第7節:告白
店の中では、ジーナの主人、ニールが既に掃除を始めていた。眼鏡をかけた痩せぎすの彼は、ダビーの塩焼き定食を持ってきてくれた。博士が我々を紹介したが、彼は一言も口をきかず終始仏頂面だった。博士に言わせると、自分を表現するのが下手な人物なのだそうだ。
博士はテーブルに俯せて、ゴウゴウと鼾をかいていた。私もかなり酔っていたが、まだ何とか正気を保っていた。
「博士、もう閉店ですって……」
クリスが肩を揺すったが、博士は起きそうになかった。
「……博士、よっぽど嬉しかったんだろうね……」
気が付くと、テーブルの脇にはジーナが立っていた。
「嬉しかった?」
私は尋ねた。
「ああ……以前は、よくこうして朝まで呑み明かしていたんだけどね、弟子のネイドさんて人と……あの頃は二人とも楽しそうだった……」
ジーナは遠くを見る目付きになっていた。この時、クリスの顔がかすかに強張ったことに、私は気付いていなかった。
「……けど、あの事があって以来、博士、すっかり塞ぎ込んじまってねぇ……毎日晩酌には来てたんだけど、カウンターの隅で背中丸めてコップの酒すすってる博士見てると居た堪れなくって……あんた達が来てくれてほんとよかった。これからも、博士のことよろしく頼んだよ」
ジーナは私の手を取ると、しっかりと握りしめた。
* * *
戊の月の夜風は、火照った肌に心地よかった。私は酔いつぶれた博士を背負って、人通りのまばらになったイオ・テリオ通りを西へと歩いていた。
「……公爵様って、やっぱりご立派な方なんですね……」
不意に、隣を歩いていたクリスが言った。
「あんなに素晴らしいお考えをお持ちになっているなんて……」
何のことかわからず、私は怪訝な顔で、彼女を見つめた。
「……偏狭な心の持ち主か、倣慢な支配者のお話です」
それが、私が言った主に対する批判だとわかるまでに、しばらくの時間がかかった。それに気付いた時 、私は内心舌打ちしていた。博士が、主の存在を肯定するような立場で話していたのは、私の否定論がどの程度論理的かを試すためだったのだろう。しかし、クリスはどうか? 博士の図書館で働いているからといって、彼女が無神論者であるという根拠にはならない。私は今更ながらに、『クルシア』での不用意な発言を後悔していた。自分の考えに後ろめたさはなかったが、クリスが主の信者であれば、彼女の信仰心をいたく傷つけたことは間違いなかった。
「ああ!……あれは……その……単なる例えさ!」
その取り繕い方は、自分でもそれとわかるほど不自然であった。
「私、お話を聞いていて、なるほど!って思いました。確かに、公爵様のおっしゃる通りだなって……」
……彼女は本当にそう思っているの だろうか?……しかし、自分の感情を押し殺してでもおもねられるほど器用な子ではないことはよくわかっていた。街の灯のせいばかりではない。私の顔を見るクリスの瞳は、不思議なほどよく輝いていた。
「……しかし、博士の一言で、僕の考えは足元から崩れてしまったよ」
あの後、博士はこう言った。ラスティ君、確かに君の意見は、主の存在に疑問を投げかけることには一応成功している。しかし、君の言うことを、主が存在しないことの根拠とするには不十分過ぎるね。君は、『主は存在しないかも知れない』と言っているに過ぎないのだ。
「でも、そんなお考えをお持ちになるだけでも素晴らしいと思います」
微笑むクリスの顔を、私は見つめた。
君は――そう言いかけてから、私は思い直した。
「君も、主を信じていないのかい?……」
私の問いに、クリスはわずかに顔色を変えた。
「……私ですか……」
目を伏せる彼女の横顔を、私は不思議な気持ちで見つめていた。その沈黙にはどんな意味があったのだろうか。ただ、かすかに震える彼女の睫毛は、私に伝説の中の少女カーヴィルアリスを思い起こさせた。既に亡くなった愛しい人を待ち続け、遂には水辺に咲くカリビアの花になってしまった乙女カーヴィルアリス……クリスのソバカスのある小さな顔は、カルキス一の美人と謳われたカーヴィルアリスほど端麗とは言えないかも知れないが、そのひたむきさ、そして時折見せる悲しげなまなざしは、花になった悲劇の少女に通じるものがあるのだろうか……
ふと我に返った私は、博士を背負い直すと言った。
「……僕は、君が思っているほど立派な考えを持っている訳じゃないよ」
「いえ、そんなことはありません!」
顔を上げるとすかさず反論したクリスに、私は苦笑した。
「居酒屋で僕が話したことは、すべて詭弁なのかも知れない。本当のところ、僕は主が存在するか否かなんかに興味なんてないんだ……」
「えっ?!……」
クリスは驚いたようであった。
「小さい頃、僕は病弱でね……よく医者にかかっていた。僕の両親は、僕が大人になるまで生きられないのではないかってかなり心を痛めていたそうだよ……。寝室のベッドから、僕は毎日窓の外を眺めてばかりいた。乳白色の雲の天蓋は退屈極まりない風景だったが、時々飛んでくる鳩の姿に、僕は心を躍らせた……」
私は空を見上げた。雲の天蓋は、いつもと変わることなく世界を覆っていた。
「その時思ったんだ。鳥のように自由に空を飛べたなら、どんなにか素晴らしいことだろうと……いかなるものにも束縛されずに自由に空を舞う鳥の姿は、ほとんど寝たきりだった僕にとっては憧れだった……」
「……公爵様……」
「ある日、爺やに言ったことがある。鳥のように空を飛んでみたいってね。すると、爺やはこう言った。いけません、坊っちゃま。人間が空に昇ることは、神様がお許しになりません。僕は尋ねた。どうしてそんなことがわかるのかって……爺やの答えは、神説典にそう書いてあります、ということだった。それから僕は神説典を読み始めた。そうして僕が得たものは、納得ではなく疑問だった。数千年前の人間が犯した罪は、僕には何の関係もない。それでも、主は僕のことをお怒りになるのだろうか?……安息日に初めて教会に行った僕は、それを司祭に尋ねたんだ。……後で母が嘆いていたのを覚えている。この子が病弱なのは、主への信仰心が足りないからだってね……」
私は笑った。しかし、クリスは眉根を寄せて私の話を聞いていた。
「それからも、家に閉じこもりがちだった僕は、本の虫になっていった。父は諮問会の委員長をしていたからね、家の書斎には、禁書に指定された書物も含めて、どんなに読んでも読み切れないほどの本があった。僕はそこで、ユーロス=ハルペルドや、アルナ=オートリュースや、ネック=ゲルディや……それからガウゼ=リュードベルを知った。そして思った。科学とは、こんなにも単純明快で確実なものかと……神説典の主の意志とは大違いだった。主は、気まぐれで容赦がなく、いつでも驕慢だったから……」
「……そうですね……」
遠い目付きで、クリスは呟いた。
「僕は、鳥への憧れをいろいろな人に話してみた。しかし、話す度に、僕は忠告や、非難や、時には罵倒さえ浴びた。彼らは口を揃えてこう言った。そんなことは主がお許しにならない、と……。でも、たとえ主が許さなくとも、一足す一は二なのであり、重力はすべてのものに例外なくはたらいているのだ……こうして僕は、神説典を疑い、科学を信じるようになっていった。そのうち、医者の予想を裏切って、僕は無事修学院を卒業するような歳にまでなった。信心深い母は、僕が十四の時に亡くなったが……」
ファステリオルの花に包まれた、母のロウのような蒼い肌がふと思い出されて、私は口の中に広がった苦味をグッと噛み締めた。
「……そして僕は、ガリオネッティ博士の本に出会った。『鳥の栄光と大気の技』……感動したよ、自分と同じ考えを持つ人がいるとわかって……。そして僕は確信を持った。自分は間違っていなかったと。そんな時、父が倒れた。父は、死ぬ間際にこう言い残した。『自分は、古きことに身を縛られて、新しきことを為す勇気がなかった。お前は、私の代わりに何事か思うことを為せ。』 しかし、それまでの僕にも実践などなかった。僕の知識は、すべて本から得たものでしかない。では、何を為すべきか?……それが、博士の言う昇空機の実現だった……」
私は息をついた。
「僕が空を飛びたいのは、そこに空があり、僕が飛びたいと望むからであり、主の存在を否定したいためでも、信者の鼻を明かしたいためでもない……僕が主を信じないのは、それが執拗に僕の夢の実現を阻もうとするからに過ぎないんだ。もしも、科学と神説典のとる立場が逆だったとしたら、僕は主を信じたかも知れない……」
私達はアジェナ通りへと曲がっていた。人通りはグッと少なくなった。道端のゴミ箱を野良犬が漁っていた。
しばらくの沈黙の後、クリスはポツリと言った。
「やっぱり、公爵様はご立派なお方なんですね……私なんかはとても……」
悲しげに目を伏せる彼女の表情に、私は戸惑った。……また何かまずいことを言ったのだろうか? 私なんかはとても――どうだと言いたかったのだろう?……
「……君は、どうして博士のところへ?……」
「えっ?!」
何気ない問いのつもりだった私の言葉に、クリスはハッとしたように瞳を見開いた。
「……私ですか?……私は……」
掠れたような声で言った彼女の鳶色の瞳に、みるみるうちに透き通る涙が溢れていくのを見て、私は焦った。……また泣かせてしまう!……
「ごめん、クリス! 何か悪いことを訊いてしまって……本当、ごめん!」
頭を下げる私に、クリスは慌てて涙を拭った。
「そんな! 頭をお上げ下さい。私は平気ですから!……」
「いや、でも?!……」
「……私、泣き上戸なんです……」
気にかける私に、彼女は微笑んでみせた。しかし、それはいつかの屈託のない笑顔には程遠かった。無理をしているな……私は思った。この少女には何かある。それが、時々堪え切れない悲しみとなって、その小さな顔を曇らせているのだろう……
「……着きました……」
図書館の裏手にある路地の一角で立ち止まった私達の目の前には、壁にヒビの入った古い平屋が建っていた。博士とクリスの住まいであった。
「公爵様にお見せできるようなところではないのですが……」
クリスは煤けたドアの鍵を開けた。暗い部屋へと入った彼女が、手探りで傘のついた電球をつけると、そこにはほぼ五リル四方の質素な空間が広がった。おそらくはリビングなのだろうが、ツギのある色あせたソファーと、テーブル、それに背もたれを補強してある椅子が二脚の他には、特にこれといったものなどなかった。壁紙も貼られてはおらず、黒っぽい壁板が剥き出しになっていた。
「……おや、ここはうちじゃないか?……」
背中で、博士が呻くように言った。
「気付かれましたか?」
「おお、ラスティ君、済まんな……」
頭を回した私に、博士は虚ろな目で答えた。
「……どうぞこちらへ……」
クリスに言われて、私は博士をソファーへと寝かせた。彼女は、申し訳程度の小さな流し台へと立つと、キイキイと悲鳴を上げる蛇口から水を汲んで、リビングへ戻ってきた。その間、博士は、ヒビが入り、雨漏りの染みが奇怪な模様を作り出している天井を、半聞きの瞳で呆然と見つめていた。
「はい、博士、お水です……」
クリスがグラスを差し出すと、博士は喉を鳴らしてその水を飲み干した。
「……ありがとう……もういいよ、君は休みたまえ……」
「えっ、でも……」
博士は言ったが、クリスはチラリと私の顔を見た。
「では博士、私もそろそろ……」
ソファーのそばから立ち上がろうとした私を、博士は引き留めた。
「……ラスティ君、君には話がある……」
その一言で、クリスはすべてを察したようであった。
「……それじゃあ、私は先に休ませて頂きます。公爵様、お休みなさいませ……」
「ああ、おやすみ……」
彼女は頭を下げると、隣の部屋へと入っていった。
私は椅子へと腰を下ろして博士の言葉を待った。彼女が入った部屋のドアをしばらく見つめていた博士は、やがて深く息をついた。
「……あの子は、いい子だよ……」
呟くように博士は言った。
「真面目で、ひたむきで、察しがよくて……それに向上心もある。あんな子は滅多にいるものじゃない……」
そう、確かに博士の言う通りであった。しかし、クリスには陰がある。彼女を悲しませるものとは一体?……
博士は、眉間に皺を寄せて目を閉じた。
「……あの事さえなければ、あんな子を苦しめずに済んだものを……」
……あの事?……そういえば、『クルシア』のおかみジーナも、そんなことを言っていたはずであった。
「……博士、よろしければ教えて下さい。あの事とは何なのですか?……」
ソファーに横たわった博士の赤らんだ顔が、苦悶に歪んだ。
「……五年前、私は昇空機の実験中に、誤って助手のネイドという青年を死なせてしまった!……それがクリスの兄なのだ!」




