第五話 割れていないダイヤモンド(後編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第五話「割れていないダイヤモンド」後編です。
水城玲央の前に現れた、死んだはずの兄・水城怜一。
もっとも硬い石が示していたのは、割れた宝石ではなく、割られた証言と名前でした。
水城怜一。
その名を口にした瞬間、検証室の空気が変わった。
蛍光灯の白い光。
机の上の現場写真。
透明袋に入った茶封筒。
ダイヤモンドリングのレプリカ。
すべてが、急に遠く見えた。
灰原律は、タブレットに映る男の横顔を見つめていた。
玲央によく似ている。
だが、玲央よりも少し骨格が鋭い。
目元には、柔らかさよりも冷たさがある。
口元に浮かぶ笑みは、玲央のものに似ているのに、どこか違った。
玲央の笑みが人を油断させるためのものなら、その男の笑みは、人を遠ざけるためのものに見えた。
「水城怜一」
律が名前を繰り返す。
「あなたの兄ですね」
「はい」
「十年前に死んだことになっている」
「そうです」
「死因は?」
玲央は少しだけ沈黙した。
「事故死です」
「どんな事故ですか」
「海です」
律の眉がわずかに動く。
「また海ですか」
「横浜では、海が都合よく人を消します」
玲央の声は静かだった。
冗談のようにも聞こえた。
だが、目は笑っていない。
「兄は、十年前の冬、海に落ちて死んだと聞かされました。遺体は上がっていません」
「遺体なし」
律が低く言う。
「榊未来と同じです」
「ええ」
「なぜ今まで黙っていたんですか」
玲央はタブレットの男を見た。
「死んだと思っていたからです」
「本当に?」
律の声は鋭かった。
玲央はすぐには答えなかった。
本当に、死んだと思っていたのか。
それとも、死んだと思うことにしたのか。
十年前の自分は、あまりにも多くのことを見ないようにしていた。
王冠。
白河。
自分の証言。
兄の失踪。
すべてを別々の箱に入れて、鍵をかけた。
そして、宝石商になった。
偽物を見抜くために。
けれど今、その鍵はひとつずつ壊されている。
「思いたかったんだと思います」
玲央は言った。
律は黙った。
「兄が死んだと思えば、私はそれ以上調べずに済んだ。白河さんのもとに残った兄を、見なくて済んだ」
「水城怜一も、白河周吾の周辺にいたんですか」
「はい」
玲央は、ゆっくり頷いた。
「私より先に」
検証室の外から、遠く電話の音が聞こえた。
すぐに消える。
玲央は、十年前のことを思い出していた。
兄は、いつも少し先にいた。
宝石の知識も。
人を読む力も。
白河に近づく速度も。
玲央が白河に見出されたと思っていたころ、怜一はすでに白河の隣にいた。
けれど、兄は玲央に言った。
白河を信じるな。
あの言葉を、玲央は聞かなかった。
聞きたくなかった。
律が尋ねる。
「水城怜一は、青の王冠事件に関わっていた?」
「おそらく」
「おそらく?」
「当時の私は、兄が何をしていたのか知らなかった。知ろうともしなかった。兄は白河さんの裏側を見ていて、私は表側だけを見ていた」
「表側?」
「宝石の美しさ。鑑定の言葉。選ばれたような感覚」
玲央は自嘲するように笑った。
「若い詐欺師には、よく効く毒です」
律は何も言わなかった。
机の上の紙片には、相良怜司の言葉が残っている。
Rは犯人ではない。
最初の証人だ。
玲央はそれを見つめた。
「Rは、私のことだと思っていました」
「違う可能性が出てきた」
律が言う。
「怜一のR」
「はい」
「でも、相良の文には“最初の証人”とある。あなたが最初の証人なのか、兄がそうなのか」
「まだわかりません」
「それとも、二人とも」
玲央は黙った。
律はタブレットを操作した。
「防犯カメラの男は、相良怜司と接触したあと、ホテルを出ています。出た時刻は午後九時三十二分。その十五分後に、相良が倒れた」
「兄が相良さんを襲ったと?」
「可能性はあります」
「兄は、そういうことをする人間ではありません」
律の目が鋭くなる。
「十年前のあなたは、白河がそういうことをする人間だと思っていましたか」
玲央は言葉を失った。
律は続ける。
「人間は変わります。あるいは、最初から見えていなかっただけかもしれない」
「……その通りです」
玲央は目を伏せた。
「兄を、疑ってください」
律は少し意外そうに彼を見た。
「いいんですか」
「必要です」
玲央はタブレットの男を見た。
「私は、兄については冷静ではいられません」
「自覚があるなら、まだましです」
「褒めていますか」
「いいえ」
「でしょうね」
そのとき、検証室の扉が開いた。
若い刑事が顔を出す。
「灰原さん、相良怜司の意識が戻りました」
律の表情が変わる。
「話せる状態か」
「短時間なら。医師の許可も取れています」
律は玲央を見る。
「行きます」
「私も?」
「当然です」
「参考人として?」
「今は、証人として」
玲央は静かに頷いた。
相良怜司の病室は、午後の光がほとんど入らない部屋だった。
ブラインドが半分下りている。
白い壁。
機械音。
消毒液の匂い。
ベッドの上の相良は、写真で見たよりもずっと痩せて見えた。
五十代前半。
髪には白いものが混じり、目元の皺が深い。
だが意識ははっきりしているようだった。
彼は玲央を見ると、かすかに笑った。
「大きくなったな」
玲央は返事に詰まった。
十年前、相良はすでに大人だった。
玲央はまだ二十代前半で、白河の言葉を信じることに酔っていた。
「お久しぶりです」
玲央は言った。
相良は、薄く目を細める。
「白河の笑い方が、少し抜けた」
「そうだといいのですが」
「まだ残っている」
「でしょうね」
律が名乗り、椅子を引いた。
「灰原です。短時間で確認します。あなたは昨夜、ホテルで誰と会いましたか」
相良は天井を見た。
「水城玲央」
律の視線が玲央へ向く。
相良は続けた。
「と、名乗る男だ」
玲央が静かに言う。
「兄ですか」
相良の目が玲央に戻る。
「やはり、見たのか」
「防犯カメラに映っていました」
「怜一だ」
病室の空気が重くなる。
律が問う。
「水城怜一は生きているんですね」
「ああ」
「彼はあなたに何をしに来たんです」
相良は呼吸を整えた。
「ダイヤを返しに来た」
「返す?」
「十年前、青の王冠から外されたダイヤだ」
玲央が顔を上げる。
「H.C.1129」
相良は小さく頷いた。
「そうだ」
律が言う。
「現場に残っていたリングのダイヤが、それですか」
「違う」
相良は即座に否定した。
「現場のダイヤは偽物ではない。だが、王冠のダイヤでもない」
玲央は息を止めた。
「では、本物のダイヤは?」
「怜一が持っていた」
「なぜ現場に残さなかったんですか」
律が尋ねる。
相良は苦しそうに目を閉じた。
「私が受け取らなかった」
「なぜ」
「怖かった」
その言葉は、病室の白い空気の中であまりにも人間らしかった。
相良は続ける。
「十年前、私は知っていた。青の王冠のダイヤが一つ、交換されていることを。王冠に保険をかけるとき、その修復記録を見た」
「なぜ黙っていたんです」
律の声は硬い。
相良は自嘲するように笑った。
「金だ。立場だ。怖さだ。理由はいくらでもある」
「あなたは保険鑑定人だった」
「だからこそ、騒げなかった」
相良は玲央を見た。
「白河と灰崎は、王冠をただ盗むつもりではなかった。価値をすり替えるつもりだった」
「価値をすり替える?」
「本物の王冠を偽物として処理する。偽物として失われたことにする。そうすれば、本物の石は別の場所で生きる」
玲央は静かに言った。
「偽物として処理された王冠から、本物の石だけを回収する」
「そうだ」
律が問う。
「では、王冠そのものは?」
「わからない。少なくとも、私が見た時点では、すでに本来の状態ではなかった」
「誰がすり替えを?」
相良は少し黙った。
「白河が設計した。灰崎が保険の筋を整えた。片桐が石を流した。三鷹は途中で気づいた。榊未来は色の違和感を見た。そして……」
相良は玲央を見る。
「怜一は止めようとした」
玲央の指が冷えた。
「兄が?」
「怜一は、白河の計画に気づいた。お前より早く」
その言葉は、静かに玲央を刺した。
やはり兄は、先に見ていた。
自分が見ようとしなかった裏側を。
「なら、なぜ兄は死んだことに?」
「白河に消された」
律が言う。
「殺されたのではなく?」
「殺されていない。死んだことにされた」
「目的は?」
「証言を消すためだ」
相良は苦しそうに呼吸した。
「だが、怜一は消えなかった。ずっとどこかで動いていた。十年間、白河と灰崎を追っていた」
玲央は、胸の奥が締めつけられるようだった。
十年。
兄は生きていた。
そして、追っていた。
玲央が逃げている間も。
瑠璃窓で静かに宝石を見ていた間も。
兄は、青の王冠の裏側を追っていた。
律が尋ねる。
「昨夜、水城怜一はあなたに何を言いましたか」
相良は目を開けた。
「割れていない、と」
「ダイヤのことですか」
「そうだ。十年前、白河は玲央に“割れているように見えるダイヤ”を見せた。だが本物のH.C.1129は割れていない。内部亀裂もない。曇りもない」
玲央は低く言った。
「つまり、白河さんが私に見せたのは別の石」
「あるいは、別の見せ方をした石だ」
相良は言う。
「お前の証言を作るために」
律が確認するように言った。
「水城玲央に、王冠は偽物だと思わせるため」
「そうだ」
相良は頷いた。
「玲央は、王冠が偽物だと証言した。若い鑑定補助の言葉など、普通なら大きな意味を持たない。だが、白河はそれを使った」
「なぜ玲央さんだったんです」
相良は少しだけ笑った。
「水城だからだ」
玲央が眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「怜一が白河に逆らった。なら、白河は弟を使う。兄が止めようとした計画を、弟の証言で沈める」
玲央は言葉を失った。
それは、白河らしい。
あまりにも。
人間の関係を、道具にする。
罪悪感を、鎖にする。
信頼を、刃に変える。
玲央は、自分の中に残る白河の影が嫌になるほどわかった。
律が低く言った。
「ひどい話ですね」
「ええ」
玲央は静かに答えた。
「本当に」
相良は咳き込んだ。
医療機器の音がわずかに乱れる。
怜一について聞きたいことはまだ山ほどあった。
どこにいるのか。
何を持っているのか。
なぜ今になって現れたのか。
だが、相良の体力は長く持たない。
律が最後に尋ねる。
「水城怜一は、次にどこへ行くと言っていましたか」
相良は目を閉じた。
「瑠璃窓」
玲央と律が同時に反応した。
「瑠璃窓?」
「王冠が戻る場所だと」
相良はかすれた声で言った。
「怜一は、そう言った」
玲央の脳裏に、灰崎透の言葉が蘇る。
王冠は、もうすぐ戻る。
瑠璃窓に。
そして今、相良も同じことを言う。
兄が。
怜一が。
「いつですか」
律が聞く。
相良は、ゆっくり目を開けた。
「今夜」
病室に沈黙が落ちた。
「今夜、瑠璃窓に王冠が戻る」
相良は玲央を見た。
その目には、後悔と恐れがあった。
「玲央。王冠が戻ったら、中心を見るな」
「中心のサファイアではなく?」
「そうだ」
「周囲の石を見る」
「違う」
相良の声が弱くなる。
「石を見るな」
玲央は息を止めた。
「では、何を見れば」
相良は、最後の力を振り絞るように言った。
「空いている場所を見ろ」
その言葉を最後に、相良は目を閉じた。
医師が入ってきて、面会は終わりになった。
病室を出たあと、玲央はしばらく廊下で動けなかった。
律も急かさなかった。
「空いている場所」
律が呟く。
「王冠に、石が抜けた場所があるということですか」
「かもしれません」
「あるいは、名前が抜けている場所」
玲央は頷いた。
「ええ」
律は玲央を見る。
「今夜、瑠璃窓に戻ります」
「はい」
「罠です」
「でしょうね」
「それでも?」
玲央は病室の扉を見た。
兄が生きている。
青の王冠が戻る。
十年前、自分が偽物だと言ったものが、今夜、自分の店に来る。
それは、偶然ではない。
白河の舞台なのか。
灰崎の取引なのか。
兄の告発なのか。
まだわからない。
だが、逃げる理由にはならない。
「行きます」
玲央は言った。
「瑠璃窓は、私の店ですから」
夜の瑠璃窓は、いつもより静かだった。
青い小窓だけが、深く光っている。
外の坂道には人影がない。
雨は降っていない。
それなのに、石畳はどこか濡れているように見えた。
玲央は店の中央に黒い布を広げた。
そこにルーペ、ライト、ピンセット、手袋を並べる。
いつもの鑑定の準備。
だが今夜、鑑定するのは宝石だけではない。
十年前の記憶。
兄の死。
白河の嘘。
自分の証言。
律は入口近くに立っている。
外には私服の警察官がいる。
だが玲央には、それだけで止められる相手だとは思えなかった。
午後十一時。
扉の鈴が鳴った。
玲央は顔を上げた。
入ってきたのは、黒いコートの男だった。
帽子はかぶっていない。
顔が、はっきり見える。
水城怜一。
十年前に死んだはずの兄。
玲央より少し背が高い。
目元は似ている。
だが、その目には長く暗い場所を歩いてきた人間の影があった。
玲央は、何を言えばいいのかわからなかった。
兄さん。
そう呼ぶには、十年が長すぎた。
怜一。
そう呼ぶには、血が近すぎた。
結局、最初に口を開いたのは怜一だった。
「変わらないな」
声も、記憶の中と同じだった。
低く、静かで、どこか突き放すような声。
玲央はようやく言った。
「生きていたんですね」
「死んだほうが都合がよかった」
「誰にとって」
怜一は笑った。
「全員にとって」
律が一歩前に出る。
「水城怜一さんですね。神奈川県警の灰原です」
怜一は律を見た。
「灰原。灰色の名前か」
律の表情が険しくなる。
「あなたには事情を聞く必要があります」
「その前に、返すものがある」
怜一は手に持っていた黒いケースをカウンターに置いた。
玲央は、そのケースを見ただけで呼吸が浅くなった。
古いケース。
十年前、雨の夜に見たものと似ている。
いや、似ているのではない。
同じものだった。
怜一はケースの留め具を外した。
蓋が開く。
中には、王冠があった。
青の王冠。
銀の蔓のような細工。
中心に留まる大きな青。
周囲を囲むダイヤ、ルビー、アレキサンドライト、オパール。
十年前の記憶よりも、小さく見えた。
けれど、その存在感は変わらない。
玲央は、動けなかった。
律も言葉を失っていた。
怜一が言う。
「見ろ、玲央」
玲央は、王冠を見た。
中心のサファイア。
深い青。
十年前、彼が偽物だと言った青。
玲央の手が、わずかに震えた。
その瞬間、相良の言葉が蘇る。
中心を見るな。
石を見るな。
空いている場所を見ろ。
玲央は目を閉じた。
そして、もう一度開いた。
中心ではなく、周囲を見る。
周囲の石でもない。
石と石の間。
細工の隙間。
本来なら、装飾の流れとして見過ごしてしまう部分。
空いている場所。
王冠の右側。
ルビーとダイヤの間に、不自然な空間があった。
そこには、石がない。
いや、石が抜けた跡ではない。
最初から、その空間を作るために設計されたような隙間。
玲央はルーペを手に取った。
ゆっくり近づける。
空白の内側に、細い文字が刻まれていた。
肉眼では見えないほど小さい。
R。
その下に、もう一文字。
R.
玲央は息を止めた。
R.R.
律が問う。
「何が見えますか」
玲央は、すぐに答えられなかった。
怜一が静かに言う。
「それが、割れていないダイヤの意味だ」
「R.R.」
玲央は呟く。
「ReoとReiichi?」
怜一は首を振った。
「違う」
「では」
「Ruri-mado Record」
玲央の眉が動く。
「瑠璃窓……記録?」
怜一は王冠を見た。
「青の王冠は、ただの目録じゃない。石の配置だけでもない。王冠そのものが鍵だ。空白に刻まれたR.R.は、記録の保管場所を示している」
「瑠璃窓に?」
「そうだ」
玲央は混乱した。
「でも、瑠璃窓は私が十年前のあとに開いた店です」
怜一は玲央を見る。
「本当にそう思っているのか」
その言葉に、玲央は動けなくなった。
律が低く言う。
「どういう意味ですか」
怜一は答えた。
「瑠璃窓は、もともと白河の隠し場所だった」
玲央の喉が乾く。
「違う」
「違わない」
怜一の声は冷静だった。
「お前は知らずにあの店を受け継いだ。白河はそう仕向けた」
「誰から……」
「店の前の所有者を覚えているか」
玲央は記憶を探る。
瑠璃窓を開く前、あの場所は古い骨董店だった。
持ち主は高齢の女性。
店を畳むと言い、玲央に場所を譲った。
名前は。
「久世」
怜一が言った。
「久世澪子。白河の協力者だ」
玲央は、足元が崩れるような感覚を覚えた。
自分の店。
自分で選んだと思っていた場所。
そこまでも、白河の筋書きだったのか。
律が険しい顔で言う。
「瑠璃窓に何があるんです」
怜一は王冠の空白を指した。
「記録だ。青の王冠が示す名前の本当の対応表。密輸、資産隠し、偽装保険、死亡偽装。その全部が、瑠璃窓のどこかに隠されている」
玲央は首を振った。
「そんなもの、見たことがない」
「見ようとしなかっただけだ」
怜一の言葉は、優しくなかった。
けれど、嘘ではない。
玲央は店内を見回した。
古いショーケース。
青い小窓。
作業机。
金庫。
壁の奥。
床板。
この店に来てから、何度も掃除し、改装し、配置を変えた。
それでも、触れていない場所がある。
青い小窓。
瑠璃窓の名の由来。
最初からそこにあった、青い硝子。
玲央はゆっくり小窓を見た。
律も気づく。
「まさか」
怜一が頷いた。
「青い窓の裏だ」
玲央は梯子を取り、青い小窓の下に立った。
手が震える。
十年前の王冠。
白河。
兄。
自分の証言。
すべてが、この店につながっていた。
玲央は青い小窓の木枠に触れた。
一見、ただの古いステンドグラス。
だが、下側の木枠に小さな隙間がある。
ピンセットを差し込み、慎重に外す。
木枠の一部が動いた。
中から、薄い金属筒が現れた。
律が息を呑む。
玲央はそれを取り出した。
金属筒には封蝋が施されている。
赤い封蝋。
山下公園で見つけたもの。
温室跡のケースにあったもの。
霧笛画廊のオパールとつながっていたもの。
すべて同じ色だった。
玲央は封蝋を見つめた。
「開けます」
律が頷いた。
怜一は黙って見ている。
金属筒の中には、細く巻かれた紙が入っていた。
玲央はそれを広げた。
そこには、名前が並んでいた。
鳴海硝子。
片桐修一。
三鷹正臣。
榊未来。
灰崎透。
白河周吾。
水城怜一。
水城玲央。
そして、最後にもう一人。
久世澪子。
玲央はその名を見た。
瑠璃窓の前の所有者。
すべてが、この店に戻ってくる。
律が紙を覗き込む。
「これは、関係者リスト?」
怜一が答える。
「いいや」
「では何です」
「生き残った者のリストだ」
玲央は息を止めた。
生き残った者。
片桐修一は死んだ。
だが、リスト作成時には生きていた。
榊未来も死んだことになっていた。
鳴海硝子も同じ。
怜一も同じ。
死んだ者ではない。
死んだことにされた者。
あるいは、生きていてはいけなかった者。
玲央は紙の下部を見た。
小さな文字で、こう書かれている。
『本物は、割れていない。
割れたことにされた者たちを、瑠璃窓に戻せ。』
玲央の視界が揺れた。
ダイヤモンドは割れていない。
割れていたのは、証言。
割られたのは、名前。
そして、人生。
律が低く言った。
「このリストが、青の王冠の核心ですね」
「ええ」
玲央は頷いた。
「でも、まだ足りません」
「何が」
玲央はリストを見た。
名前はある。
だが、罪の内容がない。
誰が何をしたのか。
誰が何を隠したのか。
王冠そのものの本当の持ち主は誰なのか。
まだ見えない。
怜一が言った。
「白河が来る」
律が即座に反応する。
「どこに」
「ここに」
怜一は、青い小窓を見た。
「王冠が戻った場所に、白河も戻る」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、店の電話が鳴った。
古い固定電話。
玲央は、受話器を取った。
「瑠璃窓です」
白河周吾の声がした。
「おかえり、玲央」
玲央は黙っていた。
白河は楽しそうに続ける。
「よく見つけたね。やはり、君は私の弟子だ」
「私は、あなたの弟子ではありません」
「では、何だい?」
玲央は王冠を見た。
青い石。
周囲の石。
空白。
名前。
そして、隣に立つ兄。
「証人です」
電話の向こうで、白河が沈黙した。
ほんの一瞬。
それは初めて、白河の余裕が欠けた瞬間だった。
玲央は続けた。
「私は、もう一度証言します。十年前、私は間違えた。王冠を偽物だと言った。その間違いを、あなたに使われた」
白河の声が低くなる。
「それで?」
「だから、今度は見ます」
「何を」
「空いている場所を」
白河は笑った。
「いいね。ようやく、君も中心の青から目を離した」
「あなたはどこにいますか」
「近くに」
律が玲央を見る。
怜一も、店の外へ目を向けた。
白河の声が囁く。
「次で終わりにしよう」
「何を」
「鑑定を」
通話は切れた。
瑠璃窓の中に、静けさが戻る。
だがそれは、以前の静けさではなかった。
王冠がある。
リストがある。
兄がいる。
刑事がいる。
そして、白河が近くにいる。
律が言った。
「店を封鎖します」
「ええ」
玲央は頷いた。
怜一が王冠のケースを閉じる。
「白河は、封鎖くらいで止まる男じゃない」
「わかっています」
律の声は硬い。
「それでも、やるべきことをやります」
怜一は律を見た。
「玲央に似ていないな」
「当然です」
律が即答する。
「私は水城家ではありません」
怜一は初めて、ほんの少し笑った。
玲央はその笑みを見て、胸の奥が痛んだ。
兄が生きている。
それは救いのはずだった。
けれど十年分の嘘の中で、生きていたという事実さえ、簡単には喜べない。
ダイヤモンドは割れていなかった。
だが、割れたことにされたものは、あまりにも多い。
証言。
名前。
家族。
人生。
玲央は、青い小窓を見上げた。
瑠璃色の光が、店内に静かに落ちている。
その光の下で、青の王冠は眠っていた。
十年前と同じように。
けれど今度は、誰も中心の青だけを見てはいなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第五話「割れていないダイヤモンド」はこれで完結です。
青の王冠は、ついに瑠璃窓へ戻ってきました。
次回は、白河周吾との直接対決へ向かいます。
玲央がもう一度「証人」として立つ、物語の大きな山場になります。




