第六話 青の王冠をもう一度(前編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第六話「青の王冠をもう一度」前編です。
ついに瑠璃窓へ戻ってきた青の王冠。
十年前に偽物だと証言した玲央は、兄・怜一と灰原律の前で、もう一度その王冠を鑑定します。
瑠璃窓の中に、青の王冠が戻っていた。
十年前、雨の夜に消えたはずの王冠。
銀の蔓が絡み合うような細工。
中心に留められた大粒のサファイア。
その周囲に並ぶダイヤ、ルビー、アレキサンドライト、オパール。
かつて水城玲央が偽物だと証言したもの。
その王冠が今、瑠璃窓の黒い布の上に置かれている。
店の外には、警察車両が数台停まっていた。
坂道の下にも、上にも、私服の警察官がいる。
灰原律の指示で、瑠璃窓の周辺は静かに包囲されていた。
けれど、玲央にはわかっていた。
白河周吾は、包囲されることを恐れる人間ではない。
むしろ、舞台が整ったと思うだろう。
王冠。
警察。
証人。
兄。
弟子だった男。
そして、自分。
白河は、こういう配置を好む。
誰かが用意したように見える場ではなく、最初から自分が用意していたのだと思わせる場。
玲央はカウンターの内側に立っていた。
目の前には青の王冠。
隣には、兄の水城怜一。
少し離れた場所には、灰原律。
怜一は壁にもたれ、腕を組んでいる。
十年前に死んだことにされた兄は、まるで昨日までそこにいたかのような顔で店内を見ていた。
だが、その目だけは違う。
長く逃げていた者の目。
長く追っていた者の目。
そして、長く誰にも信じられなかった者の目。
律は、王冠の入ったケースと玲央を交互に見ていた。
「本当に、これが青の王冠なんですね」
「少なくとも、そう呼ばれていたものです」
玲央は答えた。
「本物かどうかは?」
「これから見ます」
「十年前にも見たんですよね」
「ええ」
「そして、偽物だと言った」
玲央は頷いた。
「はい」
律はその答えを責めなかった。
もう責める段階ではない。
必要なのは、もう一度見ることだった。
怜一が口を開いた。
「白河は、玲央に中心の青を見せた」
玲央は兄を見る。
「兄さんは、知っていたんですね」
「知っていた」
「なぜ、止めなかったんです」
怜一はすぐには答えなかった。
その沈黙は、十年分の重さを持っていた。
「止めた」
やがて、彼は言った。
「でも、お前は聞かなかった」
玲央は黙った。
その通りだった。
白河を信じるな。
兄は、そう言っていた。
けれど当時の玲央には、その言葉が嫉妬に聞こえた。
兄は、自分が白河に選ばれたことを気に入らないのだと思っていた。
自分が見抜いた王冠の嘘を、兄は認めたくないのだと思っていた。
違った。
見抜いていなかったのは、玲央のほうだった。
「私は、白河さんを信じたかった」
玲央は静かに言った。
怜一は、少しだけ目を細めた。
「知っている」
「兄さんのことも、疑っていました」
「知っている」
「だから、謝るのが遅くなりました」
玲央は、深く頭を下げた。
「すみませんでした」
瑠璃窓の中に、沈黙が落ちた。
律は何も言わなかった。
怜一もすぐには答えなかった。
ただ、壁にもたれたまま、青い小窓を見上げた。
「十年は長い」
「はい」
「でも、謝られない十年よりはましだ」
玲央は顔を上げた。
怜一は笑っていなかった。
けれど、その言葉には少しだけ温度があった。
律が小さく息を吐いた。
「兄弟の再会としては、ずいぶん硬いですね」
怜一が律を見る。
「警察官が横にいれば、大抵の再会は硬くなる」
「それは失礼しました」
「謝らなくていい。必要な硬さだ」
律は少しだけ眉を上げた。
玲央は、ほんのわずかに笑った。
その瞬間、店の電話が鳴った。
古い固定電話。
三人の視線が同時に向かう。
玲央は受話器を取った。
「瑠璃窓です」
白河周吾の声がした。
「良い夜だね、玲央」
「白河さん」
「王冠は、よく似合っているかい。君の店に」
玲央は青い王冠を見た。
「ここは、私の店です」
「そう思わせたのは私だ」
「ええ。先ほど知りました」
「怒っているかな」
「いいえ」
電話の向こうで、白河が少し黙った。
玲央は続けた。
「今は、怒るよりも見たいんです」
「何を?」
「あなたが何を隠したのかを」
白河は楽しそうに笑った。
「良い目になった」
「あなたに褒められると、まだ少し気分が悪いですね」
「それでいい」
白河の声は穏やかだった。
恐ろしいほどに。
「店の外に警察がいる」
「ええ」
「灰原律くんもいるね」
律が顔を上げた。
玲央は答えない。
白河は続ける。
「そして怜一も」
怜一の表情が動いた。
「聞こえているかな、怜一」
玲央は受話器を少し離し、スピーカーにした。
怜一は電話を見た。
「聞こえている」
「懐かしいね」
「その声は、二度と聞きたくなかった」
「そう言いながら、君は十年も私を追った」
「追っていたんじゃない」
怜一の声は低かった。
「終わらせようとしていただけだ」
「君は昔から、言葉が硬い」
「あなたは昔から、言葉が柔らかすぎる」
白河は笑った。
「玲央よりも、君のほうが私をよく見ていた」
「だから消された」
「死んだことにしただけだよ」
「同じことだ」
「違うよ。死んでいないから、今こうして話せる」
玲央は、白河の声を聞きながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
この人は、本当に人を物語の登場人物として扱う。
死ですら、配置にすぎない。
失踪ですら、演出にすぎない。
苦しみですら、次の場面への伏線にすぎない。
律が静かに言った。
「白河周吾。あなたの居場所は特定中です」
「頑張りたまえ」
白河は軽く答えた。
「ただ、私を捕まえるより先に、その王冠を見たほうがいい」
「何を仕掛けたんです」
律が問う。
「仕掛けなどない。ただ、真実はいつも仕掛けに見える」
「詭弁ですね」
「君はまっすぐだね、灰原くん。だから玲央の横にいるにはちょうどいい」
律は不快そうに眉を寄せた。
「あなたに評価されたくありません」
「皆そう言う」
白河の声が、少しだけ低くなった。
「玲央」
「はい」
「君はもう一度、王冠を鑑定する」
「そのつもりです」
「今度は間違えないと?」
「間違えるかもしれません」
電話の向こうで、白河が黙った。
玲央は続けた。
「だから、ひとりでは見ません。灰原さんがいます。兄がいます。これまでの石が残した証言があります」
「美しくないな」
「ええ」
玲央は静かに言った。
「真実は、あなたの物語ほど美しくない」
白河は、小さく笑った。
「それでこそ、ようやく私から離れられる」
通話が切れた。
店内に、冷たい沈黙が戻る。
律はすぐに部下へ連絡を入れた。
通話の発信元の逆探知。
周辺の確認。
警戒の強化。
怜一は王冠を見つめていた。
「始めろ、玲央」
玲央は頷いた。
「はい」
彼は白い手袋をはめた。
黒い布の上に置かれた青の王冠。
十年前の自分は、中心のサファイアだけを見た。
青が不自然だと思った。
奥行きがないと思った。
天然石らしさがないと思った。
そして、偽物だと言った。
その証言が使われた。
今度は、中心だけを見ない。
玲央は、まず王冠全体を見た。
形。
重量感。
細工の流れ。
石の配置。
修復跡。
空白。
銀の蔓は、装飾のように見える。
だが、よく見ると、一定の流れを持っていた。
中心の青から外側へ。
外側から、また中心へ。
石をつなぐ線が、まるで地図のように絡んでいる。
「これは、装飾ではありません」
玲央は言った。
律がメモを取る。
「では?」
「経路です」
「経路?」
「石から石へ、線が流れている。目で追う順番がある」
怜一が頷く。
「それに気づいたのは榊未来だった」
玲央は王冠の周囲を見た。
サファイア。
ダイヤ。
ルビー。
アレキサンドライト。
オパール。
それぞれの石は、美しく並んでいるように見える。
だが、配置には偏りがある。
完全な左右対称ではない。
王冠としては、わずかに不安定。
十年前の玲央は、その不安定さを偽物の証拠だと思った。
本物の王冠なら、もっと整っているはずだと。
だが、違う。
不安定なのではない。
意図的にずらしてある。
「石の配置が、名前を示している」
律が言った。
「三鷹正臣さんの証言ですね」
「はい」
玲央は、王冠の内側を確認する。
小さな刻印。
H.C.
その横に、複数の管理番号。
0917。
1129。
0314。
0721。
そして、空白。
これまでの事件で見てきた数字が並んでいる。
婚約指輪。
ルビー。
アレキサンドライト。
ダイヤモンド。
すべて、ここへ戻っていた。
「やはり、各石は王冠から派生している」
律が言う。
玲央は頷く。
「王冠の石そのもの、あるいは王冠と同じ修復記録に紐づけられた石です」
「では、オパールは?」
「まだ見ます」
玲央はオパール部分にルーペを当てた。
乳白色の奥に、虹が浮かぶ。
これまで見たオパールの欠片とは、遊色の出方が違う。
だが、同じ母石から切り出された可能性はある。
「ここだけ、石が新しい」
玲央は言った。
律が顔を上げる。
「新しい?」
「他の石に比べて、枠への馴染み方が違います。爪の摩耗も浅い」
怜一が言う。
「そこが最後に入れ替えられた」
「誰が?」
律が問う。
怜一は答えない。
玲央はオパールを見つめた。
虹の石。
最後の余白。
白河は言った。
最後の余白だと。
つまり、オパールにはまだ埋まっていない何かがある。
玲央は、王冠を横から見た。
石座の下。
装飾の影。
そこに、わずかな隙間があった。
「外せます」
「オパールを?」
律が言う。
「ええ。ただし、慎重に」
怜一が言った。
「やれ」
玲央は兄を見る。
「いいんですか」
「白河が戻した王冠だ。綺麗に飾るためじゃない」
玲央は頷いた。
作業台のライトを落とし、手元だけを照らす。
ピンセット。
細い工具。
ルーペ。
王冠からオパールを外す。
爪をわずかに開き、石に負担をかけないよう、角度を調整する。
石が外れた。
その瞬間、石座の下から小さな金属板が見えた。
玲央は息を止めた。
金属板には、文字が刻まれている。
『Kuze』
久世。
瑠璃窓の前の所有者、久世澪子。
律が低く言う。
「久世澪子」
「白河の協力者だと、兄さんは言っていました」
怜一は頷く。
「だが、協力者というだけではない」
「何者です」
怜一は王冠を見る。
「青の王冠の、本当の保管者だ」
玲央は顔を上げた。
「保管者?」
「鳴海家でも、白河でも、灰崎でもない。王冠を実際に預かっていたのは久世澪子だった」
律が問う。
「なぜ骨董店の女主人が?」
「骨董店ではない」
怜一は言った。
「瑠璃窓の前身は、宝飾品と古物の保管庫だった。表向きは店。裏では、名義を出せない宝飾品の一時保管を請け負っていた」
玲央は、店内を見回した。
古い壁。
青い小窓。
ショーケース。
床板。
この店そのものが、保管庫だった。
宝石のための店ではない。
宝石を隠すための店。
「私は、その場所を知らずに受け継いだ」
玲央が言うと、怜一は頷いた。
「白河は、そうさせた」
「なぜ」
「王冠を戻すためだ」
律が眉を寄せる。
「どういうことですか」
怜一は玲央を見る。
「白河は、お前にもう一度王冠を鑑定させたかった」
「なぜ」
「十年前の証言を完成させるためだ」
玲央は黙った。
十年前、玲央は王冠を偽物だと言った。
今回、もう一度見て本物だと言えばどうなる。
過去の証言が割れる。
そして、その割れた証言の間に、白河は新しい物語を差し込む。
玲央は気づいた。
「白河さんは、私に訂正させたいのではない」
「そうだ」
怜一は言った。
「お前に、もう一度間違えさせたい」
律の顔が険しくなる。
「つまり、この王冠にも罠がある」
「当然ある」
怜一は王冠を見た。
「白河がそのまま本物を返すはずがない」
玲央は、外したオパールと王冠を見比べた。
罠。
何が罠か。
中心のサファイア。
周囲の石。
空白。
久世の名前。
どこまでが本物で、どこからが白河の演出か。
玲央は静かに息を吐いた。
「この王冠は、十年前のままではありません」
律が問う。
「どこが違うんです」
「オパールが新しい。金属板も後から入れられた可能性がある。つまり、白河さんは私たちに久世の名前を見つけさせた」
「久世澪子も罠?」
「いえ」
玲央は首を振った。
「名前は本物だと思います。だからこそ罠になります」
律が眉を寄せる。
「本物の情報を罠として使う」
「ええ」
「白河らしい、でしたね」
「はい」
玲央は王冠の内側に目を戻した。
久世。
瑠璃窓。
保管庫。
青い小窓。
これらは本物だ。
だが、それを見つける順番を白河が作っている。
なら、白河が見せたい答えに飛びついてはいけない。
空いている場所を見る。
石ではなく、空白。
玲央は再び王冠全体を見た。
オパールを外した跡。
久世の名前。
周囲の石。
そして、中心のサファイアを見ないようにした。
だが、視界の端に青が入る。
あまりにも強い青。
人の目を引きつける青。
十年前も同じだった。
だからこそ、玲央は気づく。
「中心のサファイアは、目くらましです」
律が顔を上げる。
「目くらまし?」
「青が強すぎる。大きすぎる。王冠の名前も、青の王冠。誰もが中心を見るように作られている」
「でも、中心は重要ではない?」
「重要です。だから見てはいけないのではなく、最後に見るべきです」
怜一が小さく頷いた。
「今なら見えるか」
玲央は答えず、王冠の裏側を見た。
中心石の裏。
石座の奥。
光を入れるための穴がある。
その穴の縁に、微細な傷があった。
十年前には気づかなかった。
いや、気づこうとしなかった。
玲央はライトを差し込んだ。
青いサファイアの裏側に、何かが映る。
石の内包物ではない。
金属の反射。
サファイアの下に、薄い鏡のような板が入っている。
「これは……」
律が近づく。
「何ですか」
「反射板です」
玲央は言った。
「サファイアをより深い青に見せるための」
「では、石の色は本来の色ではない?」
「少なくとも、見た目は加工されています」
「偽物ですか」
玲央は首を振った。
「まだです」
彼は慎重にライトの角度を変えた。
青い石の奥に、小さな気泡のようなものが見える。
だが、それは合成石の気泡ではない。
天然の内包物でもない。
サファイアの下に置かれた薄い反射板に刻まれた、微細な点。
点が並んでいる。
文字だ。
玲央は息を止めた。
「中心の青の下に、文字があります」
律がメモを取る手を止めた。
怜一も近づく。
玲央は読み取ろうとした。
点は、規則的に並んでいる。
普通の文字ではない。
点字のようでもあり、暗号のようでもある。
「読めますか」
律が聞く。
「今はまだ」
「外しますか」
「中心石を?」
玲央はサファイアを見た。
これを外せば、王冠の核心に触れる。
だが、白河の罠もそこにある。
怜一が言った。
「外せ」
玲央は兄を見る。
「白河は、私にこれを外させたいのかもしれません」
「なら、外させられた上で、間違えるな」
その言葉に、玲央は一瞬だけ黙った。
律が言う。
「慎重にやりましょう。記録を取りながら」
「はい」
玲央は白い手袋をはめ直した。
青の王冠。
中心のサファイア。
十年前、彼が見た青。
今、その青をもう一度外そうとしている。
手は震えていなかった。
不思議なほどに。
たぶん、もう一人で見ていないからだ。
律が横で記録している。
怜一が見ている。
玲央は、サファイアを留める爪に工具をかけた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
爪を少しずつ起こす。
石を傷つけないように。
台座を壊さないように。
そして、十年前の自分の視線に引きずられないように。
サファイアが、わずかに動いた。
そのとき、店の外で大きな音がした。
ガラスの割れる音。
律が即座に振り向く。
「外だ」
私服警官の声が飛ぶ。
怜一が扉へ向かう。
玲央は工具を置かず、サファイアを支えたまま止まった。
白河だ。
そう思った。
中心に触れようとした瞬間に、外を動かす。
注意を逸らすため。
作業を中断させるため。
あるいは、焦らせるため。
律が叫ぶ。
「水城さん、手を止めてください」
玲央は、青い石を見た。
動かしかけたサファイア。
その下にある反射板。
点の文字。
ここで止めれば、白河の思う通りかもしれない。
だが、急げば壊す。
玲央は深く息を吸った。
そして、工具をそっと置いた。
「止めます」
律が戻りかけて、少し驚いた顔をした。
玲央は言った。
「白河さんは、私に急がせたいんです」
怜一が扉の前で、ほんの少し笑った。
「少しは学んだな」
外の騒ぎは続いている。
だが玲央は、王冠から手を離した。
急がない。
中心の青に、飲み込まれない。
白河の物語に、乗らない。
そのとき、店の奥の電話が鳴った。
外の騒ぎとは対照的に、古いベルの音は規則正しかった。
玲央は受話器を取った。
白河周吾の声がした。
「なぜ止めた」
初めて、その声から笑みが消えていた。
玲央は静かに答えた。
「あなたが急がせたからです」
沈黙。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で、玲央にはわかった。
今度は間違えていない。
少なくとも、白河の思い通りには進んでいない。
白河は低く言った。
「やはり、怜一がいると厄介だ」
怜一が電話に向かって言う。
「最初からそう言っていただろう」
白河は笑わなかった。
「次は、私が行こう」
通話が切れた。
瑠璃窓の中に、青い沈黙が落ちる。
律が外の状況を確認するため、無線で指示を出している。
怜一は扉の前に立ち、外を警戒している。
玲央は黒い布の上の王冠を見た。
サファイアは、まだ完全には外れていない。
中心の青は、静かに光っている。
その下には、まだ読まれていない文字がある。
そして白河が、来る。
玲央はゆっくりと手袋を外した。
鑑定は、まだ終わっていない。
けれど、十年前とは違う。
今度は、中心の青だけを見てはいない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
青の王冠が戻り、玲央はついに十年前の証言と向き合い始めました。
しかし、白河周吾はまだ鑑定そのものを操ろうとしています。
次回、白河本人が瑠璃窓に現れます。
玲央は中心の青の下に隠された文字を読むことができるのか。




