第8節:夢幻の世界
次の日、図書館への訪問は諦めざるを得なかった。夜明け前から、風の龍がカウスメディアの街の中を吹き荒れていたからである。
風の龍――それは、神説典の言う大気上層の気流のことであった。雲の天蓋を破り、主の領域を犯そうとする者を見張る天の守護獣。それは、古代の壁画に描かれているような、漆黒の翼と真紅の双眸、それに青銅の牙を持った生物ではなかったが、それが一度地上に降りたなら、その凄まじい破壊力は怒り狂う巨龍の姿を想像するのに難くなかった。気流がよく地表近くを流れる――人はそれを龍の降天と呼んだが――春先や夏の終わりには、人はできる限り外出を控えているのだった。
その風の龍の中でも、『黒鱗』と呼ばれる龍の王は、とりわけ人々から恐れられる存在であった。渦巻く雲の天蓋から、百の『電龍』を引き連れて、地表へと舞い降りるその姿は、我々浅はかな人間達が唯一見ることのできる主の忠実なる下僕、黒き怒りの使者であった。
降天した龍の王は、人が築いたあらゆる建造物を根こそぎ引き抜き、天に持ち上げ、そして大地へと叩きつけた。人は『黒鱗』が天に戻ってくれるのを、暗い地下室の中でひたすら祈るしかなかった。彼に逆らうこと――それは、絶対なる死を意味していた。
神説典にはこうある。昔、ザムリアの首都ザレムに偉大な王がいた。彼は、自分の持つ富と権力とで、主の地平を目指そうと思い立ち、全国民に命じて、雲の天蓋へとつながる巨大な架け橋をつくらせた。これがかの有名なザレムの架け橋である。この王の自らを弁えない不遜な態度に主は怒り、風の龍『嵐牙』を地上へと送った。しかし『嵐牙』は、ザレムの北五千リルにそびえる霊峰ハダルに阻まれ、この架け橋を破壊することができなかった。人は、それを見て大いに笑った。主の力とはこんなものかと。……十年の歳月をかけて、架け橋があとわずかで天蓋に届くというところまで達した時、主はこの時とばかりに、黒き龍王『黒鱗』を地上へと遣わした。『黒鱗』は、十日間地上を思うままに暴れ回り、この人間の愚かさが築き上げたザレムの架け橋を、ハダル山もろとも完全に破壊し尽くした。王は、その時橋に押し潰されて亡くなったが、主の怒りはそれだけでは収まらなかった。主は、風の龍の中でも最も速く飛べる『真空刃』に命じて、地上のすべての人間の女に、ある呪いをかけさせた。それは、かつて人間が主の宮殿から盗んだ『知』と『理』、更には本来持っていた『力』に対する一種の封印であった。それ以来、人は『知』『理』『力』を持ちながら、それを使えない状態で生まれてくるようになり、親達はその封印を解いてやらなければならないようになった。こうして人は、人生の半分を『学ぶ』ことに、そして残りの半分は、親として子を『育てる』ことに費やされ、二度とザレムの架け橋の建設のような、全人類による大事業を行うことはできなくなったという……
橋脚の高さが三千リルもあったというザレムの架け橋が実在したとは信じ難いが、その巨大な架け橋を、『黒鱗』がいとも簡単に粉砕したというのは、あり得ない話ではなかった。事実、ハダル山の頂上は打ち砕かれ、その中央は龍が通過したように深く抉られているのが、ここカウスメディアからでも見ることができる。あの不浄の地を探検したというイザル=ムフリッドが書いた禁書『愚かさの砂』の中にも、異国ベル・ロニアの軍艦『ツァフィア』号が、海から八千リルも離れた不浄の地の丘に突き刺さっているのを見たという記述があった。『黒鱗』の力とは、それほど凄まじいものなのである。彼に較べれば、今日の『嵐牙』などそよ風に等しかった。
しかし、近年になって、風の龍の思いがけない降天が目立って増えている。今日にしても、龍の降天の季節は既に過ぎているはずであった。この気まぐれな降天によって、ここカウスメディアでは、今年に入ってから既に三十人もの人が命を落としていた。教会では、終末の日が近付いているとして、人々に日々の生活を悔い改めるよう、警鐘を鳴らしている。『恐怖の大魔王ダイリット・サールが空からやってくる時、世界は崩壊する』――これが、彼らが好んで引用する神説典の一文であった。聖摂院の救済札なるものが売れているのも、終末の日に対する恐怖故であるのだろう。大司教の話では、その札を身につけていれば、終末の日が来ても主が大魔王から救ってくれるという。しかし、それを手に入れるには決して少なくない布施が必要であった。所詮、一般の民衆には無理な話だろう。つまるところ、主は富める者しか救ってはくれないらしい。そして、集まった布施はと言えば、司祭達の贅に費やされるのだ。一体、生活を悔い改めなければならないのは誰なのだろうか。こんな聖職者達の堕落の陰で、噂では、魔王ダイリット・サールを崇拝する暗黒教団なるものも、密かに結成されているらしい。また一方では、一部の狂気じみた主への帰依者達が『救世団』を名乗り、天誅と称して、主への信仰が足りないと判断した人物を殺害するという事件まで起こっていた。本当に、終末の日が近いのかも知れない。
しかし、私は終末の日にも、恐怖の大魔王にも興味はなかった。永遠の繁栄を誇る文明など存在し得ない。神説典にある『最初の都』も、ザムレアも、栄華を極めたのはほんの一時であった。不朽の都という意味を持つこのカウスメディアの街も、時が来れば、砂に埋もれる廃墟となるであろう。それは抗いようのないことであり、運命として受け入れるほかはない。問題は、その終末の日までに、どう『生』を生きるかということであった。すべてが塵と消えるなら、どんな偉業も空しい幻でしかない――そう思うのは一つの考え方であろう。しかし私は、人として生まれた以上、人は最期まで人として生きるべきだと考えていた。
『嵐牙』が風戸を震わす寝室のベッドの中で、私は一睡もしないまま朝を迎えていた。それは、風の龍への恐怖のためでも、世界の終末の前兆への不安のためでもなかった。昨夜のことが、頭から離れなかったのである。クリスの瞳に宿る悲しみの光の正体を知ったのももちろんのことだったが、それに加えて、私は博士の部屋に、心を奪われるあるものを見たのであった。
* * *
「……彼女は……クリスは、幼い頃に両親を亡くしているんだ。はやり病でね……」
ソファーに横たわった博士は、そんなことを言い始めた。
「……その時、兄のネイドはちょうど十五歳を迎えたばかりだった……医者に見放された両親のために、彼は司祭に頼んで、主に祈りを捧げてもらうことにしたのだよ。……しかし、やってきた司祭は、布施として彼から持てる財産のすべてを巻き上げると、祈ることもなく姿を消してしまった。……結局、両親は苦しんだ末に亡くなり、ネイドとクリスは無一文で俗世間へと投げ出されることになってしまった。その時、彼は確信したそうだ。この世に主などいはしないのだと……。
私が彼と出会ったのは、博学会の大講堂の前だった。ちょうどお昼時で、外壁の修理に来ていたネイドは、正面入り口前の階段に腰を下ろし、昼食を包んでいた新聞紙で『紙の鳥』を作っていた。その紙の鳥が、私の足元へと飛んできた。その頃、私は既に昇空機の研究を始めていたから、彼の飛ばした紙の鳥の欠点はすぐにわかった。私はそれを折り直すと、彼に向かって投げ返した。紙の鳥は、彼の頭上を越えて噴水の中へと落ちた。ネイドはあっけにとられていた。そして言った。『紙に命が宿ったようだ』と……」
博士が見つめる虚空には、その時の光景が浮かんでいるようであった。
「その後も、私はしばしば彼と会った。そしてそのうち、彼の身の上話を聞き、そのために高等院に行けなかったと知って、私は一冊の本を貸してやった。それが、ガウゼ=リュードベルの『数学における真理の力』だった。……次の日、大講堂の前で私を見かけると、彼は目を輝かせて駆け寄ってきた。『博士、数学って素晴らしいですね!』――それが、彼の素直な感想だった。数字は絶対に人を裏切らない――そのことが彼を感動させたようだった。
やがて、私の密かな研究が、熱機関の共同研究者だったベルンケット=アルスハイルの知るところとなり、我々は喧嘩別れした。その帰り、ネイドと会った私は、昇空機の研究をすべて打ち明けた上で、こう誘った。『私の助手にならないかね?』と……彼は力強く頷いてくれたよ。そんなことはまったく構わないと言ってね。それが重大な過ちであることに、私は気付くはずもなかった。彼にとって、空を飛ぶということは、純粋な鳥への憧れではなく、神説典の理を犯すということ――つまり、主や教会に対する復讐だったのだよ。彼のその野望を知らぬまま、私は五年間、彼とともに研究を続けた。その間には、いろいろなことがあった。……ガイルも死んだ……
しかし、とにかく、我々は昇空機の第一号を完成させた。我々はそれを『グラフィアス』号と名付けた。そして、最初の飛行実験の時、昇空機にはネイドが乗り込んだ。エンジン音とともに、プロペラが大気を撹祥し、グラフィアス号は助走路の上を滑り出した。そして、加速した八百ガールの鉄の機体は、巨大な場力を得て風に乗った。グラフィアス号は飛んだ! エンジンとプロペラだけの力で! すべては完璧だった。そこまでは……
だが、ネイドは上昇を止めなかった。彼は一直線に雲の天蓋を目指していた! 私は、届くはずもない制止の声を張り上げた。だが、次の瞬間、風の龍が牙を剥いた。伝説の銀の鳥は、その翼をもがれて宙に舞った。なす術もなく……。私は、それが地面に叩きつけられるまで、ただ呆然と見つめているしかなかった……
私はネイドを見殺しにしたのと同じだった! そう、あの時、私が乗るべきだったのだ! 私にとってはほんの試みに過ぎなかったその実験が、彼にとっては最大の挑戦だったのだ! 主に対する挑戦だったのだよ!」
節くれだった手が、深く皺の刻み込まれた博士の顔面を覆った。
長い沈黙の後、博士はゆっくりと口を開いた。
「……翌日、私は自ら博学会を辞めた。もう研究を続ける訳には行かなかった。それは、私自身の問題だった。……やがて、街はずれにある図書館で館長を探していると聞いて、私は足を運んだ。そして、たった一人の肉親をも失ってしまったクリスを、館員として引き取ることにしたのだよ……」
天井を見つめたまま話す博士の言葉を、私は椅子に腰掛けて聞いていた。そして考えた。時折見せるクリスの瞳の翳りには、そんな意味が隠されていたのかと……。それは、死んだ恋人を待つカーヴィルアリスの瞳以上に、深い悲しみに満ちていてもおかしくはないのだと……。
そして、あの時彼女が言った『私なんかはとても....』という言葉の意味を、私は知ったような気がした。彼女もまた、兄のネイドと同じように、主への復讐を誓っているのかも知れない。彼女が私の考えに共感したのは、彼女が、主によって両親を奪われているからであり、だからこそ、彼女は主を信じてはいないのだ。
しかし私は、健気でひたむきな彼女が、心の裡に主への憎しみを秘めているという考えに、激しい拒絶を抱いていた。それは、『ふさわしくない』という程度の問題ではなかった。その二つは相容れないものであって、その共存は間違いにほかならない。心がそう叫ぶのを、私は認識していた。
「……それからしばらくして、夜ごと夢の中にネイドが出てくるようになった。苦しんだよ。私は夢の中で何度も謝った。しかし、同時に私は心のどこかでホッとしていた。彼が夢に出てくるということは、私がそれだけ彼のことを気にかけているという証しだったからだ。夢の中の彼は、いつも微笑んでいた。そしてこう言うんだ。『大丈夫ですよ、博士。明日です』 彼は出てくる度にそう言った。明日、どうなのか? しかし、その問いに彼は答えてはくれなかった。……ところがだ、ある日、彼は違うことを言った。『大丈夫ですよ、博士。今日です』……私は跳び起きた。彼は確かに『今日』と言った。今日、何かが起こるのか?……そう、そして確かにそれは起こった。それが、君が初めて図書館を訪れた日なのだよ……」
博士は、虚ろな目で私の顔を見た。
「君が書庫で『研究の手伝いをさせて下さい』と言った時、私は心底驚いたよ。そして悟った。ネイドが言っていたのはこのことだったのだと……。その時、既に答えは決まっていたのかも知れない。……ただ、私は同じ過ちを二度も繰り返す訳には行かなかった。ネイドのことがあるまでは、私は自分の昇空機は大丈夫だと思っていた。ガイルが亡くなったのは、彼の滑空機が風の力に頼っていたからだと……。しかし、現実は甘くはなかった。空を飛ぶということは、一歩間違えば死に等しいことなのだということを、私は痛感させられた。そんなことに、クロネッカ家のたった一人の後継ぎである君を巻き込んでもよいものだろうか。しかし、君は極めて情熱的だった。君も主を信じてはいなかったが……ネイドのように、主を……恨んでいる訳では……なかった。……だから私は……君を信じたのだよ。……私は……君に感謝して……いる……」
言葉が途切れた。博士は眠りに落ちたようだった。頬のこけたその寝顔を、私はしばらく見つめていた。
言いようのない思いが胸を満たした。それは、私のことを気遣ってくれた博士に対する単なる嬉しさとか、喜びとかいうものではなかった。苦しんだ博士への同情ももちろんあったが、やはりそれだけではなかった。何と言ったらわかってもらえるだろうか。……そう、それは幼い頃、若いメイドが行水している姿を偶然見てしまった時の気持ちに似ているかも知れない。妙な例えだが、人の本心を聞くというのは、同時にそんな罪悪感を伴うものではないのだろうか。果たして、自分にはそれを聞く資格があるのだろうかという……
ふと、眼鏡に気付いた私は、博士の耳からそれをはずすと、毛布をかけようと部屋を見回した。クリスが入っていったドアと反対側に、博士の寝室らしいドアが見つかった。私はそれを開けた。
薄暗い寝室には、リビングからの光が差し込んで、戸口に立つ私の長い影が映し出されていた。中には、ベッドとタンスがあるだけだった。――私は始め、そう思った。一歩踏み込んで、しかし、私はそうではないことに気が付いた。ハッとして、私は天井を見上げた。そこには、リビングと同じように、ヒビ割れと大きなシミがあったのだろうが、そんなものは目に入らなかった。寝室の天井を埋め尽くしていたもの――それは、昇空機の模型の群れであった!
ドアを開けたせいで起こった風で、昇空機達は薄明かりの中、かすかに機体を震わした。その揺らめく影が天井一面に広がって作り出された、何とも形容し難い光景に、私は完全に心を奪われていた。
昇空機の種類は、一つではなかった。プロペラが機首についたもの、後部についたもの、あるいは翼端に二つついたもの。方向舵にしても、翼の前や後ろ、付け根や両端についたものなど、それは様々な模型が、天井から吊り下げてあった。博士が試行錯誤の結果生み出した、それは人工の鳥達であった。石油を燃やすエンジンの力でプロペラを回し、自ら風を起こしてその上に乗る、人間の忠実なる下僕――鉄の心臓とオイルの血を持った鋼の鳥であった。
部屋の中央には、とりわけ大きな模型が吊してあった。その銀色に塗られた翼には、『グラフィアス』の文字が刻まれていた。私はゆっくりとそれに近付いた。ちょうど人参を横にしたような機体は、茎の根元にあたる部分にプロペラが取り付けられ、鋭く尖った機首には、逆T字形に昇降舵と方向舵が張り出していた。そして、左右に広がった巨大な二枚の主翼――
グラフィアス――主の御声を万民に伝える伝説の銀の巨鳥。天井から吊られたその機体は、姿こそ違ったが、まさにグラフィアスの名にふさわしかった。……これに、クリスの兄は乗ったのか……そして彼は飛んだ。……結果として彼は亡くなったが、彼は確かに重力の束縛を逃れたのだ。ハルペルドが発見して以来、誰も自力で打ち破ったことのない、主がつくった力の檻を……
博士は言った。空を飛ぶことは、一歩間違えば死に等しいことなのだと……しかし、例え命を賭けてでも、私は昇空機で天を目指したい。銀色に輝く翼で、雲の天蓋の向こうに広がる世界を見てみたい。そう思った。
それは、主に対する挑戦ではなかった。いや、それ以前に、主が存在するか否かなどという問題すら、今は思考の外にあった。空を飛びたい――その強烈な欲求だけが、私の中に溢れていた。そして、それはすぐそこにある! 私は手を伸ばして、グラフィアス号の翼に触れた。この翼が、私の想いを満たしてくれる。指先から伝わる冷ややかな感触と共に、感慨は広がっていった。空を飛ぶこと――それが、私の唯一の夢だったのだから……
私は、古びた家の一室の、ひび割れた天井に広がる夢幻の世界に、時間を忘れて魅入っていた……




