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第6節:麦酒と信仰

 イオ・テリオ通りにある旧バール劇場の角を少し奥に入ったところに、その『クルシア』という場末の居酒屋はあった。

 立て付けの悪い入口を開けると、中は仕事上がりの鉄工所の作業員達でごった返していた。その歓声と罵声と紫煙が渦巻く店内へと、博士は何のためらいもなしに入っていった。

 私は、入口でしばらく呆然と立ち尽くした。これが庶民の生活の場か……私はすっかり面食らっていた。こんな場面は、小説では何度か読んだことがあった。しかし、現実は、貴族である私の想像を遥かに上回っていた。やはり、想像というものは、経験することには遠く及ばないものなのだと、私は妙なところで納得した。

 クリスはというと、貴族ではない彼女にしても、店内の様子にすっかり怯えて、私の背中に身を隠してしまっていた。無理もない。毛むくじゃらの屈強な男達が、シャツ一枚という格好でそこら中に腰掛けているのだ。十五、六の少女には刺激が強すぎる場所であった。博士もとんでもないところを選んだものだと、私は肩をすくめた。

 店の中から不思議そうな目を向けている博士に気付いて、私はクリスの肩に手を回すと、ゆっくりと歩き出した。彼女は一瞬体を強張らせたが、さすがに今度は跳び退くことはしなかった。私は彼女の身を庇うようにしながら、博士の後へと続いた。

「あれ? よう、博士じゃねえか!」

 あるテーブルの横を通り過ぎようとした時に、一人の作業員が博士の姿に気付いた。

「え? 博士だって?!」

「本当だ、博士がお出ましになったぞ!」

「博士だ! 博士だ!」

 店中の野性的な瞳――と形容しておこう――が、一斉に我々に向けられた。

「一体どうしてたんだよ、博士。随分な御無沙汰じゃねえか!」

 最初に声を上げた作業員は、黒い口髭の中から真っ白な歯を覗かせて立ち上がった。まさに熊のような巨躯であった。クリスは、思わず私の上着にしがみついていた。彼は丸太のような腕で、壊れるのではないかと思うくらい、博士の背中を強く叩いた。

「ジャバ、相変わらずだな……」

 前にのめりそうになりながら、博士は苦笑した。他の作業員達も、ぞろぞろと我々の周りに集まり始めていた。

 ジャバという作業員は、私へと目を移した。

「おっ、こちらは……新しいお弟子さんかい?」

 ……新しい弟子?……私がそう思った時であった。

「はい、どいたどいた!」

 作業員達を押し退けて、立派な体格をした御婦人がやってきた。

「まあ博士、いらっしゃい! しばらく御無沙汰でしたこと。さあさあ、どうぞ奥へ!」

 博士の腕をとると、彼女はぐいぐいと引っ張っていった。私とクリスはその後に続いた。

「ほらジャバ、邪魔だよ! お前さんはお呼びじゃないんだからね。あんた達もだよ!……全く、お嬢さんが怯えちまってるじゃないか」

「ああ。わかったよ、ジーナ……」

 彼女に言われると、作業員達は素直に道をあけた。彼らでも、この御婦人には逆らえないらしい。確かに――その体格からも、彼女の腕っ節の強さは窺い知れた。

 我々は、奥まった一室へと通された。小さめだが、こぎれいな部屋であった。テーブルの上には、白い花瓶に数本のカリビアの花が差してあった。おそらく、予約席であることの目印なのだろう。カリビアの花言葉は『いつまでもあなたをお待ちしています』のはずだから……店の主人も粋なことをするものだと、私は一人微笑んだ。

 腰を下ろすと、博士は婦人に顔を向けた。

「ジーナ、紹介するよ。こちらは私の新しい友人、ラスティリアード=ヴァリス君にクリス君だ……こちらはこの店のおかみ、ジーナ=ギリエール」

「初めまして。ラスティリアードといいます。どうぞよろしく」

 私は頭を下げた。博士が、気を遣って私の姓までは言わなかったのを、私は本当にありがたく思った。

「こちらこそよろしく。……へえ、そうかい。今度のお弟子さんは似合いの若夫婦だね!」

 博士がクリスの姓を言わなかったため、ジーナは『クリス=ヴァリス』とでも思ったらしかった。

「そうですか?」

 否定することもできたが、私は適当に調子を合わせておくことにした。私のその受け答えに、クリスは何も言い出せず、真っ赤になって顔を伏せてしまった。この時、私は、博士がクリスの姓を言わなかった理由を深く考えてはいなかった。

「……取り敢えず麦酒を二本、それから焼き蜥蜴ももらおうか……君らは何にするね?」

 博士は、渡されたタオルで手を拭きながら尋ねた。私は、テーブルの上に置かれたメニューを覗き込んだが、予想した通り、知っている料理の名前は一つも見つけることができなかった。

 メニューを相手に考え込む私に、博士は助け舟を出した。

「ここはダビーの塩焼き定食がおいしいんだよ。それにしたらどうかね?」

 私は頷くしかなかった。結局、クリスも同じものを頼んだ。

 注文を取ったジーナがカウンターの方に立ち去ると、博士は笑った。

「うっかりしていたよ。ラスティ君は、こういうところは初めてだったんだな?」

「……ええ……」

 苦笑いしながら私は言った。それはクリスにしても同じことだっただろう。

「……済まんな、つい以前の癖でね……」

 その時、博士の灰色の瞳は不意に翳った。それはほんの一瞬だったが、私には何故かそれが気になった。

 やがて、ジーナが麦酒の大瓶とグラスを持ってきた。麦酒を注いだ私とクリスは、期待のまなざしで博士を見つめた。うむ、と頷くと、博士はグラスを掲げた。

「では、我々の主をも恐れぬ研究の再開と、その成功を願って……」

「乾杯!」

 私は、グラスが割れるかと思うほど強く打ちつけると、一気にそれを飲み干した。喉に流れ込む麦酒の泡立ちは、口の中に快い苦味を残していった。


* * *


「……そもそも、君は何故神を信じないのかね?」

 焼き蜥蜴の足をちぎりながら、博士は赤い顔で言った。今後の研究課題について話し始めた三人だったが――正確には、クリスは微笑んでいるだけで、ほとんど意見を言わなかった――、気が付くと、信仰談義へと話は発展していた。

 グラスを置くと私は息をついた。既に七本の大瓶が空になっていた。

「……別に信じていない訳ではありません。まだまだ世の中には人智を超えたものが存在すると思いますし、それを神という言葉で呼ぶのなら、私は神の存在を認めても構いません」

 私は、皿に残った付け合わせの緑の葉をフォークでつつきながら答えた。クリスは頬を桜色に染めて、両手で半ば空になったグラスを揺らしながら、二人の酔っ払いの話を楽しそうに聞いていた。

「そうじゃない。神説典に書かれた神、『主』についてだ……」

 博士は、蜥蜴の刺してある串を、ぐいと私の前に突き出した。

「神説典の、ですか?……そうですね。神説典に書かれている『主』は信じられませんね」

「そうだろう。何故君は信じないのだ?」

「……何故、ですか……」

 瓶に手を伸ばそうとすると、クリスが新たに麦酒を注いでくれた。

「……偉大な力は、偉大な力のままでいいと思うんです。それに意味を持たせること自体、無意味なのではないかと……」

「……言っていることがよくわからんが……」

「つまりですね……例えば、大雨が降って今までにない大規模な洪水が起こる……すると人は言うでしょう。主はお怒りだ、とね……その怒りを鎮めるために、生贄が必要となる。こうして一匹の子羊が殺されると、やがて水は引いていく。……しかし、考えてみて下さい。 未曾有の大雨は、果たして本当に主がお怒りになられた印なのでしょうか?……また、例えば、海の向こうから蛮族が攻めてくる。友軍は苦戦を強いられ、王は脆いて祈りを捧げる。主よ、我らを救いたまえ、と……すると、風の龍が地表を吹き荒れ、敵は壊滅する……主は我らに微笑まれたと、人々は歓喜するでしょう……しかし、主は本当に我々を助けられたのでしょうか?……大洪水は、我々にとっては大きな災難ですし、風の龍の降天は、思いがけない幸運でしょう。しかし、それはそれでいいではないですか。その状況次第で結果が幸か不幸になるだけで、それは偉大な力のなせる業でしかないのです。その人智を超えた力に意味を持たせる必要がどこにあるというのでしょうか? 主が、怒ったり笑ったりしたからだと……」

 そこで一息つくと、私は麦酒で喉を潤した。

「……もし、主が、神説典の言うように偉大な造物主であるのなら、そのつくりものの一つに過ぎない我々が主の意志を推し量ることこそ、主への不遜なのではないでしょうか?」

 博士は、串の先で皿に円を描きながら、私の演説を聞いていた。

「……なるほど、君の言うことももっともだ」

 博士の賛同を得られたことで、かなり酔いの回ってきていた私は、大いに気分をよくした。

「否定する要素は他にもあります。神説典の中において、主は、時々我々人間に対し怒りを覚え、罰を与えます。しかし、考えてみて下さい。何度も罰を与えなければならないほど、人間というのは出来の悪い作品なのでしょうか? 何故、主はそんな欠陥品をおつくりになったのでしょう? 全知全能の主がですよ……」

「待ちたまえ。君はさっき、大いなる主の意志を推し量ることは不遜な態度だと言ったぞ。主の意志は、我々浅はかな人間の考えの及ばないところにあるのではないのかね?」

 博士は反論したが、私は動じなかった。

「……そうですね。主は、何か我々には考えつかないような理由で、欠陥品である我々人間を意図的につくられたのかも知れない。……しかしですよ、意図してつくったものなら、どうしてきちんと制御できないのでしょう? 神説典の中の主は、いつも人聞について怒ったり嘆いたりしています。一体これはどういう訳なんですか?」

 博士は蜥蜴をくわえると、ニヤリと笑った。

「それは君、人間が主の神殿から『知』を盗んだからではないのかね? 人間の『知』が主に通ずるものなら、主も少しは手を焼くだろう……」

「では、主は何故それを予測できなかったのでしょう。全知全能の主が……もし予測できていたのなら、それを防ぐことも、また、人間が手にする『知』に対して備えることもできたはずです。例えば『超知』をつくるなりしてね……。しかし、『知』を持った人間にてこずるということは、人が『知』を盗むことを主が予測できなかったからであり、そのことが、主の『全知全能』という肩書を否定しています」

「そうかな?……主は、人間に希望を託されたのかも知れない。人間ならば、いつか『知』を使いこなし、主の地平に近付ける、とね。今は、そのための試練の時なのだよ」

「……では何故、主は我々と同じ次元でしか感情を持たないのでしょうか? ドラッツァの死者さえ蘇らせる医術にしても、天まで届くはずだったザレムの架け橋にしてもそうです。主が人間に希望を託されたのなら、人間が主の地平に近付くことを、どうして恐れる必要があるのです?……ドラッツァは、冥府を脅かすという理由で雷の矢に撃たれ、ザレムの架け橋は、主への不遜であるとして、風の龍に徹底的に破壊されました。しかし、『知』を持ったとはいえ、人間はやはり主のつくりものに過ぎないのです。主と同じ地平に立ったところで、人間が主を超えられるはずがありません。主は天にどっしりと構えていればいいではないですか。……私には、主が、人間の侵入に怯え、そして人間の発展を妬む偏狭な心の持ち主か、そうでなければ、人間が同じ地平に立つことを決して許さない、傲慢な支配者であるようにしか思われないのです!」

 自分の考えに酔っていた私は、隣に座っているクリスが主の信者か否かということを全く気にかけていなかった。

「意図してつくった欠陥品なら、過ちを犯すことも当然予想できるではありませんか。何故もっと寛容になれないのでしょう?! 主とはもっと偉大なものであり、人聞のように浅薄で低俗な感情など持たないものなのではないでしょうか?!」

 そう言うと、私は干したグラスをテーブルに叩きつけた。

 博士は、蜥蜴のなくなった串を指先で弄びながら、充血した目でじっと私を見ていた。

「……ラスティ君、君は数学者ガウゼ=リュードベルの少年時代を知っているかね?」

 突然の話題の転換に、クリスはきょとんとしていたが、私にはもう大体わかっていた。それが博士のやり口なのだ。全く違う話題だと思わせておいて、ふと気が付くと有無を言わせぬ反論に変わっている。この手の質問には、注意して答える必要があった。

「……ええ、本で少しは……」

「……彼は、学院に上がる前から既に連立方程式を解くことができていた。……どうだね、すごいとは思わんか?」

「……思います……」

「そうだね。同い年の子供から見たら、彼は卓越した能力を持った偉大な人物に思えたことだろう」

 博士はそこで一旦言葉を区切って、私とクリスの顔を見つめた。

「しかしだ、彼は、夕食に出た大嫌いな人参を、どうしても食べることができずに母親にお尻をぶたれたし、同じクラスの好きな女の子の髪を引っ張っていじめたりもした……そうだね?」

 確かに、リュードベルの伝記にはそう書かれていた。私は頷いた。

「リュードベルは、六歳にして優れた能力を身につけてはいたが、その精神は、他の子と何ら変わりはなかった訳だ……」

 博士は串を置くと、顎の前で両手を組んだ。

「つまりだ、優れた能力を持つ者が、必ずしも優れた人格を持っている訳ではないのだよ」

 ハッとした私に、博士はニヤリと笑った。

「君は、偉大な主ならば、人間のような低俗な感情を持つ訳がないと言った。しかし、よく考えてみたまえ。偉大な力を持つ者が、立派な人格を身につけていなければならない必然性など、どこにもありはしないのだ。人は主の前に跪くが、それは主の心を敬っているのではない。その力を恐れているのだよ……」

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