第八話 石のないブローチ(前編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第八話「石のないブローチ」前編です。
青の王冠事件を終えた瑠璃窓に、灰原律が持ち込んだのは、母から借りた古いブローチ。
中央の石が抜けたそのブローチは、灰原家に長く隠されていた空白へとつながっていきます。
灰原律が瑠璃窓にブローチを持ってきたのは、青の王冠事件から十日ほど経った午後だった。
横浜には、薄い曇り空が広がっていた。
雨が降るほどではない。
けれど、晴れているとも言えない。
灰原律によく似た空だと、玲央は少しだけ思った。
瑠璃窓の青い小窓は、昼の光を受けて静かに沈んでいる。
夜のように深く光るわけではない。
ただ、そこに青があるとわかる程度に、控えめに色を宿していた。
店内には客はいなかった。
玲央はカウンターに黒い布を広げ、古い指輪のサイズ直しをしていた。
扉の鈴が鳴る。
顔を上げると、灰原律が立っていた。
今日は仕事用のスーツではなく、濃いグレーのコートを着ている。
それでも姿勢が硬いせいか、私服というより、少し柔らかい制服のように見えた。
「いらっしゃいませ」
玲央が言うと、律は少し嫌そうな顔をした。
「客扱いですか」
「今日はお仕事ではないのでしょう?」
律は黙った。
その沈黙が、答えだった。
玲央は柔らかく笑う。
「では、お客様ですね」
「落ち着きません」
「すぐ慣れます」
「慣れたくありません」
律はそう言いながら、カウンターの前に立った。
手には、小さな布包みを持っている。
青の王冠事件で何度も見てきた、証拠品を扱うときの慎重さとは少し違う。
もっと個人的で、もっと不器用な持ち方だった。
「例のブローチですか」
玲央が尋ねる。
律は頷いた。
「母から借りてきました」
「お母様は、こちらへ来ることは?」
「嫌がりました」
「宝石店が苦手なのですか」
「たぶん、私があなたに相談すると言ったからです」
「なるほど。私はご家族からも警戒されているわけですね」
「当然でしょう」
律は即答した。
玲央は少しだけ笑った。
「否定してほしかったところです」
「嘘は苦手です」
「刑事さんらしい」
「あなたは得意そうですね」
「昔は」
律はそれ以上返さなかった。
二人の間に、以前なら棘になっていた沈黙が落ちる。
けれど今は、少し違った。
青の王冠事件のあと、律は玲央を完全に信用したわけではない。
玲央も、自分を信用してほしいと思っているわけではない。
ただ、互いに確認することはできる。
それは、二人にとって充分な変化だった。
律は布包みをカウンターに置いた。
「見てもらえますか」
「もちろん」
玲央は白い手袋をはめた。
律が布をほどく。
中から出てきたのは、銀細工のブローチだった。
楕円形。
縁には小さな真珠がいくつも並んでいる。
葉のような細工が左右に伸び、中央には石座がある。
だが、そこには石がない。
ぽっかりと空いている。
まるで、何かを失ったまま長く待っていたような空白だった。
玲央はそれを黒い布の上に置いた。
「綺麗なブローチですね」
律は少しだけ目を伏せた。
「祖母のものだったそうです」
「お祖母様のお名前は?」
「灰原千鶴」
「お母様は?」
「灰原詩乃」
玲央は頷いた。
「灰原千鶴さんから、詩乃さんへ。そして今、律さんへ」
「私のものではありません」
律はすぐに言った。
「母のものです」
「そうでしたね」
玲央はブローチを見た。
銀の細工は古いが、安物ではない。
真珠は小粒で、完全に揃ってはいない。
だが、それがかえって自然だった。
養殖真珠だろうか。
あるいは古い淡水真珠か。
中央の石座は、丸くはない。
少し縦長。
おそらくオーバルカットか、カボションカットの石が留まっていた。
爪は四本。
そのうち一本だけ、先端がわずかに曲がっている。
石が自然に落ちたのではない。
誰かが外した。
玲央はそう判断したが、すぐには口にしなかった。
「昔から石はなかったのですか」
「母はそう言っています」
「お母様が子どもの頃から?」
「はい」
「お祖母様は何と?」
律は少しだけ沈黙した。
「祖母は、あまり話したがらなかったそうです」
「そのブローチについて?」
「はい」
玲央はルーペを手に取った。
「失礼します」
ブローチの裏側を見る。
刻印がある。
かなり薄い。
H.C.ではない。
別の工房印。
小さな月のような印。
その横に、文字が刻まれている。
N.M.
玲央は少しだけ眉を動かした。
律はそれを見逃さなかった。
「何かありますか」
「刻印があります」
「H.C.ですか」
「いいえ」
律はほんのわずかに安心したように見えた。
玲央は言う。
「月のような印と、N.M.という文字です」
「N.M.」
「何か心当たりは?」
律は首を振った。
「ありません」
「お祖母様の旧姓は?」
「水無瀬です。水が無い瀬戸内の瀬で、水無瀬千鶴」
玲央は刻印を見た。
N.M.
Minaseなら、M。
Chizuruなら、C。
N.M.ではない。
「お母様の旧姓は?」
「母は結婚していません。私は母方の姓です」
その言葉を言うとき、律の声はわずかに硬くなった。
玲央は、その硬さを聞き逃さなかった。
だが、踏み込まない。
「そうでしたか」
律は少しだけ目を伏せた。
「父のことは知りません」
玲央はブローチから目を離さずに言った。
「お母様から聞いたことがない?」
「はい」
「聞かなかったのですか」
「聞けなかったのです」
律の声は平坦だった。
平坦すぎる声だった。
玲央は、ブローチの空いた石座を見つめた。
石が抜けた場所。
聞けなかった名前。
話されなかった父。
このブローチの空白は、ただの宝石の空白ではない。
「灰原さん」
「何です」
「このブローチを見てほしい理由は、抜けた石を知りたいからですか」
律はすぐには答えなかった。
瑠璃窓の中で、時計の秒針が小さく音を立てている。
やがて、律は言った。
「それだけではありません」
「では?」
「母が最近、このブローチを捨てようとしました」
玲央は顔を上げる。
「捨てる?」
「はい」
「なぜ」
「わかりません。ただ、青の王冠事件のニュースを見たあとでした」
「青の王冠事件を?」
「直接関係があるとは思っていません。でも母は、その報道を見てから様子がおかしくなった」
律はブローチを見る。
「それで、実家で古いものを整理していたとき、このブローチを捨てようとしていたんです」
「止めたのですか」
「はい」
「理由は?」
律は少しだけ不快そうに眉を寄せた。
「わからないからです」
「何が?」
「母が何かを捨てようとしているのはわかりました。でも、物を捨てたいのではなく、何かをなかったことにしようとしているように見えた」
玲央は静かに頷いた。
「だから、確認したくなった」
「はい」
律は言った。
「あなたなら、石の空白を見るでしょう」
玲央は少しだけ笑った。
「私は便利な道具ですか」
「少し」
「少しですか」
「かなり」
玲央は苦笑した。
「正直ですね」
「嘘は苦手なので」
玲央はブローチに目を戻した。
「中央の石は、自然に外れたのではありません」
律の表情が変わる。
「誰かが外した?」
「その可能性が高いです。爪の一本だけが外側へ曲がっています。他の爪には落下時の歪みが少ない。石が緩んで自然に落ちたなら、もう少し全体に負担が出るはずです」
「いつ外されたかわかりますか」
「正確には難しいです。ただ、かなり前です」
「祖母の時代?」
「可能性はあります」
玲央はブローチの裏を見た。
月の印。
N.M.
「この工房印を調べる必要があります」
「できますか」
「古い宝飾品の資料に当たります。月の印なら、いくつか心当たりがあります」
「心当たり?」
玲央は少し考えた。
「横浜ではなく、鎌倉か神戸の可能性があります。古い銀細工と真珠の組み合わせからすると、戦後から昭和中期頃かもしれません」
律は驚いたように玲央を見る。
「そんなにわかるんですか」
「当たっているかは別です」
「逃げ道を作りましたね」
「確認前なので」
律は少しだけ息を吐いた。
その反応には、ほんの少しの安心が混じっていた。
玲央はブローチを光にかざす。
中央の石座の底に、わずかな色が残っていた。
「ん……」
「何です」
「石座の奥に、粉のようなものが残っています」
「粉?」
「石の破片か、接着剤か、汚れかもしれません」
玲央は細いピンセットを取り、小さな白い紙の上にその粉を落とした。
ごくわずか。
肉眼では、ほとんど見えない。
玲央は顕微鏡を用意した。
粉の中に、淡い緑の粒が混じっている。
「緑」
律が横から覗く。
「中央の石は、緑色だった可能性があります」
「エメラルドですか」
「それも候補です。ただ、エメラルドならもう少し特徴的な破片が残るかもしれません」
「他には?」
「翡翠、ペリドット、トルマリン、グリーンガーネット。古い日本の装身具なら、翡翠の可能性もあります」
「翡翠」
律がその言葉を繰り返した。
その声が少しだけ変わった。
玲央は顔を上げる。
「心当たりがありますか」
律は黙った。
「灰原さん」
「母が、昔言っていました」
「何と?」
「祖母は、緑色の石が嫌いだったと」
「嫌い?」
「はい」
律はブローチを見つめる。
「理由は知りません。ただ、母が子どもの頃、緑のビー玉を持っていたら祖母にひどく怒られたことがあると」
「緑のビー玉」
「石ではありません。ただの玩具です」
「でも、お祖母様は怒った」
「はい」
玲央はブローチの空白を見る。
緑色の石。
祖母が嫌った緑。
母が捨てようとしたブローチ。
父の話をしない家。
空白は、少しずつ色を持ち始めていた。
「お母様に、お話を伺えますか」
律はすぐには答えなかった。
「難しいと思います」
「嫌がりますか」
「はい」
「それでも必要です」
律はわかっている、という顔をした。
けれど、刑事としての顔ではなかった。
息子の顔だった。
玲央は少しだけ声を柔らかくする。
「急ぐ必要はありません」
律は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなたがそれを言いますか」
「よく言われます」
「昨日までは、事件となるとすぐ首を突っ込んでいました」
「灰原さんの家のことですから」
律は黙った。
玲央は続けた。
「事件かどうかも、まだわかりません。これは、灰原家の空白です」
律の目が揺れる。
「空白」
「はい」
「あなたは、そういう言い方をするときだけ妙に正しい」
「褒めていますか」
「少し」
「少しですか」
律は答えなかった。
玲央はブローチを丁寧に布へ戻した。
「こちらで預かって調べても?」
「はい」
「お母様の許可は?」
「取っています」
「嫌がっていたのに?」
「私が、どうしても知りたいと言いました」
「お母様は何と?」
律は少しだけ視線を落とした。
「知っても、戻らないものがあると言われました」
玲央は黙った。
知っても、戻らないものがある。
それは正しい。
青の王冠事件でもそうだった。
真実を見つけても、十年は戻らない。
死んだことになった人の時間も、失われた信頼も、傷ついた名前も、完全には戻らない。
それでも、知る意味はある。
戻らないものを、戻らないまま置いておくために。
「では、戻すためではなく、確かめるために見ましょう」
玲央が言うと、律は静かに頷いた。
「お願いします」
その言葉は、いつもの律にしては素直だった。
玲央は、黒い布の上のブローチを見た。
石のない中央。
緑の痕跡。
月の刻印。
N.M.
そして、灰原家に残る父の空白。
青の王冠は終わった。
だが、瑠璃窓にはまた別の空白が持ち込まれた。
今度の空白は、王冠ほど派手ではない。
世界を巻き込む大事件でもない。
けれど、ひとりの人間にとっては、世界そのものに近い空白だった。
その日の夜、玲央は古い資料を開いていた。
瑠璃窓の奥の作業部屋。
机の上には、工房印の資料、古い宝飾カタログ、昭和期の装身具に関する本が積まれている。
月の印。
N.M.
心当たりは、なかなか見つからなかった。
H.C.のような大きな工房ではない。
もっと小さな工房か、個人の作家かもしれない。
玲央は資料をめくる。
横浜。
神戸。
鎌倉。
長崎。
港町には、宝飾品と異国の石が集まる。
真珠。
銀細工。
翡翠。
珊瑚。
ガラス。
その中で、月の印を持つ工房が一つだけ見つかった。
月森宝飾。
神戸にあった小さな工房。
戦後から昭和四十年代まで存在していたが、今は廃業している。
刻印は三日月。
創業者は、月森直政。
N.M.
玲央はページを止めた。
月森直政。
N.M.
一致する。
工房は、真珠と銀細工を得意としていた。
そして、一部の注文品には、依頼者が持ち込んだ石を留めていたとある。
つまり、ブローチの中央石は、月森宝飾が用意したものとは限らない。
灰原家、あるいは水無瀬家が持ち込んだ可能性がある。
玲央は、さらに資料を読む。
月森宝飾は、ある時期から翡翠を扱っていた。
特に、古い着物や帯留めに使われていた翡翠を、洋装用のブローチやペンダントに仕立て直す注文が多かった。
玲央は、ブローチの中央石座を思い出した。
縦長のオーバル。
四本爪。
銀細工と真珠。
翡翠が入っていたとしても、不自然ではない。
だが、なぜ外されたのか。
なぜ灰原千鶴は、緑を嫌ったのか。
そのとき、店の電話が鳴った。
玲央は顔を上げる。
夜の瑠璃窓に、ベルの音が響く。
彼は受話器を取った。
「瑠璃窓です」
しばらく沈黙。
それから、女性の声がした。
「水城玲央さんですか」
「はい」
「灰原詩乃です」
玲央は少しだけ姿勢を正した。
灰原律の母。
「お電話ありがとうございます」
「律から、ブローチを預けたと聞きました」
「はい。お預かりしています」
「調べないでください」
声は静かだった。
だが、その奥には強い拒絶があった。
玲央はすぐには答えなかった。
「灰原さん」
「律には、返すように言ってください」
「なぜですか」
「知らなくていいことだからです」
その言葉は、律から聞いたものとよく似ていた。
知っても、戻らないものがある。
玲央は静かに言った。
「律さんは、知りたいとおっしゃっています」
「だから困るんです」
詩乃の声が、少しだけ揺れた。
「知れば、あの子は自分を疑う」
玲央の指が止まる。
「自分を?」
詩乃は、沈黙した。
電話の向こうで、かすかな息遣いだけが聞こえる。
玲央は待った。
急がせない。
嘘は、急がせるほど硬くなる。
やがて、詩乃は言った。
「あのブローチに入っていた石は、翡翠でした」
玲央は静かに目を伏せた。
やはり。
「その翡翠は、今どこに?」
「ありません」
「外したのは、お母様ですか」
「私です」
玲央は息を止めた。
「詩乃さんが?」
「はい」
「いつですか」
「律が生まれる前です」
律が生まれる前。
それは、彼の父の話とつながる。
玲央は言った。
「なぜ、外したのですか」
詩乃は答えなかった。
長い沈黙。
そして、小さな声。
「律の父親に、渡したからです」
玲央は、受話器を持つ手にわずかに力が入るのを感じた。
律の父。
語られなかった名前。
石のないブローチ。
抜けた翡翠。
「お父様のお名前を伺っても?」
詩乃は、しばらく黙っていた。
それから、声を落として言った。
「名乗ってはいけない人です」
「名乗ってはいけない?」
「そう約束しました」
「誰と」
「母と」
灰原千鶴。
緑色を嫌った祖母。
彼女は、娘に何を約束させたのか。
玲央は電話の向こうの詩乃に言った。
「詩乃さん。これは、律さんの出生に関わることですか」
沈黙。
答えはなかった。
だが、沈黙がすでに答えていた。
やがて詩乃は言った。
「お願いです。あの子に、これ以上調べさせないでください」
「それは、私が決めることではありません」
「あなたなら止められるでしょう」
「止めることはできます。でも、止める理由を説明できません」
詩乃の声が震えた。
「律は、私を許さない」
玲央は静かに答えた。
「許すかどうかを決めるのは、律さんです」
「だから怖いんです」
その声は、母親の声だった。
刑事の母ではない。
強い女性の声でもない。
秘密を長く抱えすぎた人の声だった。
玲央は言った。
「私は、律さんにすべてを話すとはまだ決めていません」
「え?」
「ただ、ブローチは見ます。石も、爪も、刻印も。そこに残っていることを確認します」
「それで、何がわかるんですか」
「少なくとも、嘘と事実を分けることはできます」
電話の向こうで、詩乃が静かに息を吐いた。
「白河周吾の件を、ニュースで見ました」
玲央は黙った。
「あの人の名前を、母が昔言っていたことがあります」
玲央の背筋が冷える。
「白河さんを?」
「はい」
「灰原千鶴さんが?」
「母は、あの人を嫌っていました。緑の石を見たときと同じ顔で」
詩乃は続けた。
「だから、ブローチを捨てようとしたんです。律が白河という名前に近づいたから」
玲央は、机の上の資料を見た。
月森宝飾。
翡翠。
ブローチ。
律の父。
白河周吾。
青の王冠事件は終わった。
そう思っていた。
だが、完全には終わっていなかったのかもしれない。
白河が関わっていたのは、王冠だけではない。
人の名前と、沈黙のあいだに、彼は何度も入り込んでいる。
「詩乃さん」
「はい」
「律さんのお父様は、白河周吾に関係する人ですか」
詩乃は答えなかった。
電話の向こうに、長い沈黙が落ちる。
そして、彼女は言った。
「ブローチを返してください」
通話は切れた。
玲央は、しばらく受話器を持ったまま動けなかった。
瑠璃窓の奥で、青い小窓が夜の光を吸っている。
カウンターの黒い布の上には、石のないブローチが置かれていた。
中央の空白。
そこには、かつて翡翠があった。
その翡翠は、律の父に渡された。
そして、その父は名乗ってはいけない人。
白河周吾に関係しているかもしれない人。
玲央は静かに受話器を戻した。
時計の針が、夜を刻んでいる。
青の王冠が終わったあとに持ち込まれた、小さなブローチ。
その空白は、思っていたよりも深かった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第二部「灰原家のブローチ編」が始まりました。
今回は、玲央ではなく灰原律の家族と過去に焦点を当てていきます。
抜けていた石は翡翠。
そして、その翡翠は律の父へ渡されていたようです。
次回、灰原家の沈黙が少しずつ形を持ち始めます。




