青い石。


一見するとサファイアに見える。


だが、光の返り方が違う。


色の深みも違う。


玲央はルーペを当てた。


内部に、細かな成長線。

微かな緑がかった青。

古いカットの歪み。


「これは……」


律が尋ねる。


「サファイアではないんですか」


「おそらく、ブルースピネルです」


玲央は言った。


「スピネル?」


「サファイアに似た青を持つことがあります。古い宝飾品では、サファイアやルビーと混同されることもありました」


硝子は静かに頷いた。


「祖父は、それを知っていました」


「これが、本当の中心石ではなかった?」


「はい」


「では、なぜこれを?」


硝子はペンダントを見つめる。


「白河に見せるためです」


玲央は黙った。


「白河は、本物の中心を欲しがっていました。だから私は、彼に追わせるための青を用意した」


「囮ですか」


律が言う。


「そうです」


硝子の声は静かだった。


「十年前、白河はこの石を青の王冠の中心石だと思い込みました。けれど、これは最初から王冠には入っていない石です」


玲央はペンダントを見た。


サファイアではない青。


本物に似た青。


けれど、偽物ではない。


別の本物。


「偽物ではありませんね」


硝子が玲央を見る。


「ええ」


玲央は続けた。


「サファイアではない。でも、スピネルとしては本物です」


硝子の目が、わずかに揺れた。


「その言葉が、聞きたかったのだと思います」


「え?」


「十年間、私はこの石を偽物の青だと思っていました。白河を欺くための石。王冠から目を逸らすための石。けれど、この石にも、この石としての本物があるのですね」


玲央は、ペンダントを黒い布の上に戻した。


「あります」


硝子は少しだけ笑った。


「そうですか」


その笑顔を見て、玲央は思った。


これは、鳴海硝子の最後の鑑定だったのだ。


青の王冠ではなく。


彼女が十年間抱えてきた青。


偽物として使われた石にも、本物としての名前がある。


それを確かめるために、硝子は玲央を呼んだのかもしれない。


律が、静かに言った。


「鳴海さん。その石も、事件の証拠として確認が必要です」


「わかっています」


「ただ、返却可能になれば、お返しできると思います」


硝子は頷いた。


「ありがとうございます」


玲央は、ふと白河の言葉を思い出した。


本物を見たかった。


白河もまた、この石を見たのだろう。


そして、間違えた。


サファイアだと思った。

中心石だと思った。

本物の青だと思った。


白河も、青を見誤ったのだ。


玲央だけではなかった。


その事実は、救いではない。


けれど、少しだけ視界を広げた。


硝子は、王冠の横にペンダントを置いた。


本物の青の王冠。

そして、スピネルの青。


二つの青が、黒い布の上で静かに並んだ。


「青は、ひとつではなかったんですね」


玲央が言うと、硝子は頷いた。


「ええ」


彼女は窓の外を見た。


「だから、人はよく間違えるのでしょう」


夜が少しずつ深くなっていた。






翌朝、瑠璃窓の青い小窓に朝日が差した。


白河周吾は逮捕された。


灰崎透も任意同行ののち、青の王冠事件に関する事情を認め始めていると、律から連絡があった。


本物の青の王冠と、鳴海家の資料は警察へ引き渡された。


鳴海硝子の戸籍上の死亡扱いについても、長い手続きが始まる。


水城怜一は、しばらく身元と過去の行動について聴取を受けることになる。


終わっていない。


何もかも、きれいに終わったわけではない。


罪は残る。

手続きも残る。

裁かれる者もいれば、裁ききれない者もいる。


白河の作った物語は終わった。


けれど、返すべきものを返す作業は、これから始まる。


玲央は瑠璃窓の扉を開けた。


店内には、いつもの匂いがある。


木。

金属。

古い紙。

宝石を包む布。


けれど、どこか違って感じた。


この店が、白河によって用意された場所だと知った。


隠すための場所だったと知った。


それでも、玲央はこの店を閉じなかった。


カウンターに黒い布を広げる。


ルーペを置く。

ピンセットを置く。

ライトを置く。


いつもの鑑定の準備。


扉の鈴が鳴った。


入ってきたのは、灰原律だった。


「早いですね」


玲央が言うと、律はカウンターに書類封筒を置いた。


「仕事です」


「いつも仕事ですね」


「あなたのせいで、ここ最近は特に」


「申し訳ありません」


「本当に思っていますか」


「少し」


「少しですか」


玲央は柔らかく笑った。


律は、店内を見回した。


「営業するんですね」


「はい」


「この店が、白河に用意された場所でも?」


「はい」


「理由を聞いても?」


玲央は、青い小窓を見た。


朝の光を受けて、瑠璃色の硝子が柔らかく光っている。


「場所に罪はありません」


律は黙って聞いている。


「ここは、隠すための場所でした。なら、これからは明らかにする場所にします」


「宝石を?」


「宝石も、人の嘘も。できる範囲で」


律は少しだけ目を伏せた。


「水城さんらしいですね」


「褒めていますか」


「少し」


「少しですか」


律は答えなかった。


その代わり、封筒を開いた。


中には、一枚の写真が入っている。


玲央はそれを見た。


古いブローチだった。


銀細工に、小さな真珠がいくつも並んでいる。

中央には、空の石座がある。


石が抜けていた。


「新しい事件ですか」


「相談です」


「警察から?」


「いいえ」


律は少しだけ言いにくそうにした。


「個人的に」


玲央は眉を上げた。


「灰原さんが?」


「母のものです」


その言葉は、玲央にとって少し意外だった。


律は写真を見つめる。


「実家にあった古いブローチです。中央の石だけが抜けています。母は、祖母から譲られたものだと言っていました」


「盗難ですか」


「わかりません。ただ、青の王冠の件で古い宝飾品を見ていたら、ふと思い出しました」


「石は何だったのですか」


律は首を振る。


「母も知らないそうです。昔から抜けていた、と」


玲央は写真を手に取った。


ブローチの作りは古い。


派手ではない。

だが丁寧な細工だった。


中央の空座。


そこに何があったのか。


真珠か。

色石か。

あるいは、最初から空だったのか。


玲央は少しだけ笑った。


「また、空いている場所ですね」


律も、ほんのわずかに表情を緩めた。


「そうですね」


「見ます」


「まだ持ってきていません」


「では、次回」


律は少しだけ驚いたように玲央を見た。


「次回?」


「ええ。瑠璃窓は営業していますから」


律は写真を封筒に戻した。


「では、改めて持ってきます」


「お待ちしています」


律は扉へ向かった。


その途中で、ふと足を止める。


「水城さん」


「はい」


「あなたの過去が消えたわけではありません」


「わかっています」


「白河が捕まっても、あなたのしたことや、しなかったことがなくなるわけでもない」


「はい」


律は振り返った。


「でも、これから何を見るかは、まだ変えられると思います」


玲央は、少しだけ黙った。


それから、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


律は気まずそうに視線を逸らした。


「別に、励ましたわけではありません」


「はい」


「確認です」


玲央は笑った。


「灰原さんらしいですね」


律は何も言わず、店を出ていった。


扉の鈴が鳴る。


瑠璃窓に、朝の静けさが戻った。


玲央はカウンターに置かれた黒い布を整えた。


青の王冠はもうここにない。


白河もいない。

硝子もいない。

兄も、今は聴取のために別の場所にいる。


それでも、店には何かが残っていた。


隠すためではなく、返すために。


玲央は青い小窓を見上げた。


瑠璃色の光が、店内に落ちている。


それは、十年前の雨の青ではなかった。


王冠の青でもなかった。


この店の青だった。


玲央は、静かに開店札を表へ返した。


瑠璃窓は、今日も開いている。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第七話「鳴海硝子の最後の鑑定」はこれで完結です。

青の王冠事件は大きな区切りを迎えましたが、瑠璃窓はこれからも続いていきます。


次回からは、玲央と灰原律の新しい事件へ。

まずは、灰原の家に残されていた「石のないブローチ」から始まります。

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